日向の家にお邪魔させてもらったあの日から、一か月くらい経った。
 あれから日向は、昼休みに俺の席に出向いてくれるようになった。大体、馬渕と三人で食べることが多く、たまには俺のほうから誘って二人で――とも思うのだけど、決意して目をやれば杏里サンの圧にびびって、めげてしまう……。そんな日々を送っている。
「あっ! それ今日発売のやつじゃん!」
「ん?」
「チョコミントクリームパン!」
 チョコミントに目がないんだと騒ぐ馬渕に、俺はパンを一口ちぎって渡した。
「末広、俺もちょーだい!」
「なに、そんなにチョコミントって流行ってんだ」
 俺はもう一口ちぎって、今度は日向に渡す。
 ちなみにあんまり俺は好みじゃないけど、二人は――
「うまいっ! クリーム感が強すぎず!」
「……うん、まあ、まあ」
 馬渕は絶賛、日向はたぶん、こっち側。
 なんとも言い表せない微妙な表情で、ちらちら顔色を窺われていたから。
「普通のクリームパンのがうまくね」
 俺も公平に意見を述べてから、日向としっかり目を合わせてにやついた。
「んだよ、二人して俺のこと邪魔もの扱いか? あ?」
「いちいち凄むなよ、こえーんだよ……」
「まだそんなこと言ってんのか、俺とスエの仲だろー」
 馬渕の言う通り、実際もうそんなに怖くはない。でも、びびりはする。あ? って言うのときの治安が悪すぎる。
「つか海、このあと応援団の練習あんじゃん? 行く?」
「さすがに行くわ、一年なんだし」
「だよなぁ、だるー」
 二人は体育祭の応援団という、陽キャしか決して入ることの許されていない集団に推薦されて、最近の昼休みは少し慌ただしい。
 日向なんて特に。あれだけの量を食べるから、時間が足りなそうで、なにか手伝ってやりたくなる。俺が代わりに咀嚼してあげたい気分で、わんぱくな横顔をぼーっと眺めていた。
「んな見んなよ、食べ方汚いとか思ってんだろ!」
「いや思ってない、喋んなくていいから早く食べな?」
「うざぁ」
 と言って焼きそばパンにかぶりつけば、パンの端っこが口に収まりきらず、口元にパン屑がくっついた。
「またついてる」
「ん、わかってる!」
「口ちっちゃいのに、無理するから~」
「うるへー」
 あの膨らんだほっぺには、背を伸ばしたいって、日向の夢が詰まってんだなぁと思うと、妙にかわいがりたくなって不思議だ。かわいがりたい……という表現でいいのか、ちょっと人間初心者にはわからないけど。
「見ーんーなぁ」
「……ハムスターなの、日向のほうじゃんね」
「あー!?」
 ハムスターの頬袋と一緒じゃん。
 馬渕の凄みはびびるけど、日向の凄みは、ただただかわいいなぁと思う。顔つき?
「うーん……?」
 それも違うような。日向の真顔なんて、綺麗すぎて馬渕とは別の意味でおっかないのに。
「おーい、いちゃついてんな、先着替えてんぞー?」
 馬渕に思考を遮られ、日向は慌ててそのあとについて行った。
 取り残された俺は一人、食べカスを拭いたり、ゴミを捨てたり。それから、日課の落書きをしたりして過ごしている――いつもは。
「うちらの目の保養、二人も独り占めしてどんな気分ですかぁー」
 けれど、どうやら今日は、雲行きが怪しい……。
「……えぇ……?」
「まじで、ちょっと顔貸せよなぁ」
 かわいい声で、とんでもないことを言う人だ。
「杏里、サン」
「名前呼びすんな、博士クンの分際で!」
 杏里サンは、引きつれてきたお友達とは手を振って別れて、一人で俺の前の馬渕の席に座った。
「ごめん、名字、なんだっけ……?」
「うっざ! 水谷だよ!」
「水谷さんか」
「ねえまじで、なんでうみんちゅもまぶちんも持ってくわけ? うざいんだけど」
 いたって真剣な顔なんだけれど、まぶちん、がちょっと変なツボに入ってしまった。
「はぁ? なにちょっとかわいく笑ってんだよ! もっとオタっぽくしとけ!」
「いたぁ! な、理不尽すぎ……」
 脛蹴りされた。凶暴すぎる。女子怖え……。
「たまにはこっちにも回して。ねえ、わかった?」
 圧もやば……なんか前に日向と話してたときと様子が違うんだが……?
 くりんと上向きまつ毛のかわいらしさが、まったく台無しだ。
「……回すとか、ないでしょ。行きたいとこに行くじゃん、二人だって」
「はぁ? だからたまには断れって言ってんの!」
「や、やだよ」
「……博士クン、意外と生意気!」
 これ馬渕にも言われたな。そうだ、俺は真面目に見える不真面目だからな。舐めんな――とは言えないけど、さすがに。
 それから黙りこくった水谷さんだけど、なぜかまだ馬渕の席に座ったままだ。時折スマホから俺のノートに視線が移るのがわかる。
「あのー……?」
「まじで絵うますぎて引く」
「引くんだ」
 なんだそれ。
「これ、わかる。ティラノサウルスでしょ!」
「ちがう、タルボサウルス」
「はぁ? しらねーよそんなの」
「逆ギレかよ……」
 水谷さんのグーが肩に叩きつけられる。けどまあ、全然、痛くはない。さっきの脛蹴りよりはかなりマシ。
「ちょい! 今、末広のこと殴んなかった!?」
 ちょうどそのとき、汗を拭いながら日向率いる陽キャ軍団が帰ってきた。目撃されたのに、水谷さんに焦った様子はなくて、一層おっかなさが増す……。
「えー、じゃれてただけだけどぉ」
「声……」
「うっせ」
「いっ……!」
 また脛だよ……! 肩パンのダメージ少なかったのバレたのかな。
「また! なんかしただろ杏里!」
「しーてーなぁーいー」
 日向は駆け寄ってきてくれるけど、それは俺じゃなくて、水谷さんにだった。
「まじで末広に手ぇ出さないで」
「出してないってばー、こんなオタクに興味ないしぃ」
「そういう意味じゃなくて、まじの意味! 叩いたり蹴ったりすんなってこと!」
「えー?」
 白々しく水谷さんに目配せされて、俺はつい目を逸らしてしまった。動物ならこれは降参の合図だ。きっと恐竜も同じで――っていま恐竜はどうでもいいんだよ。
「……トイレ」
 ――ばかだな俺。これじゃあ本当に降参になっちゃうわ。
 わかっていてもなんとなく、そこにいられなかった。
 俺から見れば小さい日向が、水谷さんと並べば、ちゃんと大きいこと。
 日向の柔らかな声が呼ぶ、水谷さんの下の名前。あんまり、知りたくなかったことばかり。
 また、これか……。最近はずっと凪いでいた大海原が、次第に荒れ狂っていく予感がする。

 十月の半ば。空は快晴、気温は半袖日和。
「っしゃあ、いけー! 末広ー!」
 ――勘弁しろよぉ……!
 馬渕の声を背に、情けない気持ちで走り出した俺は、ハードル走の走者だった。なぜか普通に走るよりハードル走のほうがタイムがいい俺の順位は、六人中の四位。……微妙。
「がんばった、がんばった!」
 日向はそう褒めてくれるけれど、頭に巻いたハチマキが気になって、なんか素直に喜べなかった。
 教室からグラウンドへ移動するとき、
「うみんちゅ~リボンしてあげる~」
 なんて水谷さんに呼びつけられた日向は、クラスカラーの黄色のハチマキをリボンみたいにかわいく結ばれてた。すごく似合ってる、かわいい、めろい……どれも事実だけど、なんとなく日向に言ってやりたくない。
「ありがと。日向はまだまだか」
「そうだよ、応援団のほうが先~」
 体育祭で一番盛り上がる最終種目のクラス対抗リレーが、日向の出場する種目だった。まあなんというか、陽キャの定番、というか。
 午前はちやほやされて、昼休憩明けには応援合戦できゃあきゃあ騒がれ、最後のリレーでアンカーを務める、っていう。
「さすがだなぁ」
 つい、声に出ていた。
「んー? なにが?」
 振り向いた日向は、今日も寸分の狂いなく綺麗だ。ただの体操服を着ているだけなのに、さっきから何枚も写真をせがまれているし。これで応援団の学ランでも着たら、失神する女子でも出るんじゃないかと心配にすらなる。
「……なんでもないでーす」
 今日も俺の心は荒れ模様。まったく曇天。
「なあ、末広、今日鏡見た?」
「は?」
「おまえハチマキ巻くの、下手すぎん?」
 いたずらっぽく笑った日向の頭で、リボンの端が揺れてる。
「あーあ、日向はいいな! 巻いてもらえて!」
「え、なに急に、情緒」
「うるせー」
 急じゃない、こっちは。ずっと我慢して我慢して、けど日向がなんにも気付かないで呑気にリボン揺らしてるから――
 ――我慢して、ってなんだ?
「いや……ごめん。たしかに情緒おかしいわ」
「へんなの、暑さでやられてんじゃん? 保健室行っとく?」
「いい、元気だから」
 そうだ、俺はいたって元気だ。朝一番のハードル走が終わって、以後俺は暇だ。部活にも入ってないから、ただただ騒ぎまくる人間を眺めてるだけでいい。たまに珍プレー好プレーが出れば目を見開いたり、口元を緩めたり。そんなのでいいんだ。
 なにが我慢だ? 日向の頭に、水谷さんの巻いたハチマキが揺れてる。だからなんだっての。それは俺が我慢する案件じゃない。
「巻いてあげよっか」
「へ?」
「俺でよければ、だけど」
 日向の手が、俺のへたくそらしいハチマキの結び目を解いた。
「もうやる気じゃん……」
 とか言って、俺もちょっとかがんでた。
「おまえもな」
 ばれてた――。
「リボンがいーの?」
「いや全然。まったく」
「じゃあ普通のな!」
 前髪と額の間に、薄い布が滑り込んできて、そのまま後頭部に日向の手が回ってく。
「届く? 後ろ向こうか?」
「ばかにすんな、届くわ!」
「まあ俺、結構かがんでるけど」
「うっざぁ」
 時折混ざりあう視線が、くすぐったかった。
「はい、できた!」
 日向の得意げな顔が、視界を埋め尽くす。
「……ありがと。もう変じゃない?」
「変じゃないよ」
 ふと、一緒に乗った電車での出来事がリプレイされた。俺が髪を切って、それに日向が気づいてくれてたときのこと。
 トドメの一言に備えて、俺はぎゅっと目をつむった。のに。
「わっ」
 日向はそんな俺を許さないって言うみたいに、両頬に手を添えてぐっと引き寄せてくる。
「かわいーよ」
「……んな目で言うことじゃねーって……」
 水谷さんは俺に、日向を独り占めにするなって言ったけど。これは――独り占めしたいよ、俺。
「まじで日向、眼科行ったほうがいいよ」
「また言ってるよ、母ちゃんも前に言ってただろ? アンニュイだっけ」
「うろ覚えじゃん」
「うっせうっせ」
 そう言って日向の手は、俺の髪の毛をぐしゃぐしゃにかきまぜた。
 ――変じゃない、って言ったくせに。これじゃあ、またひどいことになってそうなんだけど……!

 それから昼も一緒に食って、日向と馬渕は慌ただしく応援団のリハとやらに駆けて行った。
 学ラン……きっと似合うだろうな。いや絶対か。間違いないな。それで轟く女子の悲鳴さえ間違いないと言い切れる。
「おいこら、博士ぇ」
「うわぁ……」
「その痛々しいヤツ見る目、やめて!」
 だってちょっと……体育祭ガチ勢すぎて、正直イタイんだもんな……。
 水谷さんは、体操服の袖を肩まで捲り上げて、そのほそっこい腕にはなぜか太いマジックでクラス名が書かれている。そんなのわざわざ書かなくたって、ハチマキの色でわかるのに、だ。極め付け、綺麗な肌にはなんか派手なシール? みたいなの貼ってるし。
「騒々しい……」
「まじで生意気、ワードチョイスがむかつく!」
 また足蹴にされたけど、最近はちょっと威力が弱まってる、気がする。
「つかさぁ応援合戦、鬱だよねー」
 まるで友達に話しかけるように、水谷さんは俺に言う。
「なんで鬱なの? 日向も馬渕も出るじゃん」
「ばーか、だからだよ! 先輩にはさすがに歯向かえないだろっ!」
 デコピン……女子でも陽キャならデコピンは強いのか。なんで。
「絶対モテるじゃん~うみんちゅも~まぶちんも~まじで鬱だわ~」
「……たしかに。それは鬱だ」
「お、めずらしく意見合ったじゃん、いえーい」
 水谷さんも体育祭テンションに呑まれてんだな。まさかハイタッチを促され、夢かと思った。
「こういうイベントんときってさぁ、みんな気が大きくなんのだるいよね」
「え」
「普段から頑張ってるこっちはなんだっつうの、ミーハーがよぉ」
 水谷さんの手が俺の弁当に伸びてきて、ひょいとミニトマトを奪われた。
「あー泥棒」
「うわ、ピック恐竜じゃん! 子どもかっ」
「いーだろ別に……これ、ラプトル」
「ん、なんか聞いたことある」
「映画……恐竜の映画、結構メインで出てるし」
「それだ!」
 なんか普通に話してるけど……これが共通の敵ができたことによる仲間意識ってやつなのか……?
 それからなんだかんだと水谷さんの愚痴を聞きつつ、昼休憩後グラウンドまで連れ立って出るという、奇跡が起きた。

 次は応援合戦です――。 品のいい声でアナウンスが入ると、グランドには歓声が響いた。
「はー、まじでだるー」
 隣でテンション急降下中の水谷さんはともかく、俺の胸はちょっと高鳴っていた。わくわくするBGMもそうだし、なにより日向たちが慌ただしく練習に駆けていく後ろ姿を、何度も見送った。その成果を見せてもらえるのは、素直にうれしい。
「どうしよう、俺たのしみなんだけど」
「終わったあとに自分の浅はかさを思い知れ」
「こわ……」
 予言者みたいなことを言って、けど水谷さんだってちゃっかりスマホをかまえてた。
 そして応援団の入場とともに轟く悲鳴――
「やばやばやばっ! うみんちゅー! まぶちーん!」
 水谷さんに追随するように、他の女子も黄色い声援を浴びせている。
 三年生と思われる先輩たちは素肌に長い学ランを羽織って、二年と一年は短い学ランを纏っていた。前のボタンはきっちり閉じられていて、ちょっと安心だけど。
 三年になったら日向も脱ぐのかぁと思うと、鬱、だった。
「あ」
 ぱちっと目が合ったのは、馬渕だ。こちらに向かって大きく手を振ってくれて、クラス席はわあっと盛り上がった。
「また博士かよ! ふざけんな!」
 あれ、共同戦線はいつの間にか解除されていたらしい……。
 ――それより、日向。日向。
 背が小さめの日向は、クラス席とは反対の校舎側に立っていた。
 呼んだら、気づくかな。いや、もし大声で陰キャが叫んで振り向きもしなかったら? 俺、大笑い者になっちゃうよ……?
「うーみくーん!」
 どっかで誰かが、日向の名前を呼んでる。水谷さんは「気安く呼ぶな」ってぴきってる。
 日向、かっこいいな。ちゃんと日向の声で「押忍」って聞こえる……ような、気がするよ。学ランも、ながーいハチマキも、よく似合ってる。
 いまここに、スケッチブックがあればいいのに。あの姿、後世に残さなきゃいけないよ、絶対。
 けど、いまここに、スケッチブックはなくて。俺の目に焼き付けるしか、なくて。
「ひ、日向ぁーっ!」
 俺だって、やればできる。でかい声の出し方は、知ってる。いつか放課後の廊下で、日向にキレたときだって出せた。
「日向ぁー! かっこいいぞー!」
 精一杯、叫んだ。日向は演技中だったけど、すっごいくしゃくしゃの顔でこっちを……いや、ここは俺を、って思っておきたい。
「やば! 博士、超声張れんじゃん! いけいけ! 男の声のほうが響くから!」
「博士ー! いいぞー!」
 黄色いハチマキの女子たちは、なぜか俺の応援を初めてカオスだったけど。
 俺は生まれて初めて、学校行事を「たのしい」って思ったんだ。

 応援合戦が終わって、水谷さんにはすごく褒められた。嘘みたいだ。あの鬼の水谷さんが……。
「あの、水谷さん」
「んー?」
 相変わらず向けられる目は、つんっとしているけど。
「日向の応援、一緒にしてくれてありがとう」
「……はぁー? なに? あんたのうみんちゅじゃないんですけど! 我が物顔すんな?」
「天邪鬼……いって!」
 腕の皮をつねられたけど、その顔はいつもの鬼の形相とはちがった、気がする。きんぴかシールでデコレーションされた愉快な顔面のせいかもしれないけど。
「その顔のやつ、シール? なの? ちゃんと綺麗に剥がれるの?」
「剥がれるに決まってんだろ、濡らせば取れんの!」
「へえー」
「だから顔汗かくとやばいんだよ、ほらここ。もう取れかかってるっしょ」
「あー……?」
 よくわかんないな、と思って、水谷さんに顔を寄せたときだった。
「末広っ!」
 水谷さんの向こう側から、走ってくる日向が見えた。
「きゃあっ! 海くんだぁーっ」
 黄色い声援を浴びているのは、日向が日向であることともに、上乗せ分がある。
「うみんちゅ学ランじゃんっ! ちょ、写真撮ろ!」
 日向はまさか応援団のコスチュームのまま、クラス席までやってきたのだ。
 ――なっっんで、わざわざその恰好で……!
「杏里、末広に手ぇ出すなっつったじゃん!」
「はぁ? 手出してないが?」
 こればっかりは言いがかりなので、俺も同意した。ちょっと前に腕はつねられたけど、さっきは本当になにもされてない。
 そんなことより早くそれを脱げ。今すぐ。日向と写真を撮りたがる女子の列がぬるっと形成され初めていて、なんかいやだ。日向は客寄せパンダじゃない。
「……おまえら、顔近すぎだから」
「……あー……シール、見せてもらっただけだよ」
 走ってきたせいなのか、それとも別のなにかなのか知らんけど。日向は頬を淡く紅潮させ抗議してきたから、心配することはなんにも起きてないぞと教えてやった。
 これだから陽キャはいやだ。平気で自分のみっともない感情を見せつけてきて、それが純粋無垢なもののように主張してくる。俺なんかにまで嫉妬して、そんなに水谷さんが大事なのか。
「顔のシール、取れそうなんだって。見てあげれば?」
 やけっぱちで言うと、日向は怪訝そうに俺を見つめた。
「なんで俺が?」
「は……?」
 おまえが今抗議してきたんだろ、水谷さんに顔近づけすぎだって。
「つか末広の声、ちゃんと聞こえたよ」
「ん……そりゃな。人生で一番声張ったから」
「言い過ぎだわ」
 わりと本気だ。運動部でもなきゃ声を張り上げる機会なんて、そうそうないだろ。それでも俺はがんばって呼んだんだ。日向の名前を。けどおまえが駆け寄ってくるのは、今日も俺じゃなくて、水谷さんなんだよな。
「……水谷さんも褒めてくれたんだよ、奇跡じゃね?」
 そう言うと水谷さんも会話に割って入ってきて、俺に写真を撮れとスマホを押し付けてきた。断ったらまたうるさそうだから、俺は大人しく二人より何歩も後ろに下がって、カメラをかまえる。
「いきまーす、はいちーず」
「抑揚! 抑揚つけてよ、テンションあがんない!」
「注文が多いな……」
 テンションあがんないのは、こっちだって同じだっつうの。なにが楽しくて、学ラン姿のレア日向と、体育祭満喫女子のツーショットを撮ってやらなきゃいけないんだ。
「はい、よく撮れてます」
「それあたしが決めることなんだよ! ……まあ、まあ、モデルがいいから? 博士にしてはよく撮れてんじゃん?」
 水谷さんは背が高いことだけは褒めてやるとかなんとか、とにかく上からカメラを向けたことにご満足いただけたようだった。
「末広も撮ろうよ、一緒に!」
 日向は明るく言って、俺の肩に腕を回した。初めは驚いたな、この距離感に。けど今となっては納得してる。
 日向をはじめ、陽キャって距離が近いんだよな。馬渕も平気で頭を撫で回してくるし、水谷さんもタッチの強度はともかく、蹴ったりつねったり、相手の身体に触れることにためらいがないもんな。この肩組みに、なにか特別な意味なんてないんだよな。
「……撮る」
 心の内は荒れ狂っていても、俺はさすが泥の心の持ち主で、欲に忠実なので。ちゃっかり写真は撮ってもらったけど。あんまり、たのしい気持ちではなかった。

 日向と写真を撮ろうと列をなしていた女子たちは、水谷さんが蹴散らした。「ミーハーかよ」と冷たく言い放つ、あの視線。怖かった……それに反論するように鋭い視線を返す女子たちも怖かったから、いい勝負だったけど。
「海、とっとと着替えろよ。目立ちたがりみたいになってんぞ」
「げえ、それは最悪、もう脱ぐここで」
 小さく悲鳴があがったけど、日向はそんなの気にせず学ランを脱いだ。下に体操服を着ていたから、別にどうってことはないんだろうけど、俺さえその仕草にはドキッとしてしまう。
「無防備だな、相変わらず……」
 だから簡単に惚れられてしまうんだって。
「末広にだけは言われたくねーわ」
 それから日向と馬渕と三人で、クラス席の後ろのほう、少しだけ日陰になっている場所に座って、次々行われていく競技を眺めていた。
 途中で、水谷さんが出場する借り物競争に馬渕が借りられていったり、また日向の頭に黄色のハチマキリボンがかけられたりして。
 ――つまんないなぁ。
 俺の手は地面へと向かい、砂に指でケントロサウルスを描いていた。
「また恐竜描いてる~」
「日向……馬渕は?」
 トイレに行くと連れ立って歩いていったはずなのに。
「三年の先輩に拉致られた」
「モテんな、あいつも……」
 それから、よく日向は無事だったなとも思った。
 ケントロサウルスのとげは、長く鋭い。すうっと指を動かし、綺麗に描けたと思う。
「ステゴサウルス……じゃないよな、これ。なんていうの?」
「ケントロサウルス」
「初めて聞いたわ、かっけ~」
 日向は初めから、俺の描く恐竜をよく褒めてくれた。もうあんまり、誰にも褒められなくなった。むしろバカにされることのほうがずっと多かったのに。日向だけは、目を輝かせて俺の描く恐竜を見つめてくれたんだよな。
 今も隣に座りこんで、俺の描いた恐竜をスマホのカメラに収めてくれている。きっとそれを、晴くんに見せてくれるんだろう。
「晴は知ってんのかなー、ケントロサウルス」
 にこにこ嬉しそうに笑う日向の頭には、黄色のリボンが揺れている。
 あれが揺れるたび、自分の足元もぐらぐら揺れて、なんだか落ち着かない。今日ずっとそうだ。
「日向――」
 俺の口がそう動いたとき。
「海くん、ちょっといいかな?」
 ピンク色のハチマキを手首に巻いた女子が、俺たちの前に立った。
 ――刺繍が緑色だから、二年生か……。
 体操服の胸元の刺繍の色は学年を表している。青は三年、緑は二年、赤は一年。
 二年生の女の先輩は、日向に向けて甘い視線を送り、日向もそれを受け取るらしい。
「……ちょっと、なら。俺このあとリレーあるんで、すません」
「うん、全然! すぐ終わらすから」
 立ち上がった日向は、やっぱり女子と並べば普通に大きい。たくましく見える。俺が掴めば容易く指が回る細い手首だって、さすがにあの先輩よりはしっかりしている気もする。
 女の先輩の手首ではピンク色のハチマキがゆらゆら、日向の頭では黄色のリボンがゆらゆら。
「――日向」
 不安定で、怖い。
 すがるような気持ちで、日向の細い手首を握っていた。
「……末広? どした?」
 心配そうに見下ろされて、はっとする。俺さっきから、なにしてんだろ……。
「ごめん、なんでもない」
 手首を離して、俺はまた砂の上のケントロサウルスと向き合った。
「すぐ戻ってくるから、な?」
「ん」
 日向はやっぱり、俺のこと五歳児だと思ってる。晴くんに話しかけるみたいな口調で言われて、一層情けなくなった。

「あれー、海いねーじゃん」
「馬渕……馬渕」
「なんで二回呼んだよ」
 拉致られたらしい馬渕は、日向と入れ替わるかのように、すぐに戻ってきた。このあとの最終種目のリレーに、馬渕も出るからだと思う。陽キャは顔もよくて足も速いと、相場が決まっているらしい。
「日向、も、拉致られた。赤いリップの二年の先輩に」
「ありゃまあ。それで落ちてんのか、スエは」
「落ちてる……のか」
 自分でもよくわからない。けど、不安定でゆらゆらした気持ちなのは間違いない。
「馬渕と日向って友達じゃん。こういうの、どう思う?」
「こういうのって? 告られること?」
「……やっぱ、告白されてんのか……」
 予感はしてたけど。まあそれ以外ないとも思ったけれど。なんとなく、目を逸らしたかった事実を馬渕はしれっと言ってしまう。
「それ以外ねーだろ、この空気で」
 ばかだな、って言いたそうに、俺の頭を撫でまわす馬渕。口に出さないだけ、馬渕の気遣いを感じた。
「べつにどうも思わねーだろ。スエだって、俺が告られててもなんも思わなくね?」
「それはまあ」
「少しは悩めよ!」
 たしかに、馬渕が呼び出されたり、拉致られたり、きゃあきゃあ騒がれたり。そういう場面も何度も目にしているけど、なんとも思わない。……いや、モテるなぁと羨む気持ちは多少あるか。けど日向に抱く、このぐらぐらの気持ちはない。
「馬渕とは友達じゃないのか……?」
 考察が口に出ていたらしく、グーが飛んできた。
「ばーか、そっちじゃねえよ」
「そっち?」
「これだから人間初心者はよぉ」
 馬渕はぎゅっと俺の手を握ってくる。
「どう? ドキドキする?」
「しない」
「これは?」
 手を離したら、今度は肩に頭を乗っけてきた。
「重い」
「うざぁ」
 それから日向がたまに俺にするみたいに、よしよし、と優しく撫でてきたり。
「……なにをしてんの馬渕は……?」
「まだわかんねーのかよ、この鈍感オタク! 子どもでもわかるわ!」
「なにが……?」
 ちっとも馬渕の言いたいことがわからない。俺はなんて質問したんだっけ、友達が告白されてどう思う? か。
 馬渕が告白されても俺はなんにも思わない。それで友達じゃないのかと疑ったら、そっちじゃないと言われた。
「で、これ……?」
 馬渕に手を繋がれても、肩にすり寄ってこられても、頭を撫でられても、当然なんとも思わない。
 だからつまり……どういうことだ?
「おーい、海ー? なに突っ立ってんのー」
 頭の中がハテナマークでいっぱいになっていると、馬渕はいつの間にか戻ってきた日向に、そう声を投げかけていた。
 群衆の中に立ち尽くす日向の顔は強張っている。たまにああいう顔をしていても、いつもはぱっと戻るのに。今日は、戻ってくれない。なんだか俺にはそれが泣きそうに見えてしまって、すぐ「なわけねーだろ!」って元気な声を聞かせてほしくなった。
 けれど日向は、目が合った瞬間、くるりと踵を返して、群衆の中に紛れ込んでいってしまう。
「え!」
 自然と立ち上がっていた俺のふくらはぎを、馬渕は二度、せっつくように叩く。
「まじでここハズすなよ!」
「え、ハズすって……?」
「ほら、いーから! こういうときは追いかけるもんなの!」
 そ、そうなの?
「あ、うん」
 俺は馬渕の言葉に押し出されるように、駆けだした。
 日向を見つけたらなんて声を掛ければいいんだろう。どうして日向は戻ってこないんだろう。すぐ戻る、ってさっき言ったくせに。
「戻ってきてよ、日向……」
 それしか、言いたい言葉なんてないや。

 足の速い日向を追いかけるのは、俺には無謀だった。
 あっという間に見失ってしまったので、俺は人気のない場所を手当たり次第探した。そうしてグラウンドから少し離れた、体育倉庫の前に着いたとき。
「日向っ!」
 日向の頭の黄色いリボンが、ちょん、と水道のところから顔を出している。
 近づいていけば、いつもの日向の屈託のない笑顔が見れるかと思ったのに。
「待ってよ!」
 俺の顔を見るなり、また、日向は走り出そうとしたんだ。
「なに、ちょっと、日向ってば!」
「……なに?」
「それこっちのセリフだよ、なんで戻ってこないんだよ!」
「はぁ? 戻ろうとしてただろーが!」
 日向の華奢な手首を掴んで、もう絶対離さない、と思った。
「でも戻ってこなかったから、追いかけてきたんじゃん」
 なんだか様子がおかしくて、俺の心は大荒れだ。ひょっとしてさっきの先輩と、なにかあったんだろうか。告白のシーンなんてドラマでしか見たことないけれど、平手打ち……された、とか?
「なにかあったの? さっきの先輩と」
「なんもねーよ」
「じゃあなに。なんで逃げようとすんの?」
 見たところ、頬は腫れてなさそうだけれど……。日向は相変わらず、あの大きな瞳を俺に向けてはくれない。
「うるせーな、アップだよ、アップ! これからリレーあっから」
「嘘だ」
「嘘じゃねえ」
「ならこっち見てよ」
「やだわ、走って顔あちーから」
 体操服の首元を仰ぐと、ふわふわ日向んちの匂いが漂ってくる。日向んちにお邪魔したあの日、こうやって連行繋ぎ? したまま、駅の周り三周もしたんだよな。変だった、あれ。帰ったら母さんにめちゃくちゃ怒られて、一週間自分で夕飯用意する羽目になったし。
「……告白、されたの?」
「まあ」
 図書館でも、ほんの一瞬目を離した隙に、日向は掻っ攫われた。あのときの覇気のないかんじ、ちょっとかわいかったな。好きか嫌いかって究極の二択迫られて、あのとき初めて俺は、恐竜以外のものに「好き」って感情を抱いたんだ。
「付き合う……の?」
「……どうだろね。友達からでもいいよって言われたけど」
 この世の恋愛事情は、俺にはさっぱりわからない。友達から恋人ってなれるもんなんだ。俺からすれば、植物食恐竜が肉を喰らうくらい、無謀なことに思えるんだけど。
 けどそっか、もし友達から恋人になれるのなら、日向の中身をちゃんと見て、それで付き合うってことだ。素の自分を知ったら幻滅されるって、日向は図書館でいじけてたけど、いるかもしれないじゃん。日向の中身まで好きだって言ってくれる人。
「嫌、なんだけど」
「は?」
「いやだ」
 ――俺、なに言ってんだ?
 勝手に口が動いて、感情に言葉を支配されてて、自分でもよくわからなかった。
「日向が俺以外と友達になるの、なんかやだ」
 大の人気者に、なんて無理難題を……俺ってやつはほんとうにバカすぎる。
 けど、どうしてだろう。撤回は、したくなかった。
「……おまえさぁ……もうやだわ」
「え」
「俺、末広の友達でいたいよ」
「う、うん……ありがとう……?」
 友達でいたいよ、って言い方は、いれなくなるかもしれないよ、ってことでもある気がして、心がざわつく。
「友達でいたいから、もうお願いだから……手ぇ離して」
「逃げないならいいけど、」
「だから逃がして、って言ってんの」
 なんでだよ。なんで逃げたがるんだ、日向は。
 手首を握る手に、いっそう力を込めてしまったんだと思う。日向が一瞬顔を歪めたのがわかって、俺は咄嗟に手を離してしまった。
「あ」
「ほら、もう行こ! リレーあるし、俺」
 日向は俺に背を向けて、グラウンドへ向かって歩き出す。その背中がもう二度と俺のとこには戻ってこないような気がして、やっぱり手を伸ばしてしまうんだ。
「いかないでよ、日向」
「だからもうやめろってば!」
 抱きついた背中は、初めて俺を拒絶した。
 いつだって明るく、柔らかく、眩しく、俺を照らしてくれていた日向に、とうとう嫌われたらしい。その理由もわからないんだから、やっぱり俺には陰キャぼっちがお似合いだったんだなと思った。
 腕を解くと、今度の日向は逃げなかった。
「意味わかんない……」
 捕まえれば逃げたがって、手を離せば逃げないなんて、意味がわからない。
 日向のやることは、俺にはわからないことばかりだ。俺が水谷さんに近づけばすぐ駆けつけて、距離を取りたがるくせに。水谷さんがいいのかと思えば、先輩の告白にもまんざらでもなさそうだし。誰でもいいのかよ。誰でもいいなら、べつに俺だっていいじゃんかよ。
「……日向の嘘つき。戻ってくるって言ったくせに。こんなことになるなら、あんとき手ぇ離さなきゃよかった。行かせなきゃよかった!」
「それがおかしいっつってんの! なんで友達のこと束縛しようとしてんだよ、おかしいだろ!」
「しらねーよ! 俺に友達なんていたことないの、日向が一番よくわかってんだろ!」
 ふと、ここへ来る前、馬渕が言った言葉を思い出した。
 ――ここハズすんじゃねえぞ。
 ハズすってなんだ、わかんないけど。なんとなく、ハズした気がしてる。
「……もうごめん……やっぱ俺には無理だ。人間と近づいたのが間違いだった」
「なにイカれたモンスターみたいなこと言ってんだよ……」
 モンスターか、たしかにそうなのかもしれないな。人間の感情を持ち合わせていない、悲しきモンスターのほうがずっとよかった。紙の上の、恐竜とだけと向き合ってたほうがずっとラクだった。それが日向の甘い誘いに乗っかったばかりに、こんなことになって。
 俺の心は泥なのに。ぶっ刺されても、気づいたら溶けてなくなってるのが、短所でもあり長所でもあったのに。
 日向のことになると、俺の心は鉛みたいに硬くて重くて、形を変えられなくなってしまう。そこから、動けなくなってしまう。
「……泣くなよ、もう……」
 呆れたように日向は俺の頭に手を伸ばしてくるけど、俺は泣いてないし、そんな軽々しい優しさはいらないって思った。ふいと顔を逸らして、それをかわした。
「泣いてねーよ、泣きたい気持ちなだけ」
「顔に出すぎだよ、末広は」
「日向に言われたくない……」
 そもそも日向があんな顔して俺と馬渕のこと見てたから、俺はいてもたってもいられなくって、ここにいるのに。
 じっと日向の顔を目に映して、これでお別れなのかと思うと、息ができなくなりそうだった。
「友達なろって言い出したの、おまえのくせに……!」
 こんな気持ちを味わうくらいなら、あの日に戻ってやり直したい。なにがなんでも日向を避けて、無視して、一生陰キャぼっちとして生きていたい。こんな明るい世界を知ってしまう前に、戻りたい。
「……友達やめる、なんて言ってないだろ?」
 またこれだよ、晴くんに言い聞かせるような口ぶりやめろ。
「言ってるようなもんじゃん、逃げるし、怒ってるし、触んなって言うし」
「ごめんて。もう言わない。ちゃんと末広の友達でいるから」
「ちゃんとってなんだよ、ちゃんとって……!」
 いつか日向が言った。哀れみとか不憫とか、そういうのいらねんだって。そのまんま返したい。お情けの友情なんて、いらない。
 あのときのスポットライトに照らされたみたいな日向、綺麗だった。ああいうのももう、俺は見せてもらえなくなるんだ。俺だけが知ってる日向じゃ、なくなっちゃうんだ。
「……俺だけじゃだめなの……」
 ――俺だけにしてよ、日向。
「自分は俺だけじゃないくせに、ほんっとそういうとこあるよな末広」
「え?」
「馬渕といちゃついたり、杏里とべたべたしたり、なのに俺には自分だけにしろって、おかしくない?」
「別にいちゃついてなんか――!」
 反論しようとしたら、日向の身体がぴったり俺の胸にくっついた。反射みたいに、俺は日向の背中に腕を回す。きつくきつく、抱き締めた。
 俺の腕の中に、日向がいる。心臓が壊れそうだ。けどもう、それでもいいか。この腕の中から日向がすり抜けてくくらいなら、いっそそれもいい。
 視界に入りこんでくる黄色いリボンが、邪魔だと思った。
「……え」
 俺の左手が、そのリボンの結び目を解く。
「こんなの巻かれんなよ」
 余計な装飾のなくなった柔らかな髪に触れると、鉛が溶け出すように、次々言葉が吐き出されていく。
「水谷さんのこと下の名前で呼ばないでほしいし、女子の呼び出しにも行かないでほしい。俺の隣にいてほしい。日向のかっこいいとこもかわいいとこも、俺だけが知ってればいいのにって思う」
 この髪の毛の一本さえ、できれば誰にも触れさせたくないって、そう思う。
「誰にも……今まで誰にもそんなこと思わなかった。人間のことなんてどうでもよくて、一人でも全然さみしくなかった。恐竜がいればそれでよかったし、恐竜を描いてる自分だけが好きだったのに」
 そんな人間初心者に、日向みたいな人間は眩しすぎたんだよな。わかるけど。もう、出会ってしまった。知ってしまった。
「今は日向のことばっかだよ。日向のことだけが好き」
 馬渕のことも水谷さんのことも、それから日向の家族のことも。日向が引き合わせてくれた人間はたくさんいるけれど。俺が好きだって感情を抱くのは、どう考えても日向しかいない。
 もし馬渕がこうしてすり寄ってきたって、俺は絶対抱き締めないと思うし、なんならちょっと嫌悪感さえ――
「………ん?」
「え、なに?」
 俺はたしかめるように、日向をもう一度抱き締めた。
「んだよ、あちーって」
 耳元をくすぐる甘えた声に、心臓が飛び出しそうになる。こんなのだって絶対、日向にだけだ。他の誰と触れ合っても、こうなる想像ができない。
「………日向」
「もうわかった、俺も拗ねてごめんって」
 困ったように笑う日向に、もっと近づきたいと思う。触れたいと思う。こんなに、心臓がうるさくって落ち着かないのに。それでも、離したくないと思う。誰のとこにも行かせたくない。
「――好き、なんだ俺」
「もうわかったって! あんま安売りすんなよ、それ」
「ごめん日向」
「え?」
 これが、さっき馬渕が教えようとしてくれたことか。
「友達じゃないのは、日向のほうだ」
「………はぁ?」
 整った輪郭に手を沿わす。俺の手のひらにぴったり吸い付く日向の肌が、愛おしくてどうしようもない。目の奥が熱くなる。――こんな感情、友達に向けるわけがないじゃん。どうして俺は、ずっと気付かずにいられたんだろう。
「俺……日向と友達じゃ困る」
「……まじでおまえさぁー……」
「日向が好き、こ、恋人、に、なりたい……好きだ……」
 勢い余って心の内をぜんぶ声に出したら、溶けてなくなりたくなった。
 なにを言ってんだ俺は……言えばいいってもんじゃないだろ、告白っていうのは……たぶん。
「本気で言ってる?」
 日向の大きな瞳が、俺を試すように見上げる。
「ハイ……」
「恋人って、なにするか知ってんの?」
「まあ、少しは」
 嘘だ、大体知ってる。興味がないわけじゃない。
「じゃあやってみて」
「いま!?」
「そ、今」
「ええ……でも俺たち恋人じゃないのに……いいの?」
 たじろぐ俺を急かすように、リレー走者は集まるようにとのアナウンスがここまで届いた。
「ほら早く!」
 日向の手のひらが、俺に向けられる。
「ん……」
 俺はそれに手を重ね合わせて、おそるおそる指を絡めた。そうすれば日向はあっという間に、ぎゅっと握り返してくれる。
「連行繋ぎ卒業だな?」
 いじわるく見つめられると、なんだか、悔しくなった。
 日向のほうがずっと経験値が高いだろうし、好きじゃない子とも付き合うとか言ってたし? けど、俺は日向に好きになってもらいたい。同じ気持ちになってくれたらうれしいなって思う、から。
「日向」
「んー?」
 手を引きよせ、日向の頬に口づけた。いつもたくさんの夢が詰まってる、日向のかわいい頬が、俺のものになった気がした。
「……おまえ……!」
 唇を離すと、日向は顔を真っ赤にして怒っていらっしゃる……。
「ご、ごめん! だって恋人がすることしていいって言うから……!」
「あとで覚えとけよ……!」
「こわ……」
 とうとう日向は名前を呼び出されてしまって、慌ててグラウンドへと走っていく。あの背中が俺のものになったとは思ってないけど、もう戻ってこないんじゃないかって不安は、ない。

 一人クラス席に戻り、後ろのほうで勝負の行方を見守っていた。
 正直夢見心地で、頭がぽーっとしてしまっていて、あまり情報が正しく入ってこないのだけれど。
「博士! ぼーっとしてんなよ、うみんちゅ応援しろ、さっきみたいに!」
「え……!?」
 い、いま……また? 名前あんなおっきな声で呼べって……?
 応援合戦の頃とはいろいろと状況、立場が変わっていること、水谷さんたちは知る由もない。
 ずるずる引っ張られて、一番前の席まで連れて行かれてしまった。
「うーみーんちゅー! いけるよーっ!」
 うちのクラスは現在三位。アンカーは日向だ。一走前の馬渕が一人抜かして、かなりデッドヒートになっている。
「日向がんばれー」
「博士、気張れやぁ!」
「こわいて……!」
 水谷さんが声張ったほうが絶対勢いづく気がする。けど、日向の背中を押すのは、俺だったらいいなとも思う。
 バトンが日向に渡ると、アンカー対決に応援の熱もかなり上がっていた。
「日向……日向ぁーっ!」
 自然と、立ち上がって声を張り上げていた。大きく素早く回転する足が、見ていて気持ちがいい。かっこいい。ラプトルみたいだ。
「日向いけーっ!」
「うみんちゅーっ!」
 デッドヒートの末、日向は見事一位でゴールテープを切った。
 ――か、かっこよすぎる……!
「やばいやばいやばい! うみんちゅヒーロー属性すぎっ!」
 水谷さんは俺に飛びついてくる。俺もテンションが上がってしまっていて、それに応えるように、一緒になって跳ねていた。
 歓声がやまないまま、クラス席が一瞬、ざわつく。日向が、こちらへ向かって走ってきている。
「え、え、?」
 また水谷さんかよ、と思う暇もなかった。勢いを殺さないまま、日向が俺に飛びかかってくる。
「う、わっ! あぶなっ!」
「ナイスキャッチ!」
 たとえ膝の皿が割れても日向のことは落としちゃいけないと、気張った。俺に抱っこされてる日向に、割れんばかりの悲鳴が浴びせられている。
「な、なにしてんの!?」
「末広っ! ちゃんと見てたかよ!」
 俺の視界は、日向のきらきらの笑顔でいっぱいになった。
「見てたに決まってんじゃん……かっこよかったよ、日向。ラプトルみたいだった!」
「ふはっ! だからそのたとえ、伝わりにくいって!」
「日向に伝わればいいから」
 そう言うと、日向は満足げな顔を浮かべて、俺に抱きついた。悲鳴はやまないけど、俺にはたしかに聞こえたんだ。
「友達おしまい。今から彼氏な?」
 あの甘えた声が、耳元でそう囁いたのが。