「ボトルとタンクにはそれぞれお水を入れておいてね」
「分かりました。クーラーボックスに入れる氷は?」
「私が入れてくるわ。すぐそこに製氷機があるから」
放課後。ジャージに着替えた俺は、グラウンド端の水飲み場で、森田先輩の指示通り、給水ボトルとタンクへ水を入れていった。五百ミリリットルのボトル十六本全部に水を入れ終わったところで、後ろからガタガタ音がする。
「先輩、台車持ってきました」
振り返ると、長い髪を後ろで一つにまとめた、つり目気味の女子が台車と共に立っていた。俺と同じ一年で、一組の奥村さんだ。
「ありがとう、それじゃあ乗せちゃいましょうか」
奥村さんが持ってきた台車に、給水タンク、クーラーボックスと重い物から順に乗せていく。さほど大きくない台車はすぐ一杯になり、給水ボトルの入った籠が二つ、余ってしまった。
「じゃあこれは俺が持ちますね」
八本ずつボトルが入った籠を、ひょいと両手で持ち上げる。両腕で合計八リットル分の重さがかかるが、男の俺には大した重さではない。
しかし森田先輩と奥村さんからは「おお~」と歓声が上がった。
「やっぱ男子は違うね」
「一ノ瀬くんが入ってくれて助かったわ~」
「いえ、力仕事なら全然やるので」
俺はボトルの籠を運びながら、救急バッグを運ぶ森田先輩と台車を押す奥村さんの後をついてサッカーコートへ向かった。
コートには既にジャージを着た選手たちが集まって、練習前のストレッチを始めていた。その中には、悠理の姿もある。
部活見学をした翌日、俺は悠理に誘われるまま、サトセンの元を訪れて入部届けを出し、マネージャーとなった。男のマネージャーはやはり中々いないらしく、サトセンにも「選手じゃなくていいのか」と二、三度聞かれたが、最終的にはオッケーを出してくれた。
一番心配だったのが同じマネージャーに受け入れてもらえるかだったが、そっちは意外にも喜んでくれた。
「部活見学で動いてくれた子よね。すごく助かったから嬉しいわ」
「男子がいれば色々と頼れるし、いいんじゃない?」
森田先輩も、一緒に入った奥村さんもそんな反応だったので、正直入部したての頃は面食らってしまった。けれど一週間仕事をやってみて納得した。マネージャーは意外にも体力勝負だったのだ。
水の入ったボトルやタンクを何リットル分も運んだり、練習メニューのタイムキーパーをやったり、コートから飛び出し遠くに行ってしまったボールを拾いに行ったり。
そんな仕事をしていれば、力も体力もある男子の手が欲しくなるだろう。去年はこれをゆるふわな森田先輩が一人でこなしていたというから驚きだ。
「もっと積極的にマネージャーを勧誘したりしないんですか? 今年は俺たち三人だけなんですよね」
コート脇のベンチの上にボトルの籠を置きながら、俺は森田先輩に問いかける。すると先輩は眉を八の字にして苦笑いした。
「本当はもっといてくれると嬉しいんだけどね。部員目当てで来られても困るから」
曰く先輩が一年生の頃、三年生のマネージャーの先輩が、選手と話してばかりで全く仕事をしなかったらしい。加えて男女関係の揉め事まで発生し、部活も荒れて、色々と大変だったそうだ。
漫画みたいな泥沼が現実にあるのかと、俺は話を聞いて絶句する。奥村さんはあからさまに顔を歪めていた。
「うわー、最低ですね」
「そうねぇ。だから今は別に急いでないかな。力仕事は選手のみんなも時々手伝ってくれてるから、なんとかなってるし」
「争いの元になりそうなものは入れない方がいいですよ」
「うん。仲良くするのはいいけど、練習の邪魔をするのはダメよね」
笑顔でそう言う森田先輩に、激しく頷く奥村さん。女子の世界も色々と大変らしい。
森田先輩がタイムキーパーをやる傍ら、俺と奥村さんで給水ボトルをコートの周りに置いていく。選手たちが練習中、手軽に水を飲めるようにするためだ。
けれど一通り置き終わると、今度はやることがなくなってしまった。選手と違って、マネージャーは常に働いているわけではない。
俺はコートの脇に立ち、ぼんやりと練習をながめていた。飛んだり走ったりと身体を動かすだけのアップから始まり、ボールを使ったドリブル練習、四対一でのパス回しの練習に変わっていく。
どれも中学でサッカーをやっていた時に練習に入っていたメニューばかりだった。以前は見るのも苦しかったのに、今では素直に懐かしく思える。
そのことに内心喜びを感じていると、コートの中からボールが一つ飛んできた。迷子になってしまいそうなボールを追いかけ、足で受け止める。コート側からボールを逃がしてしまったらしい選手が駆け寄ってきた。
「サンキュ、ハル」
「悠理だったんだ。お疲れ」
俺が足でパスを出すと、悠理は軽く受け止めた。そのままリフティングでボールを蹴り上げ、すとんと手の平の中に落とす。一連の所作はとても綺麗でかっこいい。
「どう、マネージャーは? 楽しんでる?」
「そうだね、みんなのサッカーも見れるし。悠理は部活、どう?」
「まあまあ。ここは強豪校でもないし、こんなものかなって」
悠理はちらりと他の部員たちを横目に見ている。何やら思うところがあるようだった。
「練習が物足りない?」
「え、ハルってテレパシーできるの」
「いや、見てたら分かるよ」
身体の動きも、ボールの蹴り方も、悠理はやはり群を抜いてうまかった。他が下手とは言わないが、ゲームに例えるなら、レベル八十のパーティの中に、一人だけレベル二百が混じっているようなもの。だからこそ逆にやりにくいのだろう。
それを告げると、悠理は小さく吹き出した。
「ハル、めちゃくちゃ俺のこと見てるじゃん?」
「そうかな……?」
けれどよくよく考えれば、確かに部活中は気づけば悠理の姿を目で追っていた。悠理のプレイは思わず見てしまう魅力があるが、ずっとガン見してしまっていたことには我ながら驚く。
「ごめん、嫌だったらやめるよ」
「むしろ嬉しい。どんどん好きなだけ俺を見てて」
悠理は笑みを浮かべながらそう言った。特に不快な思いはさせて居なかったようで、ほっと胸をなで下ろす。
「まあ練習に関しては物足りないけど、別にそれが悪いってわけじゃないし。慣れればなんとかなるよ」
そう告げた悠理の顔に陰りはない。物足りないからといって、それが不満な訳ではないのだろう。
「そっか。ならよかった」
「ま、ともかくお互い頑張ろう」
悠理はそう言って、コートの中へ戻ろうと踵を返す。
そのとき練習メニューが変わることを知らせる笛が鳴った。
次は一対一でのパス練習らしく、選手たちは次々二人組になっていく。そんな中で俺と一緒にいた悠理は、相手探しに乗り遅れてしまった。元々今日は奇数だったため、悠理が一人余ってしまう。
「ごめん、俺が邪魔したから……」
「いやいや、話しかけたの俺だし。気にするなって」
悠理は否定してくれるが、とはいえ流石に申し訳なかった。選手と話していて練習を邪魔したマネージャーの話を聞いたばかりだったし、このまま何もしないのは気が引ける。
「あの、良ければ俺が相手しようか?」
「え、パス練?」
「うん。多少は役に立てると思うよ」
上手い悠理の相手が務まるかは分からないが、一応俺も元サッカー部だ。けれども悠理は眉をひそめて俺を見つめる。
「元サッカー部の件は大丈夫?」
「大丈夫だよ。流石にバレないって」
確かにマネージャーとしてサッカー部になっても、経験者であることは今でも悠理以外には秘密にしていた。けれどパスなんて体育の授業でいくらでもやるし、多少できたところで他人も違和感は抱かないだろう。
「じゃあ……お願いしようかな」
俺は森田先輩に断ってコートに入り、悠理と距離をとって向かい合った。
悠理がボールを地面に置き、ぽん、と軽快な音を立ててパスをしてくる。俺も転がってきたボールを足で受け止めて、同じように悠理に返した。
間の距離は次第に長くなり、ショートパスからロングパスへ。ボールの動きも地面を転がる動きから、高く宙へ浮くような動きへと変わっていった。
「ごめん、ミスった!」
遠くでボールを蹴る音が聞こえた直後、慌てた悠理の声が響いてくる。ボールの音からして、恐らく思ったより強めに蹴ってしまったのだろう。けれども大した問題ではなかった。
「大丈夫ー!」
俺は叫びながら後方に走る。宙を舞うボールの動きはしっかりと捉えていた。
それまでより遠くまで飛んだボールを胸で受け止め、太ももでバウンドさせてから地面に下ろす。
ボールの音、悠理の立ち位置、蹴った後の足の向き……いろんなことを考えれば、ボールがどれだけ飛んで、どこに落ちてくるかは大体予想がつく。それに足の速さには自信があった。試合中だと対応するのは難しいが、ボールと相手だけを意識していればいいパス練習なら、距離的にあり得ない方向へ飛ばされでもしない限りは基本的に取りこぼすことはない。
「返すよ、悠理!」
地面に置いたボールを宙に蹴る。高く飛んだサッカーボールは、悠理が立つ位置にすとんと落ちた。サッカーを辞めたとはいえ、まだまだ自由にボールを動かせていることが嬉しい。
(やっぱり、楽しいな)
ボールが自分の身体の一部みたいに動かせる感覚。それが俺は昔から一番好きだった。色々あってサッカーができなくなった俺が、昔と同じようにサッカーを楽しめるはずはないと思っていたのに、悠理とのパス練は、そんなことないと教えてくれているようだった。
思えば俺は悠理に、ずっと助けられている。
マネージャーとして部活に入る時も。パス練の時も。悠理の言葉や行動がきっかけで、俺はサッカーに向き合えた。
小さい頃は俺が彼を守っていたというのに、今では俺が彼に手を引かれているようだった。俺を導いてくれているみたいで、すごく頼もしい。
再び笛の音が鳴り、パス練習は終わりを告げた。悠理はボールを手に持って、コートから出ようとした俺に駆け寄ってくる。
「途中、変なところに飛ばしてごめん。でも滅茶苦茶上手かったよ」
「いやいや、悠理ほどじゃないよ」
謙遜抜きでそう思う。途中ミスをしたとはいえ、悠理のパスはフォームもボールの軌道もお手本みたいに綺麗だった。
「そんなことないって。俺、部活に入って初めてパスがしっくり来た気がするし」
「あはは、悠理にそう言われたらなんか嬉しいけどね」
顔をしかめた悠理を、俺は軽く笑い飛ばす。
二人でパスの感想を言い合っていると、ぱたぱたと足音が二つ、後ろから近づいてくる。振り返ると、俺たちの隣でパス練習をしていたツンツン頭の元気そうな白ジャージと、茶髪ショートで真面目そうな黒ジャージが話しかけてきた。
「なあなあ! お前、めっちゃ上手いじゃん!」
「マネージャーだろう? 確か五組の一ノ瀬だよな」
「えっ、マジ!? 同じクラス!? ごめん全然気づかなかった!」
白くてテンションが高い方は山本、黒い真面目そうな方は有岡だったはず。二人はどちらも一年で、有岡は四組、山本は話にも出た通り同じ五組だ。といっても今の出席番号順の席順では「い」と「や」の席は離れすぎていて、山本も俺も互いに認識していなかったが。
「しかし、さっきの一ノ瀬の動きはとてもよかったな」
「はいはい! 俺も一ノ瀬とパス練したい!」
二人は口々に俺のパスを褒めてくる。そんなにさっきのパスが、二人の琴線に触れたのだろうか。けれどこれほどぐいぐい来られた経験はなく、どうしていいのか分からなくなってしまう。
「こら、ハルが困ってるだろ」
二人の勢いに気圧されていると、悠理が間に入ってくれた。山本と有岡は俺の様子に気付いたようで、慌てて距離を取ってくれる。
「ごめんな~? でも今度絶対やろうな」
「ああ、またそのうち」
それぞれそう言い残し、二人は他の部員の中へと帰っていく。
その背中を眺めながら、悠理が肩をすくめて苦笑いした。
「ごめんな、驚いただろ」
「少しね。助けてくれてありがとう」
素直に感謝を伝えると、悠理は口元を軽く緩めた。
「でも俺も、またハルとボール蹴りたい。機会があればよろしくね」
そう言って悠理も、他の選手たちのいるコートの真ん中へ向かっていく。次のシュート練習であ練習位置が大きく変わるから、給水ボトルも置き直さなければならないだろう。
俺は近くに落ちている給水ボトルを拾いながら、移動していく悠理たちの背中を眺める。
マネージャーは直接練習に参加しない。試合でシュートを決めて部活を盛り上げるわけでもない。
けれどボトルの準備や練習相手のような小さなことで選手たちの助けにはなれる。そういうささやかな貢献も、悪くはないなと俺は思った。
「分かりました。クーラーボックスに入れる氷は?」
「私が入れてくるわ。すぐそこに製氷機があるから」
放課後。ジャージに着替えた俺は、グラウンド端の水飲み場で、森田先輩の指示通り、給水ボトルとタンクへ水を入れていった。五百ミリリットルのボトル十六本全部に水を入れ終わったところで、後ろからガタガタ音がする。
「先輩、台車持ってきました」
振り返ると、長い髪を後ろで一つにまとめた、つり目気味の女子が台車と共に立っていた。俺と同じ一年で、一組の奥村さんだ。
「ありがとう、それじゃあ乗せちゃいましょうか」
奥村さんが持ってきた台車に、給水タンク、クーラーボックスと重い物から順に乗せていく。さほど大きくない台車はすぐ一杯になり、給水ボトルの入った籠が二つ、余ってしまった。
「じゃあこれは俺が持ちますね」
八本ずつボトルが入った籠を、ひょいと両手で持ち上げる。両腕で合計八リットル分の重さがかかるが、男の俺には大した重さではない。
しかし森田先輩と奥村さんからは「おお~」と歓声が上がった。
「やっぱ男子は違うね」
「一ノ瀬くんが入ってくれて助かったわ~」
「いえ、力仕事なら全然やるので」
俺はボトルの籠を運びながら、救急バッグを運ぶ森田先輩と台車を押す奥村さんの後をついてサッカーコートへ向かった。
コートには既にジャージを着た選手たちが集まって、練習前のストレッチを始めていた。その中には、悠理の姿もある。
部活見学をした翌日、俺は悠理に誘われるまま、サトセンの元を訪れて入部届けを出し、マネージャーとなった。男のマネージャーはやはり中々いないらしく、サトセンにも「選手じゃなくていいのか」と二、三度聞かれたが、最終的にはオッケーを出してくれた。
一番心配だったのが同じマネージャーに受け入れてもらえるかだったが、そっちは意外にも喜んでくれた。
「部活見学で動いてくれた子よね。すごく助かったから嬉しいわ」
「男子がいれば色々と頼れるし、いいんじゃない?」
森田先輩も、一緒に入った奥村さんもそんな反応だったので、正直入部したての頃は面食らってしまった。けれど一週間仕事をやってみて納得した。マネージャーは意外にも体力勝負だったのだ。
水の入ったボトルやタンクを何リットル分も運んだり、練習メニューのタイムキーパーをやったり、コートから飛び出し遠くに行ってしまったボールを拾いに行ったり。
そんな仕事をしていれば、力も体力もある男子の手が欲しくなるだろう。去年はこれをゆるふわな森田先輩が一人でこなしていたというから驚きだ。
「もっと積極的にマネージャーを勧誘したりしないんですか? 今年は俺たち三人だけなんですよね」
コート脇のベンチの上にボトルの籠を置きながら、俺は森田先輩に問いかける。すると先輩は眉を八の字にして苦笑いした。
「本当はもっといてくれると嬉しいんだけどね。部員目当てで来られても困るから」
曰く先輩が一年生の頃、三年生のマネージャーの先輩が、選手と話してばかりで全く仕事をしなかったらしい。加えて男女関係の揉め事まで発生し、部活も荒れて、色々と大変だったそうだ。
漫画みたいな泥沼が現実にあるのかと、俺は話を聞いて絶句する。奥村さんはあからさまに顔を歪めていた。
「うわー、最低ですね」
「そうねぇ。だから今は別に急いでないかな。力仕事は選手のみんなも時々手伝ってくれてるから、なんとかなってるし」
「争いの元になりそうなものは入れない方がいいですよ」
「うん。仲良くするのはいいけど、練習の邪魔をするのはダメよね」
笑顔でそう言う森田先輩に、激しく頷く奥村さん。女子の世界も色々と大変らしい。
森田先輩がタイムキーパーをやる傍ら、俺と奥村さんで給水ボトルをコートの周りに置いていく。選手たちが練習中、手軽に水を飲めるようにするためだ。
けれど一通り置き終わると、今度はやることがなくなってしまった。選手と違って、マネージャーは常に働いているわけではない。
俺はコートの脇に立ち、ぼんやりと練習をながめていた。飛んだり走ったりと身体を動かすだけのアップから始まり、ボールを使ったドリブル練習、四対一でのパス回しの練習に変わっていく。
どれも中学でサッカーをやっていた時に練習に入っていたメニューばかりだった。以前は見るのも苦しかったのに、今では素直に懐かしく思える。
そのことに内心喜びを感じていると、コートの中からボールが一つ飛んできた。迷子になってしまいそうなボールを追いかけ、足で受け止める。コート側からボールを逃がしてしまったらしい選手が駆け寄ってきた。
「サンキュ、ハル」
「悠理だったんだ。お疲れ」
俺が足でパスを出すと、悠理は軽く受け止めた。そのままリフティングでボールを蹴り上げ、すとんと手の平の中に落とす。一連の所作はとても綺麗でかっこいい。
「どう、マネージャーは? 楽しんでる?」
「そうだね、みんなのサッカーも見れるし。悠理は部活、どう?」
「まあまあ。ここは強豪校でもないし、こんなものかなって」
悠理はちらりと他の部員たちを横目に見ている。何やら思うところがあるようだった。
「練習が物足りない?」
「え、ハルってテレパシーできるの」
「いや、見てたら分かるよ」
身体の動きも、ボールの蹴り方も、悠理はやはり群を抜いてうまかった。他が下手とは言わないが、ゲームに例えるなら、レベル八十のパーティの中に、一人だけレベル二百が混じっているようなもの。だからこそ逆にやりにくいのだろう。
それを告げると、悠理は小さく吹き出した。
「ハル、めちゃくちゃ俺のこと見てるじゃん?」
「そうかな……?」
けれどよくよく考えれば、確かに部活中は気づけば悠理の姿を目で追っていた。悠理のプレイは思わず見てしまう魅力があるが、ずっとガン見してしまっていたことには我ながら驚く。
「ごめん、嫌だったらやめるよ」
「むしろ嬉しい。どんどん好きなだけ俺を見てて」
悠理は笑みを浮かべながらそう言った。特に不快な思いはさせて居なかったようで、ほっと胸をなで下ろす。
「まあ練習に関しては物足りないけど、別にそれが悪いってわけじゃないし。慣れればなんとかなるよ」
そう告げた悠理の顔に陰りはない。物足りないからといって、それが不満な訳ではないのだろう。
「そっか。ならよかった」
「ま、ともかくお互い頑張ろう」
悠理はそう言って、コートの中へ戻ろうと踵を返す。
そのとき練習メニューが変わることを知らせる笛が鳴った。
次は一対一でのパス練習らしく、選手たちは次々二人組になっていく。そんな中で俺と一緒にいた悠理は、相手探しに乗り遅れてしまった。元々今日は奇数だったため、悠理が一人余ってしまう。
「ごめん、俺が邪魔したから……」
「いやいや、話しかけたの俺だし。気にするなって」
悠理は否定してくれるが、とはいえ流石に申し訳なかった。選手と話していて練習を邪魔したマネージャーの話を聞いたばかりだったし、このまま何もしないのは気が引ける。
「あの、良ければ俺が相手しようか?」
「え、パス練?」
「うん。多少は役に立てると思うよ」
上手い悠理の相手が務まるかは分からないが、一応俺も元サッカー部だ。けれども悠理は眉をひそめて俺を見つめる。
「元サッカー部の件は大丈夫?」
「大丈夫だよ。流石にバレないって」
確かにマネージャーとしてサッカー部になっても、経験者であることは今でも悠理以外には秘密にしていた。けれどパスなんて体育の授業でいくらでもやるし、多少できたところで他人も違和感は抱かないだろう。
「じゃあ……お願いしようかな」
俺は森田先輩に断ってコートに入り、悠理と距離をとって向かい合った。
悠理がボールを地面に置き、ぽん、と軽快な音を立ててパスをしてくる。俺も転がってきたボールを足で受け止めて、同じように悠理に返した。
間の距離は次第に長くなり、ショートパスからロングパスへ。ボールの動きも地面を転がる動きから、高く宙へ浮くような動きへと変わっていった。
「ごめん、ミスった!」
遠くでボールを蹴る音が聞こえた直後、慌てた悠理の声が響いてくる。ボールの音からして、恐らく思ったより強めに蹴ってしまったのだろう。けれども大した問題ではなかった。
「大丈夫ー!」
俺は叫びながら後方に走る。宙を舞うボールの動きはしっかりと捉えていた。
それまでより遠くまで飛んだボールを胸で受け止め、太ももでバウンドさせてから地面に下ろす。
ボールの音、悠理の立ち位置、蹴った後の足の向き……いろんなことを考えれば、ボールがどれだけ飛んで、どこに落ちてくるかは大体予想がつく。それに足の速さには自信があった。試合中だと対応するのは難しいが、ボールと相手だけを意識していればいいパス練習なら、距離的にあり得ない方向へ飛ばされでもしない限りは基本的に取りこぼすことはない。
「返すよ、悠理!」
地面に置いたボールを宙に蹴る。高く飛んだサッカーボールは、悠理が立つ位置にすとんと落ちた。サッカーを辞めたとはいえ、まだまだ自由にボールを動かせていることが嬉しい。
(やっぱり、楽しいな)
ボールが自分の身体の一部みたいに動かせる感覚。それが俺は昔から一番好きだった。色々あってサッカーができなくなった俺が、昔と同じようにサッカーを楽しめるはずはないと思っていたのに、悠理とのパス練は、そんなことないと教えてくれているようだった。
思えば俺は悠理に、ずっと助けられている。
マネージャーとして部活に入る時も。パス練の時も。悠理の言葉や行動がきっかけで、俺はサッカーに向き合えた。
小さい頃は俺が彼を守っていたというのに、今では俺が彼に手を引かれているようだった。俺を導いてくれているみたいで、すごく頼もしい。
再び笛の音が鳴り、パス練習は終わりを告げた。悠理はボールを手に持って、コートから出ようとした俺に駆け寄ってくる。
「途中、変なところに飛ばしてごめん。でも滅茶苦茶上手かったよ」
「いやいや、悠理ほどじゃないよ」
謙遜抜きでそう思う。途中ミスをしたとはいえ、悠理のパスはフォームもボールの軌道もお手本みたいに綺麗だった。
「そんなことないって。俺、部活に入って初めてパスがしっくり来た気がするし」
「あはは、悠理にそう言われたらなんか嬉しいけどね」
顔をしかめた悠理を、俺は軽く笑い飛ばす。
二人でパスの感想を言い合っていると、ぱたぱたと足音が二つ、後ろから近づいてくる。振り返ると、俺たちの隣でパス練習をしていたツンツン頭の元気そうな白ジャージと、茶髪ショートで真面目そうな黒ジャージが話しかけてきた。
「なあなあ! お前、めっちゃ上手いじゃん!」
「マネージャーだろう? 確か五組の一ノ瀬だよな」
「えっ、マジ!? 同じクラス!? ごめん全然気づかなかった!」
白くてテンションが高い方は山本、黒い真面目そうな方は有岡だったはず。二人はどちらも一年で、有岡は四組、山本は話にも出た通り同じ五組だ。といっても今の出席番号順の席順では「い」と「や」の席は離れすぎていて、山本も俺も互いに認識していなかったが。
「しかし、さっきの一ノ瀬の動きはとてもよかったな」
「はいはい! 俺も一ノ瀬とパス練したい!」
二人は口々に俺のパスを褒めてくる。そんなにさっきのパスが、二人の琴線に触れたのだろうか。けれどこれほどぐいぐい来られた経験はなく、どうしていいのか分からなくなってしまう。
「こら、ハルが困ってるだろ」
二人の勢いに気圧されていると、悠理が間に入ってくれた。山本と有岡は俺の様子に気付いたようで、慌てて距離を取ってくれる。
「ごめんな~? でも今度絶対やろうな」
「ああ、またそのうち」
それぞれそう言い残し、二人は他の部員の中へと帰っていく。
その背中を眺めながら、悠理が肩をすくめて苦笑いした。
「ごめんな、驚いただろ」
「少しね。助けてくれてありがとう」
素直に感謝を伝えると、悠理は口元を軽く緩めた。
「でも俺も、またハルとボール蹴りたい。機会があればよろしくね」
そう言って悠理も、他の選手たちのいるコートの真ん中へ向かっていく。次のシュート練習であ練習位置が大きく変わるから、給水ボトルも置き直さなければならないだろう。
俺は近くに落ちている給水ボトルを拾いながら、移動していく悠理たちの背中を眺める。
マネージャーは直接練習に参加しない。試合でシュートを決めて部活を盛り上げるわけでもない。
けれどボトルの準備や練習相手のような小さなことで選手たちの助けにはなれる。そういうささやかな貢献も、悪くはないなと俺は思った。


