好きとか、嫌いとか、普通とか。俺が人間に対してそういう類いの感情を抱くことって、なかった。言うなれば「無」というか。日向に聞かれるまで、考えてみたこともなかったんだ。
 家には家族がいる。学校に行けば先生や同世代の人間がいる。電車や町にはもっと大勢の人間がいる。ただ、それだけ。俺の描く恐竜を褒めてくれる人もいればバカにしてくる人もいるけど、だからって好きとも嫌いとも思わない。
 俺が気持ちを向けるのは、いつだって恐竜だけだ。――……だけ、だった。

 二学期が始まってすぐ、席替えをした。べつにこんなのだって、今まで大して気にしたこともなかったのに。……まあ、後ろのほうがいいなぁくらいには思ってたか。前だと落書きがばれやすいから。
 そして今度の席替えで、俺は念願の一番後ろの席を手に入れた。けれど両手をあげて喜べる心境では、ない……。
「ブラキオサウルスだろ、これは」
「ちがう、アルゼンチノサウルス」
「なんそれ、聞いたことなぁ~」
 前の席になった馬渕は、休み時間のたびにこうして話しかけてくれる。
 日向は俺の落書きをじーっと見ているだけだったけれど、馬渕は俺の真似をして一緒に恐竜を描いてくれたり、日頃の愚痴をぽつりと呟いてみたりする。聞けば陽キャ軍団にも色々とあるらしい。そういう話を聞かせてもらうたび、人間と付き合うのって大変そうだなと思う。きっと俺には無理。
 けど、日向といるのは大変じゃないから不思議だなと首をひねりつつ、教室の反対側、窓際の席に目をやった。
「スエ~、海と離れちゃってさみしーな?」
 心の内側に土足で入ってくる馬渕を、ぎろっと睨みつける。
「お、威嚇された」
「ばかにすんな……!」
 馬渕はすぐ俺をおもちゃにして遊んでくる。むかつくなぁと思う。けど、好きか嫌いか普通なら……普通だ。夏休みも何回か三人で遊んだし。
「やっぱ変わりゃよかったのに、海も変なとこ潔癖だよな。スエが言えば違ったんだろーけど」
 くじ引きの番号をせーので開いた瞬間、俺は六番で、日向は二十三番だった。廊下側の俺と、窓側の日向……離れちゃったなぁと少しだけ気持ちが沈んだのは、たぶん俺だけだった。
 五番を引いた馬渕が日向に交換を提案してくれたのに、日向はそれを断っていたから。それなのに俺が代わってくれよだなんて、言えるわけない。
「……日向はまっすぐだから」
「いやー? あいつも結構曲がりくねってるけどな」
「マウントやめろ」
「まじで言うようになったよね、博士クンよぉ」
 新学期に向けてさっぱりしてこいと言われ、先週床屋に行った。あ、床屋じゃないんだった、美容院、か。優雅が絶対ここがいいと言って聞かなくて、ぱあぁっと明るいカフェみたいなとこで髪を切らされたんだ。場所も人もまぶしくて、一刻も早く帰りたかったんだけど。サイドを少し刈り上げてもらって、髪型はちょっと今っぽくなった気がする。……髪型、は。
 それがおしゃれな馬渕には気に入られたようで、こうして隙を見ては髪を撫でまわされている。
「髪やだって! 量減らされてからくすぐったいんだよ!」
「だからそれ意味わかんねー」
「こう……地肌をさわさわされてる感じがすんの」
「ちょい、やってみて」
 そう言って馬渕は不自然に真っ黒になった頭を差し出してくる。
 俺はそれに指先だけで触れた。馬渕も髪の量多めだから、これくらいわかりやすくしないと、きっと今の俺の気持ちはわからない。
「くくっ……おまえ、わざとやってんだろ!」
「ちがっ、ほんとにこれくらい! これくらいくすぐったいんだよ!」
「ぜってー嘘、誇張すんな」
「してないってば!」
 ぎゃあぎゃあ騒いでいれば、遠くのほう、隣近所の子たちと談笑している日向と目が合う。
 ――まあそりゃ……日向だもんな。
 俺と違って、日向にはたくさん友達がいる。大の人気者だ。どこへ行ったって、べつにさみしいとか、つまんないとか、きっと思わない。わざわざ俺の席まで足を運ぶとか、そんなことする必要だってない。
「……中学から一緒なんじゃないのかよ……」
「ん?」
 けど、俺のとこに来なくたって、いつメンの馬渕んとこには来たっていいじゃん。なんだよもう……いつメンのくせに……。
「……ごめん、八つ当たり」
 机に突っ伏して、視界を遮った。なんだかこんなとげとげした自分は、いつも以上にいやだ。
 ――……そういや日向は俺の髪、うんともすんとも言ってくんなかったな……。
 俺の髪の毛で暇つぶしをする馬渕の手が、日向の手だったらいいのに、なんて思う。かまってくれる馬渕にはごめんだけど。

 それから数週間、日向との距離はちょっとずつ離れてる気がしてる。
 朝会えば、挨拶を交わす。帰り、日向が馬渕たちと用事があるときには席にやってくるので、帰りの挨拶もする。週に一度の選択授業の時間は、わりと話す。――それくらい。
 昼休みも、日向はいつメンと一緒に過ごすようになって、そこに俺がいるときもあればそうじゃないときもある。日向と二人で昼食をとることはなくなった。むしろ最近は、移動がめんどいとか言って、お互い自席に座ったまま馬渕と一緒に食べることのほうが多いかもしれない。
 けれどそんな俺に、絶好のチャンスが舞い込んできた。
「日向」
「お、末広だ」
「ノート、出してないよ」
 日直はノート集めて職員室まで、なんて言いつけられたのだ。
 女子の日直は女子の分だけ集めて、早々に帰ってしまった。あとはよろしくね! なんて弾ける笑顔で言われたら、クラス全員分おまえが持ってけよって意味でも「うん」と頷くしかない。
 日向ならすぐに出しに来るだろうと待っていたけれど、帰りのHRが終わってもまだ来ないものだから。勇んで俺が、日向の席まで催促に行ったってわけ。
「やべ、そうだったー」
「うみんちゅ、うっかりさーん」
「うわ、しかも今日ちょっと寝ちゃったんだよな、やっば」
「写す? あたしの」
「えー……」
 日向の前の席に座る、大人っぽい女子。俺の手元から自分のノートを探し当てて、その名前を見て納得した。「水谷杏里(みずたにあんり)」、前に馬渕が言っていた杏里サンは、この子か。
「けど杏里、今日バイトあんでしょ?」
「あっ!」
「杏里こそうっかりさーん」
「やめてよもー!」
 ――な、なに……? 陽キャのいちゃいちゃ見せつけられて、ノート抱えて棒立ちの俺、超いたたまれないんですけど……?
「……あの、遅れるなら自分で出し行って」
「え」
「うわ、博士クンおこだ」
「怒ってない」
 目を逸らすように踵を返して、俺は教室を出た。つかノートだってクラスの人数分になればそれなりに重いし、日向一人のために待ってやる義理なんてない。杏里サンにノートを借りて、二人分、日向が自分で職員室に出しに行けばいいんだ。
 なんか胸がちくちくして、ささくれだっていやだ。最近ずっとこうだ。元々の卑屈に磨きがかかってしまっている気がする。
「末広! 待って!」
 背中のほうから、声がする。
「……終わったの?」
 廊下の真ん中で足は止めたけど、振り返らなかった。職員室へ続く階段を見つめたまま、日向に返事をした。
「もうちょい待って?」
 でたよ、この甘えた声。日向の要望の通し方、もう俺だって知ってる。
「ごめんだけど、急いでるから。先生には伝えとくから――」
「末広」
 ふ、と横から手が伸びてきたと思えば、腕がちょっとラクになる。
「半分持ってくから、もうちょい待って」
 なんだそれ。わざわざ俺に待っとけって、意味がわかんない。杏里サンのと自分の、それだけ持ってきゃいーじゃん。それともあれか、放課後の教室で一人、ノートを写すのがそんなに惨めか? 俺なんていつだってそうなのに……。
「意味わかんない」
「わかれよ」
「はぁ? べつに一人って恥ずかしいことじゃないですよ、俺なんていつもいつも――」
「おまえ、なに言ってんの? それこそ意味わかんない」
 だめだ、今の俺はケントロサウルスくらいとげとげしちゃってんだよ。変に刺激してくんなよ。
「待っててくんないの、末広」
 そうやって甘えた声で上目遣いに頼めば、なんだって叶えられてきたヤツ。杏里サンにもそうやって色んなこと、叶えてもらってんのかな。おなじやり方で俺にも頼むんだな。なんか……なんか、むかつくな。
「だから! わざわざ俺に待っとけって意味がわかんないっつってんの!」
 下校時間を過ぎた廊下に、ブチ切れた陰キャの声が響き渡る。
 ――あんなに……あんなに日向が恋しかったのに。こんなの台無しだ。
 二学期になってから、俺は変だ。こんなにぐらぐら、不安定な毎日は初めてだった。いままではいなかった、友達、と呼べるかもしれない存在のせいでこんなふうになるなら、一人で恐竜と向き合ってる方がずっとラクじゃないか。
「……日向、もうやだ」
 なのに足が、ちっとも動いてくれない。
 もう友達やめる、なんて直接言い渡されるくらいなら、このままフェードアウトしたほうが少しは傷も浅いってわかってるのに。
「……末広、ごめんて」
 日向のやわらかい声が、まだ隣にある。
 たったそれだけが、俺の足を止めてしまう。
「なにがだよ」
「だから……ちょっといじわるだったと思った」
「……わかったならもう一人で職員室行って」
「それはむり」
「はぁ……?」
 日向はノートを抱えたまま、俺に突進してくる。
「うわっ!」
 不意を突かれた俺は、ノートを廊下にぶちまけた。
「な、なにしてんの! パキケファロサウルスか!」
「ふっ……そのツッコミ、あんま伝わんないって」
 なにを笑ってんだ、拾えノートを……!
「…………笑って、る」
「ん? まあ俺はわかるし、パキケファロサウルス。デコが硬いあれだろ?」
 笑ってる、日向が。俺の隣で。
「なんか、久しぶりだな」
「毎日会ってんだろーが」
「そういう意味じゃ……なくて」
 久しぶりだ、こんなふうに二人きりで笑い合ってる時間が。
 すっと心が凪いでいく。穏やかな大海原にぷかぷか浮かんでいるような気持ち。
「……末広と二人になりたかったの、俺は」
「へ?」
 日向は拾い集めたノートを持って、俺の隣にしゃがみこむ。
「おまえ最近、馬渕とばっか。スエとか呼ばれてっし」
「なっ、それは――」
「言い訳は受け付けません」
「理不尽……!」
 日向の髪が肩をかすめると、かっと全身が熱をあげた。さっきまでの穏やかな大海原は、心臓のビートとともに、だんだんと荒れ狂う海へと変貌していく。
「ノートだって、普通に書いてるよ。末広じゃないんだし」
「ん、じゃあなんで……」
 と、言いかけて、日向の視線の熱で、はっと気づく。
 ふにゃりと腕の力が抜けて、せっかく拾い集めたノートは、また、ばさばさと床に散らばった。
「おまえ、なにしてんの! さすがにみんなに申し訳ないわ!」
 日向は爆笑しながら、それを拾ってくれているけど。
 ――な、なんだよそれ……!
「……日向ぁ」
 ダンゴ虫みたいに丸まってしまう。けど、なけなしの力を振り絞って、日向のシャツの袖に指を引っ掛けた。
「遊び行こ、ふたりで」
 こういう誘い方で、合ってるのかな。
 夏休みは馬渕が取り仕切ってくれたから、俺からも日向からもアクション起こさずに会えたけど。今の俺は、三人じゃなくて、日向と二人がいい。……ほんとに馬渕にはごめんだけど。
「日向と二人がいいんだ……」
 最近ずっとささくれだっていた気持ちの正体がわかった。俺は日向と二人になりたかったんだ。それがうまくいかなくて、がたがたになっていたんだな……感情のある人間と付き合うのって、こんなにままならないもんなのか。
「……末広、いい子いい子」
「いまそういうのいらん」
「なんでぇ」
 また俺の頭をヨシヨシしやがって。いくら情けなくたって、今その慈しみの笑みはいらない。欲しいのは返事だ。
「返事、して」
「ん?」
「ん? じゃねーよ、返事!」
「あはっ、必死かよ!」
「必死だよ」
 いつまでもけらけら笑われるのも癪で、真っ赤な顔もいとわず日向に迫った。
「もうこんなんなるの、やだから。ちゃんと返事して」
 逃げられないように掴んだ手首は、自分のよりずっと細くて思わずぎくっとした。同じ男なのに、自分とは違う人間の身体なんだと思い知る。
「……じゃあ、明日、うちでゲームでもする?」
「する」
「即答~」
 ようやくまとまったノートを揃えて、俺たちは職員室へと肩を並べて歩いた。
 いつもと同じ廊下なのに。たまに触れ合う日向の腕がうれしくて、なんだか思わずスキップしたくなるような、そんな夏の終わりの放課後だった。

 次の日、俺は日向の家にお邪魔することになって、朝コンビニでお菓子を買った。
 人様の家に行くときには、飲み物かお菓子を買って行けと、優雅がよく母さんに言われていたから。俺は……そういう機会がないので、言われたことはなかったけど。
「すーえーひーろっ! 帰ろ?」
「うん! いつでも帰れる!」
 鞄に入れたコンビニの袋を見せて、お菓子買ったと報告すると、日向はにっこり微笑みかけてくれる。
「……いやおまえら……どしたんよ……?」
 あんぐり口を開けた馬渕は、俺と日向を交互に見やって気味悪そうに言った。
「今日、日向んち行くんだ!」
「そうなん? じゃ俺も俺もー」
「え」
「だめ、末広しか家には上げないって家訓だから」
「言い過ぎ言い過ぎ!」
 馬渕は冗談めかして、それからふと俺を見て「へーえ」と物思いにふけるような声を出す。
「な、なに」
「これがねぇ……つかおまえ、さっきすげえ嫌な顔したよな?」
「してない! え、してたかな!?」
「そこはとにかく否定しとけよ、ばか」
「ばかって言うな!」
 二言目にはバカか能天気って悪口を言ってくるくせに、馬渕の顔はなんだか誇らしげでむかついた。すぐ俺を見下して悦に浸るの、ほんとうにやめてほしい。
「はい、おしまい」
「わっ」
 日向の華奢な腕に引っ張られ、席を立たされた。
「じゃあ馬渕、達者でな~」
「またあし――」
「もう喋っちゃだめ」
「むぐっ」
 口を手で塞がれ、馬渕に「またあした」と言えなかった。
「うっぜー!」
 けれど馬渕はひらひら手を振って、にこやかだったからよかった。礼儀がなってないって明日からシカトされるようになったら、ちょっと傷つくけど。
 日向の家は、学校から電車で二駅先にある。俺の家とは、学校を挟んで反対方向だ。
「ごめんね、ちょっと遠いけど」
「遠いって距離でもないよ、全然自転車でも行けるし」
「行動範囲、自転車のみ?」
「大体は」
 あまりこちら方面に来ることはないので、流れていく景色も新鮮だった。日向は夏休み中、この景色を辿って、あの図書館まで来てたのかな。
「うわ末広、ごめん」
「ん?」
 手の中のスマホを見て、顔をしかめている日向。
「今日、弟見とけって」
「え?」
 それはキャンセルって意味――? 
 心がざわつく。海の(あぶく)になって消えてしまいそうなくらいしょげた気持ちだけど、きっと家の人になにかあったのだろうから、俺が落ち込んじゃだめだよな。
「あの、大丈夫?」
「母ちゃんがパートのシフト代わんなきゃいけなくなったらしい、まじだる」
「お母さん、働きに出てるんだ」
「そうそう、週三くらいだけど……って、おいおい、泣くなよ末広?」
「は!? 泣いてねーわ!」
 からかうように、日向は俺の目尻に触れてくる。
 たしかに泣きたい気持ちではあるけど、決して泣いてなんかない。俺の涙の泉は、とっくに枯れている。
「弟一緒じゃ、やっぱやだ?」
「え?」
「なるべく末広に迷惑かけないよーにするからさ。できればこのまま、一緒に来てほしいんだけど……」
「いいの……?」
 てっきり、今日はキャンセルになる流れなのかと思った……。
「末広がいいなら。ごめんな、二人じゃないけど」
「全然いい。俺、帰ってって言われるのかと思って……あの、うん、そんなかんじ」
 ――ま、まとまらなぁ……。
 日向は小さく笑って「かわいー」っていつものあれを言う。
「ほんと、目おかしい。どこがかわいいの、こんなもさもさしてるの」
「髪、さっぱりしたじゃんよ」
「気づいてたんだ」
 なにも言わなかったくせに……なんて、また俺の皮肉が飛び出しそうになったとき。日向の大きな瞳に、じっと見つめられた。
「……気づくよ、そりゃ。けど馬渕がうるせーから、俺は言う必要ないかなって思っただけ!」
 わざとか? わざとなのか……? ぷくっと膨れたほっぺたに、やっぱりかわいーのは日向のほうだよって、喉元まで出かかった。
「変?」
「変じゃない」
 でろっと笑いそうになったら、トドメの矢が飛んできた。
「似合ってる」
 金城大前駅――金城大前駅――
「あ、ここ」
 アナウンスとともに、電車の扉が開く。日向は涼しい顔ですっと立ち上がって、俺より先に歩き出した。俺もそれに慌ててついてくけれど。
 足元がおぼつかなくって、階段でつまづいた。

「はじめまして、こんにちは! ひなた はるきです! ごさいです! すももぎようちえんの、はーとぐみです!」
「あ……は、はじめまして。えと、末広風雅です。十五歳です。港第一高の一年二組です……」
「ぜんぶ言うじゃん!」
 日向はそう言って笑うけど、こんなにしっかり自己紹介されたら、応えないわけにいかない。大人より……というか間違いなく俺より、しっかりした五歳児が玄関でお出迎えしてくれたのだ。
「すきなものはきょーりゅーです!」
「はっ……お、おれもです」
「ほんとっ!? ぼくはアロサウルスがいちばんすき!」
「ああ、いいよね、ジュラ紀の王様だ」
 俺がそう言えば、はるきくんの大きな目には、きらっきら光が集約されていく。さすがは日向の弟だ。
晴樹(はるき)、このお兄ちゃん、デイノケイルス描いてくれたお兄ちゃんだよ」
「えっ! そうなの!? あれすごいかっこいいよ!」
「ありがとう……うれしいです」
「はいって、はいって!」
 晴樹くんに腕を引かれ、ローファーを脱ぎ捨てるようになってしまうと、日向はすぐさまそれを揃えてくれた。
「あ、ごめ――」
「いやこっちこそ、晴樹の勢いがやばくてごめん……」
 日向は、自分が余計なことを言ったばっかりに、なんて気まずそうにしているけど、俺はうれしいんだけどな。
「あの、嬉しいので、大丈夫だよ。お邪魔します」
「ねーっ! おにーちゃんさぁ! アロサウルスかける!? ぼくもめっちゃうまいからしょーぶしよー!」
 五歳児にずりずり引っ張られている俺に、日向は苦笑を浮かべていた。
「あらぁ! こんにちは! ほんとうに今日はごめんなさいねぇ!」
 リビングのほうから駆けてきた日向のお母さんは、すごく華やかな人だった。この親にしてこの子あり、というか。モデルみたいに綺麗なのに、口調は俺んとこの母さんとおんなじだから、ちょっとおもしろかったけど。
「こ、こんにちは。お邪魔してます」
「同じクラスの末広。今日ゲームする予定だった」
「やーだ、もう、ほんとにごめんってばー!」
 どうもあれは、日向流の嫌味らしい。俺はぺこりと頭を下げて、晴樹くんに招かれるまま、ふわふわの白いラグの上に座らせてもらう。
「おにーちゃんもすきなのつかってね!」
 そう言って、画用紙と、二十四色の色鉛筆を差し出してくれる晴樹くん。
「……これ、俺も持ってたな」
 苦い思い出がよみがえって、けれど俺は泥の心の持ち主なので、紙に向き合えばすっかり忘れた。
「あと二時間すればパパも帰ってくると思うから、ごめんだけど、晴のことよろしくね」
「ん、わかった。気をつけてね」
「晴も! お兄ちゃんたち困らせないようにね!」
「はぁい」
「聞いてんのー!?」
「きいてるってばぁ」
 紙に視線を落としたまま返事するの、俺もよく注意されたなぁ、母さんに。
 さすがに俺のほうが大人なので、のそりと立ち上がって、日向のお母さんに挨拶をした。あのじっと視線を合わせてくるのは、どうも遺伝らしい。日向のお母さんも同じことをしてきた。
「なんか末広くんってこう……アンニュイね。うちにはいないタイプだわ」
「だろ、かわいいんだよ末広は」
「な、なにを言って――」
「わかるわ、母性本能をくすぐるタイプ」
 綺麗な顔が二つ、揃っておかしなことを言っている。真顔の迫力が凄まじいので、ぜひやめてほしい。
「ねー! おにーちゃんのアロサウルスさぁ! なんでうんこいろなの!?」
「えっ!?」
「こら晴! うんことか言わないっ!」
 日向のお母さんはその声を最後に、仕事へ向かっていった。
 ――う、うんこ色……まあたしかに、晴樹くんの描いたレインボーに比べたら相当地味だけど……。
「ごめん末広! 五歳児だから! そういうの好きなんだよ……!」
 日向はいいお兄ちゃんだな。俺は優雅のために頭を下げてやったことなんて、ただの一度もないと思う。
「全然、むしろ新しい発見というか」
「え?」
「こう……凝り固まってたんだなと気づかされた」
「アーティストだな末広……」
「ばかにしてんだろ?」
「してない、してない!」
 無邪気に笑う日向にうっかり見惚れていると、かわいい声で「なかよしだねぇ」なんて聞こえてきて、火を噴くとこだった。
「そ、それより、晴くんのアロサウルスは七色で美しいね」
 なるべく綺麗な言葉で褒めたつもりだけど、晴くんはきょとんとした顔で俺を見つめてる。
「……そーだろ! うつくしーんだ!」
 ――あ、美しい、が、ぴんとこなかったのか。
「えと、綺麗だね。こんなふうだったら、きっと食べられても本望だ」
「ほんもう……?」
「またやったわ」
 キッチンで飲み物を用意してくれている日向に助けを求めると「ドンマイ」と気のない慰めが返ってくる。
「末広も晴と話せば賢そうに見えるな、さすがに」
「まじで失礼、さすがに謝れ」
「あは、どうしよ晴、おにーちゃん怒ってら」
「おこってないよ、うれしそーだもん!」
 ……正直、晴くんの言うとおりだ。俺はいまとっても、うれしい。日向とこうして二人で話せることが、うれしくてたまらないんだけど……五歳児にまで丸わかりってのは、ちょっと誤算。恥ずかしくって、今は日向のほう向けない。
「あれ、おにーちゃん、なまえなんだっけ! しょうまだっけ!」
「惜しいな、風雅だよ」
「ふーが! ふーがさぁ!」
「こら晴! 風雅クンにしろ、せめて。いや末広クンだ、末広クン。言ってみ」
「すえひろくん」
 ――め、めろい……。
 膝の上に晴くんを乗っけた日向も、日向の膝の上でちみっと丸まってる晴くんも、めろすぎる……。
 俺の手は意図せず目の前の白い紙へと向かう。
「もっかい、せーの?」
「ふーが!」
「ちげーって、末広クン!」
「ふーがでいいじゃん! ふーが、ふーが!」
「やめろ、俺もまだ末広って呼んでんだから」
 ――なに言ってんだ、日向は。べつに末広でも風雅でも、どっちでもいいわ。
 心の内を声に出すこともなく、俺の手は描き続ける。あのめろすぎる光景は、後世に残さなければいけない、そんな使命感に駆られて。
「えーっ! ふーがやばい! おにいちゃん、みて!」
「んー?」
「いや、まだ……」
 制止の声も聞かず、もちっとした無垢な手が、俺の手元から画用紙を抜き取っていく。
「ふーが、じょーずすぎ! せんせーにほめてもらえるよ!」
「そ、そうかな、今はもうあんまり褒められないけど」
「なんでぇ?」
「なんでだろう、お絵かきしちゃだめな時間にもしちゃうからかな」
 いや俺、五歳児になに人生相談しようとしてんだ。
「それはだめだね、やることはやらなきゃ」
 チビ日向がいる……これ前、日向にも言われた。テストで赤点取ったとき。俺は「すみません」と深々と頭を下げ、描き途中の画用紙を大きい方の日向から取り上げようとした。
「だめ」
「は? まだ途中なんだけど」
「これでいい、これ以上はだめ」
「なんで!」
 まさか肖像権とか言い出すんじゃないだろうな。たしかに無断で描いたことは謝るけど、あれをどっかに出そうなんて思ってない。俺の個人的コレクションにしたいだけなのに……。
 日向はぼーっとした顔で、描き途中のそれを眺め続けている。
「おにーちゃん、ふーがおこってるよ」
「んー……でもこれは、だめ」
「あーあ、きらわれちゃう」
 ぷうっと頬を膨らませた顔も、さっきの電車での日向にそっくりだった。だから描きたいのになぁ。
 それからしばらく、三人でお絵かきをしたり、カルタをして遊んでいれば、日向のお父さんが帰ってきた。
「お邪魔してます」
「ああ! ほんとうにごめんねぇ! 早退できればよかったんだけど、どうしても抜けられない会議があって……!」
 日向のお父さんは、お詫びに夜ご飯をごちそうさせてくれ、なんて言ってくれたけれど、さすがにそこまで大それたことはしてないので、気持ちだけ有難く受け取った。
「海くんもほんとにごめんね、せっかくお友達と遊ぶ日だったのに……」
「全然。シフト入れたの母ちゃんだしさ。末広が晴といっぱい遊んでくれたから、晴も楽しかったよな?」
「うん! みてよパパ、ふーがね、きょーりゅーかくの、ちょーうまいんだよ!」
「ええっ、ちょっとこれは、本気のやつじゃない! 末広くん、美大志望!?」
「ま、まさか……俺恐竜しか描けないですし」
「この画力で!? そんなことあるのか……いや僕ね、むかしむかしは美大を目指していたことがあって――」
 日向のお父さんは油絵をやりたかったそうだけど、二浪しても美大には受からず、夢を諦めたのだそうだ。そんなこともあって、日向は俺の絵に興味を持ってくれたのかな、なんて思った。
「海くんには二浪の話はしたことなかったよね、ほらちょっと、恥ずかしくってさ……」
「……なにを恥ずかしがってんの、いい歳したおっさんが!」
「うわぁ、切れ味がママより鋭いよー!」
 おどけている日向パパに飛びついた晴くんは、大あくびして、目がとろんと潤んでいた。
「おー、晴おねむだな。よし、先お風呂入っちゃおう、な」
「まだふーがとおえかきするんだよぉ……」
 ――か、かわぁ……まるで幼少期の日向を合法的に見させてもらってる気分だ。
「末広送ってきてもいい?」
「もちろん! 末広くん、今日はほんとうにありがとうね。このお礼はまた改めて、絶対、させてね!」
「いやほんとに……そんなに大したことしてないんで……」
 この家の人は、揃いも揃って陽、だな。さすが『日向』って名字なだけある。
 恐縮しきりで日向家を後にして、駅までの道を日向と二人で歩いた。陽が落ちるのが少し早くなったのかな、空は綺麗な紫色に染まっている。
「今日まじでありがとね、疲れたっしょ」
 と言ってる日向のほうが、なんだか疲れてみえる……それともおねむか。
「おねむ?」
「ちげーわ!」
 あ、戻った。
「疲れてないよ、楽しかった。ほんとに」
「ならいいけど! 晴も超はしゃいでたな、うるさかったろ」
「かわいかったよ、俺子どもって人種に関わったことなかったけど、恐竜って共通の話題があってよかった」
「うんこ色のアロサウルスな」
「次はラメラメのアロサウルを描くわ」
「末広っぽくなぁ!」
 こうやって軽口を叩きあって、中身なんてほとんどない会話を交わすこの時間が、俺にはすごく大切だ。いつも周りを見渡して、どいつもこいつも、なにをそんなに話すことがあるんだろう、なんて神経を疑うこともあったけれど。今ならわかる。
 友達、って、いくら一緒にいても、話しても話しても、全然足りないものなんだな。
「てかあれ、貰っていいよね?」
「ん? ……あ、今日描いたやつ?」
「そう。俺と、晴のやつ」
 日向の腕が、俺の腕にくっついた。また離れてくのかなと思えば、ぴったりくっついたままだ。
「……なんか怒ってる? 拗ねてる?」
「はぁ? 拗ねてねえよ」
 なんとなく、日向が触れてくるときって怒ってたり、いじけてたり、疲れてたり、そういう負の感情のときが多いのかなと思っていたけど。違った。わかった気になっちゃだめだなぁ。これだからぼっちは。
「貰ってくれるなら全然。あれ途中だけど」
 ほんとはコレクションにしようと思ってました、とは言えない。
「……ありがと」
「なんで最後まで描いちゃだめなの? いやだった?」
「いやっつうかさー……」
 と言って、口ごもってしまった日向。急かしたいわけじゃないけど、高架下まで来てしまったから、もうすぐ駅に着いてしまう。
「いやなら、もう描かないので……ごめんな」
「ちがくて!」
 ちょうど上を電車が通って、日向の声は一層大きくなる。
「俺と晴、どうだった!」
「どう……どう?」
 どう、ってなんだ。
「似てる。チビ日向。めろい」
 よくわからないので、今日感じたことを馬鹿正直に述べていた。
 それが気に入らなかったのかな、日向は眉を引き下げて、見たことのない顔で俺を見つめている。――心が引っ張られる。今夜夢にも出てきそうなくらい。
「な、なに!? ごめん! 泣かないで!」
「はぁ!? 泣かねえよ! なに言ってんの!」
 咄嗟に引き留めた腕は、べつに震えてなんてなかった。よくよく観察した顔も、今ではすっかり元通りだ。
「……ごめん、なんか泣きそうに見えた。しゃっくりした?」
「してねえわ、まじでおもれー男すぎ、末広」
 いつもと変わらない、朗らかな笑顔が目の前にあるまま。
「俺と晴、血繋がってねーんだよ」
「へ」
「連れ子同士ってやつ。俺の母ちゃんと、晴のお父さんが再婚して。もう二年前か」
 ――俺ってば、なんかいろいろ、無神経なこと言った気がするぞ……? 背中を冷たい汗が流れてくような、そんな感覚がした。
「それ、べつに俺はあんまり気にしてないんだけど。変に気遣われるのもやだから、聞かれなきゃ言わないんだよ」
 日向が止めていた足を進め始めたので、俺も渋々それについていく。
「でも今日末広が描いてくれた絵見たら、ちょっと騙してるような気持ちになって、申し訳なくなったっつうか」
「……騙してはないだろ」
「まあ、そうなんだけど! でもすげえ似てるかんじで描いてくれてたから……んーなんて言えばいいんだろ」
「いや俺は似せたわけじゃなくて、見たまんま描いてるよ」
 そりゃそうだ、俺にそんな粋な計らいできるわけないし。そもそも人間なんて描き慣れてないから、似せるとか、そういう高等技術は使えない。
「……ありがとな、末広」
「やめろ、なんか悟ったかんじにしないで!」
「ほんと、さんきゅ……」
「やめろて!」
 わざとらしくふざけてくる日向の背中を掴むと、振り向いた顔が街灯に照らされ、まるでスポットライトを浴びてるように見えた。
「……似てたよ、ほんとに。それが日向にとっていいことなのか、そうじゃないことなのかは、俺にはわかんないけど」
 顔の造形というか、纏う雰囲気が一緒だった。笑った顔に面影があった。言ってることも一緒、だったな……。
「晴くんに言われた、やることはやらなきゃ、って。日向にもそうやって叱られたことあるし」
「あったか、そんなこと?」
「あったよ!」
 覚えてろよ、そこは。
「あとほっぺ、ぷくってするのも一緒。今日電車で日向もやってた」
「やってない、そんなあざといこと」
「無意識かよ、なおあざといわ」
 ポケットのなかで、スマホが震えている。長さ的にきっと電話で、電話をかけてくる相手なんて母さんしかいない。夕飯の時間過ぎてますけど! ってお怒りの電話だろう。けど、今はそれどころじゃない。
 日向が、なにか言おうとしてるのがわかる。だから、黙って待ちたいんだ。
「……俺、あんなお兄ちゃんの顔、ほんとにできてんの?」
「見たまんま描いたって。それに、日向はいいお兄ちゃんだよ」
 弟のために謝れる。弟と仲良く遊べる。弟の好きなもの、一緒に好きになろうとしてる。
 十年以上ひとりっ子やってたのに、急にお兄ちゃん、になったわけだろ。しかもあんな小さい子の。
「……そんなの先輩に言われちゃ、信じるしかねーじゃん」
「先輩?」
「お兄ちゃん歴は末広のが長いだろ、だから先輩」
 気にしてないのは、きっと本当だ。日向が初めて弟について話してくれたときの表情、思い出せないわけじゃない。恐竜が大好きで、めちゃめちゃ博識なんだって、目を輝かせて自慢していた。あんなふうに家族に自慢されるの、嬉しいだろうなって俺はたしかに羨んだんだ、日向の弟のことを。
「……いい子、いい子」
 風に揺らされてる日向の髪の毛に、手を伸ばしていた。
「は? まじ哀れみとかいらねんですけど!」
 お気に召さなかったらしく、日向はぷいっと顔を背けてまた歩き出してしまう。俺はそれを追いかけて、懲りずに手を伸ばした。
「やーめーろー。かわいそうとか、不憫とか思われんのが一番やなんだよ!」
「思ってねーわ、んなこと」
 思うわけないだろ。内情はどうであれ、今日俺がこの目で見た日向家は、まごうことなき陽の家族で、そこに日向がいるのがごく自然にしか見えなかったんだから。
「先輩だから褒めてやってんの、毎日お兄ちゃんやっててえらいねーって」
「……はー?」
「日向、いい子いい子~」
 ここぞとばかりに、頭を撫でまわした。きもちよくって、ずっと触っていたくなる。
「いい加減にしろ!」
 ぴしゃりと言い放たれ、調子の良かった俺の左手は、日向の手に捕えられた。
 ぺいっと放り投げられるのかと思いきや、日向はじっくり俺の手のひらを見つめている……。
「え、なんかやめて、変な汗噴き出してくる……」
「ふぅーん、これがあの、末広先生の黄金の左手ですかぁ」
 ――あなたの左手は『わるい子』ね! 一瞬、色んな大人の声が駆け巡った。
 俺の『わるい』左手を、日向は黄金なんて言ってくれるんだ。ちょっとだけ、胸がくるしくなった。
「……もー、やめろって!」
「ふむふむ」
「くすぐってー!」
 手相をなぞるように指を這わされ、運命線がないとか、モテ線がないとか、当たってんのか嘘なのかよくわからないけど、とにかく良くないことばかりを言ってきやがる。けど俺は、悲しくはなかった。
「もうだめ、おしまいっ」
 今度は俺が、日向の手首を捕まえた。簡単に指が回ってしまうくらいにか細い手首。
「……あんなに食ってんのに、なんでこんな細いの」
「うるさ!」
 ぶんぶん手を振り回して、どうにかして逃れようとしてくるけど。
「悪さするから、逃がしませーん」
 負けない自信がある。
 ――つうか、離したくない、というか。
「もう駅着いちゃう」
 ぱっと顔を見合わせた。また、声が重なったから。
「……こっち、ちょっとぐるってしてから、帰る?」
 日向の提案に喜んで頷いて、俺たちは改札口に背を向けた。
「なあ、これ、連行されるみたいでやなんだけどー」
 手首を捕まえられたままの日向が、不服そうに唇を尖らせる。けどそれは当然却下だ。だって俺は、離したくないから。
「……じゃあ、恋人繋ぎでもしちゃう?」
「なに言ってんの、するなら友達繋ぎだろーが」
 友達繋ぎ、なんてあるのか知らないけど。恋人繋ぎは恋人に取っておかなきゃ……いけない、よな?
「日向?」
 ついさっき、ぱあっといつもの輝きを取り戻したと思ったんだけど。
「やっぱおねむ……?」
「ちげーわ」
 結局この……連行繋ぎ? のまま、俺たちは駅の周りを三周した。
 俺がこっぴどく母さんに叱られたのは、言うまでもない……。