君の色彩に溺れたい。

side蒼壱。

見える景色全てがセピア色に褪せて見える。
やりたいことも言えなくて、ただ回遊魚みたいに生きる僕に鮮やかな色をくれたのは、太陽みたいな輝く髪の後輩だった。
明るく笑うたびに細められる赤みがかった茶色の瞳に、細かく揺れる金色の髪。
一緒にいると景色が色付いて見える。
今の僕なら出来るかもしれない。

夢を追える自分に、変われるかもしれない――。

「……」

ふっと目が覚めた。
ちら、とカーテン越しに空を見るとまだ暗い。
深い藍色、きっと深夜だ。
深夜に目を覚ますことはたまにある。深夜に起きるとなぜか中々二度寝出来ないから、更に寝起きが悪くなるけど。
隣の布団ですやすや眠る日夏に視線を投げる。

『先輩に好きって言ったの、嘘じゃない』
「……はあ」

思い出すだけでちょっと頬が熱くなる。
たった数時間前の出来事なのに。
正直、日夏は僕の事を好きなんじゃないかって思う瞬間はいくつかあった。
でも、年上の先輩に疑似的な恋愛感情を抱くのはよくある事だし。日夏の想いも一過性なものだと思ってた。

「”嘘じゃない”は、ずるいだろう……」

あの鋭い赤茶色の瞳に真っすぐ見つめられたら、それを否定することは出来なかった。
薄っすらと日夏から向けられる好意はくすぐったくて心地良かったから。
何より――僕の障害や過去と、真正面から向き合ってくれた。
眠気は無いけどとりあえず布団に潜って日夏の寝顔を見つめる。
気持ちよさそうに寝ている気がする。……あまりよく分からないけれど。

「……ちゃんと見たいな、君の顔」

幼少期に相貌失認を患った僕には、人の顔が分からない。
注視すれば目や唇といった独立したパーツとしては捉えられる。でも、それらを総合して”顔”や”表情”として見ようとすると、急に曇りガラス越しになったようにぼやけて認識出来ない。
輪郭の中身が識別出来ない。
僕がこうなったのは幼い頃に当時の母に石畳に突き飛ばされたからだ。
薄っすらと思い起こした。今まで見ようとしなかった過去の自分を。



昔から折り合いが悪かった父母の喧嘩を止めようとした瞬間、初めて真正面から母の顔を見た。
落ち窪んで血走った眼に、荒れた髪とくすんだ色の肌。

「邪魔なんだよ、お前」

直視した母の顔に初めて根源的な恐怖を覚えた。
テレビで見たホラー番組に出てくる幽霊よりも、学校で流行っていた怪談話よりも。
実の母の顔が、人生で一番恐ろしかった。
怖い。
人の顔が直視出来ない。
人の顔を、見たくない。
その出来事がトリガーになって、僕は相貌失認を患った。無意識に人を避けて、人の”顔”から目を逸らし続けた。
だって見えないし、見たくもない。――怖いから。
友人なんて居なかったし、両親が離婚してからは父と二人きりの生活になった。心に重くのしかかっていた実母という恐怖やプレッシャーの対象から解放されて、僕の家は格段に過ごしやすくなった。

「怖い思いをさせてすまない」

あの事件以来、父には何度も謝られた。
悲しさは声音で伝わった。……表情は、分からなかったけれど。

「蒼壱の好きな事をやりなさい。何か夢はあるか?父さんはお前の夢を否定しないから、言ってごらん」
「何も無いよ、父さん」

幼い僕は、そう静かに呟いた。
――本当は、絵に関わる仕事が良かった。
紙と鉛筆さえ与えてくれればそれで良かった。他の娯楽は要らない。
節目ごとに父は僕に夢を聴いてくれた。その度に、夢は無いと答えた。
そのくせお小遣いで美術関係の参考書を買ったり、美大に行くための勉強だけは隠れてずっと続けていたんだから、僕も大概諦めが悪い。
それでも心のどこかでこの夢は相貌失認を患った自分が叶えられるものじゃないって、ずっと思い込んでいた。

彼に――猫田日夏に、出会うまでは。

◇◆

高校三年生の入学式。
窓の外から見えるさらさらと流れる桜の花びらを、うんざりした気持ちで見つめていた。
新入生がやってきて、クラス替えで新しい生徒と交わらざるを得ないこの日が、僕は学園生活で一番嫌いだった。
自己紹介で神経を使うのは、相手の髪型と声。それ以外で識別出来る情報が無いから。
ああ、面倒だな。……サボるか。
どうせ咎める同居人もいないし。
そう思って僕は学ランに袖を通したにも関わらず、人の波に逆らって朝の青嵐高校を後にした。

昼過ぎに戻ればいいか、そう思って砂浜まで来た。
適当に寝転がって目を閉じると、世界で独りきりになったみたいで心地が良い。
気温も丁度良いし、海から吹く潮風は心地いい。
夢現でいると、ザクザクと砂を踏みしめる音が鼓膜を揺すった。

「……いお前!大丈夫か!?」

なんだよ、人がせっかく二度寝しようとしてるのに。
無遠慮に肩を掴まれてがくがくと揺さぶられる。
誰だこいつ。聴いた事無い声だな。
聴いた事は無いけど、ストレートに心から焦ってそうだ。なんか心配されてる?もしかして僕、倒れてると思われた?
重い瞼を開けると、胸元に自分と同じ校章が見えた。

「へえ、君も青蘭の子なんだ」

なんでこの時間にこんな所にいるのか知らないけど、と思いながら顔を上げた。

「……っ」

目に飛び込んできたのは太陽に透けるような金色の髪。

「大丈夫か!?」

健康的な肌の色に、よく通る少し高めの声。
……なんか、ずいぶん感じの良さそうな子に絡まれたな。
金色の髪に小さな傷跡が残る手は不良みたいだけど、学ランはきっちり来てるし、雰囲気に棘が無い。なんだかそれが物珍しくて見つめていると――

「……綺麗っすね、瞳の色」

感嘆したように呟かれた。
瞳?僕の目って綺麗なのか。鏡すらろくに見ないから、自分の顔もよく分からない。
……なんか、からかいがいのありそうな子。
ちょっとした出来心ですっと彼に顔を寄せて、その髪に軽く触れた。

「綺麗な金色。染めたの?」
「じ、地毛。……母ちゃん外国人だがら」
「そうなんだ。夏の太陽を溶かしたような、綺麗な色だね」
「えっ」

あ、驚いてる。
表情は分からないけど分かる。っていうか、この子全身で喜怒哀楽を表現してくる。
分かりやすくていいな。みんなこうだったら良いのに。
注視してみれば、金色のまつ毛に縁どられた潤朱(うるみしゅ)みたいな深い赤茶色の瞳は珍しくて綺麗だ。
まっすぐな視線と態度、太陽が化けて出たみたいな子。
猫田日夏に対する第一印象は、とにかく眩しい子だった。

同じ学ランだったから同じ学校なのは分かったけど、まさか同室になるとは思わなかった。
正直同居人が出来るって先生から聞いた時は、

「は?嫌です」

思いっきり眉根を寄せて断っていた。
学生は先生の言う事を聞けと説教されて、渋々従ったけど。
会わなかったら空き部屋にでも籠っていよう。幸い別館には自分しかいないし。なんて思っていたら。

「失礼しまーす!今日からお世話になる猫田――……」

あ、固まった。
本当にこの子分かりやすい。
恐らく笑顔で固まったその子は、猫田日夏って名乗っていた少年。僕が唯一知っている後輩だった。

「へえ、後輩って君だったんだ。――案外早く再開出来たね。よろしく、日夏」

陰鬱とした気持ちは霧散して、僕はにっこり笑って日夏を迎え入れた。
なんだ、この子となら案外やっていけそうだ。

それから日夏との生活が始まった。
セピア色で無味乾燥とした僕の生活は、快活な猫の侵入で一変した。
寝起きの悪い僕の事を毎日起こしてくれるし、ちょっとからかったら分かりやすく照れるし。
夜の校舎で中学の時に荒れていたって話をされた時は、薄々察していたから驚かなかった。
日夏にとっては汚点だったとしても、根が良い子なのは変わらないし。僕と出会ってから日夏が誰かに暴力を振るった所なんて一度も見た事が無かった。
泥棒相手にすらそうだったんだから、きっとその過去は日夏1人の力じゃどうにもならなかったんだ。

半年間日夏と過ごす内に、僕の中で1つの想いが強くなった。

――日夏の顔、見てみたい。

細かく動く跳ねた髪、小柄だけど意外とがっしりした身体。明るく通る声。
ストレートに感情を表現してくれるから大体感じ取れるけど、日夏の表情は曇りガラス越しの景色みたいにぼやけてしまう。
今、どんな表情をしている?
猫みたいに目を細めて笑っている?赤茶色の目を見開いて、驚いている?
――知りたい。
日を追うごとに、僕はそう強く思うようになった。

「俺の事、描いてくれませんか?」

蒸し暑い夏の夜。
自分の過去を打ち明けた時に言われたその言葉に、僕は目を見開いて固まった。
描く?僕が、日夏を?――分からないのに?
ひどく動揺して、目の焦点が合わなくなる。
でも、自分の胸に手を当ててはっきりと告げる日夏の雰囲気は真剣そのもので。

「……――」

僕の中で勇気が芽生えたのもその時だ。
日夏の顔は分からない。でも、”分からない”ままでいたくない。日夏の顔を、ちゃんと認識したい。
”日夏の顔を描く”。
その行動は僕がこの障害を患ってから、初めて踏み出せた一歩だった。

◇◆

「……」

むく、と起き上がって机の上に置かれたスケッチブックを手に取る。
椅子に座ってぱらぱらとページをめくると、そこには二週間書き溜められた日夏の人物画あった。
大きくて吊り上がった瞳、すっきりと通った鼻筋に、厚めの唇。
日夏の顔は、こうしてみると随分と僕の好みだ。
僕の障害は不思議なもので、絵に描き起こせば顔として認識出来る。日夏自身も”鏡を見ているみたい”だと言っていたから、日夏の顔はこうなんだろう。

「……ふふ」

スケッチブックを閉じてそっと胸に寄せて抱きしめる。
虫の音も聴こえない深夜は、耳をすませば薄っすらと海からのさざ波の音が聴こえる。
室内からは時計の針の音と日夏の微かな吐息が耳に届く。
それが凄く安心する。
そっと布団に戻って日夏の方に身を寄せる。

「ありがとう、日夏」

大好きだよ、は言い慣れないからまた後で。
ああ、今ならもう一度眠れる気がする。
僕は目を閉じて、波の音を聴きながら眠りの世界に落ちていった――。