体育祭が終わり、息つく間もなくテスト期間に入った。それが終われば今度は文化祭、それからまたテスト――高校生の二学期は結構忙しい。
これまでの陰キャぼっちの俺なら、きっと面倒で、退屈で、しかたなかったと思う。
「スエ、テスト勉強してんの?」
「してない、やばいかな」
「やばいだろ! わりーけど、俺今回は赤点回避するから」
「えー……」
「えー……じゃねえんだよ、ったくスエは相変わらずだな~」
休み時間になってもノートに向き合う俺に、馬渕は呆れ顔を浮かべている。俺の悪癖は相変わらずだった。
ノートの片隅に恐竜を描く。これまでの俺の人生で、唯一の楽しみだった時間だ。けれど今の俺には、この手を止めて、顔を見合わせて話したいと思える人が、何人かいる。
「そのわかったような口の利き方、やめてもろて」
背後から腕が伸びてきたかと思えば、耳元で響く柔らかな声。
「日向……!」
その声が聞こえれば、馬渕のことはすっかり頭から飛んで、意気揚々とノートを掲げていた。
「スティラコサウルス描いた!」
「ん、かわいい~。このくちばし? かわい~」
「だろぉ」
ただ一人、俺の悪癖に目を輝かせてくれる人。俺の落書きを、日向は相変わらずべた褒めしてくれる。甘い笑顔を寄せられると、全身がとろけてしまうかと思った。
「……おまえら、どっか違うとこでやってくんねぇ……?」
今にも吐き戻しそうな素振りをした馬渕。こんな甘ったるい日向を目の前にして、よく平常心を保ってられるなと不思議だ。
「座る?」
「じゃあここに……」
「いいよ」
「よくねえよ!」
俺の膝の上に乗っかってこようとした日向を、馬渕が全力で拒否した。せっかく日向とくっつけるチャンスだったのに……。ちょっといじけた気持ちになってしまう。
体育祭で日向への「好き」が友達としての「好き」じゃなかったと自覚してからの俺は、毎分毎秒こんなかんじだ。頭のなかは日向のことばかりで、穏やかな大海原にぷかぷか浮かんでるような気分のときもあれば、ほんの些細なことで大しけになって、ひっくり返って溺れてしまいそうになる。人間と付き合うのは大変だなぁとしみじみ思うこともある。
けど、そういう不安定さまで楽しめてる気がするのは、それが日向も同じだと知ったからだ。
体育祭の打ち上げの帰り道、二人でたくさん話をした。
「俺は結構前から、友達じゃないなって思ってたけど。でも末広は『友達繋ぎ』がしたいって言うから~」
日向はおどけてそう言ってくれたけど、もう俺にだってわかる。それがどれほど日向を傷つけてしまったか。日向んちの帰り道、時折曇った笑顔を浮かべていた理由も。
「ごめん……だから馬渕にも鈍くさいって言われんだな」
「いま馬渕の話すんな」
そう言って唇をとがらせた横顔を、気づけば抱き寄せていた。
「もしかして、馬渕と手繋いでんの見た?」
聞けば日向は、答えたくないと答えるように、腕のなかで暴れていた。けど、絶対離さないって決めてた。
「あれ、馬渕が教えてくれようとしてたんだ。日向への気持ちが、馬渕……というか友達への気持ちとはちがうだろって」
まあ、あのときの俺はまだ、まったくそれに気づけていなかったんだけど……。
「日向が先輩に拉致られたとき、俺なんつうか……ケントロサウルス超えて、ただただ不安、だった」
「……ん?」
やっぱりわかりにくい表現だったんだろうな、日向の肩が小さく震えてた。
「俺の心って泥みたいなんだよ。誰になに言われても、そのときはちゃんと刺さるのに、すぐに溶けてなくなっちゃう。忘れちゃうんだ。なのに日向のことは、そうじゃない、ずっと。いいことも悪いことも、ずっと覚えてて」
それが時に悪さをして、日向のことになると融通が利かなくなってしまう。
「だからああいうの、取られたらどうしようって不安になる……俺、俗に言う、重い、ってやつなのかな……ごめん、先に謝っとくわ」
「ふはっ……もっと重くていーよ。俺のが全然重いから」
「んなことはないだろ、日向のほうが余裕ある。人間としても男としても」
「人間としてはそうかもな?」
「うざ……」
身体を離せば、日向は熱っぽい目で俺を見上げる。
「好きだよ、まじで」
「……っ……んな顔で言わないで……!」
「じゃあどんな顔で言えばいーんだよ、ん~?」
――だめだ、やっぱり男としても日向の余裕に勝てる気がしない……。
俺は真っ赤な顔もいとわず、ゆっくり、日向に顔を近づけた。そしたら日向は目を閉じて、俺たちは、初めてのキスをした。
「……意外と手ぇ早いんだな、末広……」
「えっ! ごめん! したくなったらしていいんじゃないの!? 作法がわかんねー!」
慌てふためく俺を、日向は貴族のような高笑いで見つめてくる。
「いいよ、したくなったらすれば。俺もそうするし」
「……何回まで?」
「そんなしてーのかよ!」
本音を言えば、そうだ。けど手が早いってきっとよくないことだと思って、唇をしまって、我慢したのに。
噛み締めた唇を解くように、今度は日向からキスされた。ちなみに人も車もまま通る、駅へと続く道端の自販機の陰で。
「……やっぱり一生かなわない」
「ふはっ!」
「笑いごとじゃねえよ! どうすんのこれから……!」
俺はこの道を通るたび……いや、もはや自販機を見つけるたびに、今日、ここで交わした日向とのキスを思い出すんだろうなと思った。
「おまえ、すげー盛り上がってっけどさ。明日になって、やっぱ友達のほうが……とか言い出すなよ?」
日向は俺の手に指を絡めて、そんなふうに言う。
「そんなことあるわけねーだろ……」
俺もその手をぎゅっと握り返して、やっぱり絶対、ありえないって確信する。
「友達じゃ、キスできない」
目を合わせたらまたキスしちゃうなって、俺も、きっと日向もわかってたから。
俺たちは恋人繋ぎのまま、邪念を振り払うようにせっせと歩いた。
「……末広のスケベ」
「遺伝だ、それは」
「なにそれ」
「こっちの話」
黄昏時、高架線の上を電車が走り抜けてく音が耳にさみしい。俺は日向の手を引いて、やっぱりちょっと遠回りして帰ったんだ。
――なんて、俺が一人、あの日にトリップしていれば。水谷さんにげんこつをお見舞いされた。
「いった!」
「きもっ、なに一人で笑ってんだよ」
「こら杏里! ……じゃなくて、水谷! 末広に触んな!」
「うざぁ! まじでなんで博士なのっ!? 人のこと出し抜きやがって! このミーハー!」
日向は俺のわがままを覚えていてくれて、あの日から水谷さんのことを「杏里」と呼ばなくなった。それが癪に障るようで、水谷さんの俺への当たりは以前よりずっと激しい……。
「ミーハーじゃない、俺は日向の――んぐっ」
「言わないで! 黙って!」
「だから触んなって!」
「カオス……」
休み時間、俺の周りがこんなに賑やかになった。落書きしたくたって、なかなかできない。それをうれしいと思う自分が、たしかにいる。
「……たのしいな」
口から水谷さんの手が離れて、開放感からうっかり言葉が零れていた。
「楽しかないわ!」
「のわりに、杏里も懲りずに来るもんな」
「それはうみんちゅがいるから……!」
「どーだかぁ」
「まぶちんうざいっ! もう合コン誘ってあげない!」
「はぁ!?」
馬渕と水谷さんがやいやい言い合ってるあいだ、日向は机の下で俺の手にかすかに触れて、それから優しく微笑みかけてくれた。まるで「よかったね」とでも言ってくれてるみたいに。俺もそれに微笑み返せば、さっきまで言い合っていた二人はしんと押し黙って、俺たちを見やる。
「……うざ……まぶちん合コンしよ」
「だな、今すぐしよ」
さっきまでもう誘わないとか言ってたくせに……相変わらず水谷さんの変わり身の早さは目を見張るものがあるな。
「大体博士のなにがいいんよ、うみんちゅやっぱコンタクトあってなくない? 眼科一緒行く?」
「ばか杏里! それ聞いたら――、」
馬渕の制止を遮って、日向はいつもよりちょっと早口で言う。
「まずフラットなとこ。末広は誰に対しても態度が変わんねえのが超いい。それから笑った顔。ハムスターみたいでかわいいだろ、枝豆両手で食ってんのまじやばいよ、写真見る? あとなんといっても集中力、探究心、恐竜に対する愛――」
「ちょ、日向黙って黙って……!」
このままじゃ、俺の命がやばい。水谷さんの殺気を察して慌てて咎めたけれど……遅かった。
「いってぇ!」
必殺、脛蹴りが飛んでくる。
「大袈裟なんだよ! 男なんだからこれくらいでひぃひぃ言うな!」
「関係ねーよ、脛は誰でも痛い! やってやろーか……」
「はい、もーおしまい」
水谷さんに反撃しようとすれば、日向の顔が曇る。
「日向、今日も一緒に帰ろうな?」
「ん! 当たり前~」
けど、俺のたった一言で、その雲を吹き飛ばすことだってできるらしい。それが、うれしい。
「うっっっざ! もーやだぁ!」
水谷さんにはごめんってたしかに思うのに。人間の感情って、複雑だ。
選択授業の時間、今日は二人一組になって、お互いの似顔絵を描くと先生が言う。
「それじゃあ、二人一組になって――」
「日向っ」
「おーい、先生まだ話してるぞー」
「あ、すみません……」
くすくす、小さな声で笑われた。
大人気の日向を手に入れるために、俺はちょっとフライングしてしまった。
「いーよ」
アリさんの声で、日向が囁く。
「ありがと!」
ゾウさんの声に、先生はもはや呆れていた。
絵を描くことそのものは、得意じゃない。俺は恐竜を描くことだけに秀でていて、りんご一つさえまともに模写できない人間なのだ。
「まずはよーく相手の特徴を観察して」
けど、どうしてだろう。日向の綺麗な顔を見つめれば見つめるほど、描きたい、と思った。
スケッチブックに鉛筆を滑らせて、そこからは視界に日向しかいなくなる。
きゅっとシャープな顎のラインを描けば、あの場所は俺の手のひら一枚分以下だったな、と胸がふつふつ熱くなる。
左耳たぶにホクロがあることは、今知った。後ろの席から眺めていたとき、うなじに二つ、ホクロを見つけたっけ。
パーツの配置は言うまでもなく黄金バランスで、すごく描きやすい。
鼻筋は品よく、俺みたいに変なとこがぼこってしてない、なだらかな線。
顔はこれだけ小さいのに、目は人並み以上に大きいな。あの瞳には驚くほど光が集まってくる。それが晴くんと似てると思った。やっぱり嘘やお世辞なんかじゃない。二人は似ていると、俺は思う。
あの長いまつ毛に、いつか触れてみたいと願ったり。触れ合ったことのある薄い唇を描くときは、鼓動がかすかに手元を揺らす気がした。
――綺麗だな、日向は。
初めて声を掛けられたとき。日向が俺の落書きに目をまあるくしていたあのときから、結局この印象は変わらない。日向は綺麗だ。
絹のようにしなやかで触り心地のよい、柔らかな黒髪を描く。少し伸びたな、おろしたら目にかかるからか、最近の日向は七三くらいの分け目でゆるく前髪を分けている。
さっさっ、と鉛筆を滑らせる。ほんとうに、ただそれだけのことなのに。それだけがいつも俺の心を躍らせ、落ち着けてくれる。爆発してしまいそうな衝動を、すべて呑みこんでくれるんだ。
――好きだよ、日向。
日向に出会ってからの毎日は、べつにいいことばかりじゃない。けど、明日に想いを馳せながら目をつむる毎日は、生きてる、ってかんじがする。寝ても覚めても恐竜だけが俺のすべてで、もうそれでいいって諦めかけてたのにな。そんな俺の毎日を変えてくれた人。俺に人間のたのしみを教えてくれた人。
――好き。大好きだ、日向のこと。俺も日向の毎日を変えられたりして……は、ないかな。ならせめて、幸せにしたいな、この人のこと。
「おーい、末広くーん?」
ぱっと目の前に、誰かの手のひらが割り込んできた。
「……へ」
「ほんっと、すさまじい集中力だねぇ……先生感動です、色んな意味で」
美術の先生が、メガネをくいっと持ち上げて言った。
「すご……」
「写真みたい……」
「やっぱモデルがいいから……?」
気づけば背後には、多くの生徒が立っていた。俺の目の前にいる生徒は、日向、ただ一人だけ。
「見ていい?」
潤いのある瞳で、日向が聞く。
「あ……う、うん。まだ途中だけど……」
「これ途中なのか」
先生が言うと同時、授業の終わるチャイムが美術室に鳴り響いた。
――俺ってば、またやった……。
時間を忘れて絵を描いてしまう、それはしょっちゅう親に咎められてきたことだ。過集中というらしく、母さんのことをよく困らせた俺の悪癖の一つ。
「先生すみません、俺また……」
「いやいや。ようやく本領発揮、だね。末広くん」
「え?」
日向が隣にきて、それから自分の絵を改めて目に映した。
「……やば。末広、おまえまじでやべーな。やばいしか語彙が出てこないのがくやしんだけど」
日向が、俺の肩を抱く。
「俺……こんなの描けんだ」
――恐竜、じゃないのに。
「描けんだなぁ……」
なんだか、他人事みたいに言った。ほんとうに俺が描いたのか、ちょっと自信失くすくらい。没頭すると記憶が曖昧になるのも、俺の悪い癖だ。けど、線一本一本に込めた想いが、間違いなく俺から日向への気持ちを伝えてくれている。これを描いたのは、俺以外ありえない。
「日向くんへの愛が伝わるじゃない、恐竜とおんなじで」
先生はそう言ったけど。全然ちがうよ。
「愛してますよ、恐竜より全然」
先生に答えたつもりだったけれど、まだ背後に残っていた生徒たちに「ぎゃあー!」と叫ばれた。そんなおっかないもの見ちゃったみたいな声、やめろよ……せめて「きゃあっ」くらいでお願いしたい。
「おまえ、火の玉ストレートかましすぎ!」
日向はまだ立ち上がれずにいる俺に思い切り抱きついてきて。それにはちゃんと「きゃあーっ!」って黄色い声が浴びせられてた。……うん、まったく複雑な気持ち。
その日の帰り道、冷静になった俺は、ただひたすら透明になりたかった。
「あ、あのさ……なんかごめんな。俺ちょっと……いや、だいぶ、ハイになっちゃってたというか……」
「だよな、愛してるっつってたもん」
「それは間違ってないんだけど」
「ぶはっ! まじで末広って最高の彼ピ」
選択授業のあとの昼休み、日向と俺を見に、何人もの見物客がやってきた。馬渕と水谷さんだって、授業が違うのに俺がやってしまった「愛してる」の一件を知っていたし。
「どうしよう、日向が変な目で見られる……」
「べつにいーっしょ、どうでも」
「いい……のか、それは」
俺ならそういうの慣れっこだけれども。日向はそうじゃないだろ。
「大体、毎日手繋いで帰ってんだぞ? 知ってるやつは知ってるわ、とっくに」
「あ、そっか」
たしかに、なにも考えずに毎日恋人繋ぎで下校してた……。
「俺ってほんと至らないな……作法がわかんねーのよ」
情けない気持ちで懺悔すると、日向はまぶしい笑顔で「作法なんてねーよ」と励ましてくれる。
「でもまあ、節度はあるな」
「せつど?」
「あんなとこで愛してるとか言われてもさ? なんもできなくて困るだろ」
「なぁっ……! このスケベ!」
「どっちが」
覗き込んだ横顔、日向の耳が、ちょっと赤かった。今度の俺はちゃんと節度ってやつを守るべく、辺りを見回して、それから日向を引き寄せた。
「誰もいないです、隊長」
「……んで?」
身体を離して、まじまじと日向を見つめる。
「愛して……る……」
「あっははは! 勢いなくすなよ、ヘタレ〜」
「さすがに恥ずすぎる!」
「かわいーな末広」
またそれかよ、って言おうとすれば、日向の腕が首に回って、引き寄せられるように触れるだけのキスをした。
触れるたび、足りないなって素直に思う。けど、手が早いと言われているので、まだステイだ。
「……末広、もっかい」
なのに、日向はずるい。俺が我慢しようとすれば、平気でそのブレーキをぶっ壊してくる。日向の唇を食べたい――おっかない衝動のまま、噛みつくように日向の唇を口に含んだ。いつもよりちょっとだけ長いキス。
「……っおまえ、節度……! さっき言ったよな……!?」
「日向が悪いと思う……俺、我慢しようとしたもん……」
「はぁ……?」
息の上がった、真っ赤な顔が二つ。傍から見れば、全力ダッシュでもしたように見えるのかな、俺たちは。それともちゃんと、キスして照れてる二人、に見えたりするのかな。
「……どっちもやだな」
「ん?」
俺は隠すように、日向を腕の中にしまった。
「日向のこと、俺の彼氏だって自慢したいのに、誰にも見せたくないって、なんか変じゃねえ?」
唇を離したあと、耳まで真っ赤に染めて、潤んだ瞳で困ったように俺を見上げてた日向。そんなの誰にも見せたくない。俺だけが知ってればいい。
けど、「このかわいい人、俺の彼氏でーっす!」って大声で言いふらしたい気持ちも、たしかにある。人間ってやっぱり複雑だ。
「あは、わかる! 末広は俺のだってことは言いふらしたいけど、こんな顔知ってんのは俺だけでいいって、俺も思ってる」
「そう、それ。まじでそれだ」
指を指しあって、笑い合って、それからまた、キスをする。
幸せ、ってきっと、このことだなって思う。
「幸せだ俺。まじで、超、しあわせ!」
「声でかっ! 静かにせーよ!」
「日向は?」
「……しあわせに決まってんだろ。超超超! しあわせでーす! あーっ、まじ節度ぉー!」
二人、ゾウさんの声で叫んだ。
高架線を走る電車の音にかき消されてたら、まあそれはそれでいい。きっと、何度だって、叫ばずにはいられなくなるから。
世界中に言いふらしたい、俺と日向の、幸せな恋の話。
おわり



