夜の静まり返った廊下に、鈍い靴音が響く。
足音が、だんだんと大きくなる。こっちに、近づいて来てやがる……!?
「日夏、ここじゃ見つかる。……おいで」
強張った俺の手を引いて、先輩は掃除用のロッカーの扉を開けた。先輩に導かれるまま狭いロッカーに身体を押し込む。
扉の縁に手をかけた先輩が音も無く扉を閉めた。
ロッカーの中はモップや箒、生乾きの雑巾が掛けられていて狭い。
背丈は俺の方が少し低いから、先輩は俺の頭を自分の肩に押し付けて目線くらいにある穴から廊下を見つめた。
密着した先輩の体温は俺よりも低いけど、鼓動の早さから緊張が伝わってくる。
「泥棒で間違いなさそうだ。金属バッドを持った、大柄な男だね」
「……!」
耳元で注意深く囁かれる。さっきとは真逆の意味で心臓が音を立てる。
カラカラ……と金属バッドが床を擦る音が一際大きくなって、ゆっくりと遠ざかっていた。
俺達に気づく事無く、泥棒は廊下を素通りしていった。
「……?どこに向かってんだ」
「おそらく職員室だ。……正確に言えば、職員室の金庫だろうね」
「せ、先生に連絡――」
「この時間じゃもうこの辺にはいない。宿直室に当直の先生はいるだろうけど……宿直室まであいつに見つからず走るのは現実的じゃない」
確かに、俺たちが来た時でさえ結構靴音が反響してた。人のいない校舎じゃ、どうしても音が響きやすい。
「僕のスマホで警察に連絡する。日夏、外見ていて」
「……っす」
音を立てないように体を半回転させて、首をひねって扉の穴から外を見る。
じっと気配を探ってみても、あいつが戻ってくる様子は無い。
先輩がスマホの画面をタップして最寄りの交番に電話をかける。
「もしもし。……はい、青嵐高校の窓を割って不法侵入者が……――そうですか、分かりました。……」
先輩が静かに通話ボタンを押して電話を切った。スマホ画面のわずかな明かりに照らされた顔は、険しいままだ。
「すぐ来てくれそうッスか?」
「この時間は夜勤が一人しかいないから……40分は掛かるそうだ」
「それじゃあ……!」
「ああ、そんな悠長な泥棒はいないだろうね」
「……っ……!」
思わず先輩のジャージの胸元に沿えていた手にぐっと力を込める。
どうしたらいい?ここで警察が来るのを待つか?でも、それじゃあきっと間に合わない。
金庫が開けられて給食費とか運営費が盗まれたら。
生徒の個人情報が盗まれてそれで脅されたりしたら、この学校はどうなっちまうんだ。
俺はグッと唇を噛みしめる。
嫌だ。折角、初めて俺の居場所が出来たのに。
「……じゃあ」
先輩の肩口に顔を埋めたままそっと呟く。
そんなつもりはないけど、唸るような低い声が俺の喉から漏れた。
「日夏?」
怪訝そうな先輩の声に顔を上げる。
なんでかな。さっきまで緊張してたし、恐怖とかもあったはずなのに、嫌に鼓動が落ち着いて頭の芯が冷えるような感覚がする。
ああ、なんで今こんな感覚になるんだ。これじゃあまるで――あの頃の俺みてえだ。
俺は口を開けて、底冷えするような声を吐き出した。
「じゃあ、俺があいつをブッ飛ばす」
「馬鹿言うな!金属バッドを持ってるんだぞ!」
音量を絞った中で荒げられた先輩の声には心配が滲んでいる。
ああ、やっぱ先輩ってなんだかんだ優しいよな。
「でも俺がやらなきゃ、あいつに何もかも盗まれるだけだ!」
身じろぎしてほんの少しだけ先輩から距離を取り、至近距離で藍色の瞳を見つめる。
「俺があいつの気を引くから、先輩は宿直室まで走ってくれませんか?先輩の方が足速いし。……大丈夫っすよ、俺――……」
その先の言葉を言いかけて止める。
本当はこれ言いたくなかったけど。言わなきゃ多分先輩は納得しない。
意を決して、俺は口を開いた。
「喧嘩、した事あるんで」
「……!」
先輩がハッとしたように息を呑む。
あーあ、もしかして分かっちまうかな。先輩頭良いし。
「……もう、してないっすけど」
「”もう”って事は、それは中学の時の話か?」
「……」
なんて言ったらいいか分からなくて口を閉じる。
先輩はきつく瞬きをすると口を開いて、静かで鋭い声を発した。
「中学生の時、荒れてだんだろ日夏」
「い、いや……それは……」
「なんとなく分かってたよ」
先輩のしなやかな手が伸びて、俺のサイドの金髪を浮かせて耳たぶに触れられる。
俺の耳たぶの――何か所も空いたピアス穴に、先輩の白い指先が滑る。
「一緒に風呂に入った時に見えたんだ。体にも、古傷みたいな跡が上半身に多くあったね」
そっか風呂だと無意識に髪上げちまうから、ピアス穴も古傷も隠せねぇか。
「ピアスの穴も、両耳5個くらいあるね。……もう塞がりそうだけど」
「先輩、俺……!」
どうにかはぐらかそうと口を開いたけど、真剣な目で見下ろされて口を閉じた。
ああ、これ隠せねえや。
まあいっか、こんなのただの――ありふれた過去だし。
「……そうッス。中学ん時、ガチでヤンキーだったんスよ俺」
あーあ、言っちまった。
折角誰もいない高校選んだのに。
都会から逃げ出して、離島まで越して来たのに。
やっぱ変われねぇのかな。俺と同室とか……もう嫌か。
「分かった。でも、それは一人で戦う理由にはならない」
静かに落とされた言葉にばっと顔を上げた。濁りかけた視界が、先輩の瞳の光を反射する。
「え?」
「日夏を置いて一人でなんか行かない。――僕もあいつをブッ飛ばす」
「せ、先輩……!?」
ぎょっとして思わず先輩の腕を掴んだ。
「君に心配される程僕は柔じゃない。あのさ、日夏」
細められた瞳は、静かな決意を宿している。俺を見下ろすと、先輩はふっと勝気に微笑んだ。
俺の腕をしっかりと掴んで、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「僕、負け戦はしない主義なんだ。勝機があるから言ってるに決まってるだろ」
そのまま耳元に唇を寄せてそっと囁きかけられる。俺はその言葉に、目を見開いた。
「……出来る?」
「はい」
「分かった。じゃあ――行くよ」
先輩の合図と共に、俺たちはロッカーを出た。
足音を殺して、俺は夜の廊下に向かって駆け出した。
◇
角を曲がると、職員室に向かって歩く後ろ姿を見つけた。
結構大柄な大人の男が金属バッドを担いでる。でも、図体がでかい奴とは何度もやり合ってきた。
俺は廊下の壁に備え付けられている非常用の懐中電灯に手をかけると、荒っぽく引き抜いて泥棒目がけてライトを照射した。
すうっと大きく息を吸うと、腹から声を出して相手を威嚇した。
「おいお前!何やってんだ!!」
照らされた男は黒ずくめにキャップにサングラスって、いかにもな出で立ちだ。
「チッ、んだテメェ!!」
咆哮するような荒々しい声が夜の廊下にぐわんっと反響する。
でも、俺こんなん慣れってから。
「警察に通報してやるからな!!」
負けじと声を張り上げると、男が俺の方に向かって突進してきた。
「調子乗ってんじゃねぇぞクソガキ!」
「あ"あ!?テメェなんかに捕まる訳ねぇだろノロマが!!」
俺は素早く踵を返すと、一目散にその場から逃げ出した。
「待ちやがれ!!」
廊下に反響する怒声を背中に感じながら夜の校舎を駆け抜ける。
懐中電灯を持ってるから、角を曲がっても俺がどっちに行ったかは明白だ。
腕と足を振って、容赦なく風を切って走る。
走るのが禁止されてるはずの廊下を走るのは罪悪感があるようで、歪な高揚感が心の奥から溢れてくる。
泥棒を職員室から引き離し、廊下を曲がって一直線に走るとブルーシートが敷き詰められた廊下に差し掛かる。
踏みしめる足に力を込めて、バシャバシャとブルーシートの海をかいくぐって走り抜けた。
ブルーシートから距離を取った階段下で振り返ると、丁度泥棒がブルーシートに足を踏み入れた所だ。
「……っ!?なんだこりゃ!?」
「今だ!!」
それを視界に捕らえた瞬間、俺は叫んだ。
「――良い子だね、日夏」
階段上から明瞭な声が降ってくる。
同時に、ブルーシートに足を取られた泥棒の頭上に大量の赤いペンキが降り注いだ。
「う、うぎゃあああ!目がああああ!!」
「ごめんね、手が滑っちゃった」
悪びれもなく飄々と言葉を発すると、先輩は階段上から空になったペンキ缶を放った。
ガンッとペンキ缶がブルーシートの海に落ちる。
俺は階段を数段上がると、全身赤いペンキに塗れた泥棒を見下ろした。
「これで泥棒なんか出来無いだろ?足跡でも指紋でも、なんでも付き放題だし」
下のブルーシートには靴の跡が、ペンキを振り払う様に掴んだ自分の黒いキャップには手形がくっきりと付いていた。あーあ、こりゃ落ちねえや。
「このガキ……っ!!」
「早く落とした方が良いよ?それ油性ペンキだから」
「ああ!?」
全身ペンキ塗れだと視界が安定しないみたいで、ぐしゃぐしゃにまとまったブルーシートの中をもがくように足を踏みしめた泥棒が、先輩の言葉に足を止める。
「あれ、知らない?ペンキに含まれる成分は人体には非常に有害なんだ。主な症状は……そうだね」
俺の近くまで階段を降りてきた先輩が、窓から見える漆黒の夜空をバックに好戦的に口の端を上げる。
「頭痛、失明、呼吸困難。皮膚呼吸が出来なくて全身の肌が爛れる……とかね」
「ヒッ!?」
「早く落とした方が良いよ、油性は一度乾くと絶対に取れないから」
先輩がわざとらしく開けられた窓の外を指さす。
そこには、体育館裏の蛇口があった。
「ほら、早く落とした方が良いんじゃない?」
ニッコリと笑う先輩は、漆黒の夜空と相まって死神みたいな威圧感がある。
「う、うわあああああ!!」
泥棒は金属バッドを手放して、一目散に窓に向かった。
そのまま窓枠にべったりと赤い手形やら足跡やらを付けながら、校舎を飛び出した。
俺は警戒したまま懐中電灯を向けていたが、泥棒は光じゃ追えないくらい離れて、声も聴こえなくなった。
「……とりあえず、これで盗まれる事は無いかな?」
「先輩すっげえ!」
ふっと短く息を吐き出した先輩が俺の方を向く。
「日夏、怪我は?」
「無いっす!」
「そう、よかっ――」
変な所で言葉を切った先輩がじっと目を凝らすと、俺の頬を指さした。
「あれ、ごめん日夏にもかかっちゃったね――ペンキ」
「え?うわーっ!俺、死んじゃ……っ!?」
やべえ!でも触ったら指爛れる!?と一人であたふたしていた俺は先輩の笑い声に目をぱちりと見開いた。
「……ふっ」
「へ?」
「あははっ!もう、なに驚いてるんだよ」
「い、いや、だって皮膚が爛れるってさっき……!」
「あんなの誇張しただけだよ。ペンキが顔に付いたくらいで死ぬ訳無いだろ」
先輩は廊下の壁に付いていた水道に駆け寄ると、ハンカチを濡らして俺の所に戻って来た。
そっと頬を拭われると、先輩のハンカチは俺のペンキを容易く吸い込んだ。
「これ、水性だし」
「はあっ!?」
「まあ、嘘も方弁ってね。でも乾ききったら落ちにくいのは本当だから、あいつの手形や足跡は状況証拠としてばっちり残せる」
男が逃げてった方向からもバシャバシャと勢いよく水が跳ねる音が聴こえてきた。必死こいて落としてるな、ありゃ。
「それにしても、よくこの短時間でこんな大量のブルーシート張れましたね」
「それは元々張ってあった。ほら、今って部活案内期間だから、放課後は書道部が書道パフォーマンスの為にこの廊下にブルーシートを張りっぱなしにしているんだ。いつも朝練終わりに撤去するからね」
「……詳しいッスね」
「そりゃあ、僕三年だし」
だとしてもこんなすぐ思いつかねえだろ。先輩凄すぎ。
ただただ驚いていると、外からパトカーのサイレンの音が響き渡った。
「貴様!何をしている!?」
「チクショー!!」
「ああ、丁度警察が来たみたいだ。じゃあ帰ろうか日夏」
颯爽と階段を降りていく先輩に、俺は慌てて付いて行った。
「え、でもペンキ……」
「金属バッドとペンキが近くにあれば泥棒のせいに出来るでしょ」
しれっと放たれた言葉に、俺は思わず半目になった。
「うわー、ずっる……」
「小賢しいっていうんだよ。ほら帰るよ」
手に持っていた俺の教科書とノートを口元に当てて、先輩はイタズラっぽくウインクした。
「勉強、教えてあげるから」
「へっ?」
「ふふっ、もう忘れてる」
「…………あっ!宿題!!」
そうだよ、何の為に俺らここまで来たんだよ!俺が宿題を忘れたからだよ!?
焦って腕時計を見ると、門限ギリだ。
「ばか日夏」
「ぐ、ぐうの音も出ねえッス……」
慌てて先輩の隣に並ぶ。
今度は足音を殺しながら、俺と先輩は別館への夜道を忍び足で駆け出した。
駆けながら、俺はちらりと先輩の横顔を見る。
先輩って、やっぱ良い人だよな。
クセ強い人ではあるけど、勉強教えてくれるし、面倒見も良い。
なにより、俺の過去に感づいていても初対面の時と全く変わらず接してくれた。
今まで俺の周りにはそんな奴いなかったから、本当に会えてよかった。
それどころじゃなくて聞けなかったけど……先輩の夢、いつか聞こう。
俺はそんな思いを心に仕舞いながら、新天地の学校生活に飛び込んだ。
騒がしくて心温まる春は、桜の終わりと一緒に瞬く間に通り過ぎていった。
そして、先輩と過ごす忘れられない夏が始まる――。
足音が、だんだんと大きくなる。こっちに、近づいて来てやがる……!?
「日夏、ここじゃ見つかる。……おいで」
強張った俺の手を引いて、先輩は掃除用のロッカーの扉を開けた。先輩に導かれるまま狭いロッカーに身体を押し込む。
扉の縁に手をかけた先輩が音も無く扉を閉めた。
ロッカーの中はモップや箒、生乾きの雑巾が掛けられていて狭い。
背丈は俺の方が少し低いから、先輩は俺の頭を自分の肩に押し付けて目線くらいにある穴から廊下を見つめた。
密着した先輩の体温は俺よりも低いけど、鼓動の早さから緊張が伝わってくる。
「泥棒で間違いなさそうだ。金属バッドを持った、大柄な男だね」
「……!」
耳元で注意深く囁かれる。さっきとは真逆の意味で心臓が音を立てる。
カラカラ……と金属バッドが床を擦る音が一際大きくなって、ゆっくりと遠ざかっていた。
俺達に気づく事無く、泥棒は廊下を素通りしていった。
「……?どこに向かってんだ」
「おそらく職員室だ。……正確に言えば、職員室の金庫だろうね」
「せ、先生に連絡――」
「この時間じゃもうこの辺にはいない。宿直室に当直の先生はいるだろうけど……宿直室まであいつに見つからず走るのは現実的じゃない」
確かに、俺たちが来た時でさえ結構靴音が反響してた。人のいない校舎じゃ、どうしても音が響きやすい。
「僕のスマホで警察に連絡する。日夏、外見ていて」
「……っす」
音を立てないように体を半回転させて、首をひねって扉の穴から外を見る。
じっと気配を探ってみても、あいつが戻ってくる様子は無い。
先輩がスマホの画面をタップして最寄りの交番に電話をかける。
「もしもし。……はい、青嵐高校の窓を割って不法侵入者が……――そうですか、分かりました。……」
先輩が静かに通話ボタンを押して電話を切った。スマホ画面のわずかな明かりに照らされた顔は、険しいままだ。
「すぐ来てくれそうッスか?」
「この時間は夜勤が一人しかいないから……40分は掛かるそうだ」
「それじゃあ……!」
「ああ、そんな悠長な泥棒はいないだろうね」
「……っ……!」
思わず先輩のジャージの胸元に沿えていた手にぐっと力を込める。
どうしたらいい?ここで警察が来るのを待つか?でも、それじゃあきっと間に合わない。
金庫が開けられて給食費とか運営費が盗まれたら。
生徒の個人情報が盗まれてそれで脅されたりしたら、この学校はどうなっちまうんだ。
俺はグッと唇を噛みしめる。
嫌だ。折角、初めて俺の居場所が出来たのに。
「……じゃあ」
先輩の肩口に顔を埋めたままそっと呟く。
そんなつもりはないけど、唸るような低い声が俺の喉から漏れた。
「日夏?」
怪訝そうな先輩の声に顔を上げる。
なんでかな。さっきまで緊張してたし、恐怖とかもあったはずなのに、嫌に鼓動が落ち着いて頭の芯が冷えるような感覚がする。
ああ、なんで今こんな感覚になるんだ。これじゃあまるで――あの頃の俺みてえだ。
俺は口を開けて、底冷えするような声を吐き出した。
「じゃあ、俺があいつをブッ飛ばす」
「馬鹿言うな!金属バッドを持ってるんだぞ!」
音量を絞った中で荒げられた先輩の声には心配が滲んでいる。
ああ、やっぱ先輩ってなんだかんだ優しいよな。
「でも俺がやらなきゃ、あいつに何もかも盗まれるだけだ!」
身じろぎしてほんの少しだけ先輩から距離を取り、至近距離で藍色の瞳を見つめる。
「俺があいつの気を引くから、先輩は宿直室まで走ってくれませんか?先輩の方が足速いし。……大丈夫っすよ、俺――……」
その先の言葉を言いかけて止める。
本当はこれ言いたくなかったけど。言わなきゃ多分先輩は納得しない。
意を決して、俺は口を開いた。
「喧嘩、した事あるんで」
「……!」
先輩がハッとしたように息を呑む。
あーあ、もしかして分かっちまうかな。先輩頭良いし。
「……もう、してないっすけど」
「”もう”って事は、それは中学の時の話か?」
「……」
なんて言ったらいいか分からなくて口を閉じる。
先輩はきつく瞬きをすると口を開いて、静かで鋭い声を発した。
「中学生の時、荒れてだんだろ日夏」
「い、いや……それは……」
「なんとなく分かってたよ」
先輩のしなやかな手が伸びて、俺のサイドの金髪を浮かせて耳たぶに触れられる。
俺の耳たぶの――何か所も空いたピアス穴に、先輩の白い指先が滑る。
「一緒に風呂に入った時に見えたんだ。体にも、古傷みたいな跡が上半身に多くあったね」
そっか風呂だと無意識に髪上げちまうから、ピアス穴も古傷も隠せねぇか。
「ピアスの穴も、両耳5個くらいあるね。……もう塞がりそうだけど」
「先輩、俺……!」
どうにかはぐらかそうと口を開いたけど、真剣な目で見下ろされて口を閉じた。
ああ、これ隠せねえや。
まあいっか、こんなのただの――ありふれた過去だし。
「……そうッス。中学ん時、ガチでヤンキーだったんスよ俺」
あーあ、言っちまった。
折角誰もいない高校選んだのに。
都会から逃げ出して、離島まで越して来たのに。
やっぱ変われねぇのかな。俺と同室とか……もう嫌か。
「分かった。でも、それは一人で戦う理由にはならない」
静かに落とされた言葉にばっと顔を上げた。濁りかけた視界が、先輩の瞳の光を反射する。
「え?」
「日夏を置いて一人でなんか行かない。――僕もあいつをブッ飛ばす」
「せ、先輩……!?」
ぎょっとして思わず先輩の腕を掴んだ。
「君に心配される程僕は柔じゃない。あのさ、日夏」
細められた瞳は、静かな決意を宿している。俺を見下ろすと、先輩はふっと勝気に微笑んだ。
俺の腕をしっかりと掴んで、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「僕、負け戦はしない主義なんだ。勝機があるから言ってるに決まってるだろ」
そのまま耳元に唇を寄せてそっと囁きかけられる。俺はその言葉に、目を見開いた。
「……出来る?」
「はい」
「分かった。じゃあ――行くよ」
先輩の合図と共に、俺たちはロッカーを出た。
足音を殺して、俺は夜の廊下に向かって駆け出した。
◇
角を曲がると、職員室に向かって歩く後ろ姿を見つけた。
結構大柄な大人の男が金属バッドを担いでる。でも、図体がでかい奴とは何度もやり合ってきた。
俺は廊下の壁に備え付けられている非常用の懐中電灯に手をかけると、荒っぽく引き抜いて泥棒目がけてライトを照射した。
すうっと大きく息を吸うと、腹から声を出して相手を威嚇した。
「おいお前!何やってんだ!!」
照らされた男は黒ずくめにキャップにサングラスって、いかにもな出で立ちだ。
「チッ、んだテメェ!!」
咆哮するような荒々しい声が夜の廊下にぐわんっと反響する。
でも、俺こんなん慣れってから。
「警察に通報してやるからな!!」
負けじと声を張り上げると、男が俺の方に向かって突進してきた。
「調子乗ってんじゃねぇぞクソガキ!」
「あ"あ!?テメェなんかに捕まる訳ねぇだろノロマが!!」
俺は素早く踵を返すと、一目散にその場から逃げ出した。
「待ちやがれ!!」
廊下に反響する怒声を背中に感じながら夜の校舎を駆け抜ける。
懐中電灯を持ってるから、角を曲がっても俺がどっちに行ったかは明白だ。
腕と足を振って、容赦なく風を切って走る。
走るのが禁止されてるはずの廊下を走るのは罪悪感があるようで、歪な高揚感が心の奥から溢れてくる。
泥棒を職員室から引き離し、廊下を曲がって一直線に走るとブルーシートが敷き詰められた廊下に差し掛かる。
踏みしめる足に力を込めて、バシャバシャとブルーシートの海をかいくぐって走り抜けた。
ブルーシートから距離を取った階段下で振り返ると、丁度泥棒がブルーシートに足を踏み入れた所だ。
「……っ!?なんだこりゃ!?」
「今だ!!」
それを視界に捕らえた瞬間、俺は叫んだ。
「――良い子だね、日夏」
階段上から明瞭な声が降ってくる。
同時に、ブルーシートに足を取られた泥棒の頭上に大量の赤いペンキが降り注いだ。
「う、うぎゃあああ!目がああああ!!」
「ごめんね、手が滑っちゃった」
悪びれもなく飄々と言葉を発すると、先輩は階段上から空になったペンキ缶を放った。
ガンッとペンキ缶がブルーシートの海に落ちる。
俺は階段を数段上がると、全身赤いペンキに塗れた泥棒を見下ろした。
「これで泥棒なんか出来無いだろ?足跡でも指紋でも、なんでも付き放題だし」
下のブルーシートには靴の跡が、ペンキを振り払う様に掴んだ自分の黒いキャップには手形がくっきりと付いていた。あーあ、こりゃ落ちねえや。
「このガキ……っ!!」
「早く落とした方が良いよ?それ油性ペンキだから」
「ああ!?」
全身ペンキ塗れだと視界が安定しないみたいで、ぐしゃぐしゃにまとまったブルーシートの中をもがくように足を踏みしめた泥棒が、先輩の言葉に足を止める。
「あれ、知らない?ペンキに含まれる成分は人体には非常に有害なんだ。主な症状は……そうだね」
俺の近くまで階段を降りてきた先輩が、窓から見える漆黒の夜空をバックに好戦的に口の端を上げる。
「頭痛、失明、呼吸困難。皮膚呼吸が出来なくて全身の肌が爛れる……とかね」
「ヒッ!?」
「早く落とした方が良いよ、油性は一度乾くと絶対に取れないから」
先輩がわざとらしく開けられた窓の外を指さす。
そこには、体育館裏の蛇口があった。
「ほら、早く落とした方が良いんじゃない?」
ニッコリと笑う先輩は、漆黒の夜空と相まって死神みたいな威圧感がある。
「う、うわあああああ!!」
泥棒は金属バッドを手放して、一目散に窓に向かった。
そのまま窓枠にべったりと赤い手形やら足跡やらを付けながら、校舎を飛び出した。
俺は警戒したまま懐中電灯を向けていたが、泥棒は光じゃ追えないくらい離れて、声も聴こえなくなった。
「……とりあえず、これで盗まれる事は無いかな?」
「先輩すっげえ!」
ふっと短く息を吐き出した先輩が俺の方を向く。
「日夏、怪我は?」
「無いっす!」
「そう、よかっ――」
変な所で言葉を切った先輩がじっと目を凝らすと、俺の頬を指さした。
「あれ、ごめん日夏にもかかっちゃったね――ペンキ」
「え?うわーっ!俺、死んじゃ……っ!?」
やべえ!でも触ったら指爛れる!?と一人であたふたしていた俺は先輩の笑い声に目をぱちりと見開いた。
「……ふっ」
「へ?」
「あははっ!もう、なに驚いてるんだよ」
「い、いや、だって皮膚が爛れるってさっき……!」
「あんなの誇張しただけだよ。ペンキが顔に付いたくらいで死ぬ訳無いだろ」
先輩は廊下の壁に付いていた水道に駆け寄ると、ハンカチを濡らして俺の所に戻って来た。
そっと頬を拭われると、先輩のハンカチは俺のペンキを容易く吸い込んだ。
「これ、水性だし」
「はあっ!?」
「まあ、嘘も方弁ってね。でも乾ききったら落ちにくいのは本当だから、あいつの手形や足跡は状況証拠としてばっちり残せる」
男が逃げてった方向からもバシャバシャと勢いよく水が跳ねる音が聴こえてきた。必死こいて落としてるな、ありゃ。
「それにしても、よくこの短時間でこんな大量のブルーシート張れましたね」
「それは元々張ってあった。ほら、今って部活案内期間だから、放課後は書道部が書道パフォーマンスの為にこの廊下にブルーシートを張りっぱなしにしているんだ。いつも朝練終わりに撤去するからね」
「……詳しいッスね」
「そりゃあ、僕三年だし」
だとしてもこんなすぐ思いつかねえだろ。先輩凄すぎ。
ただただ驚いていると、外からパトカーのサイレンの音が響き渡った。
「貴様!何をしている!?」
「チクショー!!」
「ああ、丁度警察が来たみたいだ。じゃあ帰ろうか日夏」
颯爽と階段を降りていく先輩に、俺は慌てて付いて行った。
「え、でもペンキ……」
「金属バッドとペンキが近くにあれば泥棒のせいに出来るでしょ」
しれっと放たれた言葉に、俺は思わず半目になった。
「うわー、ずっる……」
「小賢しいっていうんだよ。ほら帰るよ」
手に持っていた俺の教科書とノートを口元に当てて、先輩はイタズラっぽくウインクした。
「勉強、教えてあげるから」
「へっ?」
「ふふっ、もう忘れてる」
「…………あっ!宿題!!」
そうだよ、何の為に俺らここまで来たんだよ!俺が宿題を忘れたからだよ!?
焦って腕時計を見ると、門限ギリだ。
「ばか日夏」
「ぐ、ぐうの音も出ねえッス……」
慌てて先輩の隣に並ぶ。
今度は足音を殺しながら、俺と先輩は別館への夜道を忍び足で駆け出した。
駆けながら、俺はちらりと先輩の横顔を見る。
先輩って、やっぱ良い人だよな。
クセ強い人ではあるけど、勉強教えてくれるし、面倒見も良い。
なにより、俺の過去に感づいていても初対面の時と全く変わらず接してくれた。
今まで俺の周りにはそんな奴いなかったから、本当に会えてよかった。
それどころじゃなくて聞けなかったけど……先輩の夢、いつか聞こう。
俺はそんな思いを心に仕舞いながら、新天地の学校生活に飛び込んだ。
騒がしくて心温まる春は、桜の終わりと一緒に瞬く間に通り過ぎていった。
そして、先輩と過ごす忘れられない夏が始まる――。



