side蒼壱。
僕の両親は数年前に離婚しているんだ。
母は都会出身の人だったんだけど、父さんとの結婚をきっかけに青嵐町に来た。
母は元々精神的に不安定な人だったから、ここでの暮らしに適応するのもかなりのストレスだったそうだ。町の人と接するのも苦手だった。
母なりに努力したみたいだけど、どうしてもこの町の生活に馴染めなくて次第に家に篭るようになっていったそうだ。
僕が生まれてからはより一層過敏になって、父にも八つ当たりする事が多くなった。
父は僕を思って極力母に近づけないようにしてたから、当時の母の事は荒れた長い黒髪の後姿しか覚えていない。
幼くても両親の関係が悪い事は理解していたし、母にぶたれてもじっと耐え続ける父を可哀そうだと思っていた。
僕が小学生に上がった夏休みの日。
この縁側でまた父母が言い争っていた。
いつもは自分の部屋に逃げていたんだけど、日に日に腕や首に赤い痣が刻まれていく父をどうしても見ていられなくて、それを止めたくて僕は母に縋りついた。――そして、石畳に突き飛ばされた。
幼い僕は、そこで初めてはっきり母の顔を見た。
落ち窪んで血走った眼を限界まで見開いて、切れた唇を引き結んで僕を見た。
荒れた髪とくすんだ色の肌が日差しの逆光でどす黒く映った。
母が結んだ唇を開けて紡いだ言葉は、
”邪魔なんだよ、お前”。
だった。
その顔が、僕の人生で最後にはっきり見えた顔だ。
それからはあまり覚えてないんだ。
石畳に頭を打った僕は、血を流して病院に搬送されたらしいけど。
意識が戻った時から、人の顔がぼやけて見えるようになっていたんだ。
景色ははっきり見える。顔だって、漫画やアニメのキャラクターなら見えるのに、現実の人の顔だけもやがかかった様にぼやけて見える。
あの日の母の顔がトラウマになってしまったのかな。
医者から相貌失認だと診断されて、治らないだろうって言われて以来僕は人との交流を極端に避けるようになった。
だって、どんな表情なのか分からないのにコミュニケーションなんか取れないし。
小さい頃から画家になるのが夢だったよ。
でも、相貌失認になってからこの夢は絶対に叶わないんだって心のどこかで自覚していた。
今までは顔が識別出来ていた頃を思い出しながら描いていたけど、幼い頃の記憶には限界がある。
人物画が描けないのに、絵描きなんて名乗れる訳が無い――。
◇◆
「それが、僕の過去だよ」
先輩はそこまで言い切ると視線を落として、消えて燃えカスになった線香花火をじっと見つめた。
「……――っ」
直ぐには二の句が継げなかった。
そんな過去があるなんて思ってもいなかった。でも、今思い返してみたら確かに、小さな違和感はずっとあった。
俺は今まで先輩と目が合ったことが無いし、先輩が誰かと目を合わせた所を見たことが無い。
浴室では”極力人と目が合わない”一番奥の一番下の棚を使う。
先輩のクラスメイトが言っていた『全然人の顔見て話さないから感じ悪いんだよね』って言葉。
夏休みに泣いている子供を近くで見ても、『君、泣いてるんだね?』って疑問形だった時。
そして――あの夜見たスケッチブックに描かれた、”顔が塗りつぶされた人物画”。
顔を塗り潰していたのは失敗したからじゃない。描けなかったんだ。
先輩には、人の表情が認識出来ないから。
「先輩、こっち見て」
無意識に、喉の奥から言葉を引っ張り出した。
俺はバカだから、相貌失認って障害の事をしっかり理解する事は出来ない。
でも今この人に必要なのは、きっと障害への理解とか着飾った慰めなんかじゃない。
「……何?」
先輩はぎこちなく顔を上げて俺の顔を見てくれた。
藍色の瞳にはきっと俺の表情は映っていないだろうけど。それでも。
「俺の事、描いてくれませんか?」
自分の胸に手を当てて、しっかりと揺れる藍色の瞳を見つめて言った。
「……え……?」
月明りをおぼろげに反射した藍色の瞳がゆっくりと見開かれる。
「聴いてた?日夏。僕は……」
「どのくらい見えないんスか?全部?」
先輩の手を取って、自分の頬に当てる。
さっきまで握り込まれていた先輩の手は、夏なのにひんやりと冷たい。
「……っ、注視すれば、部分的には見える」
「俺の目は?見える?」
「日夏の目、は……少し赤みがかった茶色で、少し吊り上がってる……?」
小刻みに震えた先輩の指が俺の眦を滑る。
じっと、先輩が目を細めながら俺の目を見つめる。今初めて、この人と目が合った気がする。
「鼻は?」
「ちゃんと筋が通って細い、ね……」
「唇は?」
「厚みがあって、血色が良い。……柔らかくて、少し湿っている」
ふに、と先輩の親指が俺の下唇を軽く押した。
「うん。正解」
俺はふっと厚みのある口元を綻ばせて、赤みがかった茶色のツリ目を細めて、先輩に笑顔を向けた。
少し首を横に倒したら、俺の金髪がさらさらと吹いた夜風になびいた。
「分かるじゃないっすか、先輩」
「でも、表情として全体を認識出来ないんだ」
「それだけ判れば充分っすよ!そもそも現代人って人の顔そんなまじまじ見ないし」
青嵐町じゃあまり見ないけど、俺の地元は皆スマホ手放さないし、人と話す時もスマホに視線を落とすことが多いから基本誰とも目が合わない。
「ホラ、俺の見えてるパーツ組み合わせて描けば良いじゃないっすか!福笑いみたいな感じで!」
空いてる方の手で自分の頬を指さしてニカッと弾けるように笑う。大きく表情変えた方が伝わりそうだから、今までで一番良い笑顔のつもりだ。
「……」
先輩は口を薄く開いて、目を見開いたまま固まってしまった。……やっぱ、あんま分かんねえのかな。
「……っ」
「せ、先輩?」
先輩が俯いて体を小刻みに震わせる。
やべえなんか地雷踏んだか?背を屈めておそるおそる先輩の顔を覗き込む。
先輩は眉根を寄せて、目を細めながら――笑ってた。
「ふっ、ふふ……っ、あはははっ!」
「へっ?」
俺の方が面食らって目を見開いた。え、俺そんな笑えるような事言っちまったか?
「ふ、福笑いって……!日夏って本当に面白い!あっははは!」
「そ、そんな爆笑しなくて良いだろーが!」
掴んでいた手を離して先輩の両肩を掴む。チクショウ、笑い過ぎてめっちゃ震えてやがる。
弾けるような先輩の笑顔はなんだか年相応で、薄暗い夜の月明りであんまり見えないのがなんかヤだ。
「あははっ!……あーもう、涙出てきた」
先輩は一瞬顔を伏せて指先で眦を拭った。
その指から一筋の雫が伝い落ちて、床の木目に弾けて消えた。
少しだけ声が震えて涙声になっていたけど、俺はそれには気づかないふりをした。
「……いいんだね?日夏」
顔を上げて俺を見た先輩は、夜を照らすような鮮やかな笑顔を浮かべていた。
少年と青年が混じりがあったような無邪気で落ち着いた笑顔を見た瞬間、俺の心臓がどくんと音を立てて跳ねた。
「描いていいなら、夏休みが終わるまで毎日日夏の事描き続けるよ」
「毎日!?」
「なに、イヤなの?」
ジト目で覗き込んでくる先輩にドキマギしながら、俺は負けじと声を張り上げた。
「全然嫌じゃねえし!?男に二言はねえよ!何百枚でも俺を描け!!」
「ははっ。……言ったね?」
意地悪そうに笑った先輩は俺の知る先輩で、俺の夏休みはこれからも先輩に振り回されるんだと直感した。
この日から、俺たちの関係はまた少し形を変えたんだ。
◇
次の日の夜。
先輩の部屋で星空を映す窓をバックに俺は座り込んだ。
俺の目の前には、スケッチブックを片手に真剣に俺を見つめる先輩が座っている。
「じゃあそこに座って。適当にスマホいじってて良いから」
「あー……ハイ」
言われた通りスマホを取り出してみるけど、情報の海みたいな検索サイトを前にしても何も検索する気にならない。
「体勢も楽にしていいから」
「……っす」
窓側の壁にもたれかかって畳の上で胡坐をかくけど、なんかどんな体勢でも緊張するな。
とりあえずスマホに視線を落として電源をオンにしてみるけど、先輩の視線が気になり過ぎて、やっぱり何もする気にならない。
「…………」
俺も先輩も、お互い何も話さない。
昼はガンガン照り付けていた太陽も完全に落ちて、ジワジワうるさく鳴いていたセミの声も聴こえない。
先輩がスケッチブックに手を滑らせる音ばかりが耳につく。艶やかな黒髪を耳にかける先輩の指先の動きを、俺は何ともなしに目で追った。
「……近づいても良い?」
「はい」
先輩がスケッチブックを抱えたまま前屈みになって俺との距離をぐっと詰める。
澄んだ藍色の目を細めながら、至近距離で見つめられる。
「ここが目で、ここが唇だから……目と鼻の距離感は……」
「さ、触っても良いっすよ」
「ありがとう」
言った瞬間、しなやかな手に容赦なく撫でられる。
確認するように俺の金色のまつ毛をなぞり、顎下に手を差し込まれてくっと上を向かされた。
なんか、学園ドラマのキスシーンみてえ。するなら俺からしてえけど。
……って待て待て何考えてんだ俺は!?
「日夏、動かない」
「ハイッ!」
めっちゃ声ひっくり返った。い、いっか。先輩集中して俺の裏声とか耳からすり抜けてるだろうし。
それから40分後。
走らせていた鉛筆を置いて、先輩にしては珍しくおそるおそる顔を上げた。
「……で、出来た」
「もう!?」
正直2時間くらいは覚悟してた。相変わらず先輩って描くスピードが超速い。
「人体はクロッキーとかで練習してたし」
「くろー……?」
「対象物を素早く描写する絵の練習方法の事」
「そーなんすね……?」
正直何言ってんのかピンと来ねえけど、とりあえず相槌を打った。
「日夏。……ど、どうかな」
先輩が今まで見たこと無いくらい自信なさげに、おずおずとスケッチブックを差し出した。
そこに描かれていた俺の顔は――……。
僕の両親は数年前に離婚しているんだ。
母は都会出身の人だったんだけど、父さんとの結婚をきっかけに青嵐町に来た。
母は元々精神的に不安定な人だったから、ここでの暮らしに適応するのもかなりのストレスだったそうだ。町の人と接するのも苦手だった。
母なりに努力したみたいだけど、どうしてもこの町の生活に馴染めなくて次第に家に篭るようになっていったそうだ。
僕が生まれてからはより一層過敏になって、父にも八つ当たりする事が多くなった。
父は僕を思って極力母に近づけないようにしてたから、当時の母の事は荒れた長い黒髪の後姿しか覚えていない。
幼くても両親の関係が悪い事は理解していたし、母にぶたれてもじっと耐え続ける父を可哀そうだと思っていた。
僕が小学生に上がった夏休みの日。
この縁側でまた父母が言い争っていた。
いつもは自分の部屋に逃げていたんだけど、日に日に腕や首に赤い痣が刻まれていく父をどうしても見ていられなくて、それを止めたくて僕は母に縋りついた。――そして、石畳に突き飛ばされた。
幼い僕は、そこで初めてはっきり母の顔を見た。
落ち窪んで血走った眼を限界まで見開いて、切れた唇を引き結んで僕を見た。
荒れた髪とくすんだ色の肌が日差しの逆光でどす黒く映った。
母が結んだ唇を開けて紡いだ言葉は、
”邪魔なんだよ、お前”。
だった。
その顔が、僕の人生で最後にはっきり見えた顔だ。
それからはあまり覚えてないんだ。
石畳に頭を打った僕は、血を流して病院に搬送されたらしいけど。
意識が戻った時から、人の顔がぼやけて見えるようになっていたんだ。
景色ははっきり見える。顔だって、漫画やアニメのキャラクターなら見えるのに、現実の人の顔だけもやがかかった様にぼやけて見える。
あの日の母の顔がトラウマになってしまったのかな。
医者から相貌失認だと診断されて、治らないだろうって言われて以来僕は人との交流を極端に避けるようになった。
だって、どんな表情なのか分からないのにコミュニケーションなんか取れないし。
小さい頃から画家になるのが夢だったよ。
でも、相貌失認になってからこの夢は絶対に叶わないんだって心のどこかで自覚していた。
今までは顔が識別出来ていた頃を思い出しながら描いていたけど、幼い頃の記憶には限界がある。
人物画が描けないのに、絵描きなんて名乗れる訳が無い――。
◇◆
「それが、僕の過去だよ」
先輩はそこまで言い切ると視線を落として、消えて燃えカスになった線香花火をじっと見つめた。
「……――っ」
直ぐには二の句が継げなかった。
そんな過去があるなんて思ってもいなかった。でも、今思い返してみたら確かに、小さな違和感はずっとあった。
俺は今まで先輩と目が合ったことが無いし、先輩が誰かと目を合わせた所を見たことが無い。
浴室では”極力人と目が合わない”一番奥の一番下の棚を使う。
先輩のクラスメイトが言っていた『全然人の顔見て話さないから感じ悪いんだよね』って言葉。
夏休みに泣いている子供を近くで見ても、『君、泣いてるんだね?』って疑問形だった時。
そして――あの夜見たスケッチブックに描かれた、”顔が塗りつぶされた人物画”。
顔を塗り潰していたのは失敗したからじゃない。描けなかったんだ。
先輩には、人の表情が認識出来ないから。
「先輩、こっち見て」
無意識に、喉の奥から言葉を引っ張り出した。
俺はバカだから、相貌失認って障害の事をしっかり理解する事は出来ない。
でも今この人に必要なのは、きっと障害への理解とか着飾った慰めなんかじゃない。
「……何?」
先輩はぎこちなく顔を上げて俺の顔を見てくれた。
藍色の瞳にはきっと俺の表情は映っていないだろうけど。それでも。
「俺の事、描いてくれませんか?」
自分の胸に手を当てて、しっかりと揺れる藍色の瞳を見つめて言った。
「……え……?」
月明りをおぼろげに反射した藍色の瞳がゆっくりと見開かれる。
「聴いてた?日夏。僕は……」
「どのくらい見えないんスか?全部?」
先輩の手を取って、自分の頬に当てる。
さっきまで握り込まれていた先輩の手は、夏なのにひんやりと冷たい。
「……っ、注視すれば、部分的には見える」
「俺の目は?見える?」
「日夏の目、は……少し赤みがかった茶色で、少し吊り上がってる……?」
小刻みに震えた先輩の指が俺の眦を滑る。
じっと、先輩が目を細めながら俺の目を見つめる。今初めて、この人と目が合った気がする。
「鼻は?」
「ちゃんと筋が通って細い、ね……」
「唇は?」
「厚みがあって、血色が良い。……柔らかくて、少し湿っている」
ふに、と先輩の親指が俺の下唇を軽く押した。
「うん。正解」
俺はふっと厚みのある口元を綻ばせて、赤みがかった茶色のツリ目を細めて、先輩に笑顔を向けた。
少し首を横に倒したら、俺の金髪がさらさらと吹いた夜風になびいた。
「分かるじゃないっすか、先輩」
「でも、表情として全体を認識出来ないんだ」
「それだけ判れば充分っすよ!そもそも現代人って人の顔そんなまじまじ見ないし」
青嵐町じゃあまり見ないけど、俺の地元は皆スマホ手放さないし、人と話す時もスマホに視線を落とすことが多いから基本誰とも目が合わない。
「ホラ、俺の見えてるパーツ組み合わせて描けば良いじゃないっすか!福笑いみたいな感じで!」
空いてる方の手で自分の頬を指さしてニカッと弾けるように笑う。大きく表情変えた方が伝わりそうだから、今までで一番良い笑顔のつもりだ。
「……」
先輩は口を薄く開いて、目を見開いたまま固まってしまった。……やっぱ、あんま分かんねえのかな。
「……っ」
「せ、先輩?」
先輩が俯いて体を小刻みに震わせる。
やべえなんか地雷踏んだか?背を屈めておそるおそる先輩の顔を覗き込む。
先輩は眉根を寄せて、目を細めながら――笑ってた。
「ふっ、ふふ……っ、あはははっ!」
「へっ?」
俺の方が面食らって目を見開いた。え、俺そんな笑えるような事言っちまったか?
「ふ、福笑いって……!日夏って本当に面白い!あっははは!」
「そ、そんな爆笑しなくて良いだろーが!」
掴んでいた手を離して先輩の両肩を掴む。チクショウ、笑い過ぎてめっちゃ震えてやがる。
弾けるような先輩の笑顔はなんだか年相応で、薄暗い夜の月明りであんまり見えないのがなんかヤだ。
「あははっ!……あーもう、涙出てきた」
先輩は一瞬顔を伏せて指先で眦を拭った。
その指から一筋の雫が伝い落ちて、床の木目に弾けて消えた。
少しだけ声が震えて涙声になっていたけど、俺はそれには気づかないふりをした。
「……いいんだね?日夏」
顔を上げて俺を見た先輩は、夜を照らすような鮮やかな笑顔を浮かべていた。
少年と青年が混じりがあったような無邪気で落ち着いた笑顔を見た瞬間、俺の心臓がどくんと音を立てて跳ねた。
「描いていいなら、夏休みが終わるまで毎日日夏の事描き続けるよ」
「毎日!?」
「なに、イヤなの?」
ジト目で覗き込んでくる先輩にドキマギしながら、俺は負けじと声を張り上げた。
「全然嫌じゃねえし!?男に二言はねえよ!何百枚でも俺を描け!!」
「ははっ。……言ったね?」
意地悪そうに笑った先輩は俺の知る先輩で、俺の夏休みはこれからも先輩に振り回されるんだと直感した。
この日から、俺たちの関係はまた少し形を変えたんだ。
◇
次の日の夜。
先輩の部屋で星空を映す窓をバックに俺は座り込んだ。
俺の目の前には、スケッチブックを片手に真剣に俺を見つめる先輩が座っている。
「じゃあそこに座って。適当にスマホいじってて良いから」
「あー……ハイ」
言われた通りスマホを取り出してみるけど、情報の海みたいな検索サイトを前にしても何も検索する気にならない。
「体勢も楽にしていいから」
「……っす」
窓側の壁にもたれかかって畳の上で胡坐をかくけど、なんかどんな体勢でも緊張するな。
とりあえずスマホに視線を落として電源をオンにしてみるけど、先輩の視線が気になり過ぎて、やっぱり何もする気にならない。
「…………」
俺も先輩も、お互い何も話さない。
昼はガンガン照り付けていた太陽も完全に落ちて、ジワジワうるさく鳴いていたセミの声も聴こえない。
先輩がスケッチブックに手を滑らせる音ばかりが耳につく。艶やかな黒髪を耳にかける先輩の指先の動きを、俺は何ともなしに目で追った。
「……近づいても良い?」
「はい」
先輩がスケッチブックを抱えたまま前屈みになって俺との距離をぐっと詰める。
澄んだ藍色の目を細めながら、至近距離で見つめられる。
「ここが目で、ここが唇だから……目と鼻の距離感は……」
「さ、触っても良いっすよ」
「ありがとう」
言った瞬間、しなやかな手に容赦なく撫でられる。
確認するように俺の金色のまつ毛をなぞり、顎下に手を差し込まれてくっと上を向かされた。
なんか、学園ドラマのキスシーンみてえ。するなら俺からしてえけど。
……って待て待て何考えてんだ俺は!?
「日夏、動かない」
「ハイッ!」
めっちゃ声ひっくり返った。い、いっか。先輩集中して俺の裏声とか耳からすり抜けてるだろうし。
それから40分後。
走らせていた鉛筆を置いて、先輩にしては珍しくおそるおそる顔を上げた。
「……で、出来た」
「もう!?」
正直2時間くらいは覚悟してた。相変わらず先輩って描くスピードが超速い。
「人体はクロッキーとかで練習してたし」
「くろー……?」
「対象物を素早く描写する絵の練習方法の事」
「そーなんすね……?」
正直何言ってんのかピンと来ねえけど、とりあえず相槌を打った。
「日夏。……ど、どうかな」
先輩が今まで見たこと無いくらい自信なさげに、おずおずとスケッチブックを差し出した。
そこに描かれていた俺の顔は――……。



