翌日の朝、私は教室の自分の机でタイムスリップが出てくる小説を読み漁っていた。だけど、どれもこれも現実的ではなくて。
 「おはよう」
 登校してきた美波ちゃんが朝のように爽やかな笑みを浮かべる。
 「おはよう」
 遅れて私も挨拶する。だけど次の瞬間、朝のゆったりした時間は跡形もなく消えて。
 「そういえば千紗ちゃん、明日進路調査票締め切りだけど大丈夫?」
 そうだった。どうしよう。
 「あれだけ夢を見つけるって言ったのに、全然考えてなかったよ」
 そんなこと言っても、美波ちゃんを困らせるだけなのに。あぁ、あの怖い先生に怒られる……。
 「仕方ないよ。だって、昨日は色々事情があったみたいだし。それに、数日でやりたいことを見つけるの、すごい難しいと思うし」
 「そうだよね。今まで見つからなかったものが数日で見つかるわけないよね。勉強も全然だし」
 パズルをやって今朝のように小説を読み漁っていたら、昨日は時間が過ぎ去ってしまっていた。結局収穫もなかったし。還る方法も、それに繋がるヒントでさえも。
 荷物をまとめて、いつも通り美波ちゃんと分岐点まで歩いていく。だけど、今日は分岐点で彼女とは真反対の方を歩いても、足音が絶えず傍から聞こえてきて……。
 「美波ちゃん⁉」
 隣を見て驚愕する。なんで美波ちゃんが。全然嫌な気はしないけれど。
 「へへ、驚いた」
 「驚くよ!」
 いたずらな笑みを浮かべる美波ちゃんに、真顔で目を逸らす。これは、私が怒っているサイン。
 「ごめんごめん。ついて来られるの、嫌だった?」
 後ろ向きな発言に、私はすぐに怒りサインを中止した。
 「大事な親友と過ごすのが、嫌なわけないでしょ。ただ、どうしてここにいるんだろうとは思ってるけど」
 大事な親友に反応して、彼女は頬を桃色にしながら、満面の笑みを浮かべた。まったく。私はからかわれたことにことに、怒りを示しただけだというのに。
 最初に友だちになったあの頃、二人の家が真反対だったことにショックを受けたくらいに、私は美波ちゃんと帰りたかったんだよ?
 彼女はそんな気持ち、つゆ知らずなんだろうけど。
 「私、千紗ちゃんの夢探しのお手伝いをしたくて」
 「夢探しを?」
 「うん。まぁ、探すというか、千紗ちゃんが夢を見つけた時に、すぐそこへ向かえるように勉強面でサポートをと」
 「えっ、教えてくれるの!」
 彼女は小さく頷く。先生じゃないからわかりづらいかもしれないけど、と弱気な言葉をさり気なく付け足しながら。
 「じゃあ、美波ちゃんは先生だね。今日からそう呼んでもいいかな?」
 「え~、先生なんて」
 「ダメ、かな?」
 困ったような反応を見せるけれど、照れた表情が見え隠れするから、嫌な思いはしていないと思って、そう押してみる。
 「じゃあ、今日だけだよ? 響きはいいけど、ちょっと気恥ずかしいから」
 「はい、先生」
 そっからね、と彼女は軽く微笑む。先生が生徒の面白い発言を笑うように。
 「じゃあ、千紗さん。今から私が言ったものを提出してください」
 「はい」
 私は従順な生徒を演じる。ごっこ遊びをしているみたいで楽しい。だけど、次の美波ちゃんの発言で窮地に追い込まれることを私は知らなくて。
 「では、昨日千紗さんが言ってた人についての情報を提出してください」
 「えっ?」
 「あれ? 千紗さん、なにか質問ある?」
 「いや、なんでも……はい」
 どうしよう……。頭頂から汗をまき散らしてしまいそうなほど、私はひどく焦った。だって、それって。
 真汐くんのこと、教えないといけないってことだから。だけど、そんなの絶対信じてもらえないと思うし。過去からタイムスリップしてきた男の子なんですって。でも……。
 『本当のことを言ってくれるのって、本物の親友って感じがするから』
 本当のこと、親友の彼女なら信じてくれるのかな。たとえそれが、どんなに現実離れしてることだとしても。よし。
 深く息を吸って、それを吐き出しながら、ゆっくりと提出物を言葉にしていく。


 「ただいま」
 「おかえり」
 いつも通り、台所から真汐くんが顔を出す。だけど玄関前まで来た途端、目を丸くする。そのまま固まってしまうから、私が事情を話す。隣の人に手を向けながら。
 「こちらが小嶋美波ちゃん。この間言った私の親友だよ」
 「こんにちは」
 律儀に挨拶して、彼はぺこりと頭を下げた。初対面の人には礼儀正しいんだと思いながらも、私の時はこんなんだっけと疑問が浮かんでくる。もしかしたら、私は舐められているのかもしれない。
 ほんの少し不機嫌になった私は、美波ちゃんの方に視線を向けた。だけど彼女は真汐くんが挨拶しているにも関わらず、一言も発しない。
 「真汐くんって、本当に戦時中の人なの?」
 わずかな沈黙の後、そんな一言が宙に浮かぶ。初めて会う人への最初の言葉とは思えない。
 すぐに彼の方を向くと、その目はさらに見開かれていた。
 「……どうして名前と、僕のこと」
 「ごめん。私が全部話しちゃったの」
 謝るものの、彼は軽く私を睨んできた。美波ちゃんの前だから抑えてるだけで、多分結構怒ってる。彼に睨まれるのは、初めてのことだったから。
 「そこのリビングで待っててもらえますか?」
 彼がリビングへ行くよう彼女を促す。彼女がそれに従って、リビングへと入っていった途端、手首に圧がかかる。彼が私の手首を掴んで。
 「ちょっと来て」
 さっきの美波ちゃんに対する丁寧な口調は、どこへ行ってしまったのだろうか。明らかに尖った声で私の手を引きながら、階段を上っていく。
 私の部屋に行くのかと思いきや、彼はそこを通りすぎる。
 「どういうことなの?」
 通されたのは彼の部屋であり、つい数日前までは物置部屋だった場所。手首を解放して扉を閉めると、真っ先にそう吐いた。
 「ごめん。言っちゃいけないこと、だったんだよね」
 「そうだよ。そんなこと言ったら、様子おかしい人だと思われるし、それならまだ良い方だよ。もし、小嶋さんがタイムスリップのこと広めたら……」
 彼の声が揺れる。それ以上のことを言うのが怖いと声に出すように。
 「ごめん、不安にしちゃって。でも」
 信じてほしい。そう彼に告げた。話がメディアにまでひろがって、話題にされてしまうかもしれない。それによって、興味を持った人が近づいてしまうかもしれない。いずれにしてもそれはかれにとって、悪影響を与えるものでしかなくて。そして彼が一番恐れている、彼自身がこの時代に悪影響を与えることになりかねなくて。だけど。
 「昨日、真汐くんのところに行く時も、事情を聞かないで私を送り出してくれたの。きっとすごく心配で気になってたはずなのに。だけど私にとって大切な人だと信じて、背中を押してくれたの」
 「……そうだったの?」
 「うん、それにね。美波ちゃんは私のことを親友って言ってくれて、酷いことを言った私のことを優しく許してくれて。そんな美波ちゃんのことを、私は信じたいって思ったの」
 本当の親友になりたいから。素直な気持ちを伝えてくれることが嬉しいと言ってくれた彼女に、ちゃんと応えたかったんだ。
 「はぁ、わかったよ」
 諦めたようにため息をつく。だけど表情は明るくて、わずかに笑みを浮かべていて。
 「大切な人、ね」
 「あっ、えっと……」
 それがさっき彼に向けた発言だったと気づくと、急に恥ずかしくなった。暑いのは多分、窓から差す陽光のせいだと願いながら。
 「ありがとう」
 その声に、また身体が火照るから、これは環境による暑さじゃないと嫌でも理解させられた。
 目を逸らそうと、脇にある棚の方を向くと、見覚えのあるものが映る。
 「真汐くん、あれ勝手に持ってったでしょ?」
 私は映ったものに向かって指をさす。あぁ、と納得したように彼は頷きながら「勝手に持ってってごめん。タイムスリップを言い訳に勉強をサボっちゃいけないと思って」
 「もう、真汐くんだって勝手なことしてるじゃん」
 「確かに」
 数秒見つめ合った後、どっちからともなく笑い出す。下で待ってる美波ちゃんに、あとでなんで笑ってたのって聞かれてしまいそうなほど大きく。
 「笑ったらお腹すいたね」
 笑いが静まって、彼はそうぽつり呟く。
 「じゃあ、ご飯食べよ。美波ちゃんも入れて。それから勉強して……あっ、真汐くんも一緒にやる、勉強?」
 私の参考書を無断で持ってってまでやるくらいだから。それに皆でやった方が教え合いができていい学びになると思うし。
 「迷惑じゃなければ」
 「それ、今言うこと?」
 そんなの、出会った時にも、家に泊める時も聞かなかったのに。まぁ、今は迷惑どころか、むしろいてほしいくらいだけど。
 「それもそうだね。じゃあ、お言葉に甘えて」
 「あっ、あとね」
 今日は美波ちゃんのこと先生って呼んでね、と言うと、彼は大きく頷いてくれた。
 

 「ここはこの公式を当てはめると解けるよ」
 折り畳み式の机を組み立てて、私たちは問題を解き合っていた。思いの外その机が小さくて、一緒にやろうと誘ったものの、真汐くんは一人私の学習机で勉強しているけれど。だけどわからないところはちゃんと美波ちゃんに聞きながら勉強してるから、この部屋でやることに一応は意味があると思ってる。そう思うことにしよう。
 美波ちゃんの言葉通り、問題と向き合ってみると、いとも簡単に解けてしまった。今までの悩んでいた時間はなんだったんだと思わせるくらいに。それにしても。
 「美波ちゃんすごいね。まだ二年生なのに、もう絶対合格圏内だよ」
 「全然」
 頭を大きく振って、大袈裟なくらい駄目アピールを取る彼女。私が解けない問題をすらすらと解けるくらいなのに。
 「私の目指してる大学、レベル高くてさ。だからまだまだだよ」
 「そんなに偏差値高いんだ……」
 それ、私が今から必死に勉強しても合格できないじゃん。違う進路だとわかってはいたけれど、改めて美波ちゃんと同じ大学には行けないんだなと思うと、やっぱり寂しい。
 「まぁ、進路調査票に書いたけど、まだそこに行くとは決まってないけどね。今度のオープンキャンパスでちゃんと決めようと思ってる」
 「え、美波ちゃんもオープンキャンパスに行くんだ」
 「千紗ちゃんも? なんだ、ちゃんと将来のこと考えてるんだね」
 「いや、そんな」 
 まだ行くとは決まってないし、私一人だったらそんな選択肢思いついてもない。
 「オープンキャンパス、夢探しにはすごく参考になると思うから、おすすめだよ!」
 「そっかぁ〜」
 それなら、昨日の彼の話、受け入れようかな。そう考え始めていると。
 「ねぇ、それよりも。真汐くんのこと、どうやってもとの時代に帰すの?」
 「あっ」
 勉強している真汐くんの肩も震える。それ一番難しい問題なんだよ。でも美波先生なら解いてくれるかも。
 「私が思うに、気候とか考えたらいいんじゃないかなって」
 「気候?」
 そういえば、真汐くんがやって来た日、突然の雨に見舞われたっけ。天気予報では予測できなかった雨。
 「予報では晴れだったのに、真汐くんが来た日は突然雨が降った。だから雨の降る日に海へ行けば、真汐くんは帰れるんじゃないかなって」
 「すごい、さすが先生」
 それなら早速、近日の天気予報をチェックしなくては。だけど天気アプリを開いて、私は唖然とした。
 「まって。向こう一週間、ずっと晴れてる……」
 傘マークは一つもついていない。どの日付もオレンジ色の太陽マークがついていて、見るからに暑そう。
 「まぁ、ついてないけど。でも真汐くんのときも本当は晴れマークだったから」
 「そっか。突然の雨が降ることもあるんだ。でもそれっていつの話だろう」
 寝ている間に過ぎてしまったら意味がない。どうしよう。
 すると美波ちゃんがくすり笑う。軽やかに歌うように。
 「もう、美波ちゃん。どうして今笑ったの?」
 「だって、この間会ったばかりの人のことを一生懸命に考えるんだもん」
 「私が勝手に助けちゃったからね」
 未だにその理由はわかっていないけれど。
 「でも、そのおかげで僕は助かったんだよ」
 いつの間に真汐くんが目の前にいてびっくりした。今のことを聞かれたと思うと、急に恥ずかしい気持ちになってきた。その様子を見てか、美波ちゃんがまたくすり笑いをしてさらに顔が熱くなる。
 「もう、どうして真汐くんが話聞いてるの?」
 「僕、美波先生に教えてほしいところがあったから来ただけで。あっ、僕また教えてほしいところがあるんです、先生!」
 片手を上げて彼はアピールする。
 「うん、わかったよ。どこどこ?」
 そう呟きながら、トントン足音を立てて彼の方へ歩いていく。もう、私には用がないみたいに。
 美波ちゃんは私にしてくれたように、真汐くんにも的確な教えで彼を納得させていた。教師に向いているなと、本当に私は思う。それに、今私たちのクラスを受け持っている怖い先生ではなく、美波ちゃんは絶対に優しい先生になる。
 美波ちゃんが本当に昭和の人だったら、私の担任になって勉強を教えてくれたんだろうなと思いながら、彼と真汐くんのやりとりを聞いていた。


 
 「じゃあ、そろそろ帰るね」
 勉強が一段落して、彼女は荷物をまとめ始めた。
 「おかげで、この夏期講習で勉強したところ、完璧に理解できそうだよ」
 もう本当に感謝しかない。シャーペンを一ミリだって動かせなかったような問題が、今ではなんてことないと思えてしまうくらいに、マスターできたから。
 「僕も。本当にありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げて、笑みを浮かべる彼。律儀に思いつつも、結構一緒にいたんだから敬語くらい外せばいいのにと少し感じた。
 「いやいや、全然。まだ先生でもないし」
 「美波ちゃんは、もう立派な先生だよ」
 「そうかな……じゃあ、もっと立派な先生になれるように頑張るね!」
 彼女は強く頷いて。私も頷きながら思った。夢を目指す彼女と肩を並べられるようにと。
 「じゃあ、先生。最後に教えてほしいことがあるんですけど」
 突然の真汐くんからの質問に、私も彼女も首を傾げる。参考書は彼も片付けていて、教えてほしい内容が勉強のことではないとわかったから。
 「どうして先生は、最初から僕のことをくん付けで呼んだんですか?」
 最初に聴きそうなことを、突然こんなタイミングで聴かれたから、少しばかりたじろぐ。しかも、そんなたいそうな理由じゃないのに。それから彼女と目が合ってふっと笑いがこぼれる。
 「ねぇ、なんで笑うの?」
 不機嫌そうな表情の彼をあまり刺激しないように、笑いを止めてから。
 「全然大した理由じゃないんだけど、家に着くまで真汐くんのことずっと話してたの。その時の呼び方も真汐くんだったから、その名前で馴染んだんだと思うよ」
 隣を見ると、彼女は大きく頷いて私の説明は間違ってなかったんだと安心する。
 彼は小さく複数回頷く。よかった、納得してくれたみたいで。
 「じゃあね」
 階段を下りた私たちは、玄関の扉を開ける美波ちゃんに手を振る。これからも千紗ちゃんの親友でいてください、とまるで両親が言いそうなセリフを真汐くんは吐いた。
 扉が閉まって、ほんの一瞬静寂が私たちを包んだ。だけどそれはすぐに、隣の存在によって追いやられた。
 「今日はたくさん勉強できたね」
 階段を上る私は、後ろから階段を上る彼の声を、背中から浴びる。振り向けば、彼は大満足といった笑みを浮かべていて。
 「私も解けないって思ってた問題をすらすら回答できるようになって、本当に嬉しかった。もう大学も余裕だって思えるくらい、自信がついたの。夢は見つかってないけど」
 「大丈夫だよ、千紗ちゃんなら絶対見つけられる」
 真剣な眼差しで、だけど笑みは強めて。二人の間に風が流れるような、そんな雰囲気が漂う。
 「これからも夢を追い続けて」
 力強くそう言葉を紡いで、だけど少し切なそうな表情をしていたのは私の気のせいかもしれない。