「海人くん、だよね?」
長い記憶から、その名前を私は見つけた。すると彼は少し息を吐いて。
「やっと思い出したの?」
「ごめん。昔のことすぎて」
「まぁ、千紗ちゃんが五歳の頃の話だからね」
千紗ちゃん。その呼び方に懐かしさを覚える。いつも美波ちゃんに言われているけれど、海人くんが呼ぶとまた違って聴こえた。
「それで真汐って?」
さっきそう呼んでたからさ、と続けられて私は困った。でもすぐに設定は思い浮かんで。
「私の親戚の人の名前で」
「ふ〜ん」
つまらなそうな反応を彼はみせる。私の恋人とか、もっと面白い関係でも期待していたのかな。ってそれよりも。
「私、探してる人がいて」
「もしかしてさっき言ってた、えっと真汐くんだっけ?」
「うん」
真汐くん、どうして突然。
「俺と間違えるくらいだから、似てる人」
「そうなの」
本当に海人くんと真汐くんはそっくり。見れば見るほどに。
「俺、見かけたよ。でも、もう結構前に海岸を出ていったけど」
「そっか。じゃあ、早く帰らないと。またね」
「ちょっと待って」
彼は肩から掛けられているウエストポーチをごそごそとし始めて。
「今度、僕の大学でオープンキャンパスやるんだけど。興味あったらおいでよ」
そこから取り出したチラシを彼は私に近づけた。ちょっと皺が目立っている用紙。
「ごめん。まさかこんなところで千紗ちゃんに会えるとは思ってなくて。雑に入れてたらそうなってた」
「ありがとう」
オープンキャンパス。そういえば美波ちゃんも行くって言ってた気がする。やりたいことを見つける最中の私にとってはいい機会かもしれないけど。
「結構遠いところに通ってるんだね」
「まぁ、遠いよね。だから一人暮らしをしてたわけだけど」
チラシの上の方に記されている場所は、日本の誰もが知る大都会の都道府県名。新幹線で向かえば何時間もかかるような場所。日時は一週間後でまだ余裕はありそう。
「時間的にも距離的にも難しいかもしれないけど、距離がダメなら全然車で送っていくし、とりあえず考えてみてよ」
「いや、送ってもらうなんて。海人くん、まだこっちに帰ってきたばかりなのに」
車で向こうまで運転するのも苦労なはずなのに。だけど彼は首を横に振った振って。
「もう相変わらず真面目だな、千紗ちゃんは。いいって言ってるのに。僕も大学に用事あるから」
「そうなの?」
それが本当なら、ついでという形で乗せてもらうのも手間ではないかもしれない。
「まぁ、考えといて。前日までには教えてもらえると助かる……」
声が止まる。それからぼそっと。
「連絡先、交換する?」
「えっ、そ、そうだね」
昔会ったことがあるとはいえ、男性と連絡先を交換する日が来るなんて。
四角い電子機器を操作している時もどこかうわの空だった。いつの日か感じた熱が身体の中に渦巻いて。
「今日はありがとう、千紗。おかげで昔の願望が叶ったよ」
「えっ、どういうこと?」
「ほら、早く帰らないとでしょ?」
「あ、そうだね……」
少し気にはなったけれど、今度こそ流木に座る彼に手を振ってお別れすると、今までの緊張感が嘘のように解けていった。
「ただいま……」
あんな熱い浜辺にいたせいか、家に辿り着く頃には意識が不確かなことになっていて。記憶を巡らせていたから長く感じていただけで、実際にはそこまであそこにいたわけではないと思うけど。
「おかえり。えっと、僕……」
「やっと本物に会えた」
もう会えないかと思ったから。海でそして確信通り、振り返った彼は、真汐くんそのもので。この数日間、私のそばにいてくれた、彼本人だった。すると彼は今にも泣き出しそうな顔をして。
「帰れなかった……」
細く声を出す彼。まるで迷子になった小さな男の子を見ているような、そんな錯覚に陥る。
もしかしたら私は、とんでもなく間違ったことをしてしまったのかもしれない。当たり前に彼が抱えていたはずの想いを、私は考えていなかった。本当は初日に考えるべきだったこと。
「ごめんなさい。ちゃんと考えるべきだったよね。真汐くんがもとの時代に帰る方法を」
彼に向かって、深々と頭を下げる。どうして、今まで気づいてあげられなかったんだろう。知らない時代に来て、不安に思わない人なんているはずないのに。もとの時代に帰りたいと望むことは、当たり前のことなのに。
「やめて、早く顔上げてよ。こうなったのは全部僕のせいなのに」
ゆっくりと顔を上げれば、彼はわずかに表情を緩ませたけれど、またすぐ不安そうに口角と眉を下げた。鼻に漂う香りだけでわかる。この暑さでもうすっかり乾ききっているものの、一度彼は入水していることに。
「全部じゃなくていい。ただできる限り話してほしいの。真汐くんのこと」
海が大きく波打って、大きな音を放つ。命を投げ出そうとしてたこと、本当は怒りたい。なんで黙って出て行ったのって。
だけどそうしないといけない複雑な事情があることも予想しているから、それはできなくて。
「わかったよ。その代わりできる限り、ね」
最後の語尾を強調させて、彼は話し始めた。それはタイムスリップした人にしかわからない、悩みそのもので。
「この時代にいることが怖くなって。違う時代の人がいるのはよくないと思ったんだ」
「それって、私と美波ちゃんが仲直りしたこと? でも私にとって、それは救われたことなのに」
真汐くんがいてくれなかったら、今も私たちは口を聞けないでいて。仲直りできずに、このまま関係が終わってしまっていたかもしれない。だけど君がいてくれたから、真汐くんがいてくれたから、私は今も美波ちゃんと一緒にいられる。
だから、そんなこと言わないでほしい。
「確かにそれは良いことだったかもしれない。だけど逆の場合だって十分ありえるでしょ?」
「逆って?」
今のところ、彼が来てから悪いことなんて一つも起きてないから、イメージなんて湧かなくて。だけど彼があまり見せない真面目な表情が、それを深刻なことだと理解させる。
「もし僕がこの時代にいたせいで、この時代を生きる誰かの命がなくなったら、とか」
重い響きをもつその単語が、私にさらなる重力をかけてきた。確かにそれはとても恐ろしくて、恐ろしすぎて。
「タイムスリップしてきて最初はそういうの考えてなかったんだけど。でも、僕の何気ない一言が千紗ちゃんと美波ちゃんの仲直りのきっかけになったことで、はっきりしたんだ。僕はここにいちゃいけないんだって」
でも、帰れなかった……。それきり彼は口を閉ざしてしまう。遠い海に引かれた地平線に目を向けて。
「真汐くんは嫌いなの、この時代?」
ぽつりと、屋根から滴る雫のようにこぼれた。それを両手で捕まえるように、瞬時に私に視線を向けた彼は首を横に振る。全てを否定するように。
「嫌いなわけ、ないよ……。できることなら……」
この時代にいたい。そう切実に、訴えかけるように、真汐くんは呟いた。
「戦時下の世の中にはない、平和で守られた大切なものが、ここにはあるから」
「真汐くん……」
「でも、帰らないと。どれだけ残酷な時代であっても」
強く響いた。そこには計り知れないほどの覚悟がある。そう瞬時に思ってしまうくらいに。
「じゃあ、一緒に見つけようよ。帰る方法を!」
なるべく明るい口調にするよう努めて。そのおかげなのか、暗かった彼の表情が緩んだ。
「見つけるってどうやって? 僕もう既に試したんだよ? この時代に来る直前の行動を再現しながら」
「そうだなぁ、今は思いつかないけど。例えばタイムスリップしてきた主人公が出てくる小説を読んでみるとか?」
「それで参考になるのかなぁ」
「何もやらないよりはいいと思うんだけどなぁ。そう言う系の小説、結構あるからとりあえず読んでみようよ」
「うん、そうだね。ありがとう」
やっと彼が笑ってくれた。薄くて小さいけれど。だけどきっと、私も今同じ表情をしていると思う。
彼がいなくなってしまうのは、正直寂しい。彼のいる日常にあまりにも慣れすぎてしまった、今の私にとって。だけど、彼には還るべき場所がある。だから、彼の力になるんだ。たくさん考えて、彼をもとの時代へと行けるように。そう私は強く決意した。
優しすぎる彼を、もう傷つけたくないから。
長い記憶から、その名前を私は見つけた。すると彼は少し息を吐いて。
「やっと思い出したの?」
「ごめん。昔のことすぎて」
「まぁ、千紗ちゃんが五歳の頃の話だからね」
千紗ちゃん。その呼び方に懐かしさを覚える。いつも美波ちゃんに言われているけれど、海人くんが呼ぶとまた違って聴こえた。
「それで真汐って?」
さっきそう呼んでたからさ、と続けられて私は困った。でもすぐに設定は思い浮かんで。
「私の親戚の人の名前で」
「ふ〜ん」
つまらなそうな反応を彼はみせる。私の恋人とか、もっと面白い関係でも期待していたのかな。ってそれよりも。
「私、探してる人がいて」
「もしかしてさっき言ってた、えっと真汐くんだっけ?」
「うん」
真汐くん、どうして突然。
「俺と間違えるくらいだから、似てる人」
「そうなの」
本当に海人くんと真汐くんはそっくり。見れば見るほどに。
「俺、見かけたよ。でも、もう結構前に海岸を出ていったけど」
「そっか。じゃあ、早く帰らないと。またね」
「ちょっと待って」
彼は肩から掛けられているウエストポーチをごそごそとし始めて。
「今度、僕の大学でオープンキャンパスやるんだけど。興味あったらおいでよ」
そこから取り出したチラシを彼は私に近づけた。ちょっと皺が目立っている用紙。
「ごめん。まさかこんなところで千紗ちゃんに会えるとは思ってなくて。雑に入れてたらそうなってた」
「ありがとう」
オープンキャンパス。そういえば美波ちゃんも行くって言ってた気がする。やりたいことを見つける最中の私にとってはいい機会かもしれないけど。
「結構遠いところに通ってるんだね」
「まぁ、遠いよね。だから一人暮らしをしてたわけだけど」
チラシの上の方に記されている場所は、日本の誰もが知る大都会の都道府県名。新幹線で向かえば何時間もかかるような場所。日時は一週間後でまだ余裕はありそう。
「時間的にも距離的にも難しいかもしれないけど、距離がダメなら全然車で送っていくし、とりあえず考えてみてよ」
「いや、送ってもらうなんて。海人くん、まだこっちに帰ってきたばかりなのに」
車で向こうまで運転するのも苦労なはずなのに。だけど彼は首を横に振った振って。
「もう相変わらず真面目だな、千紗ちゃんは。いいって言ってるのに。僕も大学に用事あるから」
「そうなの?」
それが本当なら、ついでという形で乗せてもらうのも手間ではないかもしれない。
「まぁ、考えといて。前日までには教えてもらえると助かる……」
声が止まる。それからぼそっと。
「連絡先、交換する?」
「えっ、そ、そうだね」
昔会ったことがあるとはいえ、男性と連絡先を交換する日が来るなんて。
四角い電子機器を操作している時もどこかうわの空だった。いつの日か感じた熱が身体の中に渦巻いて。
「今日はありがとう、千紗。おかげで昔の願望が叶ったよ」
「えっ、どういうこと?」
「ほら、早く帰らないとでしょ?」
「あ、そうだね……」
少し気にはなったけれど、今度こそ流木に座る彼に手を振ってお別れすると、今までの緊張感が嘘のように解けていった。
「ただいま……」
あんな熱い浜辺にいたせいか、家に辿り着く頃には意識が不確かなことになっていて。記憶を巡らせていたから長く感じていただけで、実際にはそこまであそこにいたわけではないと思うけど。
「おかえり。えっと、僕……」
「やっと本物に会えた」
もう会えないかと思ったから。海でそして確信通り、振り返った彼は、真汐くんそのもので。この数日間、私のそばにいてくれた、彼本人だった。すると彼は今にも泣き出しそうな顔をして。
「帰れなかった……」
細く声を出す彼。まるで迷子になった小さな男の子を見ているような、そんな錯覚に陥る。
もしかしたら私は、とんでもなく間違ったことをしてしまったのかもしれない。当たり前に彼が抱えていたはずの想いを、私は考えていなかった。本当は初日に考えるべきだったこと。
「ごめんなさい。ちゃんと考えるべきだったよね。真汐くんがもとの時代に帰る方法を」
彼に向かって、深々と頭を下げる。どうして、今まで気づいてあげられなかったんだろう。知らない時代に来て、不安に思わない人なんているはずないのに。もとの時代に帰りたいと望むことは、当たり前のことなのに。
「やめて、早く顔上げてよ。こうなったのは全部僕のせいなのに」
ゆっくりと顔を上げれば、彼はわずかに表情を緩ませたけれど、またすぐ不安そうに口角と眉を下げた。鼻に漂う香りだけでわかる。この暑さでもうすっかり乾ききっているものの、一度彼は入水していることに。
「全部じゃなくていい。ただできる限り話してほしいの。真汐くんのこと」
海が大きく波打って、大きな音を放つ。命を投げ出そうとしてたこと、本当は怒りたい。なんで黙って出て行ったのって。
だけどそうしないといけない複雑な事情があることも予想しているから、それはできなくて。
「わかったよ。その代わりできる限り、ね」
最後の語尾を強調させて、彼は話し始めた。それはタイムスリップした人にしかわからない、悩みそのもので。
「この時代にいることが怖くなって。違う時代の人がいるのはよくないと思ったんだ」
「それって、私と美波ちゃんが仲直りしたこと? でも私にとって、それは救われたことなのに」
真汐くんがいてくれなかったら、今も私たちは口を聞けないでいて。仲直りできずに、このまま関係が終わってしまっていたかもしれない。だけど君がいてくれたから、真汐くんがいてくれたから、私は今も美波ちゃんと一緒にいられる。
だから、そんなこと言わないでほしい。
「確かにそれは良いことだったかもしれない。だけど逆の場合だって十分ありえるでしょ?」
「逆って?」
今のところ、彼が来てから悪いことなんて一つも起きてないから、イメージなんて湧かなくて。だけど彼があまり見せない真面目な表情が、それを深刻なことだと理解させる。
「もし僕がこの時代にいたせいで、この時代を生きる誰かの命がなくなったら、とか」
重い響きをもつその単語が、私にさらなる重力をかけてきた。確かにそれはとても恐ろしくて、恐ろしすぎて。
「タイムスリップしてきて最初はそういうの考えてなかったんだけど。でも、僕の何気ない一言が千紗ちゃんと美波ちゃんの仲直りのきっかけになったことで、はっきりしたんだ。僕はここにいちゃいけないんだって」
でも、帰れなかった……。それきり彼は口を閉ざしてしまう。遠い海に引かれた地平線に目を向けて。
「真汐くんは嫌いなの、この時代?」
ぽつりと、屋根から滴る雫のようにこぼれた。それを両手で捕まえるように、瞬時に私に視線を向けた彼は首を横に振る。全てを否定するように。
「嫌いなわけ、ないよ……。できることなら……」
この時代にいたい。そう切実に、訴えかけるように、真汐くんは呟いた。
「戦時下の世の中にはない、平和で守られた大切なものが、ここにはあるから」
「真汐くん……」
「でも、帰らないと。どれだけ残酷な時代であっても」
強く響いた。そこには計り知れないほどの覚悟がある。そう瞬時に思ってしまうくらいに。
「じゃあ、一緒に見つけようよ。帰る方法を!」
なるべく明るい口調にするよう努めて。そのおかげなのか、暗かった彼の表情が緩んだ。
「見つけるってどうやって? 僕もう既に試したんだよ? この時代に来る直前の行動を再現しながら」
「そうだなぁ、今は思いつかないけど。例えばタイムスリップしてきた主人公が出てくる小説を読んでみるとか?」
「それで参考になるのかなぁ」
「何もやらないよりはいいと思うんだけどなぁ。そう言う系の小説、結構あるからとりあえず読んでみようよ」
「うん、そうだね。ありがとう」
やっと彼が笑ってくれた。薄くて小さいけれど。だけどきっと、私も今同じ表情をしていると思う。
彼がいなくなってしまうのは、正直寂しい。彼のいる日常にあまりにも慣れすぎてしまった、今の私にとって。だけど、彼には還るべき場所がある。だから、彼の力になるんだ。たくさん考えて、彼をもとの時代へと行けるように。そう私は強く決意した。
優しすぎる彼を、もう傷つけたくないから。



