「あっ、おはよう千紗」
 「うん。お母さん、おはよう」
 温かな湯気に誘われるがままに、私は食卓についた。湯気は味噌の香りで、私のお腹の虫を強く刺激させる。
 「今日も美味しそう!」
 隣にはお椀の中をじっと見つめる真汐さんがいて、やっぱりぶかぶかな服を身に纏っている。
 「いくらでも借りていいけど、僕の服だとぶかぶかでしょ?」
 新聞を広げるお父さんが一度顔を上げて、彼のほうを見る。
 「いえ、全然。むしろ貸して頂いてありがたいです」
 「でも、不便じゃない?」
 箸を並べながら、お母さんが話に参加してきた。首を傾けて悩んだ様子を見せながら。そして。
 「だったら服、買いに行けばいいんじゃないの? 今日も休みなことだし」
 なんて、予想だにしていなかったことを提案し始めた。しかもわずかに顔をニヤつかせながら。これはもう、明らかに。
 「お母さん!」
 「あっ、お金ならちゃんと渡すからね」
 いつの間に用意していたのか、ポケットからお財布を取り出し、折り畳まれたお札を数枚机に置いた。
 「あの……さすがにそこまでは」
 机に置かれた大金を見て、真汐くんが口を挟んできたけど無駄だった。
 「いいのいいの。それより楽しんできて」
 私は誰にも聞こえないくらい小さくため息をつく。お母さん、完全に私と真汐さんがそういう関係だと思っている。でも無理もない話だとも思う。男性とあまり関わらない私が連れてきた人だから。しかもかっこよくて、常識があって。
 ふいに私と目が合うと、彼は申し訳なさそうな表情をやめて、苦笑いを浮かべる。私はそれに同意するように、置かれたお札を手に取った。さすがにいつまでもサイズの合わない服を着せるのも申し訳ないと思っていたから。
 味噌の香りを背に、私はお財布のある自室へと歩き出した。 


 ショッピングモールへと届けてくれるバスに乗り込むと、「今日も違う席に乗るね」と空いている席へ真汐くんは座ろうとした。だけど。
 「今日は一緒に座ろう」
 「えっ?」
 自分でも大胆な発言をしていることはわかっているつもり。だけど私たちはもう出会ったばかりではないから。一日ちょっとだけど、共通の趣味が判明したくらいに、関係は少しずつ築けているはず。
 「パズルのこととか。服を買いに行くから、服の趣味とか色々」
 「いいよ。千紗ちゃんがいいなら」
 真汐くんがにこっと笑って私は安心する。そう思っていたのが私だけだと、そうじゃないことがわかって。
 私たちは二人用の席に腰をかけた。窓側は彼で通路側は私。窓に映る彼は涼しそうな顔で、外の天候なんて見えてないよう。だって外はうごめく陽炎でいかにも暑そうな景色だったから。自然と気分が滅入ってしまう。
 「ねぇ、昨日パズルやってて思ったんだけど」
 「あっ、うん」
 窓から突然私のほうを向いてきて返事に戸惑ってしまう。
 「あのパズル、色ないのはわかるよね?」
 「うん。全部灰色っぽくて」
 だからこそ、あの紙切れパズルは難しくて。紙一つ一つ小さい上に色が同じような感じだから、余計に。
 「だから僕わかったんだ。あの紙切れの正体」
 「え? 真汐くん、もしかしてパズルができる前に謎を解いちゃったの?」
 そうだったら、彼はすごい推理能力の持ち主だ。そう思ったけれど。
 「そこまではわからないよ、さすがに」
 「じゃあ、なにがわかったの?」
 「ほら、色が灰色だったり。でも白とか黒もあったでしょ?」
 「確かに」
 昨日やったばかりだからわかる。ほとんど紙切れは灰色だけれど、時々白とか黒もあって、それを手掛かりに紙切れ同士をつなぎ合わせていた気がする。でもそれがなんだろう。
 「だから、あの紙切れは白黒写真なんじゃないかな。そこに誰が映っているかはわからないけれど、きっとそうだよ」
 「なるほど。じゃあ、すごい昔の写真ってことだよね。白黒写真ってことは」
 これは夢があるかもしれない。昔の人が残した謎。
 「これは完成したときの達成感が楽しみだね」
 私と同じところにパズルの魅力を感じている彼に、ますます共感がもてた。
 するとここで、私たちの目的地名がアナウンスされた。彼に小銭を渡してから席を立ち、バスを下りると、身体全体を不愉快な熱が包み込んだ。

 
 ハンガーラックとハンガーの接触する音が店内を支配する。そんな中、私は重大な事実に気づいてしまった。
 「ねぇ、服選んでほしいんだけど。僕、よくわからなくて」
 「……そうだよね」
 そんなの当たり前だった。彼のいた戦時中って、ほとんど和服か軍服なはず。洋服なんて着てたら下手すれば反日派だと疑われて、最悪処罰されるかも。
 「千紗ちゃん、寒いの? 大丈夫?」
 「えっ、大丈夫、だよ? ほら、店内涼しいから」
 とりあえずお店の冷房のせいにして、私は服を物色する。メンズ服コーナーだけど、意外にも女性客が散見できて、恥を感じずに集中して服を見ていられた。
 途中、隣で一応服を眺めている彼をちらちら見ながら、服を選んでいく。男性の服なんてわからないはずなのに、どうしてか真汐くんの服選びは順調だった。試着のたびに、私が選んだ服と彼がマッチして。だけど次に試着してもらう服を渡そうとした時、ふと手が止まった。
 「どうしたの?」
 「今思ったんだけど、真汐くん嫌じゃない? 洋服着るの」
 日本のものでない服。それはあの時代にとって批判されるものではないか、と。
 「全然。というか嬉しい」
 「嬉しい?」
 予想外の単語に、私は戸惑いが隠せない。彼はその言葉通りの表情を作って「だって千紗ちゃんが時間をかけて選んでくれた服だから」と私が持っている未試着の服に手をかける。その手と私の手が触れたその時、心臓が強く跳ねた。
 その反動で服から手が離れる。それは彼の手によって試着室へと連れて行かれた。
 「着替えるから、待っててね」
 試着室のカーテンはふんわりと柔らかく閉ざされた。


 「大丈夫? やっぱり私、持つよ?」
 「いや、これは僕の服だし。それに千紗ちゃんは選んでくれたんだもん。その上持たせるなんて」
 とはいえ両手に大きな紙袋を持つそのビジュアルは、本当に重そうで。
 「まぁ、そうかもしれないけど。とりあえず休憩しよ?」
 服選びで疲れたし、試着しまくった彼も多分同じだと思う。さらに彼は重たい荷物を持っているわけだし。
 「いいね。ちょうどおなか空いてきたし。あっ、なんかいい匂いする!」
 「ちょっと、待って」
 荷物が重いはずなのに、彼の歩く速度はどんどん速くなっていく。小さな鞄しか持ってない私が追いつけないほどに。
 「もう、早すぎるよ」
 立ち止まっている彼のところまで来たとき、匂いはさらに強くなっていて。
 「ほら、あそこ」
 彼の人差し指の先は、鉄板の上でハンバーグを転がす男性がいた。まだ若そうだから店主ではなさそう。貫禄があって、まさにハンバーガーショップの店員といった出で立ち。ずっと立っている私たちに気づいてか、その人が話しかけてきた。
 「ここは本場のハンバーガーを味わえるお店だよ。食べてく?」
 「食べます!」
 「ちょっと」
 「えっ、もしかしてお金足りない?」
 「お金は全然余裕あるけど……」
 「なら問題ないじゃん。僕もう、ハンバーガーの胃になっちゃった」
 にこやかな表情を浮かべながら、ハンバーガーメニューをじっと見る彼。私も倣ってみると、確かにどれも美味しそうで。
 「あの、人気メニュー二つください!」
 すると店員の男性は夏みたいな力強い笑みを浮かべて、私たちの注文に応じてくれた。

 
 「美味しいね」
 ハンバーガーショップのイートインスペースで、真汐くんは手に持つハンバーガーの味を堪能していた。もちろん私も。意識していないのに笑みがこぼれるほどに美味しい。
 だけど戦時中の人がハンバーガーを頬張っていることに、なんとも言えない違和感を感じて。
 「ねぇ、真汐くんは戦争の敵国とか気にしないの?」
 彼は食べるために開きかけた口を閉ざし、手の動きも止まる。
 「この食べ物を作ったのは、八十年前の日本の敵国なんだよ。八十年前の日本人の命をたくさん奪った国だから……」
 「気にしないよ」
 きっぱりと言い切る彼の一言に、続きの言葉を失った。
 「そもそも戦争に敵も味方もいないんだよ。命を奪ったのは日本人も同じだし」
 彼から放たれる一言一句が、耳を越えて私の心へとまっすぐに届いていく。それは先人たちから聞いたものでも、口先だけのものでもない。彼の本音そのものだと直感でわかった。
 ハンバーガーを一度置いて彼は改めて私の目を見る。目を少しばかり潤ませて。
 「戦争に敵も味方もいないよ」
 ぽつりとそんな声が耳に降り注ぐ。彼の瞳からの雨を受け止めているかのような感覚。私を濡らさない雨は幻の世界で私を濡らしていく。
 「戦争はすべての大切なものを奪うだけ。これまでの暮らしも、些細な幸せも、あるはずだった未来も、そして」
 雨脚を強くするように、彼は深呼吸してから「かけがえのない特別な存在も」と続けた。
「真汐くんはなにが……」
 なにがあったの? 遠い戦時中の時代に君はなにを見てきたの? どんな記憶が君にそんなセリフを言わせるの?
 だけど最後まで言えなかった。黒い雲のすき間から陽光が差すように、彼が顔の力を抜いてフッと微笑んだから。
 「だけど僕は恨まない。たとえそれが大切な人を奪った敵国だとしても。だって敵国の人だってきっと同じ境遇だと思うから」
 「それにね」と彼は置いていたハンバーガーを再び一口食べる。その味を深く噛みしめながら。
 「こんなに美味しいものを作る国が悪い国なわけないと思ってるから」
 口に含んでいたものを食べ終えて、満面の笑みを私に向けた。素直でまっすぐなその笑顔は幻の世界に青空をもたらして。
 その空を見上げて、私は強く思った。彼にどんな過去があろうと、時間に隔たりがあろうと、笑みが幻であろうと。
 彼の、真汐くんのその笑顔をずっと見ていたいって。


 色んなお店をぶらぶら回っていたら、時計の針もぐるぐると回っていて。気づけばショッピングセンターのアナウンスは、日曜日の国民的なアニメの放送時間を告げていた。
 「そろそろ帰らないとだね」
 「そうだね。あっ、あれ書店?」
 真汐くんの指さす方向には、確かに書店があった。本屋さん特有の紙の匂いが鼻孔をくすぐる。
 「ちょっと寄ってく?」
 もう帰る時間だけど、本屋さんのあの雰囲気をわずかでも味わいたくて、そう提案してみる。もちろん、とでもいうように彼は頷いてくれた。
 店内に入ると、その香りはより強くなる。本屋さんに来たと、それが感じさせてくれた。
 本屋さんに来たら、小説とか漫画が並べられている棚に行く人が多いかもしれない。だけど私はその棚とは反対側のほうへと歩いていく。その途中彼は静かに、でも興味深そうに並べられている一つ一つの書籍に目を通していた。目指していた棚の前で立ち止まると、案の定お目当てのコーナーを見つけて。
 「あったあった」
 「それが千紗ちゃんの探してたものなの?」
 軽く頷きながら、その背表紙の上部に人差し指をかけて抜き取る。現れた表紙には『クロスワードパズル』という文字が私の目に飛び込んできた。
 パラパラと軽くページをめくっていくと、見るからに面白そうなクロスワードがそこには表記されていて。
 「今こういうのにハマってて」
 「面白そう。パズル好きの千紗ちゃんがハマるなら僕もそうなるね」
 「うん、絶対ハマるよ。数字入れていって答えを導き出していくんだけど。どんな答えになるのかなって考えるのがすごく楽しくて」
 「へぇー。でも僕的には、今やってる紙切れパズルのほうが楽しそうだなぁ」
 「あっ、そうだった。あの紙切れのことすっかり忘れてた。危うく買うところだったよ」
 二人してくすり笑い合って私は書籍を棚に戻す。
 他に歩いていると、どうしても目についてしまうのが、職業に関する書籍。それは強制的に私を困らせる。将来の夢をまったくもって決めても考えてもいない私を。
 いっそのこと、大好きなパズルが職業になればなと淡い夢を抱いたけれど、すぐに払う。それはあまりに非現実だから。
 「今日、ほんとに楽しかった」
 書店を出てショッピングモールの出入り口付近で彼が唐突にそう言った。しかもこれまでにないほどの満面の笑みで。それを見ただけで、今抱えている不安はすべて消え去ってしまう。ちょっとずるい。でも。
 「私も」
 建物と外の境目である自動ドアは夕方と夜の間の紫色で彩られている。本当にあっという間だった。こんなに時の流れが早く感じたのは、久しぶりで。服を買って、ハンバーガーを食べて、色んなお店を回って。ただそれだけで、もう夜になるほど暗くなっているとは。だから今日はきっと。
 「楽しかったよ」 
 彼に負けないくらい、私も微笑んだ。