今にも息絶えそうな子犬に、純佳は小さな手を伸ばした。
主人を守ろうと、妖し者に立ち向かったという勇敢な子犬。その腹には、妖し者に付けられた漆黒の傷があった。
妖し者とは、この豊葦原の国々を神が治めていた神代の時代に、地に蔓延っていた悪霊たちの名残だという。全身漆黒のそれは、神々が愛したこの地の生き物を憎み命を吸い取るのだそうだ。
「可哀想に……」
痛々しい傷に触れ、純佳は子犬の苦しみを思い紫の瞳に涙を滲ませる。
(こんなに小さいのに、主人を守ろうとするなんて……勇敢で、逞しい子なのだわ)
子犬のその身は弱くとも、心はとても強いのだと感じた純佳は、なんとしてでも傷を治してやりたいと思う。
傷を手のひらで覆い、祈るように治癒の異能を使った。
すると子犬の腹にあった黒い傷は端から消えてゆき、最後には傷などなかったかのように綺麗になる。
苦しそうだった子犬はすぐに自力で起き上がり、キャンキャンと鳴きながら嬉しそうに尻尾を振っていた。
「シロ! すごい、こんなに元気にっ」
子犬を連れてきた、主人である男性が喜びと驚きに満ちた声を上げる。
子犬もその男性に元気よく飛び付き、良かったと純佳は胸を撫で下ろした。
「よくやったわね、純佳」
側で見守ってくれていた母が、頭を撫でて褒めてくれる。
達成感と、褒められた喜びに純佳は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
「うん!」
――そこで、目が覚めた。
まだ薄暗い中、夢で見たよりも大きくなった自分の手を見る。
まだぼんやりとした視界に映ったのは、日々の家事で荒れてしまった手だ。
(夢、か……)
幼い頃の、まだ自分が家族から必要とされていた頃の夢だ。
懐かしさは湧いてこない。寧ろ今の自分と比較してしまい、辛さで胸が苦しくなるだけだ。
一度ぎゅっと目を閉じた純佳は、起き上がり、ゆっくりと瞬きをして覚醒を待つ。
意識がはっきりとしてきて、夢の内容もあやふやになってくると布団から出て、寝間着の浴衣から古めかしい柄の着物に着替えた。
長い黒髪も邪魔にならないように結い上げ、その上で鏡台に置いてあったレースの仮面を付ける。
黒糸で作られたレースは、流行りのバテンレースとは違い比較的隙間が多い種類のものだ。これを付けないと、人前に出てはならないと言いつけられている。
見えづらくはなるが、隙間は多いので見えないことはない。
今はもう慣れた仮面の感覚に、今日も実りのない一日を過ごすことになるのだろうと思いながら、朝の支度のために自室を出た。
軽く朝食を終えると、いつものように使用人に混じって屋敷の掃除をする。数人で玄関の掃除を終えると、純佳は一人屋敷奥の廊下を掃除するために向かった。
屋敷の者に会わないようにとこのような目立たない場所の掃除をしているのだが、そんな気遣いの意味もなく、パタパタと可愛らしい足音が近付いてくる。
「まあ、純佳姉様ったらこんなところにいたのね? 探したわ」
ふわふわとした茶色い髪を揺らしながら、純佳の妹――香世が近付いてきて純佳は思わず身構える。
家族に甘やかされている香世は、明るい紫色の丸い目が溌剌としていて愛嬌があり可愛らしい。だが、純佳だけは知っている。その心根は愛らしいとは言えないものなのだと。
密かに警戒する姉の様子に気付いているのかいないのか。どちらにせよ純佳の様子を気にすることなく近付いてきた香世は、雑巾を持つ純佳の手を取った。
「っ!」
「純佳姉様の手、本当に酷いわね。私や清乃姉様とは全く違うわ」
言葉通り、純佳の手を掴む香世の手は家事などしたことのない美しい手をしている。爪の先まで整えられ、純佳の荒れた手とは比べものにならないほど白い。
「でもまあ仕方ないわよね、純佳姉様はこの天花寺家の人間には相応しくないのだもの」
だから、使用人同然の扱いも当然なのだと香世は話す。
純佳と香世と、長女である清乃はこの天花寺家の娘として生まれた。
天花寺家は、千里眼の異能を持つ者を祖とした華族筆頭の家だ。
華族は妖し者を滅することが出来る異能を持つ者達で形成され、貴族院として政にも参画している。そんな華族の筆頭なのだから、皇族に次ぐ地位を持っていると言っても過言ではない。
事実千年近い平安の世から、天花寺家は帝の腹心として仕えてきた。
その由緒正しい天花寺家に、純佳は相応しくない。
(当然、よね……私は異能が使えないのだもの)
正確には、昔は治癒の異能が使えていたのだ。だが、十の歳を迎えて少ししたある日、突然使えなくなってしまった。
なんの前触れもなく、本当に突然。
当時は両親も様々な方法を試し、純佳の異能が戻るよう手助けしてくれたが……一年も経つ頃にはもう戻らないのだと諦めてしまっていた。
しかも、丁度その頃香世の異能が目覚めた。
純佳と同じ治癒の異能……そして、純佳よりも強力な治癒能力が。
それからというもの、両親は純佳のことなど放り出し、香世ばかりをもてはやすようになった。
徐々に蔑ろに扱われるようになり、今では顔も見たくないと屋敷の奥へと追いやられてしまったのだ。
姉の清乃は初めは純佳を心配してくれていたが、その優しさも香世のせいでなくなってしまった。
家族みんなから見放され、疎まれるようになった。
父は天花寺家の生まれである証――珍しい紫の目を純佳が持っていることすら認めたくないらしく、人前に出るときは目の色が分からないようにレースの仮面を付けていろと言いつけた。
天花寺家の者とは認めない。
当主である父の意向は家族だけでなく親族にも浸透し、どこにも行く当てのない純佳は、その境遇を憐れんだ使用人たちと共にいることが多くなった。そうして彼らと共に過ごすために、純佳自身も使用人の真似事をするようになったのだ。
華族筆頭の天花寺家の令嬢でありながら使用人の真似事など……と初めは抵抗があったが、一人でいる苦痛の方が辛かった。なにより、掃除などの家事をしていると気が紛れたのだ。
家族に捨てられたのだという悲しみと辛さに、呑まれずに済んだ。
そうして過ごすうちに華族令嬢の矜持などとうに忘れ、ひたすら家の家事をこなす日々。両親はもう純佳のことはどうでも良いとでも思っているのか、苦言を呈するどころか会うことすらほぼなくなった。
清乃と香世もいっそ自分のことは捨て置けば良いのに、何故か香世は数日に一度はこうして純佳を詰りにくる。何が目的なのかは分からないが、香世は悲しむ純佳を見て喜んでいるようにも見えた。
今回も、今更ながら香世の言葉に傷付く。そうしていると、ゆっくりとこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
すると香世の表情があからさまに意地の悪い笑みに変わる。
(しまった!)
そう思ったが遅かった。
「きゃあ!」
純佳が何もしていないのに、突然香世は純佳の手を離し後ろに倒れ尻餅をつく。
すぐに助け起こそうとするが、それよりもこちらに向かってきていた人物の声が廊下に響くのが早かった。
「何をしているの!?」
焦げ茶の柔らかい髪を緩く三つ編みに結った、少々つり目気味な美女が小走りに近付いてくる。
「清乃姉様……」
自分は何もしていないことを伝えなくてはと思う純佳だったが、いつもそうであるように今回も純佳の口は香世よりも開くのが遅かった。
「清乃姉様、怒らないで! きっと私が純佳姉様の気に障るようなことを言ってしまったの」
眉を下げ、大きな瞳を潤ませながら香世は立ち上がる。そして、清乃の着物の袖を甘えるように掴みながら悲しそうに微笑んだ。
「純佳姉様の手が荒れていたから、癒やして差し上げようとしただけなの。……でも、余計なお世話だったのかも。そうよね、私などに治してもらいたくはなかったわよね」
「何を……」
治すなど一言も口にしていないではないか。そう言おうとしたが、確認のように見た自分の手はささくれも綺麗に治り、荒れていた肌もきめ細やかな娘らしい手になっていた。
清乃の足音が聞こえ手を離す僅かな間で瞬時に治したようだ。
これでは言い返したところで清乃に信じて貰えるかは怪しい。香世はいつもこのように純佳を悪者にし、清乃の純佳への信頼を無くしていったのだから。
案の定純佳の手に視線をやった清乃は、薄い紫の目を冷たく細め純佳を睨んだ。
「純佳……あなたはいつまでそうなの? あなたが異能を使えなくなったのは香世のせいではないのよ? 同じ治癒の異能だからと、嫉妬するのはおやめなさい」
「そんな、嫉妬なんて」
否定を口にするが、この七年の間に何度も香世に貶められてきたせいで清乃の純佳への信頼は地に落ちている。
清乃の異能は慧眼――全ての真を見抜く目ではあるが、人の心まで視えるわけではない。純佳が否定を口にしたところで、信じてはもらえなかった。
「嘘をついてもすぐに知れるというのに……現に今も香世を突き飛ばしていたではないの」
「っ! ちがっ――」
反射的に上げようとした否定の言葉は、香世が清乃の袖を引き声を掛けたことで届くことはなかった。
「清乃姉様、大丈夫。怪我をしたわけではないから……それに、純佳姉様の手を治すことができたのだもの。もういいわ」
香世の殊勝な言葉に、清乃は表情を和らげ怒りを収めた。
「分かったわ、ではもう行きましょう」
優しく香世の肩を撫でた清乃は、そのまま踵を返し純佳から離れていく。
だが、途中でなにかを思いだしたように「ああ、そうだわ」と足を止めた。
顔だけ振り返った清乃は、冷めた眼差しで純佳に告げる。
「来週末は年に一度の天長節夜会よ。あなたも参加しなければならないということを忘れないでね」
「は、い……」
思わず躊躇しながら返事をすると、清乃は用事は済んだとばかりに香世を連れてこの場を去って行った。
誰もいなくなった廊下で純佳は深く息を吐き肩を落とす。
いつものこととはいえ、悪者にされるのは辛い。信じて貰えず、冷たい目を向けられるのも。
それに、最後に清乃が言い残した言葉。
(天長節夜会……もうそんな時期なのね)
純佳にとっては一年で一番辛い夜を思い、また深くため息が出た。
主人を守ろうと、妖し者に立ち向かったという勇敢な子犬。その腹には、妖し者に付けられた漆黒の傷があった。
妖し者とは、この豊葦原の国々を神が治めていた神代の時代に、地に蔓延っていた悪霊たちの名残だという。全身漆黒のそれは、神々が愛したこの地の生き物を憎み命を吸い取るのだそうだ。
「可哀想に……」
痛々しい傷に触れ、純佳は子犬の苦しみを思い紫の瞳に涙を滲ませる。
(こんなに小さいのに、主人を守ろうとするなんて……勇敢で、逞しい子なのだわ)
子犬のその身は弱くとも、心はとても強いのだと感じた純佳は、なんとしてでも傷を治してやりたいと思う。
傷を手のひらで覆い、祈るように治癒の異能を使った。
すると子犬の腹にあった黒い傷は端から消えてゆき、最後には傷などなかったかのように綺麗になる。
苦しそうだった子犬はすぐに自力で起き上がり、キャンキャンと鳴きながら嬉しそうに尻尾を振っていた。
「シロ! すごい、こんなに元気にっ」
子犬を連れてきた、主人である男性が喜びと驚きに満ちた声を上げる。
子犬もその男性に元気よく飛び付き、良かったと純佳は胸を撫で下ろした。
「よくやったわね、純佳」
側で見守ってくれていた母が、頭を撫でて褒めてくれる。
達成感と、褒められた喜びに純佳は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
「うん!」
――そこで、目が覚めた。
まだ薄暗い中、夢で見たよりも大きくなった自分の手を見る。
まだぼんやりとした視界に映ったのは、日々の家事で荒れてしまった手だ。
(夢、か……)
幼い頃の、まだ自分が家族から必要とされていた頃の夢だ。
懐かしさは湧いてこない。寧ろ今の自分と比較してしまい、辛さで胸が苦しくなるだけだ。
一度ぎゅっと目を閉じた純佳は、起き上がり、ゆっくりと瞬きをして覚醒を待つ。
意識がはっきりとしてきて、夢の内容もあやふやになってくると布団から出て、寝間着の浴衣から古めかしい柄の着物に着替えた。
長い黒髪も邪魔にならないように結い上げ、その上で鏡台に置いてあったレースの仮面を付ける。
黒糸で作られたレースは、流行りのバテンレースとは違い比較的隙間が多い種類のものだ。これを付けないと、人前に出てはならないと言いつけられている。
見えづらくはなるが、隙間は多いので見えないことはない。
今はもう慣れた仮面の感覚に、今日も実りのない一日を過ごすことになるのだろうと思いながら、朝の支度のために自室を出た。
軽く朝食を終えると、いつものように使用人に混じって屋敷の掃除をする。数人で玄関の掃除を終えると、純佳は一人屋敷奥の廊下を掃除するために向かった。
屋敷の者に会わないようにとこのような目立たない場所の掃除をしているのだが、そんな気遣いの意味もなく、パタパタと可愛らしい足音が近付いてくる。
「まあ、純佳姉様ったらこんなところにいたのね? 探したわ」
ふわふわとした茶色い髪を揺らしながら、純佳の妹――香世が近付いてきて純佳は思わず身構える。
家族に甘やかされている香世は、明るい紫色の丸い目が溌剌としていて愛嬌があり可愛らしい。だが、純佳だけは知っている。その心根は愛らしいとは言えないものなのだと。
密かに警戒する姉の様子に気付いているのかいないのか。どちらにせよ純佳の様子を気にすることなく近付いてきた香世は、雑巾を持つ純佳の手を取った。
「っ!」
「純佳姉様の手、本当に酷いわね。私や清乃姉様とは全く違うわ」
言葉通り、純佳の手を掴む香世の手は家事などしたことのない美しい手をしている。爪の先まで整えられ、純佳の荒れた手とは比べものにならないほど白い。
「でもまあ仕方ないわよね、純佳姉様はこの天花寺家の人間には相応しくないのだもの」
だから、使用人同然の扱いも当然なのだと香世は話す。
純佳と香世と、長女である清乃はこの天花寺家の娘として生まれた。
天花寺家は、千里眼の異能を持つ者を祖とした華族筆頭の家だ。
華族は妖し者を滅することが出来る異能を持つ者達で形成され、貴族院として政にも参画している。そんな華族の筆頭なのだから、皇族に次ぐ地位を持っていると言っても過言ではない。
事実千年近い平安の世から、天花寺家は帝の腹心として仕えてきた。
その由緒正しい天花寺家に、純佳は相応しくない。
(当然、よね……私は異能が使えないのだもの)
正確には、昔は治癒の異能が使えていたのだ。だが、十の歳を迎えて少ししたある日、突然使えなくなってしまった。
なんの前触れもなく、本当に突然。
当時は両親も様々な方法を試し、純佳の異能が戻るよう手助けしてくれたが……一年も経つ頃にはもう戻らないのだと諦めてしまっていた。
しかも、丁度その頃香世の異能が目覚めた。
純佳と同じ治癒の異能……そして、純佳よりも強力な治癒能力が。
それからというもの、両親は純佳のことなど放り出し、香世ばかりをもてはやすようになった。
徐々に蔑ろに扱われるようになり、今では顔も見たくないと屋敷の奥へと追いやられてしまったのだ。
姉の清乃は初めは純佳を心配してくれていたが、その優しさも香世のせいでなくなってしまった。
家族みんなから見放され、疎まれるようになった。
父は天花寺家の生まれである証――珍しい紫の目を純佳が持っていることすら認めたくないらしく、人前に出るときは目の色が分からないようにレースの仮面を付けていろと言いつけた。
天花寺家の者とは認めない。
当主である父の意向は家族だけでなく親族にも浸透し、どこにも行く当てのない純佳は、その境遇を憐れんだ使用人たちと共にいることが多くなった。そうして彼らと共に過ごすために、純佳自身も使用人の真似事をするようになったのだ。
華族筆頭の天花寺家の令嬢でありながら使用人の真似事など……と初めは抵抗があったが、一人でいる苦痛の方が辛かった。なにより、掃除などの家事をしていると気が紛れたのだ。
家族に捨てられたのだという悲しみと辛さに、呑まれずに済んだ。
そうして過ごすうちに華族令嬢の矜持などとうに忘れ、ひたすら家の家事をこなす日々。両親はもう純佳のことはどうでも良いとでも思っているのか、苦言を呈するどころか会うことすらほぼなくなった。
清乃と香世もいっそ自分のことは捨て置けば良いのに、何故か香世は数日に一度はこうして純佳を詰りにくる。何が目的なのかは分からないが、香世は悲しむ純佳を見て喜んでいるようにも見えた。
今回も、今更ながら香世の言葉に傷付く。そうしていると、ゆっくりとこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
すると香世の表情があからさまに意地の悪い笑みに変わる。
(しまった!)
そう思ったが遅かった。
「きゃあ!」
純佳が何もしていないのに、突然香世は純佳の手を離し後ろに倒れ尻餅をつく。
すぐに助け起こそうとするが、それよりもこちらに向かってきていた人物の声が廊下に響くのが早かった。
「何をしているの!?」
焦げ茶の柔らかい髪を緩く三つ編みに結った、少々つり目気味な美女が小走りに近付いてくる。
「清乃姉様……」
自分は何もしていないことを伝えなくてはと思う純佳だったが、いつもそうであるように今回も純佳の口は香世よりも開くのが遅かった。
「清乃姉様、怒らないで! きっと私が純佳姉様の気に障るようなことを言ってしまったの」
眉を下げ、大きな瞳を潤ませながら香世は立ち上がる。そして、清乃の着物の袖を甘えるように掴みながら悲しそうに微笑んだ。
「純佳姉様の手が荒れていたから、癒やして差し上げようとしただけなの。……でも、余計なお世話だったのかも。そうよね、私などに治してもらいたくはなかったわよね」
「何を……」
治すなど一言も口にしていないではないか。そう言おうとしたが、確認のように見た自分の手はささくれも綺麗に治り、荒れていた肌もきめ細やかな娘らしい手になっていた。
清乃の足音が聞こえ手を離す僅かな間で瞬時に治したようだ。
これでは言い返したところで清乃に信じて貰えるかは怪しい。香世はいつもこのように純佳を悪者にし、清乃の純佳への信頼を無くしていったのだから。
案の定純佳の手に視線をやった清乃は、薄い紫の目を冷たく細め純佳を睨んだ。
「純佳……あなたはいつまでそうなの? あなたが異能を使えなくなったのは香世のせいではないのよ? 同じ治癒の異能だからと、嫉妬するのはおやめなさい」
「そんな、嫉妬なんて」
否定を口にするが、この七年の間に何度も香世に貶められてきたせいで清乃の純佳への信頼は地に落ちている。
清乃の異能は慧眼――全ての真を見抜く目ではあるが、人の心まで視えるわけではない。純佳が否定を口にしたところで、信じてはもらえなかった。
「嘘をついてもすぐに知れるというのに……現に今も香世を突き飛ばしていたではないの」
「っ! ちがっ――」
反射的に上げようとした否定の言葉は、香世が清乃の袖を引き声を掛けたことで届くことはなかった。
「清乃姉様、大丈夫。怪我をしたわけではないから……それに、純佳姉様の手を治すことができたのだもの。もういいわ」
香世の殊勝な言葉に、清乃は表情を和らげ怒りを収めた。
「分かったわ、ではもう行きましょう」
優しく香世の肩を撫でた清乃は、そのまま踵を返し純佳から離れていく。
だが、途中でなにかを思いだしたように「ああ、そうだわ」と足を止めた。
顔だけ振り返った清乃は、冷めた眼差しで純佳に告げる。
「来週末は年に一度の天長節夜会よ。あなたも参加しなければならないということを忘れないでね」
「は、い……」
思わず躊躇しながら返事をすると、清乃は用事は済んだとばかりに香世を連れてこの場を去って行った。
誰もいなくなった廊下で純佳は深く息を吐き肩を落とす。
いつものこととはいえ、悪者にされるのは辛い。信じて貰えず、冷たい目を向けられるのも。
それに、最後に清乃が言い残した言葉。
(天長節夜会……もうそんな時期なのね)
純佳にとっては一年で一番辛い夜を思い、また深くため息が出た。



