君の色彩に溺れたい。

「無いよ、一枚も」

先輩から落とされた声は、背筋が冷えそうになるほど静かだった。
なんで突然こんなに雰囲気が変わるんだ?俺、何かヤバい事でも聞いて――

「そこの金髪の君!!良かったらバスケ部入らないかい?君運動神経良さそうだし、やれば絶対伸びるよ!」
「うわっ!?」

急にザ・熱血漢って感じのバカデカボイスが飛んできて、ピリついた空気が吹っ飛んだ。
なんだ急に!?って、顧問の先生じゃねえか!

「あ、あざっず!えっと、じゃあ……入ります!よろしくお願いします!」
「ありがとう!じゃあ入部届渡すから、ここにサインしてくれないか?」
「はい!」

思わず即答すると、遠くから駆け寄った熱血先生から紙を渡される。
鉛筆を走らせながらちらっと後ろを見ると、先輩はもういつもの飄々とした雰囲気に戻っていた。

「入部ありがとう!明日からよろしくな!」
「はい!よろしくお願いします!」

入部届を顧問の先生に渡すと、身体ごと振り返って先輩に向き直る。

「先輩!部活決まりました!」
「良かったね。じゃあ、そろそろ帰るよ」
「はい!」

俺は先輩と一緒に、夕日でオレンジ色に染まる体育館を後にした。
ちらっと、夕焼け色に染まる先輩を盗み見た。
先輩の顔色は変わらない。それなのに、どこか辛そうに見えるのは夕日の寂しさのせいなのか?
正直先輩に絵の事をもっと聴きたかったけど、俺も中学の事はぐらかしたし、聞くのは良くない……よな。
俺は先輩の横に並んで、夕日でオレンジ色に染まる体育館を後にした。



「せんぱーい!大浴場行くっすよー」
「はいはい」

20時過ぎ。
夕食も勉強も済ませた俺たちはビニールバックに下着やらタオルやらを詰めて再度本館に向かう所だ。
俺たちのいる別館にも浴室はあるがボロ過ぎて使用禁止になっているので本館の奴らと合同で使う事になっている。暗黙の了解ってやつでちょっと遅めに向かうから、基本浴室はガラガラだ。

「ほぼ貸し切りみたいな状態だから、羽を伸ばせるよ。時間だけは守らないとだけどね?」
「俺めっちゃ早風呂なんで大丈夫っす!」
「ああ、イメージ出来る。烏の行水って感じ」
「から……?」
「シャワーと桶で掬った水浴びしかしなさそうって意味」
「流石に5分は浸かるっすよ!」

すっかり日が暮れ終わって満天の星空が広がる夜空を眺めながら、先輩と本館に向った。
男風呂の横開きの扉を開くと、先輩の言った通り脱衣所は人がまばらにしかいなかった。
ちょっと貸し切りみたいでワクワクする。

「カゴはどこの使っても良いから」

そう言いつつも先輩には定位置があるみたいで、どこでも選び放題ってくらいガラガラなのに一番奥の一番下まで迷いなく進んで行った。
なんか不思議な場所だな。極力人と目が合わない場所……みたいな。

「じゃあ隣、おじゃましまーす」

まーいっかと切り替えて先輩の隣の中段くらいのカゴを引いてビニールバックを入れる。
さっさと服を脱いでカゴに放り込むと、先輩と並んで浴室に足を踏み入れた。

「じゃあ背中流して、日夏」
「え"!?」
「なんだよそのカエルみたいな声」
「じ、自分でやって下さいよ!」
「後輩は先輩の背中流すって校則があるんだよ」

そんなんあるかー?と思ったけど、人がまばらにしかいない浴室じゃあ確かめようがない。他の人も皆おひとり様って感じで我関せずでシャワーを浴びている。

「ひーなーつ。ほら、寒いから早く」
「わ、分かったっすよ!」

バスチェアに腰掛けてボディタオルをずいっと差し出す先輩の押しの強さに負け、タオルを受け取る。
備え付けのボディソープを適当に付けて泡を立てる。

「いきますねー?」

人の身体とか洗ったことねぇからどっから洗うのが正解とか分かんねえな……まあ肩甲骨とかからいけばいいだろ。ってか、先輩って全然日焼けしてねぇな。うっすい肌色。
項の下あたりから固めの質感のボディタオルを先輩の綺麗な肌に押し当てると、くすぐったそうに背中が軽く跳ねた。

「ふ……っ、ふふっ」
「え、なんだよ。力強いッスか?」
「ううん。丁度良いよ」
「?」

わけ分かんなくて取り合えずごしごし背中を洗っていると不意に先輩が肩越しに振り返った。

「君って本当、バカ正直だよね。そんな校則あるわけないじゃん」
「……はあ!?」
「ああ、暗黙の了解くらいならあるけど」
「なん……っどっちだよ!?」
「あー、面白い。後は自分で洗うからもういいよ。自分の体洗いな」
「わ、分かったっすよ!」

差し出された先輩の手にボディタオルを渡して俺も隣に腰掛けた。
ってか……先輩肌白いからか分かんねえけどちょっと頬赤くなってた様な?気のせいか?

「急ぎなよ日夏。時間になったら当直の先生が乗り込んで来て叩き出されるから」
「それを早く言えよな!?」
「今言っただろ。別に良いじゃん、早風呂なんだろ?日夏」
「……~~!!」

それとこれは関係ねーだろ!って言いたいけどマジで先生に乗り込まれるのは嫌だから、俺は上機嫌な先輩をジト目で見ながら、急いでシャワーコックを捻った。



それから全身サッと洗って湯舟に浸かる時間を確保し、当直の先生が来るまでに別館への帰路につけた。

「ただいまー」
「おかえり」
「んえ?」

つい癖で言った言葉を先輩に拾われるとは思えなくて、ぱちっと目を見開く。

「何?」
「……や、別に」

挨拶を交わしただけで、先輩とこれから一緒に過ごしていくんだって実感が急に沸いた。
上下藍色のジャージに身を包んだ先輩は夜に溶け込んでしまいそうでちょっと落ち着かない。ってか、やっぱ服装とかこだわってんのかな。適当なジャージパーカーの俺とは全然違う。
そんな柄にもない事を考えながら階段を上がり、二人部屋に戻ってきた。

「じゃ、おやすみ」

お風呂セットを部屋の奥に放り、先輩は二段ベッドの下の方に乗り上げた。

「あのー先輩。そっちが俺のベットじゃなかったんスか?」

実際昨日は俺が下で寝た。
そう言うと、先輩は小さくあくびをしながらだるそうに答えた。

「上がるの面倒だから貸して。上使って良いから」
「……まあ、いーっすけど」

一日使っただけのベッドに思い入れも何も無いしな。

「日夏、電気消して」
「はいはい」

ぱち、と電気を消してカーテンを閉めると、部屋は夜の藍色で満たされた。カーテン越しの薄い月明りが差し込んだ木製の部屋は、ちょっと異世界みたいでワクワクする。

「おやすみなさい、先輩」

もう寝てるかもしれないから、起こさないように小声で挨拶する。
俺は二段ベッドの梯子を上って、上のベッドに潜り込んだ。

「……ん?」

この枕とシーツ、なんかいい匂いするな。
爽やかで瑞々しい、潮風みたいな香りは――昨日出会った時に先輩から香った匂いだ。

「……!?」

思わずがばっと起き上がった。そりゃ先輩が普段使いしてたベッドなんだから香りが染みつくのは当たり前だ。当たり前……なんだけど……!
なんかいい匂いなのムカつくな!?
香水とか使ってんのか?高三ってそんなオトナになるのか!?

「……寝るぞ!」

止めだ止め。そんなの高一の俺が知るか。
体を倒すと、ばふっと柔らかい枕が俺の頭を受け止めてくれた。
別に枕もふわふわでシーツも滑らかで良い香りするから全然寝られるし!……って何の言い訳だよ、アホか。
ぎゅっと目を閉じて、今度こそ俺は眠りの世界に落ちていった。

「……ん……?」

カツ、と何かが足に触れ、俺はボーっとした頭を軽く振って目を擦る。ちらりとカーテンを見ると月明りも差してこない。まだ深夜だ。
なんか、蹴ったな……?
重たい体を起こして足元に手を伸ばすと、厚めのキャンパスノートのようなざらついた質感がした。

「これ、スケッチブック……?」

持ち上げたそれは、一冊のスケッチブックだった。
先輩のベッドにあるって事は、先輩の……だよな?

「なんだ、絵描いてんじゃん」

一枚も無いってやっぱ嘘じゃん。……何描いてるんだろ。
夜の海から届く微かなさざ波と同じくらい、俺の心臓が音を立て始める。
好奇心に抗えなくて、俺は音を立てないようにそっとスケッチブックを開いた。

「……うっま」

夕暮れの海や窓越しに見える夜空。スケッチブックにはこの島の風景が沢山描いてある。
これ水彩画だ。
今は明かりが無いからモノクロみたいに見えるけど、淡い色合いで紙の白を生かした繊細な色使いは素人の俺でも分かるくらい凄い。

「なんだこれ、プロじゃん」

吸い込まれるようにスケッチブックの絵を見つめた。

「なんで、一枚も無いって……」

こんなのどこに出しても恥ずかしくねえのに。
前屈みになって食い入るようにページをめくると、人物画のページに差し掛かった。

「……え」

顔が塗りつぶされている。
鉛筆で描かれたモノクロの人物画は、顔が黒く塗りつぶされていた。
繊細で柔らかなタッチの髪や身体とは反対に、ぐしゃぐしゃに黒く塗りつぶされた顔はアンバランスで……背筋がゾッとした。
スケッチブックの後半は、顔を塗りつぶされた人物画が何枚も連なってる。

「……なんで」

失敗したのか?でも顔以外は写真みたいに上手くて、変な風には見えない。
描いている時、先輩になんかあったのか?人が、いや、人の”顔”が描けない何かが。
聞いてみるか?いや、でも……絵を描いていたこと自体を隠していた先輩に、そんなこと聞くのは良くない気がする。
ってか、なんで俺先輩の事こんな気になってんだ……?

「……わかんね」

ごちゃごちゃする思考をシャットアウトするように、俺はスケッチブックを元の位置に戻すと、頭から布団を被って寝転がった。
先輩は起きる気配は無い。本当に寝つき良いな。
思い返せば、先輩はからかう事は多くても俺に嘘は言わなかった。この、スケッチブックの事以外は。
……いや、俺が一人で考えても仕方ねえ。
ちょっと驚いたけど、それだけで先輩に拒否感を抱いたりしない。

「あ~……クソッ」

ガシガシと頭をかいて目元に流れる髪をかき上げる。
枕に散らばる自分の髪は、暗い視界の中でも僅かな光を吸い込んで金色に光ろうとする。
この金色の髪に偏見を持たれなかったのは先輩が初めてで、それだけで俺は充分だった。
考えんのは止めよう、そう思って俺は強く目を瞑った。
窓の外は暗いけど、かすかに聴こえる波の音が、俺の心を少しだけ落ち着かせてくれた――。