私がまだ五歳くらいの頃だったと思う。田んぼがたくさんある、いかにも田舎といった場所に住む父方の祖母の家に、毎年夏休みになると私は遊びに行ってた。海からも私の住む町からでさえ遠く離れた場所。
その年も、私は祖母の家に遊びに行った。だけど私は、いつもとは違うことをしてしまって。
お母さんとお父さんとおばあちゃんが話している隙を見計らって、私は外へ一人飛び出してしまったのだ。見慣れない風景にしかも、まだ五歳児の私が。どうしても行きたい場所があって。
だけどなかなか辿り着けない。一年前にもお母さんたちと行ったことがあるから、今度こそ一人で行けると思ったのに。少しずつ視界がぼやけてくる。時折頬になにかが流れて。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
柔らかくて、とっても優しい声が頭上から降り注ぐ。まるで温かい雨に濡れるような、心地よい感じがした。
見上げると、より涙の勢いが増していく。その声の通り、優しそうな顔のおじいちゃんがいたから。深い皺と濃いシミ、寂しい頭皮が、その人の送ってきた人生の長さを証明していて。
「まいごにっなっちゃっった……」
所々声が上ずる。初めて会った人のはずなのに、どこか安心できて、涙が止まらなくなる。
すると頭に温かいものが触れるのを感じた。その温もりは、やがて頭全体に広がっていって。
「お名前言える?」
大事なものに触れるように私を撫でながら。パニックになった頭で、私は何とか自分の名前を口にできた。
「まつはま、ちさ」
よかった。今度はちゃんと言えて。
「松浜さんの子かぁ」
私の家のこと、知ってるんだ。そう安心できて、また涙が勢いを増しそうになった。
「う~ん、ちょっと言いにくいんだけど。聞いてくれるかな?」
「うん……」
安心しきっていた身体が、また不安によって硬直する。よくない話かもしれないことに身構えていると。
「ここからお嬢ちゃんの家まで遠くてね。近くに僕の家があるんだけど、そこに寄って車でお嬢ちゃんを送り届けてもいいかな?」
「お母さんとお父さんに会えるの!」
迷子になって、もう帰れないと本気で思ってた。だけどおじいちゃんが大きく頷いてくれて、私は心の底から安心する。
「ありがとう!」
ありったけの感謝の気持ちを込めて、おじいちゃんにそう伝えた。
「ここがおじいちゃんのお家?」
大きくて古風なお屋敷に、私は姿勢よく歩き始めた。そんな様子がおかしかったのか、おじいちゃんは笑う。
「そんなにかしこまって歩かなくても。そんなたいそれた家じゃないよ」
「いや、こんなに立派な家に入ったことはなくて」
まぁまぁ。リラックスして、暑いから中入って、とおじいちゃんの甘い誘いに、私は簡単に乗ってしまった。
中へ入ると、外観通りの風貌で、広い空間が私を迎えてくれる。通されたのはお客さんを招き入れる大広間だった。部屋中に敷かれている畳のからはい草の香りが漂っていて、心地良い。
「ひいおじいちゃん、おかえり!」
座布団を用意されて、そこに座っていると、どこからか、声が聞こえてきた。男の子の明るくて、元気な、疲れなんてまったく知らなそうな、そんな声。
その主は、やがて襖の隙間から顔を覗かせた。
「ひいおじ……。その子、だれ?」
襖を開けて、大広間に入ってくると、男の子は真っ先に私に視線を送る。突然だし、知らない男の子と目が合って、反射的に目を逸らしてしまう。コミュ力の低い私の、悪い癖。
「そこの道で見つけて。今から車でその子の家まで送ろうと……」
声が止まる代わりにおじいさんと男の子が同時に私を見る。きっと赤くなっている私の顔を。
「ごめんなさい。これは……」
反射的にお腹を押さえた。だって。だって急にお腹の虫が鳴いてしまったのだから。しかも一際大きな鳴き声で。五歳児とはいえ、多少の羞恥心は持ち合わせているわけで。恥ずかしすぎて、一ミリたりとも身体を動かせない。
「この子、お腹空いてるみたいだね。ひいおじいちゃん、送るのはお腹いっぱいになってからでもいいんじゃないの?」
「えっ?」
「まぁ、確かに。ここまで歩いてきたわけだから、休んだ方がいいかもしれないね。お腹が空いているなら、なおさらだね」
「でも……悪いですよね。命を助けてもらったようなものなのに、お昼ごはんまで……」
そんなの申し訳なさすぎる。ただでさえ迷惑をかけているのに、もっと。だけど。
「僕の子どもが作る料理はどれも美味しいんだ」
答えになっていない言葉を、おじいさんは返す。その顔は、出会った時と同じくらいに優しい笑みで包まれていて。
「だから迷惑じゃなくて、食べてくれるとすごく嬉しいんだよ。この家の味を、千紗ちゃんが知ってくれるってことだからね」
すごい。長く生きていることが、どれだけ名誉あることなのかを、私は今初めて知った。だって少しの会話だけで、おじいさんは全部お見通しだから。私の考えてること、思ってること全てを。
結局私は、そのおじいさんの前では小さく頷くことしかできなかった。だけど本当にいいのかな、お昼ごはんを頂いても。
「千紗ちゃんって言うの?」
ゆっくりして、と一言残しておじいさんが部屋を出ると、目の前の男の子はこの瞬間を狙っていたかのように声をかけてきた。
私はまた小さく頷く。だめだ。さっきからずっと同じ反応しかできなくて。コミュ障でなにも話せない私に、きっと幻滅しているんだろうなぁ。だけど。
「僕は海人。年は十歳。さっきのおじいちゃんのひ孫だよ。よろしくね」
「……よろしく」
「あっ、やっとしゃべってくれた!」
ほんの一言だけなのに、とても嬉しそうな、人懐っこそうな表情を彼は作った。やっと自分に歩み寄ってくれた子猫を見つめるように。
「ねぇ、千紗ちゃんはこの辺の子じゃないよね?」
「うん……えっと、今はおばあちゃんの家に来てて」
さっきの海人くんの柔らかな表情のおかげで、少しだけど話を続けられた。初対面ながら、ここまで話せたことに少し感動する。
「そうなんだ。じゃあさ、じゃあさ」
「ごはんできたよ~」
声が聞こえた方の襖を開くと、おじいさんのように優しそうな女性が料理をテーブルに並べていた。
「もしかして、あなたが千紗ちゃん?」
目が合った途端、初対面の人に対する当たり前の質問を投げかけられる。
「はい……」
たったそれだけしか、返事はできなかった。海人くんには、もっと話せてたのに。コミュ障という名の魔物にたたられて。だけど……。
「可愛い名前だね。私は海人のお母さんだよ。よろしくね」
「はい……よろしくお願いします。あの……ごはん、持って行くの手伝います……」
「そんな。気を遣わなくていいのに」
海人くんのお母さんの優しさに触れるけれど、それでも。
「いえ。えっと、手伝いたいんです!」
迷惑をかけた上に、ごはんまで一緒に食べることになってしまったから。だからせめて、自分にできることを。恥ずかしさをグッと堪えて。
「じゃあ、ちょっとお願いしようかな。無理だけはしないでね」
「はい!」
思わず勢いよく返事をしてしまった。自分の気持ちが不器用ながらにも伝わったんだと、嬉しくなって。今度こそ恥ずかしさに耐えられなくなって、私は下を向く。おばあさんのくすり笑いで、余計に恥ずかしさは倍に増したわけだけど。
「どう、美味しい?」
「はい、とっても」
目の前で美味しさをアピールするかのように湯気を上げているクリームシチューを口に入れた途端、自分に取り巻く嫌なことが全て吹き飛んだ心地がして。
するとおばあさんがにっこりと笑ってくれた。それにきっとつられて、正面に座っているおじいさんも薄く微笑む。
「やっぱり、千紗ちゃんと食卓を囲んで正解だったみたいだね」
「どういうこと?」
だけどそれはすぐにわかった。おじいさんの視線の先で。
「この子は娘を育ていてね。だから、千紗ちゃんが料理を美味しそうに食べてくれるのが嬉しいだよ」
「ちょっとお父さん」
茶化されて恥ずかしそうに顔を赤くするおばあさんだったけれど、どこか嬉しそうな、そんな表情をした。
「そうだね。千紗ちゃんが喜んでくれて、とっても嬉しい。頑張って作った甲斐が……」
スムーズに進んでいた会話が、ぷつりと止まる。まるでゼンマイ切れのおもちゃのように。その視線は私の隣で同じものを食べているはずの海人くんに注がれていて。
不思議に思って隣を見ると、なんと私も海人くんのお母さんと同じように視線がそこで固まってしまう。
「海人、苦手なのは知ってるけどちゃんと食べないとだめでしょ」
シチューから芋掘りのように、海人くんはじゃがいもを端っこの一か所に集めていて。
「知ってるなら入れないでよ、じゃがいも。それに僕は煮たじゃがいも以外なら食べるの!」
「もう、仕方ないなぁ」
海人くんのお母さんは渋々お箸で集められたじゃがいもたちを次々と摘まんでいった。
「ところで、千紗ちゃんはどうしてあそこにいたのかな?」
おじいさんは優しく私に尋ねてきた。最初に聞く質問のはずなのに、泣いている私に気を遣って、おじいさんは聞かずにいてくれたんだ。その優しさに、胸が温かくなる。
「私、ひいおばあちゃんのお墓参りに行きたくて」
ひいおばあちゃん。私が生まれる前にこの世を去ってしまった人。どんな人だったかはもちろん知らないけれど、アルバムで見たことがある。すごく私に似ていて、それで多分ひいおばあちゃんに興味を持ったんだと思う。
「そっかぁ。でも一人はよくないよね。どうして千紗ちゃんはご両親とは行かなかったのかな?」
「今年はもうおばあちゃんが既にお墓のお掃除をしてしまって、お母さんとお父さんの行く理由がなくなってしまったから、私も行けなくなって」
おじいさんは少し考える素振りをしてから。
「明日なら、僕たちと行こうよ。お墓参り」
「え?」
にこっとおじいさんが笑って、私は胸が躍った。お墓参りに行けるんだ、と。でも。
「迷惑、だよね?」
「そんなことない。お墓参りって、なんか寂しくなるからおじいさん、できるだけ大勢で行きたいんだ」
「ほんとに?」
迷惑をかけて、さらにわがままを聴いてもらうわけにはいかない。だけどそれ以外に行ける手段はなくて。もう迷子は懲り懲りだから。
「うん。一緒に行こ」
おじいさんの誘いに私は大きく頷いた。また迷惑になるかもしれないけれど、それでもひいおばあちゃんに手を合わせたくて、私はおじいさんの提案に乗った。
私は口の中にシチューを含ませると、家のよりも美味しくて、隠し味的な特別なものがが入っているのかなと想像しながら、私は盛られたシチューをぺろりと平らげる。
「それはチーズが入ってるんだよ」とおじいさんから聞くと、私はとても驚いた。そして同時にいいなとも思った。食卓を囲む皆と一緒におしゃべりしたり、笑いながら。
家の中が静かにならないっていいなと。
「ほら、ここが墓地だよ」
翌日になって、約束通りおじいさんは私を迎えに来てくれた。昨日帰ってきたときは、心配ばかりで怒らなかったお母さんたちに優しさを感じた。
辺りを見回すと全部墓石で。どこにひいおばあちゃんのお墓はあるのだろうと思っていると。
「僕はデートに行ってくるから、海人。千紗ちゃんのお目当てのお墓、一緒に見つけてあげてね」
おじいさんの気になるワードに頭がモヤモヤしている中、突然腕に力を感じた。
「ほら、行くよ」
彼に腕を掴まれたまま、私は墓石を探すこととなった。知らない男の子と手を繋ぐことに慣れなさすぎて、緊張してしまう。だけどなんとかさっきの疑問を晴らさないと。
「ねぇ、さっきおじいさんデートって言ってたけど、どういう意味なの?」
ここが待ち合わせ場所に向いているとはとても思えないし、海人くんなら知ってると思って。
「あぁ。文字通り僕のひいおばあちゃんとデートするってこと。まぁ、デートというよりは会いに行くのほうが近いかな」
「会いに行く?」
「そう。ひいおじいちゃん、先にひいおばあちゃんに先立たれてしまって。だから彼女のお墓に行くことがひいおじいちゃんのデートらしい」
「そうなんだ……」
なんだか、すごく重たいデート。だって、それじゃあおじいさんは、見えない人とデートしてるってことになる。
「だからこそ、会えないからこそひいおじいちゃん、たくさん話したいことがあるんだと思う。千紗ちゃんだって、そうなんでしょ?」
「うん!」
私は元気よく頷いた。私もたくさんあるから。ひいおばあちゃんと。
「久しぶりだね」
ひいおばあちゃんの墓石を見つけると、私は手を合わせる。花が供えられ、言ってた通り、おばあちゃんがお墓参りをしたことが伺えた。それから話したかったことをできる限り目を瞑りながら話した。
「よし、次はおじいさんのいる場所に行こっか」
また彼は私の腕を掴んだ。だけど不思議なことに、今度は緊張がまったくもって起こらなかった。
「よし、お墓の掃除しよっか」
私は大きく頷いた。私を助けてくれたおじいさんにできることだと思ったから。おじいさんからしてもらったことを少しでも返せるようにと。
私は墓の下の方にくっついている苔を、たわしでひたすらに擦り続けた。一瞬チクっとした痛みを感じたけれど、気にせずに。だけど少しでも役に立ちたくて、水汲みも積極的に行った。
海人くんは私よりも大きいから、比較的高い箇所を掃除していて。だけど結局一番墓石の高い箇所にまで手が届くおじいさんが一番重労働になって、おじいさんの力に少しでもなれたらと思っていた私は、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だけど、その気持ちを晴らしてくれるような言葉が、頭上から舞い降りてきて。
「近くにお花屋さんがあるんだけど、そこで千紗ちゃんにお花を買ってきてほしいんだ。 海人、千紗ちゃんについて行ってくれないかな?」
海人くんは少し私を見た後、すぐに頷いてくれた。
「じゃあ、このお金は千紗ちゃんに預けるね」
「えっ、私?」
普通、こういう時って年長者に渡すものなんじゃ……。
「ちょっと。そこは僕にお金を預けてよ」
やっぱり。私の認識は正しかったんだよね。だけど。
「海人はダメだ。できるだけ安いお花を買って、余った分は全部自分のもののために使うでしょ?」
「そ、そんなこと……」
その続きは聞こえなかった。いや、言えなかったんだ。きっと、それが本当のことだから。って……。
「待ってよ」
すたすたと海人くんが先を行ってしまうから、私は慌てて追いかける。あの場が嫌だったかもしれないけれど、置いていくのはひどいと思いながら。
「早く。おいてくよ?」
途中、海人くんは振り返ると、そう煽ってきた。私を待っていてくれるために振り返ってくれたと思ったのに。だけどその考えもあながち間違っていなかったらしく、海人くんは私が追いつくまで待っていてくれた。
隣に並ぶと海人くんは手まで繋いでくれて。お父さん以外の男の人に繋がれたことがなかったから、少しだけドキッとしたり。
墓場を抜けると、いくつかのお店が目に映った。入った時も思ったけれど、墓場の周りは少しばかり栄えていて、お花屋さんはもちろん、ちょっとした小売店も建ち並んでいる。
出入り口が完全に開放されているお花屋さんからは、色とりどりの花たちが生き生きと咲き誇っていて。
「どのお花がいいのかなぁ。どれも綺麗すぎて、迷っちゃうよ」
「へー」
明らかに興味のなさそうな声。隣を見ると、本当にその通りの表情をしていたから、すぐに視線を花の方に戻す。
「えっと、いっぱい枚数あるから、たくさん買えるってことだよね?」
「ちょっと待って」
花に無関心だった彼が、突然声を上げる。何事かと思えば。
「もしかして、お金の数え方わからないの?」
そんな馬鹿にしすぎる質問をしてきて。数えるもなにも。
「いっぱいあれば買えるんでしょ。このお店にあるお花全部買えるくらい。ほら」
ポケットから、さっきおじいさんに預かったお金全部を手のひらに乗せる。やっぱり大金。だけど彼はなぜか顔を手で押さえ始めて。
「数が多ければ大金ってことじゃないんだよ」
「えっ?」
衝撃的だった。鳩が豆鉄砲をくらったような気分。
「よく見て。一枚一枚数字が書いてあるでしょ」
「ほんとだ!」
彼に言われた通りお金を凝視すると、確かに数字が書いてあって。
「ほら、やっぱりわかってないじゃん。仕方ないから僕が持っておくから」
「えー、預かったのは私だよ?」
「預かる以前の問題だよ。とりあえず貸して」
私は渋々お金を海人くんに渡した。無駄遣いしないといいけれど。
「よし、できるだけ安いお花を買って、余った分は好きに使おっと」
「え、それお花を買うためのお金なのに?」
やっぱり渡さなければよかった。宣言した通り、彼は数字の小さい値段の花を手にレジへと行ってしまう。おじいさんの大切な人に贈る花なのに。
海人くんは菊の花束を選んですぐにレジで会計を済ませてしまった。
「みて。まだそれなりに残ってるでしょ」
彼は片手に安くで買った花束を持ち、余った手には残金が広がっていた。
「そうだけど。そのお金お花に使うものでしょ?」
「そう固くなるなって。あっ、そっちじゃないよ」
墓場までの道へ身体を向けた私に、彼がそう呼びかけた。そっちに視線を移すと、なぜか彼はお店が立ち並ぶ方へ行こうとしていて。
「おじいさんのところに戻らないの?」
「まぁ、戻るけど。その前にね」
彼がポケットに余ったお金を入れると、チャリっと音がした。それでなんとなくわかってしまって。
「もしかして残ったお金を使いに行くの?」
正解と言うように、彼は表情をにこっとさせる。それから私のほうへ手を伸ばしてきて。
「一緒に行こ!」
どうしよう。ついて行ったら共犯になってしまう。でも彼の笑顔を見ていたら、そんな思考は煙のように消えてしまって。
気づけば、私は頷いていた。そして彼の手に自分の手を重ねる。
それから少し歩くと、ドラッグストアの看板の前に辿り着く。ここが目的地なのか、彼は迷いなく私の手を引きながらそのお店の中に入った。
店内にはドラッグストアという名の通り、たくさんの種類の薬品で溢れかえっていて。でも日用品もあったりして。
かごを持つと、なんの躊躇いもなく彼は棚に並んでいる薬品の一つに手をかけた。
『咳止め薬』
彼が持つ商品にはそう書かれていた。それでパッと閃く。
「もしかして、おじいさんのために買うの?」
まだ出会ってまもないけれど、それでも指折りでは数え切れないほどにおじいさんが咳をしているところを見ていたから。
私の推理が当たっていたのか、彼は驚いた表情をして、だけどすぐに冷静さを取り戻して。それは諦めのようにも見えた。
「僕ね、もういない人よりも、今を生きる人のためにお金を使いたいんだ。ひいおじいちゃんには、できるだけ永く生きてほしくて」
彼のそんな切実な声に、胸が熱くなった。明るく接していた彼が、そんなふうに思っていたことに。
そのままレジへ向かい、彼の会計している姿を目に焼き付けた。ちゃんと今度からはお金を一人で扱えるように。
会計を終えて、それらをレジ袋に入れた彼は、私に一枚のお金を見せてきた。
「じゃあ、千紗ちゃんに問題。このお金でお買い物はできるでしょうか?」
見せてきたお金に刻まれている数字には薄く『1』と刻まれていて。今まで見てきた商品に書かれていた数字はどれもその数字より大きかったから。
「できない」
すると彼はまたにこっと笑う。正解ってことでいいのかな?
「よくこの短い間に覚えられたね。さすが。千紗ちゃんはかしこいね」
正解できた上に、そこまで褒められたことに、ちょっぴり気恥ずかしくなる。そしてふと疑問に思ったことを口にした。
「ねぇ、この『1』の下に書いてあるのは?」
前の方は漢字で読めないけど、その後に数字が書いてあるのが見えたから。
「あぁ、それはこのお金が作られた年が書いてあるんだよ。どのお金でもそうだよ」
「へぇ〜。そうなんだ」
また一つ世の中のことを知れて、少し大人になれた気分がした。
買ったものをレジ袋に入れた彼は、私の手を握り、このまま帰ると思いきや、店内にある休憩所へと歩き始める。
「ちょっと、ここ座って」
休憩所に着くなり、彼はそう言ってきた。飲み物を取りに来てくれるのかなと思っていたら、彼はレジ袋の中から見慣れたものを取り出した。
「そこ、すれてるでしょ?」
「あっ、本当だ」
彼が指をさす方は私の薬指で。確かにそこは赤くなっていた。
そういえば、お墓の掃除をしていた時、少しチクッとしたような。
「ほら、貼るよ」
いつの間にか絆創膏のシールまで剥がしていた彼は、そのまま私の薬指へとそれを貼り付けた。といっても子どもだからか、指が細すぎて巻きつけていたけれど。
「できたよ。もう、そんな一生懸命にならなくてもいいのに」
「でも、おじいさんの大切な人の墓だもん」
貼ってくれた絆創膏を指でさすりながら、私は答える。
「なら、なおさらだよ。千紗ちゃんにとっては赤の他人のお墓なんだからさ」
「私にとって、おじいさんは大切な人なの。私を助けてくれた、命の恩人。だからおじいさんが大切にしている人のことを、私も同じように思いたいんだ」
墓場で困っていた私を助けてくれたおじいさんの力になれるのなら。そう思っていると。
「千紗ちゃんは真面目なんだね」
「まじめ?」
あまり聴き馴染みのない言葉に私は首を傾げる。
「そう。別にそんな気を遣わなくていいのに」
「そんなわけにはいかないよ!」
すると海人くんはふっと笑って私の手を取った。そのまま私たちは墓地へと歩き始める。
「僕、夢があるだ」
「夢?」
途中、歩きながら彼は夢について私に話してくれた。それは私が思っていた将来なりたい職業というのではなく。
「僕は将来、海の近くの街に住みたいんだ。こんな場所に住んでるから、海ってまだ行ったことも見たこともないんだよね」
「私も海、好きだよ」
青くて広くて、宝石みたいにきらきらしてる海は、いつまでも眺めていたいって思わせる。
「そっかぁ。じゃあ、いつか一緒に海見れるといいね」
夏の太陽に照らされた彼の笑顔は、海の水面のようにきらきらと眩しかった。
その年も、私は祖母の家に遊びに行った。だけど私は、いつもとは違うことをしてしまって。
お母さんとお父さんとおばあちゃんが話している隙を見計らって、私は外へ一人飛び出してしまったのだ。見慣れない風景にしかも、まだ五歳児の私が。どうしても行きたい場所があって。
だけどなかなか辿り着けない。一年前にもお母さんたちと行ったことがあるから、今度こそ一人で行けると思ったのに。少しずつ視界がぼやけてくる。時折頬になにかが流れて。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
柔らかくて、とっても優しい声が頭上から降り注ぐ。まるで温かい雨に濡れるような、心地よい感じがした。
見上げると、より涙の勢いが増していく。その声の通り、優しそうな顔のおじいちゃんがいたから。深い皺と濃いシミ、寂しい頭皮が、その人の送ってきた人生の長さを証明していて。
「まいごにっなっちゃっった……」
所々声が上ずる。初めて会った人のはずなのに、どこか安心できて、涙が止まらなくなる。
すると頭に温かいものが触れるのを感じた。その温もりは、やがて頭全体に広がっていって。
「お名前言える?」
大事なものに触れるように私を撫でながら。パニックになった頭で、私は何とか自分の名前を口にできた。
「まつはま、ちさ」
よかった。今度はちゃんと言えて。
「松浜さんの子かぁ」
私の家のこと、知ってるんだ。そう安心できて、また涙が勢いを増しそうになった。
「う~ん、ちょっと言いにくいんだけど。聞いてくれるかな?」
「うん……」
安心しきっていた身体が、また不安によって硬直する。よくない話かもしれないことに身構えていると。
「ここからお嬢ちゃんの家まで遠くてね。近くに僕の家があるんだけど、そこに寄って車でお嬢ちゃんを送り届けてもいいかな?」
「お母さんとお父さんに会えるの!」
迷子になって、もう帰れないと本気で思ってた。だけどおじいちゃんが大きく頷いてくれて、私は心の底から安心する。
「ありがとう!」
ありったけの感謝の気持ちを込めて、おじいちゃんにそう伝えた。
「ここがおじいちゃんのお家?」
大きくて古風なお屋敷に、私は姿勢よく歩き始めた。そんな様子がおかしかったのか、おじいちゃんは笑う。
「そんなにかしこまって歩かなくても。そんなたいそれた家じゃないよ」
「いや、こんなに立派な家に入ったことはなくて」
まぁまぁ。リラックスして、暑いから中入って、とおじいちゃんの甘い誘いに、私は簡単に乗ってしまった。
中へ入ると、外観通りの風貌で、広い空間が私を迎えてくれる。通されたのはお客さんを招き入れる大広間だった。部屋中に敷かれている畳のからはい草の香りが漂っていて、心地良い。
「ひいおじいちゃん、おかえり!」
座布団を用意されて、そこに座っていると、どこからか、声が聞こえてきた。男の子の明るくて、元気な、疲れなんてまったく知らなそうな、そんな声。
その主は、やがて襖の隙間から顔を覗かせた。
「ひいおじ……。その子、だれ?」
襖を開けて、大広間に入ってくると、男の子は真っ先に私に視線を送る。突然だし、知らない男の子と目が合って、反射的に目を逸らしてしまう。コミュ力の低い私の、悪い癖。
「そこの道で見つけて。今から車でその子の家まで送ろうと……」
声が止まる代わりにおじいさんと男の子が同時に私を見る。きっと赤くなっている私の顔を。
「ごめんなさい。これは……」
反射的にお腹を押さえた。だって。だって急にお腹の虫が鳴いてしまったのだから。しかも一際大きな鳴き声で。五歳児とはいえ、多少の羞恥心は持ち合わせているわけで。恥ずかしすぎて、一ミリたりとも身体を動かせない。
「この子、お腹空いてるみたいだね。ひいおじいちゃん、送るのはお腹いっぱいになってからでもいいんじゃないの?」
「えっ?」
「まぁ、確かに。ここまで歩いてきたわけだから、休んだ方がいいかもしれないね。お腹が空いているなら、なおさらだね」
「でも……悪いですよね。命を助けてもらったようなものなのに、お昼ごはんまで……」
そんなの申し訳なさすぎる。ただでさえ迷惑をかけているのに、もっと。だけど。
「僕の子どもが作る料理はどれも美味しいんだ」
答えになっていない言葉を、おじいさんは返す。その顔は、出会った時と同じくらいに優しい笑みで包まれていて。
「だから迷惑じゃなくて、食べてくれるとすごく嬉しいんだよ。この家の味を、千紗ちゃんが知ってくれるってことだからね」
すごい。長く生きていることが、どれだけ名誉あることなのかを、私は今初めて知った。だって少しの会話だけで、おじいさんは全部お見通しだから。私の考えてること、思ってること全てを。
結局私は、そのおじいさんの前では小さく頷くことしかできなかった。だけど本当にいいのかな、お昼ごはんを頂いても。
「千紗ちゃんって言うの?」
ゆっくりして、と一言残しておじいさんが部屋を出ると、目の前の男の子はこの瞬間を狙っていたかのように声をかけてきた。
私はまた小さく頷く。だめだ。さっきからずっと同じ反応しかできなくて。コミュ障でなにも話せない私に、きっと幻滅しているんだろうなぁ。だけど。
「僕は海人。年は十歳。さっきのおじいちゃんのひ孫だよ。よろしくね」
「……よろしく」
「あっ、やっとしゃべってくれた!」
ほんの一言だけなのに、とても嬉しそうな、人懐っこそうな表情を彼は作った。やっと自分に歩み寄ってくれた子猫を見つめるように。
「ねぇ、千紗ちゃんはこの辺の子じゃないよね?」
「うん……えっと、今はおばあちゃんの家に来てて」
さっきの海人くんの柔らかな表情のおかげで、少しだけど話を続けられた。初対面ながら、ここまで話せたことに少し感動する。
「そうなんだ。じゃあさ、じゃあさ」
「ごはんできたよ~」
声が聞こえた方の襖を開くと、おじいさんのように優しそうな女性が料理をテーブルに並べていた。
「もしかして、あなたが千紗ちゃん?」
目が合った途端、初対面の人に対する当たり前の質問を投げかけられる。
「はい……」
たったそれだけしか、返事はできなかった。海人くんには、もっと話せてたのに。コミュ障という名の魔物にたたられて。だけど……。
「可愛い名前だね。私は海人のお母さんだよ。よろしくね」
「はい……よろしくお願いします。あの……ごはん、持って行くの手伝います……」
「そんな。気を遣わなくていいのに」
海人くんのお母さんの優しさに触れるけれど、それでも。
「いえ。えっと、手伝いたいんです!」
迷惑をかけた上に、ごはんまで一緒に食べることになってしまったから。だからせめて、自分にできることを。恥ずかしさをグッと堪えて。
「じゃあ、ちょっとお願いしようかな。無理だけはしないでね」
「はい!」
思わず勢いよく返事をしてしまった。自分の気持ちが不器用ながらにも伝わったんだと、嬉しくなって。今度こそ恥ずかしさに耐えられなくなって、私は下を向く。おばあさんのくすり笑いで、余計に恥ずかしさは倍に増したわけだけど。
「どう、美味しい?」
「はい、とっても」
目の前で美味しさをアピールするかのように湯気を上げているクリームシチューを口に入れた途端、自分に取り巻く嫌なことが全て吹き飛んだ心地がして。
するとおばあさんがにっこりと笑ってくれた。それにきっとつられて、正面に座っているおじいさんも薄く微笑む。
「やっぱり、千紗ちゃんと食卓を囲んで正解だったみたいだね」
「どういうこと?」
だけどそれはすぐにわかった。おじいさんの視線の先で。
「この子は娘を育ていてね。だから、千紗ちゃんが料理を美味しそうに食べてくれるのが嬉しいだよ」
「ちょっとお父さん」
茶化されて恥ずかしそうに顔を赤くするおばあさんだったけれど、どこか嬉しそうな、そんな表情をした。
「そうだね。千紗ちゃんが喜んでくれて、とっても嬉しい。頑張って作った甲斐が……」
スムーズに進んでいた会話が、ぷつりと止まる。まるでゼンマイ切れのおもちゃのように。その視線は私の隣で同じものを食べているはずの海人くんに注がれていて。
不思議に思って隣を見ると、なんと私も海人くんのお母さんと同じように視線がそこで固まってしまう。
「海人、苦手なのは知ってるけどちゃんと食べないとだめでしょ」
シチューから芋掘りのように、海人くんはじゃがいもを端っこの一か所に集めていて。
「知ってるなら入れないでよ、じゃがいも。それに僕は煮たじゃがいも以外なら食べるの!」
「もう、仕方ないなぁ」
海人くんのお母さんは渋々お箸で集められたじゃがいもたちを次々と摘まんでいった。
「ところで、千紗ちゃんはどうしてあそこにいたのかな?」
おじいさんは優しく私に尋ねてきた。最初に聞く質問のはずなのに、泣いている私に気を遣って、おじいさんは聞かずにいてくれたんだ。その優しさに、胸が温かくなる。
「私、ひいおばあちゃんのお墓参りに行きたくて」
ひいおばあちゃん。私が生まれる前にこの世を去ってしまった人。どんな人だったかはもちろん知らないけれど、アルバムで見たことがある。すごく私に似ていて、それで多分ひいおばあちゃんに興味を持ったんだと思う。
「そっかぁ。でも一人はよくないよね。どうして千紗ちゃんはご両親とは行かなかったのかな?」
「今年はもうおばあちゃんが既にお墓のお掃除をしてしまって、お母さんとお父さんの行く理由がなくなってしまったから、私も行けなくなって」
おじいさんは少し考える素振りをしてから。
「明日なら、僕たちと行こうよ。お墓参り」
「え?」
にこっとおじいさんが笑って、私は胸が躍った。お墓参りに行けるんだ、と。でも。
「迷惑、だよね?」
「そんなことない。お墓参りって、なんか寂しくなるからおじいさん、できるだけ大勢で行きたいんだ」
「ほんとに?」
迷惑をかけて、さらにわがままを聴いてもらうわけにはいかない。だけどそれ以外に行ける手段はなくて。もう迷子は懲り懲りだから。
「うん。一緒に行こ」
おじいさんの誘いに私は大きく頷いた。また迷惑になるかもしれないけれど、それでもひいおばあちゃんに手を合わせたくて、私はおじいさんの提案に乗った。
私は口の中にシチューを含ませると、家のよりも美味しくて、隠し味的な特別なものがが入っているのかなと想像しながら、私は盛られたシチューをぺろりと平らげる。
「それはチーズが入ってるんだよ」とおじいさんから聞くと、私はとても驚いた。そして同時にいいなとも思った。食卓を囲む皆と一緒におしゃべりしたり、笑いながら。
家の中が静かにならないっていいなと。
「ほら、ここが墓地だよ」
翌日になって、約束通りおじいさんは私を迎えに来てくれた。昨日帰ってきたときは、心配ばかりで怒らなかったお母さんたちに優しさを感じた。
辺りを見回すと全部墓石で。どこにひいおばあちゃんのお墓はあるのだろうと思っていると。
「僕はデートに行ってくるから、海人。千紗ちゃんのお目当てのお墓、一緒に見つけてあげてね」
おじいさんの気になるワードに頭がモヤモヤしている中、突然腕に力を感じた。
「ほら、行くよ」
彼に腕を掴まれたまま、私は墓石を探すこととなった。知らない男の子と手を繋ぐことに慣れなさすぎて、緊張してしまう。だけどなんとかさっきの疑問を晴らさないと。
「ねぇ、さっきおじいさんデートって言ってたけど、どういう意味なの?」
ここが待ち合わせ場所に向いているとはとても思えないし、海人くんなら知ってると思って。
「あぁ。文字通り僕のひいおばあちゃんとデートするってこと。まぁ、デートというよりは会いに行くのほうが近いかな」
「会いに行く?」
「そう。ひいおじいちゃん、先にひいおばあちゃんに先立たれてしまって。だから彼女のお墓に行くことがひいおじいちゃんのデートらしい」
「そうなんだ……」
なんだか、すごく重たいデート。だって、それじゃあおじいさんは、見えない人とデートしてるってことになる。
「だからこそ、会えないからこそひいおじいちゃん、たくさん話したいことがあるんだと思う。千紗ちゃんだって、そうなんでしょ?」
「うん!」
私は元気よく頷いた。私もたくさんあるから。ひいおばあちゃんと。
「久しぶりだね」
ひいおばあちゃんの墓石を見つけると、私は手を合わせる。花が供えられ、言ってた通り、おばあちゃんがお墓参りをしたことが伺えた。それから話したかったことをできる限り目を瞑りながら話した。
「よし、次はおじいさんのいる場所に行こっか」
また彼は私の腕を掴んだ。だけど不思議なことに、今度は緊張がまったくもって起こらなかった。
「よし、お墓の掃除しよっか」
私は大きく頷いた。私を助けてくれたおじいさんにできることだと思ったから。おじいさんからしてもらったことを少しでも返せるようにと。
私は墓の下の方にくっついている苔を、たわしでひたすらに擦り続けた。一瞬チクっとした痛みを感じたけれど、気にせずに。だけど少しでも役に立ちたくて、水汲みも積極的に行った。
海人くんは私よりも大きいから、比較的高い箇所を掃除していて。だけど結局一番墓石の高い箇所にまで手が届くおじいさんが一番重労働になって、おじいさんの力に少しでもなれたらと思っていた私は、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だけど、その気持ちを晴らしてくれるような言葉が、頭上から舞い降りてきて。
「近くにお花屋さんがあるんだけど、そこで千紗ちゃんにお花を買ってきてほしいんだ。 海人、千紗ちゃんについて行ってくれないかな?」
海人くんは少し私を見た後、すぐに頷いてくれた。
「じゃあ、このお金は千紗ちゃんに預けるね」
「えっ、私?」
普通、こういう時って年長者に渡すものなんじゃ……。
「ちょっと。そこは僕にお金を預けてよ」
やっぱり。私の認識は正しかったんだよね。だけど。
「海人はダメだ。できるだけ安いお花を買って、余った分は全部自分のもののために使うでしょ?」
「そ、そんなこと……」
その続きは聞こえなかった。いや、言えなかったんだ。きっと、それが本当のことだから。って……。
「待ってよ」
すたすたと海人くんが先を行ってしまうから、私は慌てて追いかける。あの場が嫌だったかもしれないけれど、置いていくのはひどいと思いながら。
「早く。おいてくよ?」
途中、海人くんは振り返ると、そう煽ってきた。私を待っていてくれるために振り返ってくれたと思ったのに。だけどその考えもあながち間違っていなかったらしく、海人くんは私が追いつくまで待っていてくれた。
隣に並ぶと海人くんは手まで繋いでくれて。お父さん以外の男の人に繋がれたことがなかったから、少しだけドキッとしたり。
墓場を抜けると、いくつかのお店が目に映った。入った時も思ったけれど、墓場の周りは少しばかり栄えていて、お花屋さんはもちろん、ちょっとした小売店も建ち並んでいる。
出入り口が完全に開放されているお花屋さんからは、色とりどりの花たちが生き生きと咲き誇っていて。
「どのお花がいいのかなぁ。どれも綺麗すぎて、迷っちゃうよ」
「へー」
明らかに興味のなさそうな声。隣を見ると、本当にその通りの表情をしていたから、すぐに視線を花の方に戻す。
「えっと、いっぱい枚数あるから、たくさん買えるってことだよね?」
「ちょっと待って」
花に無関心だった彼が、突然声を上げる。何事かと思えば。
「もしかして、お金の数え方わからないの?」
そんな馬鹿にしすぎる質問をしてきて。数えるもなにも。
「いっぱいあれば買えるんでしょ。このお店にあるお花全部買えるくらい。ほら」
ポケットから、さっきおじいさんに預かったお金全部を手のひらに乗せる。やっぱり大金。だけど彼はなぜか顔を手で押さえ始めて。
「数が多ければ大金ってことじゃないんだよ」
「えっ?」
衝撃的だった。鳩が豆鉄砲をくらったような気分。
「よく見て。一枚一枚数字が書いてあるでしょ」
「ほんとだ!」
彼に言われた通りお金を凝視すると、確かに数字が書いてあって。
「ほら、やっぱりわかってないじゃん。仕方ないから僕が持っておくから」
「えー、預かったのは私だよ?」
「預かる以前の問題だよ。とりあえず貸して」
私は渋々お金を海人くんに渡した。無駄遣いしないといいけれど。
「よし、できるだけ安いお花を買って、余った分は好きに使おっと」
「え、それお花を買うためのお金なのに?」
やっぱり渡さなければよかった。宣言した通り、彼は数字の小さい値段の花を手にレジへと行ってしまう。おじいさんの大切な人に贈る花なのに。
海人くんは菊の花束を選んですぐにレジで会計を済ませてしまった。
「みて。まだそれなりに残ってるでしょ」
彼は片手に安くで買った花束を持ち、余った手には残金が広がっていた。
「そうだけど。そのお金お花に使うものでしょ?」
「そう固くなるなって。あっ、そっちじゃないよ」
墓場までの道へ身体を向けた私に、彼がそう呼びかけた。そっちに視線を移すと、なぜか彼はお店が立ち並ぶ方へ行こうとしていて。
「おじいさんのところに戻らないの?」
「まぁ、戻るけど。その前にね」
彼がポケットに余ったお金を入れると、チャリっと音がした。それでなんとなくわかってしまって。
「もしかして残ったお金を使いに行くの?」
正解と言うように、彼は表情をにこっとさせる。それから私のほうへ手を伸ばしてきて。
「一緒に行こ!」
どうしよう。ついて行ったら共犯になってしまう。でも彼の笑顔を見ていたら、そんな思考は煙のように消えてしまって。
気づけば、私は頷いていた。そして彼の手に自分の手を重ねる。
それから少し歩くと、ドラッグストアの看板の前に辿り着く。ここが目的地なのか、彼は迷いなく私の手を引きながらそのお店の中に入った。
店内にはドラッグストアという名の通り、たくさんの種類の薬品で溢れかえっていて。でも日用品もあったりして。
かごを持つと、なんの躊躇いもなく彼は棚に並んでいる薬品の一つに手をかけた。
『咳止め薬』
彼が持つ商品にはそう書かれていた。それでパッと閃く。
「もしかして、おじいさんのために買うの?」
まだ出会ってまもないけれど、それでも指折りでは数え切れないほどにおじいさんが咳をしているところを見ていたから。
私の推理が当たっていたのか、彼は驚いた表情をして、だけどすぐに冷静さを取り戻して。それは諦めのようにも見えた。
「僕ね、もういない人よりも、今を生きる人のためにお金を使いたいんだ。ひいおじいちゃんには、できるだけ永く生きてほしくて」
彼のそんな切実な声に、胸が熱くなった。明るく接していた彼が、そんなふうに思っていたことに。
そのままレジへ向かい、彼の会計している姿を目に焼き付けた。ちゃんと今度からはお金を一人で扱えるように。
会計を終えて、それらをレジ袋に入れた彼は、私に一枚のお金を見せてきた。
「じゃあ、千紗ちゃんに問題。このお金でお買い物はできるでしょうか?」
見せてきたお金に刻まれている数字には薄く『1』と刻まれていて。今まで見てきた商品に書かれていた数字はどれもその数字より大きかったから。
「できない」
すると彼はまたにこっと笑う。正解ってことでいいのかな?
「よくこの短い間に覚えられたね。さすが。千紗ちゃんはかしこいね」
正解できた上に、そこまで褒められたことに、ちょっぴり気恥ずかしくなる。そしてふと疑問に思ったことを口にした。
「ねぇ、この『1』の下に書いてあるのは?」
前の方は漢字で読めないけど、その後に数字が書いてあるのが見えたから。
「あぁ、それはこのお金が作られた年が書いてあるんだよ。どのお金でもそうだよ」
「へぇ〜。そうなんだ」
また一つ世の中のことを知れて、少し大人になれた気分がした。
買ったものをレジ袋に入れた彼は、私の手を握り、このまま帰ると思いきや、店内にある休憩所へと歩き始める。
「ちょっと、ここ座って」
休憩所に着くなり、彼はそう言ってきた。飲み物を取りに来てくれるのかなと思っていたら、彼はレジ袋の中から見慣れたものを取り出した。
「そこ、すれてるでしょ?」
「あっ、本当だ」
彼が指をさす方は私の薬指で。確かにそこは赤くなっていた。
そういえば、お墓の掃除をしていた時、少しチクッとしたような。
「ほら、貼るよ」
いつの間にか絆創膏のシールまで剥がしていた彼は、そのまま私の薬指へとそれを貼り付けた。といっても子どもだからか、指が細すぎて巻きつけていたけれど。
「できたよ。もう、そんな一生懸命にならなくてもいいのに」
「でも、おじいさんの大切な人の墓だもん」
貼ってくれた絆創膏を指でさすりながら、私は答える。
「なら、なおさらだよ。千紗ちゃんにとっては赤の他人のお墓なんだからさ」
「私にとって、おじいさんは大切な人なの。私を助けてくれた、命の恩人。だからおじいさんが大切にしている人のことを、私も同じように思いたいんだ」
墓場で困っていた私を助けてくれたおじいさんの力になれるのなら。そう思っていると。
「千紗ちゃんは真面目なんだね」
「まじめ?」
あまり聴き馴染みのない言葉に私は首を傾げる。
「そう。別にそんな気を遣わなくていいのに」
「そんなわけにはいかないよ!」
すると海人くんはふっと笑って私の手を取った。そのまま私たちは墓地へと歩き始める。
「僕、夢があるだ」
「夢?」
途中、歩きながら彼は夢について私に話してくれた。それは私が思っていた将来なりたい職業というのではなく。
「僕は将来、海の近くの街に住みたいんだ。こんな場所に住んでるから、海ってまだ行ったことも見たこともないんだよね」
「私も海、好きだよ」
青くて広くて、宝石みたいにきらきらしてる海は、いつまでも眺めていたいって思わせる。
「そっかぁ。じゃあ、いつか一緒に海見れるといいね」
夏の太陽に照らされた彼の笑顔は、海の水面のようにきらきらと眩しかった。



