十月に入って最初のホームルーム。話題に上がったのは、下旬にあるクラスマッチの競技分けだった。
 教壇に立つメガネ女子の委員長が、黒板にチョークでカツカツと競技名を書いていく。
「ひとまず希望を取ってしまいます。やりたい競技の下に名前書いてくださーい」
 うちの高校のクラスマッチは男女別に競技を選んで試合に出る。女子はバレーボールとバスケットボール、男子はサッカーとバスケットボール。それぞれどちらかを選んで参加し、トーナメント戦で学年の一位と最下位クラスを決めるのだ。
「真剣にやれよー、お前ら。優勝したら、俺がアイスかジュースでも奢ってやるからなー」
 ホームルームの進行を委員長と副委員長に任せ、教室の端のパイプ椅子に座っているけだるげな担任が、クラス全体を見渡しながら間延びした声でそう言った。
 クラス中が歓声を上げる。クラスマッチは競技ごとに優勝したクラスへ賞状がもらえるらしいが、一人一人になにかがあるわけではない。それが今の担任の言葉で個人へのご褒美が確定したものだから、クラス中はやる気に満ちあふれている。なにがなんでも優勝しようという勢いだった。
「これから自由時間にするので、みんなで相談してください。希望を決めた人から黒板に名前を書いていって」
 委員長が軽く手を叩くと、みんなざわざわと席を立ち、近くの人や友達と相談し始めた。
「バスケかサッカーか……どっちでもいいー」
「俺、運動とか苦手なんだよなー。一学期の体育の評価、二だったし」
「一ノ瀬はどうするん? やっぱサッカー?」
「うーん……俺はバスケかなぁ」
 近くの男子たちに振られた話を、俺は曖昧な笑みで誤魔化した。
 クラスマッチでは、みんなが本気で挑むだろう。だからこそある意味では、公式戦と同じくらいの責任が生まれてしまう。そんな場所でサッカーを選び、まともにプレイできる気はしなかった。
 さっさと希望を書いてしまおうと黒板の前に立つ。しかしバスケの欄に名前を書こうとした時、背後から「なんで!?」と頓狂な声が上がった。
「一ノ瀬、サッカーじゃねぇの?」
 声の主は山本だった。丸く見開いた目で俺を凝視している。
「まあ……俺、部員じゃなくてマネージャーだし……」
「でも中学の頃は部員だったんだろ? サッカー部の」
「っ!?」
 頭から一気に血の気が引いた。額から冷たいものが流れて落ちる。
 がたん、と後ろで椅子の音がした。悠理が青い顔で立ち上がり、首を必死に横へ振っている。自分が話したのではないと言いたいのだろう。
 それは分かっている。悠理が漏らすならとっくの昔にサッカー部へ広まっていたはずだ。だが、そうでないなら一体誰が。
「この前第三高校と試合しただろ? あそこのサッカー部、俺の友達がいてさ。試合が終わった後にメッセ飛んできて聞かれたんだよ、一ノ瀬ってヤツは今日休みだったのかって。なんか向こうにいる一ノ瀬の元同級生に聞くよう頼まれたって言ってたな」
 山本は「ほら」とスマホを見せてきた。メッセージアプリの画面には、確かに俺がチームにいたことを伺う内容のやりとりが残っている。
 油断していた。部活目当てで友達が第三高校に行っている人間は、俺以外にもいると少し考えれば分かったのに。
「俺、最初は勘違いなんじゃないかと思ってたんだよ。だって向こうは、一ノ瀬って『部員』を探してたからさ。でも一ノ瀬春海なんて一人しかいないし。だから俺、マネージャーにいるって言ったら、友達の友達が滅茶苦茶驚いたって」
「そ、そうなんだ……」
 かろうじて出した声は、びっくりするほどかすれていた。山本の無邪気な様子から、悪気は一切ないのだろう。けれど俺には全ての言葉が死刑宣告のように耳へと響く。
「なあ、バスケなんかじゃなくてさ、一緒にサッカーしようぜ? 一ノ瀬って中学の頃、チームのエースストライカーだったんだろ? 中学のチームが県大会の決勝まで行けたのも、お前がいたからって聞いたし」
 その言葉で、周囲がざわりとざわめいた。周囲のクラスメイトが、ちらちらと俺を見ながらひそひそ声で話している。
「嘘だろ、エース?」
「決勝まで一ノ瀬が連れてったって、スポーツ漫画じゃん」
「ならうちのクラスも、決勝まで行かせてくれるんじゃね?」
 よくない流れだ。確かに試合でシュートを決めたことは何度もあるが、それは敵陣を攻めてシュートを決めるフォワードのポジションだったから。県大会の決勝だって、俺だけの力で行けたわけじゃない。だってそもそもサッカーは、チーム戦だ。
「そんな、気のせいだって……俺だけの力で、行ける訳ないし……」
 俯きながら、ふるふると首を横に振るう。しかし山本は不思議そうに首を横にひねっている。
「そうかぁ? 嘘って感じはしなかったけど……それに俺、その話聞いて納得したんだよな。一ノ瀬がマネージャーなのにサッカーめちゃめちゃ上手い理由」
 山本はにかっと嬉しそうに笑って、肩を組んできた。
「なんで辞めたのかは知らねぇけどさ。クラスマッチは一緒にやろうぜ。俺と佐倉と一ノ瀬がいれば、男子サッカーは絶対五組が優勝だろ!」
「確かに、サッカー経験者三人は強いよな……」
「先生の奢りでアイス食いてー」
「一ノ瀬ー、バスケじゃなくてサッカーにしろって!」
 山本の言葉を発端に、どんどん断れない雰囲気ができていく。止めようとする者は誰もいない。
 当然だ。俺はこの半年間、ずっと嘘をつき続けていた。俺がどれだけ「試合」を恐れているのかを、本当の意味で知っている人はこの学校に一人もいない。それこそ、悠理でさえも知らない秘密が俺の中にはまだあった。この状況は秘密を隠しただけにしたまま、誰にも話していなかった俺の自業自得だ。
 目の前がくらくらと歪んでくる。脳裏にはあの日の光景がまざまざと蘇ってきた。
 中学三年の夏。県大会決勝。後半戦終了。PK戦。
 じりじりと照る太陽。肩にのしかかる責任。背後から感じる得体の知れない恐怖。
 それらを思い出し、心臓が嫌な音を立てはじめる。
「一ノ瀬、サッカーにしようぜ」
 山本の――クラスメイトたちの言葉が、頭の中に反響していく。俺は軽くパニックを起こしかけていた。ぐちゃぐちゃになった頭を必死に動かし、彼らへの返答を考える。
「……えっ、と」
 ――キーンコーン、カーンコーン。
 ホームルーム終了のチャイムが鳴った。
 はっと意識を取り戻した俺は、山本の身体を押しのける。
「ごめん、考えさせて!」
 集まっていたクラスメイトたちをかき分けて、俺は教室の外へと飛び出した。
「もしかして俺、やっちまった?」
 後ろの方で、山本の呟きが聞こえた気がした。