それ以降、俺は不安を隠しながらもなんとか日々をやり過ごしていた。登校して、勉強して、部活して。その三つを繰り返していると、すぐに練習試合当日の朝がやってきていた。
土曜日の朝六時。俺はベッドからむくりと上半身を起こし、大きなため息をついた。二度寝をして寝過ごしてしまいたかったが、こんな日に限って目は冴えている。
楽しい予定は来るのが遅いのに、嫌な予定だけ来るのが早いのはやめてほしい。切実に。
のろのろと起き上がり、最後の希望を懸けて机のペン立てから体温計を取り出す。脇に挟んでしばらくすると、小さな電子音が鳴り響いた。三十六度一分。至って平熱、健康そのものだった。
重い足取りのまま部屋を出て、一階のダイニングへ向かう。既に起きてテレビを見ていた父さんと母さんは、入ってきた俺に微笑みかけてきた。
「おはよう、ハル。よく眠れたか?」
「今日は練習試合なんでしょう? 早くご飯食べて準備しないと」
ダイニングの俺の席には、朝食が用意されていた。食パンにサラダと目玉焼き。その脇にはヨーグルトとスープ。まだできたてなのか、ふわふわと湯気が漂っている。いつもならすぐに食べきってしまいそうなほど美味しそうなのに、今はあまり気が進まなかった。
それでも時間が進んでいくにつれて、着実に家を出る準備は整っていってしまう。朝食をとり、部屋に戻って着替えていると、玄関先でインターホンが鳴る音がした。
「おはようございます。ハルを迎えに来まして」
「あら悠理くん、いらっしゃい。ハルは準備中だから、上がってまっていて」
そんな会話が玄関の方から聞こえてくる。どうやらいよいよ、逃げる術はなくなったらしい。本日何度目かになるため息をつき、高校の青い部活ジャージを着て、スポーツバッグを手に取り一階へ降りる。
再びダイニングへ向かうと、悠理がお母さんに出されたらしいコーヒーを飲んでいた。俺と同じ青ジャージを着た悠理の頭は、横髪が少し跳ねている。ぎりぎりの時間に出かけたのだろうか。それでも俺と同じ服を着て、髪まで跳ねているというのに、相変わらずかっこいい。けれども今朝は、その顔を見るのが少し苦しかった。
「おはよ、ハル」
「おはよう、悠理。来るの早いね」
彼の爽やかな表情に後ろめたさが増しつつも、極力自然な振りをする。けれども悠理は何かを察したらしい。
「大丈夫か? 少し顔色が悪い気がするけど」
「す、少し寝不足なだけだよ。心配しないで」
「本当に? この前も試合の話をしているときに様子が変だったけど……今日の試合に、何かあるのか?」
「……っ」
図星を言い当てられて、言葉に詰まってしまった。俺の異変に父さんと母さんも気付いたようで、心配そうな目を向けてくる。
しばしの沈黙の後に、母さんがそっと口を開いた。
「ハル、今日の試合の相手はどこなの?」
「……第三高校なんだ」
「……そう」
母さんは少しだけ目を伏せた。第三高校に俺の元同級生がいるのは、母さんもよく知っている。だからこそ俺の気持ちを察してくれているのだろう。
「準備しているってことは、行くのよね?」
「そのつもり……」
「なら、ちゃんと話しておいた方がいいんじゃない?」
お母さんは悠理の方に目線を向けながらそう言った。
「悠理くんならきっと大丈夫よ」
「……そうだね」
確かに悠理は、既に俺が元サッカー部であることを知っている。事情を言えば、ちゃんと受け入れてくれるだろう。言いにくくはあるけれど、これ以上話さないままで心配をかけたくはない。
「ハル……」
悠理は俺を見て眉を八の字に曲げている。そんな彼の顔を見つめ、それから時計に視線を移した。午前八時過ぎ。そろそろ出なければ、集合時間に間に合わない。
「行く途中で話すよ」
俺はスポーツバッグの紐を握りしめ、悠理と共に家を出た。
第三高校は俺の家の最寄りのバス停からバスが出ている。十分ほど待った後、やってきた第三高校行きのバスに乗り込んだ。
土曜の朝だからか、バスの乗客はほとんどいない。一番前の座席にジャケットを羽織ったおじさんが一人、優先座席におばあさんが一人座っているだけだ。
俺たちが一番後ろの長い座席に座ると、バスが発車する。ここから三十分ほど揺られた先が第三高校だ。悠理と話す時間は十分にある。
「あのさ、無理そうだったら別にいいからな?」
エンジン音だけが響く車内で、悠理が遠慮がちに口を開いた。何から話せばいいのか迷っていたのを、躊躇っていると勘違いされたらしい。
「ううん、大丈夫。知ってもらっておいた方が驚かないと思うし」
俺は首を横に振り、軽く深呼吸をして言葉を続ける。
「第三高校にはさ、俺の中学の頃の同級生がいるんだ」
「それって……サッカー部の、ってことか?」
俺は頷き、膝に乗せたスポーツバッグを抱きしめた。そうすれば続きを話す勇気をもらえる気がして。
「そう。みんなはサッカーをやるためにあの高校を選んだって言ってた。だから多分、今日の試合にも居ると思う」
「でも、じゃあ……それって、ハルはまずくない? うちの部員に元サッカー部がバレるかもしれないのに……休まなくてよかったの?」
悠理は自分のことのように、顔を青くしている。そこまで俺のことを考えてくれているのが、素直に嬉しかった。お陰で俺も、だんだんと緊張がほぐれてくる。
「休もうと思ったりもしたよ。けど俺の都合でチームのみんなに迷惑かける訳にはいかないし。ほら、サッカーはチームプレイでしょ?」
「だからって個人の気持ちを優先ししゃいけないって訳じゃないだろ……本当に、ハルはお人好しすぎるよ」
「そうだよね、ごめん……」
自分でも馬鹿なことをしているとは思っている。サッカー部のことが本気で周りにバレたくないのなら、なりふりかまわず休んでしまえばいい。なのに部活のためにと言い訳をしながら中途半端な振る舞いをしているなんて、バレてしまって文句が言える立場ではない。
「いやいや、怒った訳じゃないから」
「でも……」
「それより、今日のことを考えないと。あと十五分くらいで駅に着くけど」
車内の電子パネルを見ると、確かに半分ほど駅を通り過ぎていた。
「バレないようにする方法とか、考えてる?」
「ええっと……極力目立たないようにする、くらいかな……」
幸い俺はどこにでもいそうな髪型に、どこにでもいそうな平凡顔だ。おまけに部員たちと同じジャージを着て常にうちのチームの集団に紛れていれば、ごまかしきれる可能性はある。
「うん、それがいいかもな。でも万が一ってことがあるし……」
悠理は神妙な顔で何かを考えた後、微笑みながら顔を上げた。
「よし、俺も協力するよ」
「えっ、そんな……さすがに悪いよ」
いくら悠理が優しいからといって、流石に今回の件は気が引ける。これは俺の個人的な問題だ。悠理は俺なんかより、試合に集中しなければいけないのに。
けれども悠理は引かなかった。
「一人で動くより、協力者がいれば成功する可能性は上がるだろ?」
「そうかもしれないけど、悠理には試合があるでしょ?」
「大丈夫だって。俺がハルに頼られたいんだよ」
悠理は「遠慮するなって」と頼もしげに笑っている。これまで何度も、俺を救ってくれた微笑みだった。けれども俺はふと思う。このままずっと、彼に甘えてしまってもいいのかと。
確かに悠理には俺が元サッカー部であるという秘密を守る協力を頼んでいた。でもそれは元々、周りに秘密を漏らさないで欲しいという意味で結んだものであり、今回のように試合から意識を逸らしてまでやるものではないはずだ。
今の関係を続けていれば、そのうち何かが起こってしまうのではないかと、背筋がぞくりと寒くなる。しかし他に良い方法を思いつかなかった俺は、結局悠理の提案に乗ってしまった。
結果的に、練習試合は上手くやり過ごせた。俺が一人になりそうな時や、第三高校の部員たちが近くに来そうになった時に、悠理がさりげなく俺を隠してくれたり、他の部員との会話の中に入れてくれたりしたからだ。
お陰で考えていたような事態にはならなかったが、俺の心の中のもやつきは更に大きくなっていった。
やがてその予感は、斜め上の方向から俺を射貫いてくることになる。
土曜日の朝六時。俺はベッドからむくりと上半身を起こし、大きなため息をついた。二度寝をして寝過ごしてしまいたかったが、こんな日に限って目は冴えている。
楽しい予定は来るのが遅いのに、嫌な予定だけ来るのが早いのはやめてほしい。切実に。
のろのろと起き上がり、最後の希望を懸けて机のペン立てから体温計を取り出す。脇に挟んでしばらくすると、小さな電子音が鳴り響いた。三十六度一分。至って平熱、健康そのものだった。
重い足取りのまま部屋を出て、一階のダイニングへ向かう。既に起きてテレビを見ていた父さんと母さんは、入ってきた俺に微笑みかけてきた。
「おはよう、ハル。よく眠れたか?」
「今日は練習試合なんでしょう? 早くご飯食べて準備しないと」
ダイニングの俺の席には、朝食が用意されていた。食パンにサラダと目玉焼き。その脇にはヨーグルトとスープ。まだできたてなのか、ふわふわと湯気が漂っている。いつもならすぐに食べきってしまいそうなほど美味しそうなのに、今はあまり気が進まなかった。
それでも時間が進んでいくにつれて、着実に家を出る準備は整っていってしまう。朝食をとり、部屋に戻って着替えていると、玄関先でインターホンが鳴る音がした。
「おはようございます。ハルを迎えに来まして」
「あら悠理くん、いらっしゃい。ハルは準備中だから、上がってまっていて」
そんな会話が玄関の方から聞こえてくる。どうやらいよいよ、逃げる術はなくなったらしい。本日何度目かになるため息をつき、高校の青い部活ジャージを着て、スポーツバッグを手に取り一階へ降りる。
再びダイニングへ向かうと、悠理がお母さんに出されたらしいコーヒーを飲んでいた。俺と同じ青ジャージを着た悠理の頭は、横髪が少し跳ねている。ぎりぎりの時間に出かけたのだろうか。それでも俺と同じ服を着て、髪まで跳ねているというのに、相変わらずかっこいい。けれども今朝は、その顔を見るのが少し苦しかった。
「おはよ、ハル」
「おはよう、悠理。来るの早いね」
彼の爽やかな表情に後ろめたさが増しつつも、極力自然な振りをする。けれども悠理は何かを察したらしい。
「大丈夫か? 少し顔色が悪い気がするけど」
「す、少し寝不足なだけだよ。心配しないで」
「本当に? この前も試合の話をしているときに様子が変だったけど……今日の試合に、何かあるのか?」
「……っ」
図星を言い当てられて、言葉に詰まってしまった。俺の異変に父さんと母さんも気付いたようで、心配そうな目を向けてくる。
しばしの沈黙の後に、母さんがそっと口を開いた。
「ハル、今日の試合の相手はどこなの?」
「……第三高校なんだ」
「……そう」
母さんは少しだけ目を伏せた。第三高校に俺の元同級生がいるのは、母さんもよく知っている。だからこそ俺の気持ちを察してくれているのだろう。
「準備しているってことは、行くのよね?」
「そのつもり……」
「なら、ちゃんと話しておいた方がいいんじゃない?」
お母さんは悠理の方に目線を向けながらそう言った。
「悠理くんならきっと大丈夫よ」
「……そうだね」
確かに悠理は、既に俺が元サッカー部であることを知っている。事情を言えば、ちゃんと受け入れてくれるだろう。言いにくくはあるけれど、これ以上話さないままで心配をかけたくはない。
「ハル……」
悠理は俺を見て眉を八の字に曲げている。そんな彼の顔を見つめ、それから時計に視線を移した。午前八時過ぎ。そろそろ出なければ、集合時間に間に合わない。
「行く途中で話すよ」
俺はスポーツバッグの紐を握りしめ、悠理と共に家を出た。
第三高校は俺の家の最寄りのバス停からバスが出ている。十分ほど待った後、やってきた第三高校行きのバスに乗り込んだ。
土曜の朝だからか、バスの乗客はほとんどいない。一番前の座席にジャケットを羽織ったおじさんが一人、優先座席におばあさんが一人座っているだけだ。
俺たちが一番後ろの長い座席に座ると、バスが発車する。ここから三十分ほど揺られた先が第三高校だ。悠理と話す時間は十分にある。
「あのさ、無理そうだったら別にいいからな?」
エンジン音だけが響く車内で、悠理が遠慮がちに口を開いた。何から話せばいいのか迷っていたのを、躊躇っていると勘違いされたらしい。
「ううん、大丈夫。知ってもらっておいた方が驚かないと思うし」
俺は首を横に振り、軽く深呼吸をして言葉を続ける。
「第三高校にはさ、俺の中学の頃の同級生がいるんだ」
「それって……サッカー部の、ってことか?」
俺は頷き、膝に乗せたスポーツバッグを抱きしめた。そうすれば続きを話す勇気をもらえる気がして。
「そう。みんなはサッカーをやるためにあの高校を選んだって言ってた。だから多分、今日の試合にも居ると思う」
「でも、じゃあ……それって、ハルはまずくない? うちの部員に元サッカー部がバレるかもしれないのに……休まなくてよかったの?」
悠理は自分のことのように、顔を青くしている。そこまで俺のことを考えてくれているのが、素直に嬉しかった。お陰で俺も、だんだんと緊張がほぐれてくる。
「休もうと思ったりもしたよ。けど俺の都合でチームのみんなに迷惑かける訳にはいかないし。ほら、サッカーはチームプレイでしょ?」
「だからって個人の気持ちを優先ししゃいけないって訳じゃないだろ……本当に、ハルはお人好しすぎるよ」
「そうだよね、ごめん……」
自分でも馬鹿なことをしているとは思っている。サッカー部のことが本気で周りにバレたくないのなら、なりふりかまわず休んでしまえばいい。なのに部活のためにと言い訳をしながら中途半端な振る舞いをしているなんて、バレてしまって文句が言える立場ではない。
「いやいや、怒った訳じゃないから」
「でも……」
「それより、今日のことを考えないと。あと十五分くらいで駅に着くけど」
車内の電子パネルを見ると、確かに半分ほど駅を通り過ぎていた。
「バレないようにする方法とか、考えてる?」
「ええっと……極力目立たないようにする、くらいかな……」
幸い俺はどこにでもいそうな髪型に、どこにでもいそうな平凡顔だ。おまけに部員たちと同じジャージを着て常にうちのチームの集団に紛れていれば、ごまかしきれる可能性はある。
「うん、それがいいかもな。でも万が一ってことがあるし……」
悠理は神妙な顔で何かを考えた後、微笑みながら顔を上げた。
「よし、俺も協力するよ」
「えっ、そんな……さすがに悪いよ」
いくら悠理が優しいからといって、流石に今回の件は気が引ける。これは俺の個人的な問題だ。悠理は俺なんかより、試合に集中しなければいけないのに。
けれども悠理は引かなかった。
「一人で動くより、協力者がいれば成功する可能性は上がるだろ?」
「そうかもしれないけど、悠理には試合があるでしょ?」
「大丈夫だって。俺がハルに頼られたいんだよ」
悠理は「遠慮するなって」と頼もしげに笑っている。これまで何度も、俺を救ってくれた微笑みだった。けれども俺はふと思う。このままずっと、彼に甘えてしまってもいいのかと。
確かに悠理には俺が元サッカー部であるという秘密を守る協力を頼んでいた。でもそれは元々、周りに秘密を漏らさないで欲しいという意味で結んだものであり、今回のように試合から意識を逸らしてまでやるものではないはずだ。
今の関係を続けていれば、そのうち何かが起こってしまうのではないかと、背筋がぞくりと寒くなる。しかし他に良い方法を思いつかなかった俺は、結局悠理の提案に乗ってしまった。
結果的に、練習試合は上手くやり過ごせた。俺が一人になりそうな時や、第三高校の部員たちが近くに来そうになった時に、悠理がさりげなく俺を隠してくれたり、他の部員との会話の中に入れてくれたりしたからだ。
お陰で考えていたような事態にはならなかったが、俺の心の中のもやつきは更に大きくなっていった。
やがてその予感は、斜め上の方向から俺を射貫いてくることになる。


