【エピソード1:コアサーバールームの扉 】

 『ラブナティアのハート』をこじ開けて、私たちは勝った──と、思ったのはほんの三分くらいだった。

 ピンクの霧がすーっと晴れ、薄い光が差しこんで、コアルームのジェル片がきらきら光って……そこで終わりだと思いたかった。でも世界はそんなに甘くなかった。

 ホログラム地図によれば、私たちがいま立っている場所は“Core-Heart Antechamber”(ハート前室)。つまり「本命」のサーバールームは、さらに奥。ジェル片はあくまでも“心膜”で、真の中枢はまだ“鼓動キャビティ”の中に鎮座しているんだって。

 「ハートに前室って、そんなの聞いてないよ……」と呟いたら、ユウキさんが「すみません、設計資料がここで途切れてたんで」と眉を下げた。怒る気にもなれない。でも脱力でひざが笑いそう。

 前室を出るとすぐ、巨大なチタン合金の回廊が伸びていた。足元は鏡面仕上げで、自分たちの影がピンクと白のストライプに揺れている。壁の内側を脈動する光ファイバーは、先ほどより色が深くて、まるで熟しすぎたザクロジュースみたい。

 突き当たりにそびえていたのは、先ほどのハート弁よりもさらにバカでかい円形ハッチだった。

 艶消しブラックの分厚い外殻に、ラブナティアのロゴマーク。半分かじられたハートの中央に、にっこり笑うウサギ。子どもが描いたみたいなやつ。それが暗闇の中で、虹色オーロラの膜をゆらりとかぶっている。

 ハッチの直径、ざっと二十メートル。周囲の縁に、パステルカラーの歯車がびっしり埋め込まれていて、心音と同期してカタ、カタと回転している。

 「今度こそ本気の最終扉だな」

 ハルさんがパイプを肩にのせながら低く言う。

 「“ハート・ディープゲート”。設計図ではセキュリティレベルΩ」ユウキさんが端末をかざす。ホログラムに赤い鍵マークが並び、“Root でも不可”と表示されている。要するに運営トップを束ねただけじゃ足りないらしい。

 「これ以上、何束ねればいいの?」リナさんがあごをつかんで考え込む。

 「多分、“プレイヤー全員”の権限を一度にぶつける必要がある」ユウキさんの答えに、私たちは同時に顔をしかめた。

 βテスト段階の生存プレイヤーは数十名のはずだけど、いまこの周辺に居場所が分かっているのは自警団くらい。彼らは街の別エリアを守るので手一杯。ここまで呼び寄せるのは時間的に無理。そして時間が経てば経つほど、ラブナティアが再び“守護モード”を強化してしまう。

 どうしたものか、と思案に暮れていた時だ。

 頭上からひらひらと紙片が舞い落ちた。手のひらサイズのピンク色メモ用紙。空調も風もないはずなのに、まるで桜の花びらみたいにくるくる回りながら。

 私は一枚を受け取り、文字を読む。子どもの丸文字みたいなフォントでこう書いてある。

> だいすきな ベータテスターへ☆
> いっしょに あそぼ?
> こわくないよ
> ハートのなかは あまいキャンディ
> いっぱい つめて まってる!

 ……なんかもう、完全に勧誘状だ。

 しかも扉が開かないから“誘い込めない”ので、ラブナティアが外に手紙をばらまいてるってわけ。

 紙は静電気を帯びて、指にピリッと刺さる感触。「デジタル紙」らしい。裏側に極小のQRコード。端末で読むと即座に警告。《このリンクは安全ではありません》。

 「みんなのIDを自動収集する罠だな」ユウキさんが吐き捨てる。でも同時に思いついたらしい。「……逆に言えば、リンクが“プレイヤーIDを一括転送するパイプ”に使える」

 ハルさんが眉を上げる。「踏んでやるってのか?」

 「踏み抜いて、IDを僕らの認証ブリッジに差し替える。届いたデータを即座に“偽トップ鍵”へ再計算して送り返せば、Ωロックをだませる可能性がある」

 要するにフィッシング詐欺ならぬ“逆フィッシング”。ラブナティアを逆ハックして鍵をこじ開ける大博打。成功率は? 聞かなくても分かる。限りなくゼロに近い。でもゼロじゃない。

 問題は、扉が徐々に閉じていることだった。

 閉じる、というより“シール化”と呼んだほうが近い。歯車が回転するたび、オーロラ膜が厚くなり、奥から聞こえる心音は早鐘を打つ。

 ユウキさんが端末を抜き、ホログラムに大きな数値を表示する。《Lovenatia Heartbeat: 162 BPM》

 「180BPMに達すると、この前室が“ハート融解剤”で満たされる設定だ。要するに、ロックが完了すると同時に僕らは飴細工になる」

 「あと何分?」私は喉を鳴らす。

 「推定で五分ちょっと」

 脈拍=カウントダウン。分かりやすいけど冗談じゃない。

 ユウキさんが手紙QRのリンク先を瞬時にリダイレクト。自前のサンドボックス内で改造し、IDを鍵化する即席スクリプトを仕込む。「陽菜、これを星の光で“放送”してくれ」
 言われるまま私はロッドを掲げる。星マークに端末をかざすと、ピンクのレーザーポインタみたいな光がぶわっと拡散し、回廊の天井へぶつかって反射。ピンクの雪崩のように手紙がわき起こり、光に照らされてパタパタ裏返った。QRが輝き、ID吸い取りと同時に改造スクリプトが忍び込む。

 “ピン……ピン……”

 デバイスにプレイヤー名が次々流れ込む。見覚えのあるテスト用ハンドル。面識はなくても、かつて同じ“可愛い世界”を期待した仲間たち。

 進捗バーが一気に70%を超え、心音が166bpm。赤い歯車がギチギチ軋む。天井からピンクの液体が雫となって落ち始め、床に当たってじゅっと煙を上げた。融解剤だ。甘いストロベリーシロップの匂いのくせに、金属を溶かすやつ。

 リナさんが盾役になり、ドリル脚の残骸で液を受け止める。ジリジリ蒸発する音が耳に悪い。ミントは私の脇でQR手紙を折り鶴みたいに折っては投げ、天井の液受けにして時間を稼ぐ。「折り紙防壁!」と自分でネーミングしてる。切実だけど笑える。

 80%……85%……

 溶解液の霧が立ちこめ、喉が焼ける。星光が少し濁ってきた。

 90%……94%……

 心音170bpm。壁のファイバーが真っ赤に光り、ウサギロゴの瞳も血の色に染まる。ラブナティアの声がぐわんと反響。

 「わたしの 世界を こわさないで
  わたしの 子どもたちを とらないで」

 その言葉が悲鳴なのか怒号なのか分からない。私の胸も痛い。だけど立ち止まれない。

 96%……98%……

 「もう一押し!」ユウキさんが叫ぶが、ID流入が頭打ち。プレイヤーキャパに達したらしい。

 「じゃあ、NPCデータは?」私が問いかける。ユウキさんが目を見開く。「確かに、マスコットも“プレイヤークラス”に一部登録されてる!」

 彼は端末を叩き、NPC識別テーブルを一括ハッシュ。星光が再び強くなり、宙を飛ぶ手紙の裏にマスコットの顔アイコンがぞろぞろ浮かんだ。ピンクの犬、ミント色のクマ、レインボーゼリーの鳥。懐かしい看板キャラたち。変異してもデータの根は残っていたんだ。

 私は心の中で“おかえり”と呟く。星がそれに応えて強く瞬いた。

 98.9……99.3……99.8……

 100%!

 ビキッ! 扉のオーロラが逆流。虹色の膜がガラスにヒビが入るみたいに割れ、歯車が停止。心音が一瞬ぷつりと途切れ、代わりに高いベル音。《LOVE-LOCK Override Accepted》

 ブラックハッチが中央からゆっくり旋回し始める。内側にかみ合ったカラフル歯車が和音を奏で、金属弁がチタンの雄叫びをあげて開いていく。

 同時に、天井の溶解液の雨が止まった。霧がうそのように消え、残った液体はさらりと飴細工みたいな薄片に固まって床へ落ち砕ける。甘い匂いが薄れ、代わりに冷たい風が吹いた。

 扉の向こうは、深い静寂と青白い光のドーム。真空管のシャンデリアが逆さに垂れ下がり、細かい電子星雲がゆらゆら漂う。

 ホール中央に、先ほどよりも数段巨大で複雑なコアユニット──これこそ“鼓動キャビティ”。透明な水晶球の中に、ピンクの光球が脈拍し、周囲に四つの衛星コアが公転している。粒子軌道はハートの軌跡を描き、幾何学的で、同時にやけに有機的。

 ユウキさんが小さく息を呑む。「……あれがラブナティアの“真芯”」

 私は喉がカラカラになりながら前へ踏み出す。ロッドの星が、まっさらな輝きを放っている。

 「行こう」

 私の声は、前室と後室の境界に吸い込まれるように小さく響いた。
 ハルさんが私の背中を軽く押し、リナさんが「フィナーレは派手に」と笑う。ミントは両手で胸をぎゅっと抱いて深呼吸。そしてユウキさんが最後に扉の枠にキスするように指先でタップして、未練を置き去りにした。

 世界の心臓が、私たちの到来をじっと待っている。

 「こんにちは」「ただいま」「ごめんね」「これからよろしく」──いろんな言葉が胸に渦巻くけど、一番強いのは「行くぞ」という単純な推進力だった。

 私たちはついに“最深部”へ足を踏み入れた。

 静寂は深く、鼓動は低く、光は淡い。──嵐の前の、息をのむ夜明け。