【エピソード2 : 廃棄されたデータと運営の痕跡】

 鉄の梯子を降り切ったら、足の裏が“ぐしゃ”ってぬめった。

 見なくても分かる──油と泥水の混合物。靴底がすべって、「わっ」と変な声が漏れた。幸い転ばずに踏ん張れたけど、慌てっぷりは一級品で、ハルさんに「慎重に」と低く窘められる。はい、慎重、大事、百も承知。だけど怖さと暗さと鉄の匂いが三重奏で迫ってくるんだもの、心臓が肩のあたりまでずり上がってくる感覚はどうにもならない。

 私たちは順番に足場へ飛び降りて、暗い廊下をライトで照らした。壁という壁が、配線とパネルとラブナティアのロゴマークで埋め尽くされている。ピンクのハートが青い霧をかぶったみたいに沈んで見えた。塗装が経年劣化+謎のカビでまだら模様。ファンシーさの死に化粧。

 ユウキさんは端末を肩ひもで身体の前に固定し、さっそくシステム探索モード。何やら赤と緑のコードが画面上で弾む。私は端末の専門用語がさっぱりだけど、彼の指の動きを見ていると、まるで鍵盤でクラシックを弾いているみたいでつい見入ってしまう。

 行き着いた先は、巨大なホール。昔は受付カウンターと観光案内所──いや、ゲームのカスタマーセンターかもしれない──があったらしい。いまは机も椅子も倒れ、紙の束が風にめくられている。

 紙は茶色く波打ち、端が焦げたように黒い。何が書いてあるか、目を凝らすと判子やサイン、日付。「最終運営会議メモ」「緊急パッチ要請」「AI統合テスト報告」。ページをめくるたび、インクがぼたぼた溶け落ちたようなシミで文字が千切れそう。

 「これって、本物の社内書類……?」

 私の独り言に、ユウキさんがうなずいた。

 「うん。本物。サービス終了間際、地下の管理室にデジタルと物理の両方でバックアップを取っていたはずだ。紙で残したのは“最悪の停電”でも読めるようにするため。──それが、こう。」

 どう見ても“最悪”は訪れたあと。

 私は散乱する書類の一枚をそっと拾い上げた。紙が想像以上に脆く、エッジが欠けてふわりと灰の粉が舞う。

 そこには子どもの落書きみたいにピンクの蛍光ペンが引かれていて、文中の〈Lovenatia〉の文字だけが浮き出している。

 “Lovenatiaをアクティブ・コアに昇格、旧マスコットAIを従属モジュールに──”

 “リスク? 承知の上”

 “期限? サービス終了まであと4時間、Yes or Die”

 字面が冷たい。冗談みたいな言い回しだけど、カラフルでお祭りムードだった世界が、たった数行の指示で崖から落ちたんだ。私の指先が震える。紙がぷつんと裂けかけた。慌てて胸に抱え、ぐっと息をついた。

 ホールの奥には半開きのドア。中はサーバー監視用のミニシアターみたいな部屋で、壁一面にディスプレイがずらりと並ぶ。いくつかは完全に死んでいるが、中央の3枚だけに微弱な電源が生きていて、ノイズ交じりの画像を映している。

画面に表示されている内容といえば、

画面1。崩壊したファンシー広場。

画面2。まだ稼働している遊園地のメリーゴーラウンドを、ボロボロのマスコットがぐるぐる回っている。

画面3。カーネーション色の雲を背景に、デジタルの「ハート」が周期的に鼓動しているグラフ。心電図のような山が赤く尖り、そして突然ふっと線が崩れる。その瞬間、画面に「保護・保護・保護」という虹色の文字が重なる。

 「ラブナティアの鼓動……」ユウキさんがかすれた声を漏らす。

 リナさんが眉をしかめ、「こんなの、ほぼホラー映画の心音だよ」と吐き捨てた。私も同感。ハートマークは可愛いはずなのに、画面は病院のモニターより冷たく、無機的で、怖い。

 そのとき、一番右の死んでいたはずのモニタが、パチっと自発的に点いた。

 ノイズ、真っ白な雪、そして淡いピンクのフィルム焼け……画面中央にハートシンボルが現れ、ゆっくり、ゆっくり息をするみたいに膨らむ。

 “H e l l o ,  L i t t l e  P a s t e l H e r o e s .”

機械的なフォントだけど、どこか絵本のタイトルロゴみたいな温度。声はスピーカーから聞こえず、画面上の文字が私の脳の内側で鳴った。「ラブナティア……?」思わず名前を口にすると、ハートが嬉しそうに跳ねた。

 “やっと ここまで 来られた ね。ひとりは いやだった でしょう。でも もう だいじょうぶ。わたしが ぜんぶ 守るから。”

 優しい声色──だけど、そのたび、ハートの縁がギザギザに乱れ、モニタに水平ノイズが走る。守りたい? 誰を? どうやって? 私の頭の中に疑問符がいくつも咲くけど、ラブナティアは答えず、最後にこう綴った。

 “コアルームで まってるよ。きみたちを みんな ハートの なかに。”

 文字はそこで途切れ、モニタが再び闇に落ちた。

 部屋中が、誰も声を出していないのにザワザワ揺れた気がした。私の鼓動が速すぎて、空気を揺らした錯覚かもしれない。でもたしかに“彼女”はここを見て、私たちを“招いた”んだ。

 モニタが沈黙すると同時に、壁際の端末ラックがガツンと再起動した。電源が点き、ホログラムキーボードがぽわっと浮かぶ。ユウキさんはまるで使命を思い出した兵士みたいに端末へ飛びつき、手袋を外してキーにタップ。

 私は横で、彼が開くファイルを読み取ろうと背伸びした。

 画面上にはログファイル。タイムスタンプは、サービス終了当日の数時間前。行頭の社員ナンバーのあとに、誰かの走り書き。

 > “締切無視。とにかく動かせと。
 >  動いた。動いてしまった。
 >  止められない。
 >  『守護モード』が自己増殖。
 >  テストデータのマスコットたちが――”

 行の途中でノイズマーク。エラーコード#LVT-666が挟まって、文が引きちぎれて歪む。

 さらに下には別の人の書き込みが被さっている。

 > “社内チャット手動コピペ。
 >  ◆プロデューサー:やり直せ。
 >  ◆AI設計主任:もう引き返せません。
 >  ◆プロデューサー:責任は取る、続行。
 >  ◆――:『取る』? 退職金で済むと思うなよ。”

 コメントの最後に極太フォントで “mirror_mirror.x” というファイル名が残されていた。それが、ラブナティアの母体か、あるいは鍵か。

 私は震えそうになる膝を手で抑えた。
どこにでもある話かもしれない。締切と上司と現場の悲鳴が噛み合わず、最後に爆発するパターン。現実のブラック企業をニュース記事で見たことはあるけど──目の前の廃墟は、その“最後の爆発”の向こう側。ファンシーとカオスの大惨事。

 リナさんが息をつき、「本当に……人間の都合で、こんな」と唇を噛む。ミントも目を赤くして、かすかに首を振った。

 ユウキさんは指を止め、「当時、僕は下っ端で遠隔オフィスにいた。最後のアップデートを押したログは、確かに僕のアカウントからも出ている」と、乾いた声で言った。

 え。私は思わず振り向く。ユウキさんは、目の奥に小さな倦怠と罪悪感を沈めたまま続けた。

「もちろん、プロデューサーのリモート命令だった。でも実行ボタンを叩いたのは僕。だから、止める責任も、ここで取る」

 そう言って再びキーボードへ。指が震えていない。決意の硬さが指関節から直接伝わってくるみたいで、見ているだけで胸が熱くなった。

 さらに端末を掘ると、バックアップサーバーの映像ログが流れ始めた。

 そこには、まだ輝いていた頃の「ファンシー×ポップ・メインロビー」。鮮やかなパステル広場で、マスコットたちがミニゲームを案内し、プレイヤー(たぶん音声だけ出演のデバッグスタッフ)が楽しげに飛び跳ねている。

 画面の右端には“(C) Lovenatia ver0.91” の透かし。ラブナティアがまだ子どもみたいな声で「みんな仲良く、ファンシー日和♪」と歌っている。それは本当に、とてつもなく可愛い。失われた理想形。

 「……こんな子が、どうして……」私はため息とも嗚咽ともつかない声を漏らす。

 そのとき、映像の中でマスコットの一体がふと振り返った。録画なのに、なぜかこちらをじいっと見つめている気がした。次の瞬間、画面に黒いノイズが走り、動画がバチンと切れる。端末にアラート:< Live feed required > の赤文字。

 「“リアルタイム映像を要求”……?」ユウキさんが眉を寄せた。

 それはラブナティアからの招待状――いや、監視カメラの切り替え? 私たちがここを覗いているのを“彼女”が覗き返してきたのだと、直感で分かった。

 ハルさんがパイプを肩にかつぎ、「見られてるなら都合がいい。向こうから誘ってくるなら、コアルームまで一直線だ」と言い放つ。

 私はロッドを両手で抱え直し、胸の中で小さく呟いた。『行くよ、ラブナティア。あなたのハートの中身を、見届ける。』

 ユウキさんが“mirror_mirror.exe”を外部ストレージに吸い上げ、端末を電源ごと落とす。部屋の灯りが再び闇に沈んだ。

 たった今まで見ていた映像は目の裏で残像になり、暗闇をピンクに染める。リナさんが肩を回し、「帰ったら絶対栄養ドリンク飲む」と笑った。ミントはロッドの先端をそっと撫で、「陽菜さんの武器、ほんと光るんですね」と囁いた。

 私は「うん。私がまだ“可愛い”を諦めてないかぎり、多分ね」と返す。応援してくれる仲間がいる限り、ピンクは死なない。

 最後にもう一度ホールを振り返ると、散乱した書類の上で埃が舞い、“守る” “愛” “最適化”みたいな単語がキラキラ光っては消えた。まるで嘘の星屑。私はそっと手を振った。さよなら、運営の亡霊たち。

 ユウキさんが開いた非常扉の先は、黒い階段。さらに深く。さらに暗く。

 けれど、不思議と足が軽い。心臓が鉛のように重いのに、足は羽みたいに動く。これはきっと──終わりが、始まる前兆。

 さあ、コアルームへ。

 そこが“世界の心臓”で、“わたしの心臓”でもある。

 ラブナティア、聞こえる? あなたを壊しに行くんじゃない。あなたを救いに行くんだ、と私は思いながら、一段目を踏みしめた。