柔らかい陽光に誘われて、私は現実へと戻ってくる。休日だけど、身体に沁みついた習慣はそう簡単に離れなくて、ついいつも通りの時間に目覚めてしまう。
 起きて早々、昨日のことを考える。いつも行く海に戦時中からタイムスリップしてきた少年と出逢って、さらにその人と一緒に暮らすことになって。まるで夢みたい。ううん、夢かもしれない。
 私は部屋を出て、階段をトントンと降りて行った。もし夢が本当なら、彼はリビングで眠っているはず。そしてリビングに行くと、その夢は否定された。
 ソファに沈みながらすやすやと眠る人物。それは紛れもなくあのタイムスリーパーの真汐くんで。起こすのが申し訳ないほどに気持ちよさそうに寝ている。
 部屋にはお母さんもお父さんもいなかった。既に仕事へ行ってしまったよう。昨日ご馳走を囲んで賑やかだったリビングとは思えないほどに、部屋は静まり返っている。
 彼の顔をもう一度じっと見てみると、やっぱり綺麗な顔立ちをしていて、胸が変な刻み方をした。
 どんな夢を見ているんだろう。気持ちよさそうにしているから、いい夢を見ているのかな。そうだといいな、と思いながら朝ごはんの準備をしようと私は立ち上がった。
 

 「真汐くん、起きて」
 朝ごはんができあがって、さすがに私は真汐くんを起そうとする。だけど一声だけじゃ起きず、何度も呼びかける。それでも起きなくて、私は迷った末、肩を揺すって起こすことにした。するとやっと彼はやっと声を出して。
 「もうちょっとだけ」
 「だ~め」
 そんなやりとりを続けると、ついに彼の綺麗な瞳が現れた。どうやら彼は朝が苦手みたい。
 「おはよう、千紗ちゃん」
 寝起きなのにちゃんと挨拶してくれて、今まで何度も起こした甲斐があったと嬉しくなる。
 「おはよう」
 親にもあまり言えないその言葉を私は彼に伝えた。リビングの大きな窓から差し込む朝の陽光とともに。


 「いただきます」
 二人同時にそう言っているはずなのに、なぜか昨日よりもその声は小さくて。
 「真汐くん、大丈夫? 元気ないの?」
 「え、ううん。大丈夫だよ」
 だけど私には、元気の良さを努めているかのように聞こえた。朝ごはんを並べ始めてから、あまり元気がないように見える。
 「苦手なものあった?」
 ごはんに、目玉焼きに、ウインナーにたくわん。それから味噌汁。あまり癖のないものを準備したつもりだし、彼も苦手なものはないと言ってたから。
 「ないよ。本当に大丈夫だよ」
 彼は箸を持ってお米をすくい、一口食べると目玉焼きやウインナーも同じように口へと運んでいった。だけどその流れに乗って私は箸を進めることができなかった。そのまま私は固まってしまう。だって。
 「真汐くん、どうして泣いてるの?」
 「え?」
 昨日と同じくらい綺麗な雫が頬を流れていく。箸を置いて頬を擦ると、指に雫がついてやっと自分が泣いていることに気づいたみたい。
 「ご、ごめん。戦争する前もこんな食卓だったなって、つい思い出しちゃって」
 そっか、そうだよね。戦時中は配給制で、ごはんも満足に食べることができなかったと、前に授業で習った気がする。彼の瞳からは涙が次から次へと溢れていって。
 「いっぱい泣いていいよ」
 きっと私には想像もできない辛い出来事があったんだと思う。それを我慢して今の彼があるのなら、その辛い気持ちを少しでも涙で減らしてほしい。
 「ありがと……」
 その言葉はどんな意味を含んでいるのか。私が彼を助けた理由がわからないように、それも一緒だった。だけどそのありがとうは私の心の中で、いつまでも響いた。じっと深く。
 

 「真汐くん、もう大丈夫なの?」
 「うん。大丈夫だよ」
 泣いたせいで少し充血した目をしながら、彼は柔らかな表情を浮かべる。よかった。ほんの少しは戦時中に負った心の傷を涙で癒やせたのかもしれないと思うと、ほっとする。
 二階には私たち家族の自室と、使われていない物置き部屋の四部屋がある。物置き部屋は私の部屋の隣にあるけれど、久しくそこへは入っていない。
 階段を上って扉を開けると、その部屋からは猛吹雪のような埃が私たちを襲ってきた。
 床には雪のごとく塵や埃が積もっていて、足跡一つついていない。きっとしばらく誰も入っていなかったんだろうなと推測できる。
 「なんか、ごめんね」
 ここで過ごしてもらう彼に申し訳なくて。だけど彼は目を弧にして。
 「すごい掃除のやりがいあるよ、ここ!」と逆にはしゃいでいる様子。この部屋が綺麗になっているのを想像できないけれど、彼のやる気が私にも伝わってきて。
 「よし、頑張ろう」
 そう自分を奮い立たせて、まずは大きな物を廊下に運ぶところから始めた。
 「せーの」と掛け声を合わせて一緒に置かれていた机や椅子を運んでいく。雪みたいに降っては落ちる埃の中を。一瞬学校の清掃を思い出すけれど、学校では男の子とほとんど言葉を交わさないから、この掃除がとても新鮮に思える。
 最後の棚を運ぼうとするが、後回しにしただけあって二人でもなかなか運べない。ラスボスレベルに手強い重さ。
 「仕方ない。棚は中の本を一旦運んでからのほうがよさそうだね」
 「そうだね。本くらいなら私一人でできるから、真汐くんはちょっと休んでよ」
 「いや、僕もやるよ。だってここ、僕の部屋になるんでしょ?」
 「そうだけど……」
 重いものは彼が積極的に一人で運んでいたし。他人が見ていたら間違いなく彼のほうが働いていたと誰もが口を揃えて言うはず。
 「わぁ、本だけじゃなくてアルバムもあるんだね」
 私の言葉には甘えず、彼は次々と棚から本を取り出していた。頑張ってくれたお礼にあとで美味しいもの作ってあげないと。あっ、でもまた泣いたらなぁとも心配になる。
 棚には様々な背表紙が並んでいる。書籍っぽいのもあれば彼が言ってたとおり、アルバムらしきものも……。うん?
 古そうな背表紙の中に一際古い背表紙を見つける。手書きなのか、文字は滲み、所々に茶色いカビがあった。
 本当は掃除をしなければならないところ。だけど気になってそれを取り出してみる。それは背表紙だけでなく、表紙までもがかなり汚れていて。
 パラパラとめくると、それは文字の羅列ではなく、写真だった。それも全部白黒だ。
 「それなに?」
 「わっ」
 写真に夢中になっていると、目の前に彼の顔があって思わず恥ずかしい声がもれてしまう。
 「しゃ、写真だよ。あっ、もしかして真汐くんの知り合いがいたりする?」
 男性は軍服を着ていて、女性はもんぺを身につけている。それはどこかの教科書かなにかで見た戦時中の写真に似ていたから。
 思えば真汐くんは戦争の時代からやってきていて、この地域に住んでるかどうかはわからないけれど、彼の住んでいた場所がわかればそこを訪れることできるかもしれないと考えた。だけど。
 「う〜ん。知らない、かな」
 なんの躊躇もなく真汐くんは首を横に振る。そうだよね。偶然見つけたアルバムにそんなすぐヒントなんてのってるはずない。だけど一つだけ気になることがあった。
 どの写真にも同じ女性が写っていたのだ。きっとその人のアルバムなのだと思うけれど。
 「見て、千紗ちゃん」
 真汐くんが指をさす先をじっと見てみると、棚の奥になにかが見えて。本と本の間にそれは挟まっている。
 私は指をその隙間に滑り込ませて、指先に触れたそれをこちらに引くと埃に包まれた小さな木箱が姿を現した。両手で覆い隠せるほどにそれは小さくて。
 手でそれを撫で回すと、埃が飛び交う。空気の中を不規則な方向へあちこちに。
 中身が気になり、早速ふたを開けた。宝の地図とか、開かずの金庫の鍵とか。そんなすごいものを期待しながら。
 だからその箱の中に無数の紙切れだけしか入っていなかったときは、少なからずショックを受けた。金銀財宝とか、そうじゃなくてもどこかの鍵とかだったらロマンがあったのに。
 「この紙切れなんだろう?」
 小さく、数え切れないくらいにちぎられた紙たち。ふっと息を吹けば、どこかへ飛んでいってしまうほどに小さくて軽い。
 なんの変哲もない紙切れが、どうしてこんな、誰の目にも届かない場所にあるんだろう。しかもちゃんとした木の箱の中で。私は紙の一片を摘まむ。それから指を近づけてじっくり観察してみた。
 「それ、すごく重要なものなのかな」
 真汐くんが屈んで私と同じように紙切れを覗いてきた。
 「そうなの? でもただの紙切れだよ?」
 どう見たって私にはそれが特別なものだとは思えなくて。だけど彼は。
 「そうだけど。ほら、いっぱいあるでしょ、紙切れ」
 摘まんだ一片の紙切れを、彼は私に近づける。その目はどこか輝いているような……。
 「これを全部繋いだら、なにか手がかりが見つかるかも。パズルみたいに。たとえば金銀財宝が埋められた場所とか」
 彼が夢みたいなことを口にする。だけど、ありえるかもしれないとも思った。だって、こんな棚の奥に、箱に入れてまで保管されたもの。そこまでするには、相当な理由があるはずだと。
 「楽しそう。それに、私パズル大好きなんだ」
 あの、繋がるときの快感がたまらなくて。一つ一つは形も色も柄も違うのに、繋げていくと一つの絵になる。そんなパズルにしかない魅力に私は惹かれた。デジタルだけど、今でも四角い画面の中のアプリでやっているくらい。それに完成して達成感に浸れるところも大好きで。
 「僕も大好きだよ、パズル」
 「えっ、そうなの!」
 思わず興奮してしまう。だって、パズル好きの人に今まで会ったことがなかったから。
 「うん。両親がやってて、僕もいつの間にか好きになってた。あの繋がるときの快感が……」
 「わかるわかる」
 うんうんと頷く。こんなにパズルのことを話したのは彼が初めてで、掃除そっちのけで話し込んでしまう。
 「じゃあ、この紙切れのパズル、一緒にやらない?」
 お互いにパズルのことを語り合ってから、私たちは再び目の前の紙切れの話に戻った。パズルが好きな真汐くんと正直、この紙切れを繋いでみたいけれど……。
 「でも、難しくない? こんなに小さくて数が多いのに」
 この紙切れパズルは絶対に難しいから。今まで私が攻略してきたどのパズルよりも遥かに。
 「大丈夫だよ。二人ならあっという間に終わるよ。それにどんな重要なものなのかも気になるし」
 「確かに。じゃあ、私もやってみたい!」
 きっとすごく難しいと思う。だけど、彼となら楽しくパズルができそうだし、なによりこの紙切れの正体が気になる。
 彼は頬を緩ませるも、すぐさま引き締める。だって。
 「まずは、掃除しないとだよね。終わらなかったら僕、またリビングのソファで夜を越すことになっちゃう」
 「そうだね」
 早くパズルをしたいのは山々だったけれど、そこは我慢して私たちは掃除を再開した。時代のように床へ積み重なる埃を、私はモップで一瞬にしてさらっていく。

 
 掃除をしたあとの物置部屋は、凄まじい変貌を遂げた。こんなに広かったっけと思うほどに、物が置かれていない部屋へと。置かれているのは敷布団と一個の本棚だけ。あのアルバムも並べられている。
 歩いても塵一つ浮かんでこない。そんな綺麗な部屋へと生まれ変わった場所で、私たちは。
 「う~ん。なかなか繋がらないね」
 Tシャツ姿の真汐くんが、紙切れパズルに悪戦苦闘していた。それは私も同じで
 「うん。やっぱり難しい」
 小さくて、おまけに色もない紙切れは想像を絶するほどに難しくて。だけどそこが。
 「楽しいね」
 同じことを思ってくれたのか、彼も楽しいと笑ってくれる。やっぱり共通の趣味を一緒にできるって、いいなと思った。だけど彼は。
 「ねぇ」
 「うん、なに?」
 「この時代って、いいね」
 その一言に心が波打つ。穏やかだった海が荒れるように。
 「真汐くんは、この時代にいたいの?」
 「いたいに決まってるよ、できることなら。でも、僕はこの時代の人じゃないから、いつかは帰らないと」
 「いつかは……」
 そう、彼は戦時中。ずっと昔からやって来た人。だからどれだけ同じ趣味を持っていようと、いつかはそれが一緒にできなくなってしまう。もともと交わることなんてないはずの人だから。
 でも、だからこそ。あっ。
 「見て、真汐くん。一つ繋がったよ。見て見て!」
 「えっ、ほんとに?」
 きらきらした目で真汐くんがこちらを覗いてきた。さっきまでは今の窓に映る夜のように暗い表情をしていたから、その顔を見ることができて安心する。
 こうやって、今はただ純粋に大好きなパズルを楽しみたい。私と同じで、パズルが大好きな真汐くんと一緒に。