「ここの公式、覚えてください。入試頻出ですからね」
 張りのある声が教室中を駆け巡る。黒板に記された謎の公式、机の上の文字、掲示板に貼り出さられた大学の偏差値の一覧表、窓の向こうで走る運動部員たち。
 ここで見渡せる風景全てに未来が込められている。私が一番考えたくないもの。だけどそれに抗えない私はここに座らざるを得なくて。そんなことをグダグダ考えていたら。
 「では、この問題を松浜さん。黒板の前で解いてみてください」
 突然の指名に私は固まってしまう。よりによってなんで私なの? この問題全然わからないんだけど。
 「何してるの? 早く立って、問題解いて?」
 と言われましても、わからないのに。でも答えられないと先生に怒られちゃうし。どうしよう……。
 「これ、持ってって」
 空気だけの小さな声と、一枚のルーズリーフを隣の女の子が渡してくれた。私の親友、美波ちゃんが。
 「ありがとう」
 美波ちゃんにだけ届く声で、そっと。もう、感謝しかない。そのおかげで黒板の前に立った私は、すらすらと問題を記せた。もう書かれている文字をそっくりそのままなぞるように。
 

 帰り支度をする美波ちゃんの方を向いて、私は改めてお礼を言った。
 「本当にありがと」
 「どういたしまして」
 彼女もペコリと頭を下げる。両側の三つ編みを揺らしながら。
 「それにしても勉強難しいなぁ」
 「ここ進学校だからね。生徒のレベルも高いんだよ。でも、今日千紗ちゃんが当てられたのは基本問題だったと思うけどなぁ」
 「私には、無理だよ」
 だって美波ちゃんには夢があるから。夢を持っている人は強い。それを叶えるために努力していくから。だけど私には……。
 「千紗ちゃんなら大丈夫だよ」
 根拠もなにもないセリフ。あまりにも無責任なその言葉に、苛立ちが募っていく。火山灰のように少しずつ少しずつ。そんなこと言わないでほしかった。少なくとも今の私には。
 「美波ちゃんにはわからないよ」
 それは止まらない負の感情の集まりだった。瞬時に私は視線を落とす。彼女の表情を拾わないように。
 「夢を見つけてる美波ちゃんにはなにも……」


 「ただいま」
 いつもだったら、そこに声は重ならない。だけど今は。
 「おかえり」
 トントンと音を立てて、真汐くんが台所から顔を覗かせた。
 「ごはん、作ってくれてたの?」
 「うん。そうめんにしようかと思って。今日は特に暑いし」
 リビングの窓辺から差し込む陽光が、それを物語っていた。今まであの中を歩いてきたかと思うと、軽く目眩が起きる。
 「確かに」
 「これから茹でるから、ちょっと待っててね」
 彼が台所へ戻るのを見送ると、全身の力が抜けていくような、そんな心地がした。心が安らぐような。
 もう慣れっこだと思ってた。お母さんもお父さんもいない、静かな家にいることに。だけどやっぱりそれは違ってて。
 血の繋がりがなくても、家族じゃなくても。誰かが家にいてくれること。他愛のない話をしてくれること。そのすべてが私を幸せにしてくれるんだって。


 「パズル、形になってきてるね」
 「うん。今日千紗ちゃんが学校に行ってる間も進めてたからね」
 途方もない作業だと思ってたけど、意外にも紙切れ同士はくっついてて。
 真汐くんは指でそれを摘むと、もう片方で摘んだ紙切れと接合し始めた。そして合わなかったらまた違う紙切れを取っていく。
 私も彼に倣って作業してみる。なかなか繋がってくれないけれど、接合部がぴったり重なるとなんともいえない感動が広がって。
 作業に集中すればするほど、部屋が静かになる。騒がしいのは夏の日差しに照りつけられる蝉だけ。だけどその静寂は彼によって幕を下ろす。
 「千紗ちゃん、なにかあったでしょ?」
 「えっ、なにもないよ」
 だけど真汐くんは細めた目で、私を見つめるのをやめなかった。私の思考が透けて見えているのかと思わせるくらいに、その目はまっすぐで。
 私は諦めて頷いた。透けて見えるのなら隠しても仕方ない。
 「実は今日美波ちゃんに八つ当たりをしてしまって」
 学校であったことを一つ一つ言葉にしていく。真汐くんはその間一言も口を開かず、ただただ私の話を聞いてくれた。
 「美波ちゃんにはわからないって。そんなの当たり前なのに。だって私、自分の今の気持ちを言葉として美波ちゃんに伝えられてないから……」
 本当に。本当に最低だ、私。夢に向かって努力している人に八つ当たりするなんて。ちゃんと未来を見つめられない私が、全部悪いのに。
 「人生はパズルみたいなものなんだよ」
 私は顔を上げて真汐くんの方を見る。ぽつりと言葉を漏らしたのに、彼はこっちを向かずに作業を続けていた。未知なる写真を完成させるために。
 「人生はパズル?」
 「そう。人の人生が最初から決まっているんだ。この世に生まれた瞬間から。ほら、パズルも一緒でしょ。パズルは完成する絵が決まっていて、その全体像を作り上げるために、皆一つ一つのピースをはめていって」
 「なんか宗教みたい」
 「まぁ、そんなものなのかな。でも僕はこの考えにすごく救われたんだ」
 彼はなにか考え事をするように視線を空気に泳がす。とても嬉しそうで楽しそうな表情で。
 「もしかして、そんな考えをするようになったから真汐くんもパズルが好きになったの?」
 「うん。僕のお母さんが、それを教えてくれて。あと他にも人生とパズルには似ているところがあるんだって」
 「そうなの?」
 私は軽く首を捻りながら考えてみた。もしも最初から人生が決まっていたとしたら、確かに人生とパズルはすごく似てると思う。だとしたら。
 「ピースの形とか数とか……あっ、完成したパズルのだったりする?」
 「うん」
 正解とでも言うように彼は大きく頷いた。とても満足そうに。
 「人生のあらゆる過程がピースの形だったり、大きさだったりして、自分で作り上げた人生の歴史こそが、完成したパズルなんだ」
 パズルと人生について、真汐くんはたくさん語ってくれた。こんなに彼が暑語りをしているのは初めてで、一生懸命私に伝えようとしてくれるのがひしひしと伝わる。だけどふとはてなマークが頭上を舞った。
 「じゃあ、ピースが少なくて簡単なパズルだったら、人生に例えるとどうなっちゃうの?」
 すると今までの楽しそうな表情が音も立てずに消えていった。語るのも笑うのもやめて。
 「ごめん……」
 今きっと、真汐くんにとってひどいことを言ってしまった。話が盛り上がってたからつい調子に乗った発言を。戦争で彼はもしかしたら大切な人を失ってるかもしれないのに。
 「ピースが少なくて簡単だったら、その人の人生は」
 途中で言葉を区切って、彼は深く息を吸った。いつもの彼の声。だけどそれは、いつもより確かな冷たさを帯びている。部屋の扇風機を消してしまいたくなるほどに。
 「早く終わるんだよ」
 吸った息を吐くようにゆっくりと、深く。その一言は耳を通り越して、心の中へと潜り込んでいった。
 「だからこそ」
 声を和らげた彼は「美波さんとちゃんと話してほしい。いつパズルが完成するかなんてわからないから」と続けた。
 なんて泊ってる分際で厚かましいよね、と彼はおどけてみせる。だけど私は首を横に振った。
 「ありがとう。明日謝るよ、絶対に」
 そう決めたら心がふっと軽くなった。さっきまでなにを背負ってたんだと思わせるくらいに。夢をまだ見つけてない人は私だけじゃない。それなのに私は、夢を追っている人を妬んで、傷つけてしまった。本当に酷いことを……。
 「よし。じゃあ、作業再開しよ」
 また落ち込みかけた私を、彼が明るい場所へ連れて行く。私に向けてくれるその笑顔は魔法みたいで。
 お日様が沈むまで、私たちはひたすらにピースを繋いでいった。こんなに一つのことに集中したのは、随分久しぶりかもしれない。そう思えるほどに、彼とパズルを埋める時間は楽しくて。
 沈む太陽が私たちをオレンジ色に染めた。