「はぁ、やっと終わった……」
 四限目終了のチャイムが鳴り、俺は椅子の上で脱力した。机の上にはいつのまにか真っ黒になったノートと、呪文のような数字や記号がびっちり書かれた数学の教科書が開かれている。
 入学式の翌週から、本格的に授業が始まっていた。どの教科も始めは中学の復習のような内容だったが、日が経つにつれてどんどん新しい内容が入ってくる。元々勉強があまり得意ではない俺は、授業についていくのに必死だった。特に苦手な数学の後は、毎回今のように疲労困憊してしまっている。
 次の時間は昼休み。本来なら疲れを取るにはちょうど良い時間だ。けれども今の俺にとっては、ある意味授業と同じかそれ以上に憂鬱な時間になっていた。
 どんよりしながら数学の片付けをしていると、隣から「ハール」と声がかかる。俺をそう呼ぶ人間は、このクラスに一人しかいない。
「一緒に昼飯食べていい?」
 顔を上げると、悠理が空になった隣の席にやってきていた。弁当袋は既に俺の机の上に置かれている。質問しておきながら、断られる気はないらしい。
 入学式の日によろしくして以降、悠理は昼休みに毎日俺の元にやってきていた。気まずいことこの上ないが、誘いを断るにも断りきれず、なし崩しに今の状況が続いている。
「別にいいけど……たまにはあっちで食べなくていいの?」
 スクールバックから弁当を出しながら、俺は目線で教室の後方を指した。そこではクラスの一軍女子たちが、じっとこちらを睨んでいる。
「あの子たちも、悠理と話したいんじゃない?」
 入学式当初から悠理と話したそうにしていたが、関わるタイミングを失っているらしい。だから悠理と一緒に昼休みを過ごしていると、あの子たちからの視線を感じて胃が痛かった。
「んー、でも俺はハルと話してる方が楽しいし」
 俺の悩みを知らない悠理は、さも当然のように答える。
「いや、あの子たちと話したことほぼないでしょ」
「だってハルと話すのが楽しいから?」
 堂々巡りになってしまい、俺は内心頭を抱える。
 楽しいと言われても、俺のどこにそんな要素があるのか全く分からない。爽やか美形の悠理とは違い、俺は誰かを楽しませるような個性を持っているわけではないし。
 そもそも悠理は俺を幼馴染みとして接してくるが、俺の方は未だに距離を測りかねている。彼と話す度に、引っ込み思案で可愛らしかった「サクラちゃん」と、爽やかイケメン王子の「悠理」の間でイメージが揺れ動き、毎回混乱させられてばかりだった。
「早く食べよう。もうめっちゃお腹空いたんだよね」
 悶々と悩む俺の横で、悠理は弁当の袋に手を入れる。中から出てきたのは小さくて可愛いファンシーなお弁当箱……ではなく、長さが二十センチもある深めの弁当箱だった。中には、唐揚げや卵焼き、肉の野菜巻きがこれでもかというほど詰められている。
 小さい頃のサクラちゃんは小食でお菓子ばかりを小さな口で頬張っていたのに、今ではザ・高校生男子みたいな弁当を持ってくるなんて。いや実際に高校生男子だし、運動部だったなら当たり前なのだが。
「ん、なにか欲しいおかずでもあった?」
 悠理が俺に首をかしげる。どうやら見つめすぎてしまっていたらしい。
「いや、いっぱい食べるなと思って見てただけ」
「そりゃ、男だし? 最近は無限に腹減るんだよな~」
 そう言って悠理は大きな唐揚げを一口で食べる。いい食べっぷりだ、本当に。あの頃のサクラちゃんはどこへ行ってしまったのだろう。
 もやもやしながら俺も自分の弁当箱を開ける。悠理のものより一回り小さい二段弁当の中には、母さんお手製の辛めのエビチリが入っていた。好きな物が入っていた嬉しさで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着く。
「そういえば後で、ハルに付き合って欲しいことがあってさ」
 悠理は思い出したように弁当を食べる手を止め、声を潜めた。
「何かするの?」
「学校で迷子にならないための対策」
「それは大事なやつだ」
 今は教室での授業ばかりだが、今後は移動教室も増えてくるだろう。そこで方向音痴を発揮して、授業に辿り着けなかったら一大事だ。
 悠理は頷き、ポケットからスマホを取り出してみせた。
「だからこれで、よく使いそうな場所への行き方を、動画で撮っておきたくてさ」
「へえ、動画で覚えるんだ」
「そうそう、地図で見るより風景とか目印で道順覚えた方が覚えやすいんだ」
 外だと地図アプリのストリートビューが使えることもあるが、学校内だとそれは難しい。だから自分で用意しなければならないそうだ。
「なるほど。じゃあ俺はその道案内?」
「そういうことです……ごめん、こんなのハル以外に頼めなくて」
「いいよ、それくらいなら全然」
 悠理が方向音痴なことは、未だに二人だけの秘密だ。頼れる相手が自分しかいないと分かっている以上、無下にすることはできなかった。それに一人で撮影にいかせて、五限目の授業までに戻ってこなかったら恐ろしい。
「それじゃ、早くご飯食べちゃおうか」
 昼休みは五十分。長いようですぐ終わってしまう。南高校の敷地はさほど広いわけではなかったが、それでも学校中を撮影するとなれば、少なくとも三十分は必要だろう。
 俺たちはさっさと弁当を掻き込んで、十五分で食事を終えた。それぞれ弁当箱を片付けた後、五組の教室前の廊下でもう一度集合する。
「どの教室から行きたいとか、希望ある?」
「いや、特に。その辺は全部ハルに任せる」
 悠理はスマホでカメラを起動させながらそう応えた。
「なら東校舎は? 今後よく行きそうだし」
 今俺たちがいるのは、各学年の教室が入っている西校舎。一方の東校舎は理科室や美術室など、授業で使う教室が入っている校舎だ。今後行く機会が増えるのは確実で、道を覚えるなら一番最初に覚えておいた方がいい場所だろう。
 俺の提案に、悠理は「いいじゃん」と二つ返事で頷いた。
「それじゃ、行こう」
 俺は悠理の前に立ち、何気なく手を差し出す。撮影開始のボタンを押そうとしていた悠理は、目を瞬かせながらその手を止めた。
「その手、なに?」
「え……あっ」
 俺は慌てて手を引っ込めて背中に隠す。
 昔サクラちゃんと一緒に歩く時は、常に手を繋いでいた。そのときの習慣を、勝手に身体が覚えていたらしい。
 顔がかーっと熱くなり、ぱっと顔を横に逸らす。
 悠理は笑みを浮かべながら、俺に顔を近づけてきた。
「もしかして手、繋いでくれようとした?」
「べ、別にそういうわけじゃ」
「繋いでくれるなら俺は嬉しいけど」
「いやいやいや……さすがにダメでしょ?」
「なんで? 男子と女子ってわけでもないのに」
「あ……確かに……?」
 男子と女子が手を繋いでいればあっという間に噂になる。けれどよくよく考えればサクラちゃん――悠理は男だ。男と男が手を繋いでいたところで、なにも……
「なにもなくない。それはそれで恥ずかしすぎる……!」
 危うく騙されてしまうところだった。キッと睨むと悠理は肩をすくめてぺろりと舌を出す。
「あーあ、残念。あと少しだったのに」
「からかわないでよ……!」
「ごめんごめん。ついかわいくて」
 手の平を立てて謝ってくる悠理に、俺は小さくため息をつく。頬の熱は冷めていたが、胸の奥はひたすらにざわざわしていた。
 子供の頃によくやっていたからといって、自分から手を繋ごうとするなんて。それに悠理も悠理だ。どうして俺の失態に乗ってこようとするのだろう。彼との接し方が、一層よく分からなくなった気がした。
 ひとまず深呼吸をして気を取り直し、悠理と一緒に東校舎へと向かうことにした。悠理は歩きながら動画を撮影しつつ、途中で「ここで曲がりまーす」「消火器があるところを右に」など声でメモを残している。
「ここが渡り廊下で、渡ったら東校舎だよ。東校舎と西校舎の間に見えるのが中庭ね」
「だそうでーす。っていうかハルはなんでもう場所を覚えてるんだ?」
「いや、教室に見取り図があるし……」
 教室の前、黒板の右側の掲示板スペースに、学校の見取り図が貼ってある。席が近いと言うこともあって、いざと言うときに迷わないように何度か見て覚えていた。
「そんなに複雑な構造してないしね、うちの学校」
「なのに案内なんか頼んですみません……」
「方向音痴なら仕方ないよ。気にしないで」
 学校から徒歩二分の場所で迷っていた悠理の方向音痴は、筋金入りなのだろう。それに悠理は、こうして道を覚えて弱点を克服する努力をしている。それは純粋にすごいと思った。
「でもかっこ悪いだろ」
「別に俺は気にしないよ」
 小さい頃の悠理を知っている俺からすれば、むしろそれくらいの弱点がないと落ち着かない。今以上に完璧人間だったら、こうして話しているのも恐れ多く感じてしまうだろう。
「ハルがそう言ってくれるならありがたいけど……」
 悠理は不満そうに口を尖らせながら、カメラを回し続けた。
 第一理科室、第二理科室、美術室、図書室……と、俺たちは東校舎の教室を、最上階の三階から順番に回っていく。見取り図では見たものの、実際には言ったことがない場所を歩くのは、なんだか探検みたいで楽しかった。
 しかし東校舎一階にさしかかった時、たまたま体育準備室から出てきた先生とばっちり目があった。
「お前ら、一年生だよな。何してるんだ?」
 頭をスポーツ刈りにした、ジャージ姿の小柄な男の先生だった。出てきた場所から、恐らく体育教師なのだろう。日に焼けた肌に引き締まった身体は、いかにもスポーツマンらしい。
 先生はカメラを構えたままの悠理と隣の俺を見比べて、見て眉間に皺を寄せている。怪しいことをしていると勘違いされているようだ。
「これはですね……」
 悠理があたふたしながら口を開いたが、すぐに言葉を詰まらせてしまった。まさか正直に方向音痴だから動画で道を撮影していたとは言えないのかもしれない。
「南高校に入れた記念撮影をしていたんです」
 俺は咄嗟に思いついた言い訳を告げてみる。苦しいかもしれないが、そのまま黙ってしまうよりマシだろう。
 先生はうまく信じてくれたらしく、納得したように頷いた。
「あー、なるほど。でも記念撮影なら普通自分を撮らないか?」
 カメラの向きから、周りの景色を撮っていることはばれているようだ。
「ほら、自撮りって難しいじゃないですか。二人もいるとうまく入らなくて」
「ふーん。なら俺が撮ってやろうか?」
 先生はスマホを渡せと言うように、手を差し出してきた。
 予想外の展開に身体が固まる。それでもここまできたらやり通さなければと、俺は悠理に目配せした。悠理は意図をくみ取ってくれたようで、動画撮影を一時停止し、カメラ撮影に切り替えてから、スマホを先生に渡した。
「ほら、撮るぞ。二人とも寄れ」
「こうですか?」
 突然始まった記念撮影に戸惑いながらも、俺たちは二人並んでピースする。けれども先生は「ダメだ」と言いながら首を振った。
「入らないからもっと寄れって」
 指示に従い、もう一歩悠理の方へ近づいた。悠理も同じように近づいてきていたようで、とんと俺の右肩が悠理の左腕に当たった。
 ブレザー越しに、悠理の体温がほんのり伝わってくる。幼い頃に繋いでいた華奢な腕は、今では固く引き締まっていた。それに気づいて、何故だか妙にそわそわしてしまう。
「おー、そんな感じ。んじゃ、撮るぞー」
 パシャパシャと二回、とシャッター音が鳴り響く。
「ほら、撮れたぞ。確認しろ」
「ありがとうございます、大丈夫そうです……」
 悠理は写真を確認してから、ぎこちなく頭を下げている。
「いいって。けどあんまり、怪しまれるような行動はするなよ」
 先生は笑顔で手を振り、西校舎の方へ歩いて行った。その背中が見えなくなってから、俺と悠理は同時に脱力した。
「よかった~……」
「なんとかなったな……」
 悠理は大きな息をついて苦笑いをした。
「ありがと、ハルのお陰だ」
「結構ギリギリだったけどね。上手くごまかせてよかった」
 姿勢を戻しながら苦笑いすると、悠理はふわりと頬を緩ませた。
「やっぱりハルは頼もしいな」
「大げさだって」
 大したことはしていない。ただ秘密を守りながら、弱さを克服しようとする悠理が、傷ついてほしくないと思っただけだ。
 けれども悠理は「そんなことない」と首を横に振る。
「俺、ハルがいてくれてよかったよ」
「……そっか」
 少し照れたような悠理の笑顔は、相変わらずキラキラ眩しい。けれども何故だか今はその表情に、昔の「サクラちゃん」の天使みたいな笑顔が重なった。
「それじゃ、続きを撮りにいこう」
 悠理は再びカメラを動画に切り替えて、校舎撮影を再開させる。
 俺はその言葉に頷くと、悠理を残りの教室へと案内していった。
 心の中は案内を始めた頃より、ほんの少しだけ落ち着いていた。


 夜。ベッドに入ってスマホをいじっていると、メッセージアプリの通知が届いた。
 相手は悠理。タップしてメッセージを確認すると、犬のスタンプと共に写真が二枚送られてきていた。
『昼間撮ってもらった写真、送るな!』
 送られてきたのは俺と悠理が並んでピースサインをしている、あの写真だ。方向音痴がバレると焦っているのか、悠理の表情はやけに固くて不安そうだ。
 爽やかで余裕のあるイケメンの彼に似つかわしくない表情に、思わず笑みをこぼしてしまった。
(すごく変わっちゃったけど……あの頃の悠理がいなくなったわけじゃないのかな)
 先生から解放された後の笑顔も、この写真も。ほんの少しだけ「サクラちゃん」の面影が残っている。
 彼はサクラちゃんであり、悠理なのだ。
 それをようやく実感し、悠理に対して抱いていた混乱がゆっくりと解けていった。
 彼は少しよく分からない行動を取るし、おまけにサッカーをやるつもりらしいから、やっぱり気まずいところもある。
 けれど明日からは彼と一緒にいるときも、今までよりほんの少しだけ、肩の力を抜いて過ごせそうな気がした。