朝日が教室のカーテンを優しく照らすその空間に、美波ちゃんを見つける。私は一目散に彼女の方へと歩み寄る。ずっと謝りたかった。昨日真汐くんに言われてから、ずっと。
 「美波ちゃん」
 鞄から参考書を取り出していた彼女は顔をこっちに向けた。
 「昨日はごめん。無神経なこと言って」
 「そんな、謝らないで」
 彼女は慌てて首を横に振る。かけている眼鏡がズレてしまいそうなほど強く。
 「私の方こそごめんなさい。大丈夫なんて無根拠な言葉を押し付けてしまって」
 「美波ちゃんが謝ることなんて、一つもないよ。だから謝らないで」
 一度息を吸ってから、それを吐くようにまた言葉同士を繋いでいく。バラバラに散りばめられたパズルを埋めていくように。
 「私、美波ちゃんみたいにまだ夢とか全然見つかってなくて。だから先生になりたいってまっすぐに言った美波ちゃんを妬んでたんだ。挙句の果てに傷つけて」
 本当にごめんなさい、と改めて謝る。だけど顔を上げても美波ちゃんは全然怒った表情をしていなかった。むしろ優しい表情を私に向けてくれていて。
 「ありがとう。やっぱり私千紗ちゃんのこと大好き!」
 「えっ?」
 予想だにしていなかった言葉たちに、私は驚きが隠せなかった。だっておかしすぎるから。
 「ありがとうなんて。私一言も口にしてないのに」
 そう言っても、当の本人はゆっくりと優しく首を振るだけ。
 「ありがとう、だよ」
 参考書を机の中に全部入れてから、彼女は再び口を開く。
 「素直な気持ちを教えてくれたことがなにより嬉しくて。妬んでるなんてきっと言いづらい気持ちのはずなのに。だからこそ、そんな気持ちを伝えられた私は、千沙ちゃんの本当の親友なんだって安心できたんだ。そう肯定できたのって……」
 目にハンカチを当てる私に、彼女は話を止める。際限なく涙が瞳を覆うから。
 「ありがとう……」
 美波ちゃんにそう思ってくれたことが、たまらなく嬉しくて。愛おしくて。
 「私も大好き! とっても特別な私の親友だよ」
 ひとしきり涙を拭いた私は、美波ちゃんに精一杯の笑顔を咲かせた。ありったけの感謝と大好きな気持ちを込めて。
 「ありがとう」
 そう言うと、美波ちゃんは満面の笑みを浮かべた。バックの窓の向こう側に見えるお日様よりも眩しい笑顔で。


 
 最後の時間の講義が終わると、教室の生徒たちは一斉に担任のいる教卓へと向かった。進路調査票を手に。
 「おまたせ。結構並んでて時間かかっちゃった」
 進路調査票がまだ空白の私は、一足早く身支度を済ませて廊下で美波ちゃんのことを待っていた。どっちからともなく私たちは、分岐点の校門まで歩き出す。
 「美波ちゃんもそうだけど、皆もう夢とか決まってるんだね」
 「そんなことないと思うけどなぁ」
 「でも夢が決まってないと行く大学とか書けないんじゃないかな?」
 大学にも種類はあるし、職業によっては大学じゃなくて専門学校に行く可能性もあるだろうし。
 「まぁ、夢が決まって大学を書いてる人もいると思うけど。でもなんとなく書いてる人もいると思うよ」
 「そうなの?」
 そんな半端な気持ちで、大学って行けるものなのかな。大学って費用かかるし、県外だったら一人暮らしも考えないとだし。
 将来があやふやなまま費用と労力をつぎ込めるかと言われると、多分私だったらできない。そのために勉強を頑張るなんてなおのこと。だけど彼女は当たり前かのように頷いて。
 「だって、進路調査票に書いた大学に絶対行くわけじゃないし。それに、夢を見つけるために大学を目指す人もいるはずだよ」
 「夢を見つけるために? 夢を叶えるために行くんじゃなくて?」
 「うん。ほら、大学って四年もあるでしょ。その間に夢を探す人はいると思うし、実際いっぱいいると思う。だから千紗ちゃんも今から夢のことを必死に考えなくてもいいんだよ」
 「でも、考える努力は必要な気がする」
 玄関に設置されている下駄箱に内履きを入れる。一緒に歩むことを望んでいるはずの靴を一人ぼっちにさせることを、ほんの少し気の毒に思いながら。
 ローファーに履き替えた彼女は、若干首を斜めにした。どうして、と問われているんだと思う。
 「多分、そうしないとだらけちゃうと思うの。まだ四年もあるから大丈夫でしょって。そうやってどんどん夢について考えることが後回しになって、最終的にはやりたくもない仕事に就いてる気がするんだ」
 私も靴を履き終えて、再び歩き出した。外に出た瞬間、夏らしい熱い空気と彼女の声が降り注いだ。
 「すごいね、千紗ちゃんは。そう考えてるだけでも、適当に大学名を書いた人より偉いよ」
 「そうかなぁ」
 適当とはいえ、ちゃんと大学名を書けて先生に提出できるのは凄いと思う。大学なんて、ついこの間まで遠い未来のことだと思ってたくらいだから。だけど美波ちゃんは大きく頷いてくれる。その反動で三つ編みが揺れてしまうほどに。
 「そんなに考えてるなら、夢もすぐ見つかるよって……。私また根拠のないこと言っちゃった……」
 ごめん、と頭を下げるから、私は慌てて頭を上げるよう声をかける。
 「全然。むしろ励ましてくれてるんだって、思った」
 「それ、本当の気持ち?」
 私は大きく頷いた。
 「うん。私の素直な気持ちだよ」
 本当だった。きっと昨日までの私だったら、嫌味だと思って美波ちゃんを妬んでいたかもしれない。だけど、親友だと断言してくれて、いっぱいありがとうを伝えてくれた彼女の言葉を、今は心の底から信じているから。
 胸を押さえてふっと息を彼女はこぼした。安堵したような、そんな仕草。
 「よかった」
 そう言って彼女は笑ってくれる。直感的に今の私も、同じ表情をしている気がした。
 校門を分岐点、私たちは笑顔で手を振りながら距離を放していく。だけどそれは物理的な話。
 身体じゃない二人の別のなにかは、きっと距離を縮めている。


 「おかえり」
 その挨拶と台所から現れる彼に、また嬉しさを感じる。そして彼もどこか嬉しそうな表情で。
 「どうしたの?」
 「今日の千紗ちゃんは元気そうだから」
 「いつも元気だよ。あんまり病気しないし」
 この時期は夏バテとか怖いけど、そういうのもないから。でも真汐くんが聞いているのは身体の元気とかじゃなくて。
 「昨日と全然表情が違うから。なにかいいことがあったのかなって」
 そうだった。美波ちゃんと仲直りできたのも、真汐くんが背中を押してくれたからだというのに。
 「真汐くん、ありがとう」
 真汐くんはきょとんとする。お礼を言われるようなことをしたとは微塵も思っていないかのように。その反応が今朝の私のようで、思わずくすりと笑ってしまった。
 「もう、笑わないでよ」
 ムッとした表情で視線を横に逸らされる。ごめんごめん、と私はありがとうの意味を伝えた。
 「真汐くんのおかげで美波ちゃんと仲直りできたの」
 「えっ」
 彼の視線が再び私へとまっすぐ向けられる。玄関の窓から差し込む陽光が、彼の瞳をきらきらと輝かせていて。
 「真汐くんに言われて思ったの。今日謝らなかったら、きっと気まずくていつまでも謝らないなって。あの時謝っていればって、大人になってから後悔すると思った……どうして?」
 ポタっと廊下の床に雫が垂れる。家に雨は降らない。だからこの雫は。
 「どうして泣いてるの?」
 彼の綺麗な瞳からとめどなく溢れる涙。ただ仲直りできたことを伝えただけなのに、どうして?
 今まで気づかなかったのか、彼はやっと涙を腕で拭い始めた。 
 「よかった……本当に」
 泣きながらも、嬉しそうな表情でそう言う。私と美波ちゃんのことを泣くほど想っていてくれたことに心が温まっていく。
 

 「今日はパズルする?」
 「う〜ん」
 お昼ごはんの後、洗い物をしながら私は考えた。パズルは好きだし、あの写真になにが映っているかもすごく気なる。だけど。
 「今日は勉強するよ」
 意外だと言うばかりに、彼は目を大きく開けた。
 「どうして? 夢が見つかったとか?」
 「夢は見つかってないんだけど。でも見つけるための努力はしていきたいの。美波ちゃんと話してそう思った。あ、でも夜はパズルがやりたいなぁ」
 「そっか」
 短い返事の後、彼は黙々と洗剤のついたスポンジをお皿に擦っていた。おかげで早く作業が終わり、私たちはそれぞれ自室に戻る。
 回転式の椅子に勢いよく座り、大きく息を吐いた。勉強に対するネガティブな感情を身体から追い出すように。
 正直勉強は嫌いで、できることならやりたくないと思ってる。だけど。
 私は担いできたリュックサックの中から、数々の参考書を取り出し、机の上へと乗せていく。見たくないタイトルばかりだけど、怯まずに乗せていく。
 夢のための努力をするって決めたばかりだから。そのために今自分ができることを考えた時に思い浮かんだのは勉強だった。せっかく夢を見つけたのに、学力がないとその夢にたどり着けないのは、あまりにも無念だから。
 勉強の相棒、シャーペンを手に、たくさんの難問たちと戦っていく。だけど難問は私の想像を絶するほどに手強く、なかなか倒せない。
 「はぁ~疲れた」
 一通り解き終えて、シャーペンを休ませる。これはなかなかの長期戦になりそう。白旗振らないように、もっと頑張らないと。
 その後も勉強を進めては撃沈するを繰り返し、心が半分折れかけながらもシャーペンを動かすことだけに集中した。