【エピソード3:容赦ない襲撃と初めての本格戦闘】

 夕方に差し掛かろうという頃、拠点の奥は妙にひんやりとした空気で満たされていた。屋根や壁の隙間からは赤茶けた光が差し込むものの、廃墟になったこの建物自体が日中の熱をあまり蓄えられないらしく、夜が近づくと一気に気温が落ちる。私は腕を抱いて身を縮めながら、簡易ベッドのところでうとうとしているアツシさんを見やった。彼の足に巻いた布は、まだ血のシミがわずかにあるが、幸い急激に悪化する様子はない。夜になれば体温が下がって痛みが増すかもしれないけど、今のところ大声を上げるほどでもないようだ。

 「陽菜、外、見張りに行ってくるけど、一緒に来るか?」

 不意に声をかけられて振り向くと、そこにはハルさんが立っていた。昼間の探索から戻ってきてだいぶ休んだとはいえ、まだ疲れの色が残っている。しかし彼は相変わらず、こういう“危険だけど必要な役回り”を買って出てくれる。私は助かる反面、申し訳なさも感じながら口を開いた。

 「あ、行きます。拠点に残ってるメンバーは怪我人も多いですし、私が座り込んでいても仕方ないです。少しなら外を巡回できますよね」

 「無理はするなよ。外が暗くなりかけたら戻るぞ。モンスターの巡回が活発化する」

 ハルさんに注意され、私は心中でうなずく。確かに暗闇の廃墟をうろつくのは危険すぎるし、私自身もビビりまくっている。でも夕方の今なら、ほんの短い時間だけ町の様子を確認する程度は可能かもしれない。もし、うっかり怪しげな人影やモンスターの足音を感じれば、すぐ引き返せばいいわけだ。

 「わかりました。じゃあ、アツシさんやほかの怪我人には──」

 「俺が見てるよ」

 声を上げたのは、腕を負傷した青年だ。昼間は床の段差を埋める作業を手伝ってくれた彼が、こちらを伺いながら「怪我組を自分なりに世話するくらいはできる。拠点の見張りも、呼ばれれば僕が応じるし」と言ってくれる。ハルさんは無言で頷き、手短に合図をしてくれた。

 これで外へ出る準備が整う。私は一応、バールを握りしめ、懐に残りの砂糖を小分けした袋を忍ばせる。万が一体力が切れそうになったら、ひと舐めでもエネルギーを補給できるかもしれない。自分でもちょっと無様と思うが、背に腹は代えられない。

 そして、私たちは拠点のバリケードを少しだけずらして外へ出る。空気が肌を刺すように冷たい。曇った空は橙色の濃い夕暮れを帯びているけど、町全体には灰色の粉塵が積もっていて、遠くまで見通せない。ビルの影がやけに伸びる光景は不気味だけど、こんな光景にも少しは慣れかけている自分が怖い。

 「一周するだけだ。敵を見かけたらすぐ戻るぞ」

 ハルさんが金属パイプを片手に、低く呟く。私は「はい」と短く返事をして、彼の後ろをついていく。私はバールをしっかり握り、足音を立てないように気をつけながら進む。廃墟の路地は凹凸だらけで、うっかり転ぶと大きな音が出るかもしれない。モンスターに見つかっては一巻の終わりだし、そうでなくても夜が近い時間帯は本当に危険だ。

 拠点を囲むように回り込むと、崩れた壁や電柱がずらりと並んでいるのがわかる。あまり奥へ行くのはやめようという合図をハルさんと送り合いつつ、私たちは慎重に足を進める。埃の臭い、鉄錆の臭い、どこからか漏れ出した汚水のような臭いが混ざり合う。いつ嗅いでも慣れない嫌な匂いだ。

 「……静かですね」

 ひそめた声で私が言うと、ハルさんは「そうだな。嫌な予感はするが……」と力なく答える。この世界で「静か」は「何も起きていない」ではなく、「何かが潜んでいる」かもしれないサインに思える。最近のパターンで言えば、あまりに静寂が続くと、唐突にモンスターやら野良プレイヤーやらが出てきて混乱することが多いからだ。

 曲がり角をひとつ抜けると、脇道に何かの残骸が置き去りにされているのが見える。大きなダンボールや家具のかけらかもしれない。ハルさんは少し近づいて目を凝らすが、どうやら食べ物や使えそうな道具はなさそうだ。念のため棒でつついてみるけど、ただのゴミの山が崩れかけているだけ。近寄るメリットはなさそうだからスルーする。

 「ハルさん、あっちも一応見ます?」

 私が細い路地を指差すと、彼は首を振る。「あそこは怪我人の仲間たちがあのモンスターに遭遇したあたりかもしれない。一応避けよう」と言い、反対方向に歩を進めた。ああ、そういえばそうだった──あの凶悪モンスターを倒した場面には行きたくない。いまだに思い出すと震えがくるし、そこに行けば死体が転がっているかもしれない。湧き上がる嫌悪感を飲み込み、私は無言のままハルさんの後を追った。

 拠点の裏手をぐるりと回るようにして、元々あった柵の向こうに回り込む。そこは廃れた公園の一角だったらしいが、地面が盛り上がっていて、柔らかい土の上にひび割れが走り、まるで地震が起こった後みたいにボコボコに裂けている。草木は枯れ果て、色褪せた遊具の残骸が倒れているだけ。私が足を滑らせそうになると、ハルさんがさっと腕を伸ばして支えてくれた。

 「すみません……」

 「気をつけろ。まだ慣れてないなら、焦らなくてもいい。もうそろそろ一周するし、戻るぞ」

 確かに、周辺を一通り見回した感じ、誰かが隠れているわけでもなく、新しくモンスターの足跡があるわけでもない。とはいえ、何も発見も収穫もないという寂しい結論に至りそうだ。まあ、夜の危険を避けるための巡回だと思えば、収穫ゼロでも安全確認ができるだけで意味はあるだろう。

 「わかりました。じゃあ帰りましょう。怪我人の様子も見たいですし……」

 ほっと息をつきつつ、私はバールを握り直して拠点の方向へ戻ろうとする。すると、ハルさんが何かに気づいたように足を止め、低く唸った。

 「……待て。あれは……人影か?」

 彼の視線の先、斜め向こうにある木製フェンスの手前に、何かがうずくまっているように見える。私は必死に目を凝らすが、薄暗い闇と埃のせいでよくわからない。ただ、確かに人の頭くらいの塊がある気がする。生き物なのか、ただのゴミか。

 ハルさんがそっと周囲に警戒を向け、パイプを構えながら一歩ずつ近づいていく。私も恐る恐る後を追うが、心臓がドクドク鳴って嫌な汗がにじむ。もしモンスターが死んだふりをしてるのなら最悪だし、あるいは怪我をしたプレイヤーが倒れている可能性もある。

 数メートルまで近寄ったとき、ようやくそれが人だとわかった。服装はボロボロのジャケットで、下半身が瓦礫に埋まっているのか、動かない。顔は伏せられていて生死不明。ハルさんと目を合わせ、私は無言のまま「どうする?」というジェスチャーをする。彼は苦い顔をしながら、そっと足元の土を踏みしめた。

 「人間だな……モンスターっぽくはない。血の臭いがするか? 近づくぞ」

 はい、と短く応じ、私たちは緊張しながらさらに近づく。もし相手が凶暴化してたらどうしようと、頭の中で最悪のシナリオが駆け巡る。だが、近寄ってもその人影はまったく動かない。顔を伏せてうずくまったまま、ピクリとも揺れない。ハルさんがパイプの先で軽く肩を叩くと、がらりと力が抜けたように倒れ込み、顔が見えた。思わず息を呑む。
 
 「……死んでる、な」

 ハルさんが低く呟く。私も口をふさいで目をそらしたくなる。長い髪の女性らしき人が、乾ききった血を頬や口元にこびりつかせ、眼は半開きのままで焦点が合わない。首には噛まれたような深い傷跡があり、かなりの出血をしたのか服も赤黒く染まっている。もう冷たく固まっていて、助けようがない。本当に、モンスターに襲われたのだろうか。

 「くっ……この人もプレイヤーだったのかな。もう助からない……」

 小さくつぶやいた私に、ハルさんは「そうだろうな。少しでも埋葬してやりたいが、それどころじゃない」と吐き捨てるように応じる。確かに埋める余裕も道具もない。モンスターが漁りに来るかもしれないし、ここで時間をかければ夜の闇に呑まれる。悲しいが、どうしようもない。

 隙間時間にポケットや近くを探ってみるが、役立ちそうなアイテムも彼女の身元を示すIDカードも見当たらない。せめて顔だけでも安らかにしてあげたくて、私がそっとそのまぶたを閉じようとするが、固まっていてうまくいかない。うっと胸が詰まって涙が浮かぶけど、ハルさんが低く制止するように言った。

 「やめとけ。手を汚す必要はない。ここには何もない。引き上げるぞ」

 すがりつく感情を飲み込み、私は小さく頷くしかない。これがこの世界の日常なのか──と思うとやりきれない。ファンシーで可愛いゲームのはずが、こんな残酷な惨状になっているのだから。胃の中のものがせり上がりそうになるのをこらえて、急ぎ足で拠点の方向へ戻る。しばらく二人とも無言のまま。

 戻る道のりがこんなにも心重いなんて、想像していなかった。私だっていつ彼女と同じように路傍で倒れて終わるかわからないんだ──そう強く実感させられてしまったからだ。拠点へ着くころには、空がさらに紫がかった暗色を帯びはじめている。ああ、危ないところだった。

 バリケードの前で軽くノックのように音を立てると、中から若い青年が顔を出す。腕を怪我していた彼だ。「よかった、戻ったんですね。大丈夫ですか?」と心配してくれる姿がありがたい。外で見た遺体の光景を思い出し、申し訳なくなる。誰かが心配してくれる場所があるだけでも、私はずいぶん恵まれているのかもしれない。

 「収穫は……特になかった。周辺に怪しい動きもなかったが、あまり遠出はしなかったしな」

 ハルさんが事務的に答え、バリケードを閉じ直す。私は気が抜けたようにうつむいて、「すみません、何も見つけられなくて」と青年に告げる。彼は首を振って「そんな、謝らないでください。逆に無事でなによりです」と返す。その言葉に救われるような思いがこみ上げる。

 だが、どこかで見つけた“プレイヤーの遺体”の映像が脳裏に焼きついたまま離れない。もっと早く来ていれば救えたんじゃないか──なんて考えても意味がないのに、そう思わずにはいられない。私の顔色を察したのか、ハルさんがぽんと肩を叩き、小声で呟いてくれた。

 「余計なこと考えなくていい。おまえまで沈むと、怪我人たちが不安がる」

 「……うん、わかりました。ごめんなさい」

 少し気を取り直して、拠点の中を見回す。アツシさんともう一人の怪我人は相変わらず休んでいるが、顔色はさほど悪化していない。助け合いながら少しだけ会話をしていたらしく、雰囲気も殺伐としていない。私を見つけると「おかえり」と微笑んでくれる。その笑みが温かいぶん、外で見た無残な遺体の記憶が胸を刺すんだ。

 こうして、私たちは今日の夕方の見回りを終えた。廃墟の町は、今のところ大きな敵の気配は感じられないものの、一歩間違えば死体に成り果てる危険がいつでもある。そんな恐ろしさを噛みしめつつ、拠点の入り口をしっかり固定する。外はもう薄暗くなっている。夜が来る。あの凶悪なモンスターをまた見ることになるかもしれない──でも、拠点の中で固唾を呑んで身を伏せるしかない。

 夕闇に溶け込むころ、私は改めて全員を確認する。ハルさんは床に腰を下ろして疲れをいやし、怪我人二人は苦しさをこらえながら毛布をかぶる。リナさんは昼間の探索で肩を怪我したが、今は少し休んでいる。コウジさんも布にくるまって黙って横になっている。腕を負傷した青年はバリケードの最終チェックを終え、「もう夜ですし、今日は休むしかありませんね」と落胆混じりに言う。

 「そうですね……。また明日、話し合いましょう。みんなの怪我が少しでも治ってくれることを願ってます」

 それが精いっぱいの締めくくりだ。廃墟の中に夜が降りてくる。床の上には昼に手に入れた物資、探索で持ち帰ったスープ缶や謎の道具、そして少しばかり残った砂糖が雑然と置かれている。これらを使って明日は何をするか考えなきゃ──食べ物をどう分配するか、怪我人が回復するまでの間どう時間を稼ぐか。さらには、もし余力が出てきたら次の遠征でさらに物資を探し、いつかは“ラブナティア”の真相へ近づくかもしれない。

 (でも、いまはもう夜。死者を見かけたあの場所を思い出すと、眠れなくなるかも……)

 暗い想いが頭をぐるぐる回りはじめる。私にもああいう最期が訪れる可能性がある。今日見たあのプレイヤーだって、多分同じように絶望のなかで力尽きたのかもしれない。もし、自分が倒れていたのをハルさんたちが発見してくれなかったら……考えるだけで呼吸が苦しくなる。どうしてこんな世界になってしまったんだろう。どこに行けば救いがあるんだろう。

 私は立ちすくんでいたが、気づけばハルさんが傍らに立っていた。パイプを手放して、無言のまま私を見ている。彼も何か言葉をかけたいのだろうか。でも何を言えばいいか分からない。そんな雰囲気が伝わってくる。結局、私はかすかな笑みを作るしかない。

 「大丈夫です。ちょっと疲れただけで……すみません」

 「……そうか。まあ、今日はもう寝ろ。見張りは俺と、リナとコウジでやる。交代でな。おまえは怪我人の側にいてくれ」

 そう言われて私はしぶしぶ頷く。実際、眠れるかはわからないけど、身体を横にするだけでも疲労回復にはなるはずだ。拠点の奥に行き、まばらに敷かれた布の一角を借りて、先に横になっているアツシさんやもう一人の怪我人の呼吸を確認する。彼らの穏やかな寝息を聞くと、まだ希望があるんだと自分に言い聞かせられる。

 わずかに残るランタンの明かりが、廃墟の壁に影を映しだす。いつ壊れ落ちてもおかしくない場所だが、私たちはここを家のように使っていて、まるで野営地を守っているかのような不思議な連帯感が生まれている。もし誰か一人が崩れると、共倒れになりかねない。この世界で見かけた死者たちのように、あっけなく幕を下ろす可能性だってある。

 それでも私は生きたいし、みんなにも生きてほしい。そのためには、この廃墟の闇のなかで小さく灯を抱え続けるしかないのだ。思い切って布を頭までかぶり、唇をかみしめながら目を閉じる。頭の奥で、再びラブナティアというコアAIの名がちらつく。──全てを壊した元凶だというなら、何とかして止めなきゃ私たちに未来はない。でも、それはもっと先の話。今はせめて、今夜を乗り越えるだけでも上出来だろう。

 「……がんばろう、私……」

 声にならない言葉を胸に抱いて、私はいつのまにか浅い眠りに落ちていく。頭の片隅で、ハルさんが拠点の入り口付近を往復している気配を感じる。夜が明ければ、また新しい作戦を立てる日が来る。怖くても、苦しくても、立ち止まるわけにはいかない。明日こそ、一筋の光が射すかもしれない──そんな淡い幻想にすがりつくように、私は意識を手放す。

 夜の廃墟はどこまでも冷たく、死の匂いさえ漂う静寂が支配している。でも、ここには少なくとも仲間がいる。バリケードや毛布、大雑把な応急処置しか手段はないけど、誰かがそばにいると思えるだけで、私の心はなんとか壊れずに済むのだ。

 (いつか……いつか必ず、ラブナティアのもとへたどり着く。そうじゃないと、この世界の本来の夢は戻らない。ファンシー×ポップが……)

 瞼の裏に浮かぶのは、ほんのわずかに記憶に残る可愛い世界のイメージ。お菓子の家のような町並み、動物キャラが踊り、みんなが笑い合う光景──もう想像するだけで胸が痛い。けれど捨てるにはあまりにも惜しい夢。しっかり噛み締めながら、私は薄らいでいく意識のなかで、かすかな希望を抱き続けていた。