白いカーテンから注がれる陽光。その光は心地よい温かさをもたらしてくれて、僕を再びあの夢の世界へと戻そうとする。平和で幸せだったあの頃の夢へと。
だけど次の瞬間、肩を揺らす誰かがそれを止めた。もう僕がわかりきっている人物だけれど。
「真汐、もう朝だから起きて。早くしないと遅刻しちゃうよ?」
「え~、もうちょっとだけ……」
「だ~め」
さらに肩を揺らす強さが大きくなる。耐えられなくなった僕は、負けだと言うように上半身を起こした。閉じていた目を開けると、光が一気に視界を包んで、辺りが見えなくなる。
「おはよ、真汐」
光に慣れた目は、徐々に僕を起した人物を浮き上がらせる。僕にとって、これ以上にない特別な存在を。
「おはよ、お母さん」
寝起きだけれど、笑みを努めて僕は言った。
「はい、朝ごはん。ごめんね、いつもこんなものしか出せなくて」
食卓に置かれた茶碗は一杯にも満たないほどの少ない量のお米。それから具のない味噌汁。他におかずはない。平和で食料に困っていない時代だったら、きっと文句しか浮かばない朝食だと思う。
だけど僕は慌てて首を横に振った。だって、今は。
「戦時中でこれは十分すぎるよ。むしろ今日も朝ごはんがあって嬉しいくらい」
いただきます、と手を合わせて少量のお米を口へ運んだ。ゆっくり味わい尽くすように、一粒一粒噛みしめて。
「どう、美味しい?」
麦茶と四角い氷の入ったガラスコップを緩く回しながら、僕の目をまっすぐに見るお母さん。それはもちろん。
「美味しい!」
大きく頷いて、本当に美味しいことをアピールする。品が少ないとはいえ、お母さんの味は変わらないから。
「ありがと、真汐」
にこっと頬の力を弱めたお母さんは、回していた麦茶を口の中に含んだ。それにつられて僕もお椀に注がれたわずかな量の味噌汁を口へ運ぶと、昔はわかめとお麩が入っていたなとつい感傷的になってしまった。追想しだすと止まらなくて昔はあったおかずのことまで考えてしまう。
半熟の目玉焼きに、パリパリとして食感が楽しいウインナー。お皿の外にはこっそり味付けのりも置かれたりして。目玉焼きはどの調味料をかけようかなんて食卓に出されるたび悩んでって。
記憶雲を消すように味噌汁を口へ注ぐと、氷がからんと音を立ててあれ? と思った。
「お母さんのごはんは?」
もしかしたら僕はお母さんの分の食事まで取っているのかもしれない。そんな不安がよぎったけれど。
「ごめん。真汐の分のごはん作ってたら私も食べたくなって、ついつまみ食いしちゃった……」
おどけたお母さんを見て胸を撫で下ろす。よかった。僕がお母さんの食料を奪っていなくて。だってお母さん、ほっそりしているから。昔よりも遥かに。
美味しくて少ない朝ごはんはものの数分で完食してしまった。
「ごちそうさまでした」
手を合わせるのと同時にお母さんは立ち上がって、食器を片付けようとする。だけどその瞬間、トンッとなにかがダイニングテーブルの上に落ちる音がした。
目を音の方へ向けると、そこには指輪が落ちていた。お母さんが最愛の人からもらった結婚指輪。
「あっ、ごめん」
お母さんは慌ててその指輪を薬指にはめる。だけどはめても、空洞が大きくてまた近いうちに落ちてしまいそうだった。
それはお母さんがお父さんにプロポーズしてもらった時よりもずっと彼女が痩せ細ってしまったことをなによりも意味していて。お父さん……。
ふいになにかが頬を滑った。それは口に入ると、しょっぱくて自然と顔をしかめる。
「真汐、大丈夫?」
眉を下げて明らかに心配そうな表情をお母さんは浮かべる。
「ちょっと、ね。お父さんのこと思い出して……」
「そっか……」
するとお母さんも目に涙を溜め始めていた。しまった。僕はなんてことを。お母さんにも思い出させてしまった。昔生きていたお父さんのこと。
「ごめん」
その意味が伝わったのか、お母さんは首を横に振りながら「私も、思い出してたよ。お父さんのこと」と話してくれた。
お父さん。一年ほど前は一緒にいてくれたのに。食卓を囲んで、たくさんお話して、お風呂にも入って。そんな他愛ない日常を一緒に送っていたのにどうして……。
「まだちょっと時間あるし、お父さんに挨拶してから学校行く?」
「うん!」
大きく首を縦に振る。そして僕たちは今の隣にいるお父さんに会いに行った。
写真の中にあるお父さんは僕そっくりで、心に焼き付けるようにじっと見つめる。手を合わせて目を閉じている間、お父さんにできる限りの色んなことを知らせた。
戦争の状況のことや僕のこと、お母さんのことを。
戦争は未だに終わる気配がない。近くの小さな国から始まった戦争。だけどいつしかそれは世界を巻き込む大戦争となり、もう四年も続いている。お父さんはその戦争への参加によって一年前、帰らぬ人となってしまった。強制じゃなく、任意で軍に入ったお父さん。軍人として働けば、他のどの大企業よりも高収入を期待できるらしい。
我が家はお父さんだけの収入でやりくりしていたから金銭的に余裕はなく、そんな家を助けるためにお父さんは……。
「ほら、涙拭いて」
「うん……」
いつのまにまた泣いていた。そばにいるお母さんからティッシュを一枚もらい、目と鼻を押さえる。
「いってきます」
写真の中のお父さんと、暗がりでもわかるほどに目を赤く充血させたお母さんに旅立ちの挨拶をする。旅立ちといっても学校へ行くだけだけど。
一度二階へ荷物を取りに行き、僕は家を出た。
「真汐、もしかして泣いてた?」
学校までの道を歩いてる途中、僕にとって面倒な人物が話しかけてきた。はぁ、ほんと面倒くさい。
「別に泣いてない」
「いや、だって目赤いし」
「ただの睡眠不足だよ」
「でも睡眠不足でまぶたは赤くならないよね?」
「あぁ、もういいよ。こうくんは僕のお父さんかなにかなの?」
自分でお父さんというワードを出して、目を伏せた。もう嫌だ。
早歩きをして航晴ことこうくんから距離をとる。だけどしつこいことに彼も歩くスピードを速めて。
「もうそんなに怒るなよ」
「怒ってないよ。ただ静かに学校行きたいだけ」
だから話しかけないでほしいのに。だけどそんな想いがこうくんに届くはずもなく。
「まぁ、そんな寂しいこと言わずにさぁ。一緒に学校行こ?」
それはずるいよ。そうまっすぐにお願いされたら断れない僕の性分を家族以外では一番に知っておいて。
口で返事をする代わりに僕は歩く速度を緩めた。
「今日はいつにも増して暑いなぁ」
「なにその初対面の人との最初の会話みたいなのは」
とても十数年一緒に育ってきた幼なじみ同士の会話とは思えない。
「じゃあ、真汐もなにか話して」
「話す?」
毎日一緒にいるのに話すことなんてないよ、とは言わなかった。さすがにそれはひどい。仕方なく彼をよく観察してなんとかネタを捻り出す。昔と今とで彼が劇的に変わったところ。
「こうくんってほんと痩せたよね」
「おっ、もしかして真汐は俺狙い?」
もう話してあげない。そう決め込んで沈黙を貫いていると、冗談冗談とおちゃらけて彼が笑う。まったく、何年経ってもこのノリにはついていけない。
「はぁ。お父さんのハンバーガー、また食べたいなぁ」
「あぁ、美味しかったよね。こうくんのお父さんのハンバーガー」
思い出しただけで、さっき朝ごはんを食べたばかりだというのに、お腹が小さくぐぅと鳴った。
昔こうくんの家で遊んでいたときに彼のお父さんが作ってくれたハンバーガー。ほっぺが溶けてなくなってしまうかもしれないと危惧したくらいに、美味しかった。今でもあの味を忘れられない。
小さく息をもらしながら、彼は平らな下腹部を両手で撫でる。
小学生の頃のこうくんは今では想像もつかないほどふくよかな体つきで、給食も毎日のようにおかわりをしていた少年だった。彼のお父さんも同じような体つきで、きっとあのハンバーガーが彼らの体を作り上げたんだろうなと当時から納得していた。だけど。
「真汐、またマイナスなこと考えてるよね?」
「だって、戦争さえなかったらこうくんは今もお父さんのハンバーガーを味わえたんだよ?」
戦争さえなければ。何度そのフレーズを心のなかで繰り返してきたことだろう。暗くなる僕とは反比例に、彼はなぜかにこっと笑って。
「まぁ、色々不便はあるけどさ。でも戦争があって初めて気づいたこともあって」
「気づいたこと?」
戦争が起きていいことなんて一つもない。ずっと僕はそう思ってきたから。
「生きてることがすごい特別なことなんだってことにだよ。戦争で命を失うことが多くなったこの時代を生きてみて思った」
「……前向きに考えるのもいい加減にしてくれる?」
怒りがふっと湧いて、そこからは止められなかった。
「こうくんは、まだお父さんが生きてるって望みがあるから、そんなこと言えるんだよ」
かっとなってついそんな心ないことを口走ってしまう。こうくんだって辛いに決まっている。辛さを天秤にかけるのは間違い。それを知った上で……。
僕は走るように歩いた。今度こそ、彼に追いつかれないように。
夏期講習を受けている間、さっき言ってしまったことをずっと心の中で唱えていた。
丸眼鏡をかけていて、おさげをした小柄で可愛らしい昭和風の女性教師が優しく講義を進めてくれるけれど、残念なことにその教えは、僕の頭を通り過ぎて宙へと浮かんでしまう。
隣を見ると、こうくんは黒板に記された文字を懸命にノートへ写していた。
やがてチャイムが鳴り、帰る支度をしていると、こうくんが僕の前を通り過ぎていく。いつもなら待っててくれるのに。
その瞬間、胸がチクリと痛んだ。全部僕が悪いのに。
「どうしたの?」
「あっ、先生……」
二つのおさげが目の前でふわりと揺れる。柔和な笑みが傷んだ胸を少しだけ癒やす。
「今日なにかあったの? 講義のときも上の空な感じがして」
「すみません……」
講義を聴いていなかったことに頭を下げる。本当にあのときはぼーっとしていたから。
「全然、謝らないで。怒るつもりはこれっぽっちもないから。話したくないなら、話さなくてもいいの」
怒らないんだ。ううん、この先生が怒ったところを僕は見たことがない。優しくて、おまけに教えるのも上手で。真面目に聴いているときは先生の講義が一番早く習った内容を理解することができるから。
「先生、僕……」
「小嶋先生、職員会議があるので急いでください」
「あ、はい!」
ごめんね、と先生は僕に向けて手を合わせると、講義で使った参考書を持って教室を出て行ってしまう。気づけば僕一人しか教室に残っていなくて、静かな空間の中、帰宅の準備を始めた。
はぁ、とため息がもれる。こうくんのこと、先生に相談したかったなぁと。
耳をすまさなくてもカラスの鳴き声が自然と聞こえてきた。自室はオレンジ色に染まり、まるでコップの中のオレンジジュースの中で泳いでいる気分になる。
オレンジジュース飲みたいなぁ、なんて贅沢なことを考えては首を振って妄想雲を消す。床に散らばったピースを繋げることに専念する。
僕は昔からパズルが好きだった。ピースがはまる時の快感が心地よくて。テレビゲームもしたいけれど値段が高騰して、電気代も節約したいから、今はやっていない。
「コンコン」
数回のノックの後、扉が開き、お母さんが顔を覗かせる。
「もうすぐごはんだよ」
「うん。わかった、すぐ行く」
「パズルやってたの?」
僕が頷くと、お母さんは部屋に入ってきて床に散るパズルのピースを眺めた。
「真汐はパズルが好きだね」
「うん」
お母さんは一つのピースを摘まむと、柔らかく微笑んだ。そして視線をパズルから僕に移した。
「お母さんもやっていい?」
突然の申し出に思わずえっ?という声が漏れる。
「いいじゃない、たまには。最近あんまり構ってあげられなかったからさ」
そんなことはない。確かに一緒に遊ぶことは少なくなったけど、毎日料理は作ってくれるし、基本家にいてくれる。それだけで嬉しい。だけど久しぶりにお母さんとパズルができるのはもっと嬉しい。
「うん。一緒にやる!」
こうして二人の共同作業が始まった。ピースを埋めながらお母さんを見ると、昔の記憶が自然と蘇る。
誕生日プレゼントにパズルをもらうと、いつだって三人でピースをはめていた。最初は端っこからで、周りから埋めていく。そうやってそれぞれが指を動かしていた。
過去の指の動きが今動かしている指とピタリ重なる。
「ねぇ真汐」
指を動かしたまま、お母さんが僕の名前を呼ぶ。
「どうしたの?」
それから少し沈黙が続いた。何か言おうと口を開いては結ぶ。それを何度か繰り返した後で、やっと声が外気を震わした。
「人生ってパズルみたいだよね」
「あ、またお母さんのパズル講座が始まる」
お母さんはくすり笑いをする。それから。
「お母さんね、人生は最初から決まっていると思うの。パズルみたいに」
「うん、何回も聞いたよ」
もしそうだとしたら、お父さんを失うことも最初から決まっていたのかな。どんなに頑張ってその運命に抗っても変えられないのだとしたら、それはとても残酷な考えだとも思った。
少し間を置いて再びお母さんは口を開く。
「最初から絵が決まっていて、それを完成させるためにただ埋めていく。人によってピースの形とか数は変わるけどね」
「それで、ピースが少ないと人生が終わる、んだよね」
そんなの悲しすぎる。神様は不平等に人生を創造しているのだろうか。そもそも容易くお父さんの命を奪ったこの世に神様がいるとは思わないけど。
「そうだね……」
お母さんは笑みを崩して眉根を下げる。きっとお父さんのことを頭に浮かべて。
「僕がどんなに頑張っても変わらない?」
そうしたら悲しい結末を避けられるかもしれない。そんな希望を込めて言ったけれど、お母さんはゆっくりと首を横に振った。
「変わらない。でも変えられることは世の中にはたくさんあるから。最後のピースをはめるまで、人の人生は終わらないから」
じっと僕の目を見つめてから、お母さんは。
「真汐、今悩んでいることあるでしょ?」
「え?」
「母親だからわかるんだよね。話したくないなら別にいいんだけど」
「あのね、お母さん」
もしかしたら、帰ってきた時から僕の様子に気がついてて。だから最近構ってくれなかったのに、今日僕の部屋に来て一緒にパズルをしてくれたんだ。
事情をすべて話すと、お母さんは僕の両肩を掴んで。
「真汐、明日絶対に航晴くんと仲直りして」
お母さんの強い剣幕に僕は気圧される。ごめん、とお母さんは力を緩めるとともに深い息を吐く。なにか重いものを吐き出すような、それくらい深い息のように思えた。それからなにかを決意したように強く息を吸い始めて。
「実はお母さんも昔、友だちにひどいことを言ってしまったことがあって。それ以来、仲を戻すことはできなかった」
ぽつりぽつりと丁寧に昔のことを話してくれるお母さん。ずっと後悔していたんだ。
「だから、真汐には後悔してほしくないの」
「お母さん……」
だからこそ、今ならまだやり直せる僕のことをこんなにも後押してくれて。
僕も嫌だ。こうくんとずっとこんな関係が続いてしまうこと。
「仲直り、してくれる?」
僕は大きく頷いた。するとお母さんは優しく僕の髪を撫でてくれて。
「真汐はいい子だから、明日仲直りの記念に、奮発して真汐の大好きなクリームシチューを作っちゃおうかな?」
「ほんと!」
「うん。だからちゃんと仲直りしてね。あ、ちょうどパズルも」
お母さんと同じほうへ視線を映すと、完成されたパズルの姿が。
を見ると、絵が現れていて、かなりパズルのピースが埋まっているように思える。この瞬間が僕は一番大好き。バラバラだった絵が一つになって。
すると下の階から何かを知らせる電子音が聞こえてきた。長年この家にいるからわかる。これは炊飯器の音だ。ごはんが炊き上がる音。
その音とともに、お母さんは立ち上がり部屋を出ようとした。
「お母さん、今日は楽しかった。また一緒にパズルしようね!」
思わず声が上ずってしまう。久しぶりに昔の平和なときのような空気を味わえたことがなにより嬉しくて。
「うん。お母さんもまたやりたい!」
少し間を置いてお母さんがそう口を開く。あとでごはんができたら呼ぶからねと言い残して、扉の向こうへとお母さんは消えていった。
お財布にこれまでの貯金してきたお金を入れた。夏期講習は午前までだし、こうくんとの仲直りに午後は僕も奮発して遊ぼうと思って。
「いってきます!」
玄関の扉を開けると、一度後ろを振り返ってお母さんを見る。にこっと笑って「いってらっしゃい」というお母さんの声とともに僕は歩き出した。
「ごめん、こうくん……」
彼の後ろ姿を見つけて、真っ先に謝った。許されなかったらという仮定形が不安な気持ちを増幅させる。でもその不安は彼の声で一瞬にして萎んでいくことになった。
「いいよ。僕も悪かった。お父さんがいなくなってマイナスなこと考えるのは当たり前なのに」
「ううん。こうくんのお父さんだって戦地に赴いたんでしょ?」
「それが……」
こうくんが言いづらそうにしている。口を開けたり、閉じたり。そして。
「お父さん、帰ってくることになって」
「え、よかったね」
「でも、俺だけ幸せになるんだよ? なんでこうくんだけってならないの?」
確かに昨日までの僕だったらそう口走っていたかもしれない。だけど。
「僕が幸せじゃないからって、他の人も不幸せになればいいって考えるのは違うと思うから」
戦争は、たくさんの悲しみと不幸が生まれる。だからこそ、その中に少しでも幸せがあればいいなって今は本気でそう願っている。
するとこうくんはにっと笑ってくれた。僕たちの仲が修復されたなによりの証拠。
暑い通学路を、僕たちは横一線で並んで歩いていった。
「えっ、嘘」
異常な光景が僕の視界を占めたから。お昼ごはんを食べてからこうくんと遊ぼうと思い、家に帰ってきたときのことだった。今日は僕の大好物のクリームシチューが食卓に出ると言ってたから楽しみにしていたのに。その異様な光景とは裏腹に、鼻からはミルクの甘い香りが漂ってきて。
僕は腰を抜かした。まるで目の前で幽霊と遭遇した時のように。リビングと廊下の境目。そこにはさっきまで柔らかな笑みを浮かべていたお母さんが横たわっていたから。
「お母さん!」
僕は四つん這いになって、倒れているお母さんのほうへ向かう。大きな声で呼びかけても、なにも反応がない。
「お母さん! お母さん!」
やっとお母さんのもとへ辿り着くと、僕は力いっぱい揺さぶった。ほんの少し。ほんのわずかでいい。どこか反応して!
指がピクッと動いてくれればいい。まつ毛が少し揺れるだけでもいい。とにかく少しでも僕のアクションに応えてほしい。
だけどお母さんの手を握った瞬間、凍りつくような感覚を覚えた。
そこには温かみがなくて、柔らかさもない。それはここに存在していないと宣言されているようだった。
最後の足掻きで、指を口や鼻に添えてみる。だけどそこに空気の流れは何一つ感じられなかった。
もう生きていない。お母さんはもういない。心で必死にそれを否定しても、本能がそうだと嫌と言うほど伝えてくる。
「お母さん……」
違う。これはお母さんじゃない。違うよね。ここにいる人はお母さんのお姉ちゃんか妹でお母さんじゃない。
本当はわかっている。お母さんは一人っ子で、お姉ちゃんも妹もいないことなんて。ここにいるのは紛れもなく、僕を大事に育ててくれたお母さんだということは。
でも認めたくない。まだ、今は。だってお母さんがいなくなったって認めたら、僕は。
一人ぼっちになるから。
その後、どんな道順でここまで来たかはわからない。ただそこには潮に満ちた空気とすべてを呑み込む海が横たわっていた。さっきまで綺麗な青空だったのに、気づけば、雨を持っている雲がその青を飲み込んでいて。いつもは青いはずの海は雲のせいで黒を帯びていて、不気味さを醸し出している。
「あぁ」
情けない声が漏れる。視界が霞んでいく。頬を伝う雫が止まらない。
期待していた。ここに行けば、お母さんがいるんじゃないかって。
平和な時代、ここにはよく来ていたから。家族三人で。その時の思い出は今でも鮮明に思い出せる。
青い海に僕とお父さんはダイブして、白い水しぶきをかけあう。時々、水鉄砲という名の武器も使ったりして。
その様子を楽しそうに見ているお母さん。そのすべての思い出が真夏の太陽に照らされる海面のようにキラキラと輝いていた。
あの頃に戻りたい。どうしたら帰れるの? 僕は一人迷子の子どもとして、これからずっと生きないといけないの?
そんなの嫌だ。たった一人、戦の続く時代を生きていくなんて。
空を見上げると、こちらに向かってくる飛行物体が見えた。あれが平和を奪う権現そのもの。
その時ふと思った。迷子って?
迷子はお母さんとお父さんの居場所がわからなくて途方に暮れている子どものこと。
それが定義なら、僕は迷子じゃない。二人のいる場所を僕は知っているから。
お母さんとお父さんに会いたい。会いに行きたい。だけどお母さんたちからは会いに行けない。きっとそんな場所に二人はいる。
それなら話は簡単。僕から会いに行けばいいんだ。
勇気を出して右足を踏み出す。やがて足先から冷たい海水が染みてきた。一歩を踏み出せば実に簡単だった。海水は膝も胸も肩も通り過ぎ、やがて全身を呑み込んでいく。
息はもうできない。目を開けるとじんわりとした痛みが広がる。そういえば昔、海の中で目を開けると痛くなるよって誰かが言ってたっけ? なんてどうでもいいことを考える。
でもそんなものだろう。命が終わる時に限って人はきっと冷静でいられるのだと思った。だって、今の僕がまさにその状態なのだから。
海水に染みた目が痛い。それでも閉ざすことはなかった。視界に映るのは絵画のように透明で美しい海ではなく砂と人の活動によって汚れた海だというのに。
顔を水面に向ける。汚れているとはいえ、わずかだが太陽の光が差し込んでいるのが見えた。
あの光を反射しているのが海水面なのだろう。だけど少しずつその光も弱まっていくように感じた。それは自分の残りわずかの命の灯火にも思える。命の源である空気が遠ざかっていく。
視界は滲み、思考が働かなくなってきた。だけどそれでいい。それでいいんだ。あっちの世界への入り口はこんなにも冷たくて、そして意外と苦しくなかった。
冷たい。雨が僕を濡らしている感覚。天国も雨が降るんだなぁ。
意識が少しずつ戻っていくとともに、瞼も開けていく。
ずっと目を瞑っていたから視界がぼやけている。ここはお母さんとお父さんのいる場所。
やがて霞んでいた視界が晴れていくと、一人の女性を見つける。その女性は、どうしてか逃げて行ってしまって。だけど転んで動けずにいたから、大丈夫、と声をかけてみた。あれ、天国なのにどうして話せるんだろう? それに砂の感触もするし、汐の香りもするし。
だけどそれは、その女性が振り返ることで、判明してしまう。
お母さん……。
そう声をもらしそうになって慌てて止める。制服姿で、指にはめているはずの指輪もない。それは僕の知るお母さんの姿ではなくて。だとすると、僕は確認する必要があった。
「今って何年……ですか?」
「えっ?」
その人物は目を丸くする。それは当然のこと。誰もが知るはずの西暦を突然聞かれたのだから。
「今年は2025年です……」
当たり前のようにそう口にされて僕は絶句する。ありえない。そんなの小説の世界かなにかの話のはず。だけどこれで確定したんだ。この人が誰であるのか。
「どうして泣いてる、んですか?」
涙が止まらない。もう、会えないと思っていたから。お母さん。ううん、昔のお母さん。だけどちゃんと説明しなくちゃ。
「僕……戦時中から、やって来たんです」
嘘をついた。いや、ついてはいない。僕は戦争を体験しているから。そんな時代からやって来たのだから。
だけど彼女は、それを昭和初期に起きていた戦争を想像すると思う。その時代はお米を釜で炊いていただろうし、ドライヤーもなかっただろうし、ゲーム機なんてもってのほかなはず。
でも、僕の時代は炊飯器もあるし、ドライヤーで髪を乾かすし、節約していて使わなかっただけだけどゲーム機もある。
戦争の時代からやって来た。お母さん、いや、過去のお母さんに伝えたとおり。だけどそれは昭和初期の戦争時代じゃない。
僕は2050年の終戦記念日、未来からやって来た。
もう会えないと思っていたお母さんとのおしゃべりは感動の連続だった。話によれば、こっちのお母さんは高校二年生らしい。僕と同い年だってびっくりした。
今のお母さんは僕を知らないから、ひとまず敬語を意識してみた。いつもバスは隣に座っているから、バラバラで座ることに違和感を感じながらも、お母さんの後ろへ座って。
家に帰ると、ちょうどお昼時だったから、一緒にお昼ごはんを食べた。しかも憎いことに、タイムスリップしてくる前に食べるはずだったクリームシチュー。お父さんが煮たじゃがいもが苦手だったから、じゃがいも入りのシチューは僕にとって新鮮だった。
目の前には確かにお母さんがいる。あの日よりも若いお母さんが。幸せそうにシチューを頬張りながら。
ふと痩せこけた僕の知るお母さんを思い出した。あの容姿で、どうしてあんな嘘を信じてしまったのだろう。いや、きっと違う。僕はそう信じたかった。瘦せていても、どこかで栄養補給をしているって。
いくらお腹が空いていたからって、お母さんの分の食事まで奪っていたなんて。もしちゃんと気を遣っていたらお母さんは生きていたはずなのに。
それから物置部屋で紙切れパズルを見つけて、それからそれを二人で繋ぎ合わせていった。だけどそれが、最後にあんな別れをもたらすなんて。そのときは想像もできなかった。
一週間の居候。あっという間だった。お母さんと昔のようにパズルをして、未来で語ってくれた友だちのこともそこで話してくれた。
友だちのことは本当に解決できてよかった。だけどそこで未来人が過去に与える力がどれだけ大きいのか理解して、この時代にいるのが怖くなった。
それでお母さんに迷惑をかけてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。だけどふと、思い出して。変えることができるとお母さんが言っていたこと。
僕は変えたかった。もっとお母さんのちゃんと山ほどの悩みを聞いていればと後悔を。聞いていれば、お母さんが生きている未来があったかもしれないという仮定形を。
そこではっと気づいた。ここがお母さんの生きている過去だということを。完全に変えるのはよくない。未来のことを直接的に教えることもきっとダメだ。それは僕自身が消えてしまうきっかけになりえるから。
だけど、ほんの少し、仄めかすくらいなら? 未来のお父さんが兵士にならないように。あっ、友だちとのやりとりで後悔したことも。未来のお母さんが栄養失調で命を落とさないように。
だけど僕は失敗を犯してしまった。お母さんに嘘つきと言ってしまったのだ。
どうして味見してるなんて嘘ついたの? そんなの今のお母さんが知ったことではないのに。お母さんは家を飛び出して行ってしまった。追いかけたかった。こうくんと喧嘩したときみたいに追いかけない自分の意地が邪魔をする。
もうここにいちゃいけない。そう思った僕は手紙と、お小遣いでもらったお金を封筒に入れて学習机に置いた。扉を静かに閉めて、僕は家とお別れをする。
気がつけば僕は海にいた。そうして雨が降ってきてしまったんだ。友だちのことを解決できたのはよかった。だけど。
未来を変えたい。そう貪欲に考えてしまったから、罰が当たったんだ。
未来を変えるために、過去をめちゃくちゃにするのはきっとよくない。僕が過去に干渉すればするほど、未来に影響を与える。僕は、悪い影響を与えてしまった。
「ごめんなさい……」
僕は一歩ずつ海へと近づく。この時代で生きるお母さんを背にして。
一歩踏み出すたび、記憶がシャボン玉のように頭の中で弾けていく。
小さい頃、パズルをした記憶。お母さんの作るクリームシチューの香り。お父さんがいなくなったこと。お母さんとの最後の日。タイムスリップしてからの日々。
どれも大切で特別な思い出。全部を抱きしめて、連れていくよ。
未来なんて変えられなかった。でも、嬉しかった。最後にもう一度、お母さんに会えて。一緒に時間を共有できて。
それでいいんだ。最後の記憶は、栄養失調でやせ細った表情じゃなくて、笑顔のお母さんがいいから。
瞼が自然と塞がれていく。酸素が足りなくなったのか、それともタイムスリップの終わりが来たからなのか、わからない。
僕は深い後悔に浸かるように雨の中、海へと潜って行った。もう誰もいない未来でも天国でも地獄でもどこでもいい。辿り着いたその先が、悲しくて孤独で残酷な世界だとしても。
視界が黒く塗り潰された瞬間、意識がぷつりと切れた。あの笑顔を最後の記憶の片隅に残して。
誰かの声が聞こえる。ううん、誰かのじゃない。僕はその声を知っている。この世界に生まれついたときからずっと。
「真汐……」
僕の大好きな人、お母さんとお父さんの声。てことは僕、二人と同じあっち側の世界に行けたってことなのかな。
二人の声。汐の香り。砂の感触。向こうの世界でも五感が働くんだなと思っていると。
「真汐」
肩を揺すられてゆっくりと瞼が上げる。光がそこからもれてきて、まるで木洩れ日のよう。
「真汐? 真汐!」
目を開けるとともに声が比例して大きくなっていく。眩しすぎて目は全然機能していないけれど。
「千紗ちゃん……」
光に目が慣れると、ついさっきまでずっと一緒にいたお母さんの顔が映った。あのときよりも大人になった、僕の知るお母さんの顔が。やっぱり僕はあの世に行ってしまったみたい。だけど次の瞬間、そんな僕の考えはまるっと覆された。お母さんに強く抱きしめられたことで。
「あったかい。でもどうして。お母さんは……」
いなくなったはずなのに。この目で、手でお母さんの命が絶えてしまったことを感じたはず。なのに。
身体が締めつけられる感触。そして手にはまた違う温もりを感じて。視線をそこへずらすと、僕にそっくりな男の人。
「お父さん」
どうして? お父さんだって、戦地で命を落として、だからこそお母さんと二人で泣いていたのに。二人とも、もういないはずなのに。戦争が二人を僕の知らないどこかへ連れて行ったのに。
だけど二人から伝わる温もりが、僕の知る真実を変えて。クリアになっていた視界がまたぼやけてくる。まるで窓に息を吹きかけたように。頬を伝う透明な雫が止まってくれない。
「真汐が私のパズルを変えてくれたからだよ」
お母さんの言っていることかわわからなくて、首を傾げる。って待って。
「僕がお母さんの息子だって、気づいてたの?」
てっきり僕は、二人にとってのひいおじいちゃんと勘違いされているものだと思っていたから。
「ちゃんと気づけた。真汐が帰ってきてからだけど」
「どうして?」
僕が未来人だという証拠を、僕は残していないはずなのに。
「真汐が残してくれたお金のおかげだよ」
「お金……あっ」
そっか。お金の使い方を教えてもらうときに、値段の下に表示されている数字のこともお母さんは説明してくれていた。
「製造年月日が、未来の数字になってたんだよ」
抱きしめるのをやめて、お母さんはふわっと笑った。やっぱり子どもは親には勝てないなと改めて思い知らされた。
「あの日、真汐がやって来なかったら、私のパズルのピースは少ないままだった。真汐が、私の人生のピースを増やしてくれたんだよ」
その瞬間、バラバラだった記憶のピースがはまっていき、やがて一つとなった。
僕は未来を変えたんだ。過去へ飛んだことで、変えることができたんだ。お母さんとお父さんを失う未来を。パズルのピースが増えることは、それだけ長く生きられるということ。完成が遠ざかって、それだけ人生の終わりから離れたということ。
途端に涙の勢いが強まった。嬉しくて、嬉しくて。
もう手の届かない場所にいると思っていた二人がこんなにも近くにいてくれることに。
海水で冷たくなっていた僕の手が少しずつ温もりを帯びていく。愛情を直に注がれているみたいでくすぐったい気持ちになる。
「あのとき真汐が来てくれたから、夢を持つことができて、在宅でパズルを制作してお金も稼げるようになったんだよ。だからお金にも困らなかったし、真汐を一人にさせずに育てることができた」
「お父さんも、千紗のおかげでお金はそれなりに稼げたから、戦地に行かずに済んだんだよ」
どちらからともなく二人は笑う。こんな日を再び迎えることができるなんて。
「まだまだ戦争は続いていくけど、これからも一緒に生きていこう。寿命は先に尽きちゃうと思うけれど、しばらくは絶対に離れたりしないから」
力強いお母さんの瞳。その目が僕を安心させる。ずっと一緒にいてくれるんだと。
二人の手が僕のほうへと伸びた。二人の生きる新しい世界へと、僕を誘うように。もちろん僕はその手を取って。
両手に力を込めて上半身を起こす。それによって二人との距離がぐんと近くなる。
「ありがとう。お母さん、お父さん」
生きていてくれて。本当にそれだけで、心からありがとうと思える。
立てる?と言わたが、すくっと立ち上がってみせると、二人とも驚いていた。
戦争の続く時代の真っ只中、家族三人で手を繋いで帰る。それは平和な時代にとって何気ない日常かもしれない。
だけど戦争が続くこの時代、そして今の僕にとって、なににも代えがたい特別な時間。
僕は真ん中で両サイドにお母さんとお父さんがいる。両方の手を温もりで包んでくれることがとても幸せ。
だから早く終わってほしい。命だけが失われる戦争なんて。
海が遠くの景色になろうとしていた頃、お母さんが僕の心中を読んだのか「戦争はいつか終わるよ」と笑いかけてくれた。そして続けて。
「平和な時代は必ず来るよ。生きてさえいれば。きっとその時代は……」
いっぱいのピースで溢れているね、と。
だけど次の瞬間、肩を揺らす誰かがそれを止めた。もう僕がわかりきっている人物だけれど。
「真汐、もう朝だから起きて。早くしないと遅刻しちゃうよ?」
「え~、もうちょっとだけ……」
「だ~め」
さらに肩を揺らす強さが大きくなる。耐えられなくなった僕は、負けだと言うように上半身を起こした。閉じていた目を開けると、光が一気に視界を包んで、辺りが見えなくなる。
「おはよ、真汐」
光に慣れた目は、徐々に僕を起した人物を浮き上がらせる。僕にとって、これ以上にない特別な存在を。
「おはよ、お母さん」
寝起きだけれど、笑みを努めて僕は言った。
「はい、朝ごはん。ごめんね、いつもこんなものしか出せなくて」
食卓に置かれた茶碗は一杯にも満たないほどの少ない量のお米。それから具のない味噌汁。他におかずはない。平和で食料に困っていない時代だったら、きっと文句しか浮かばない朝食だと思う。
だけど僕は慌てて首を横に振った。だって、今は。
「戦時中でこれは十分すぎるよ。むしろ今日も朝ごはんがあって嬉しいくらい」
いただきます、と手を合わせて少量のお米を口へ運んだ。ゆっくり味わい尽くすように、一粒一粒噛みしめて。
「どう、美味しい?」
麦茶と四角い氷の入ったガラスコップを緩く回しながら、僕の目をまっすぐに見るお母さん。それはもちろん。
「美味しい!」
大きく頷いて、本当に美味しいことをアピールする。品が少ないとはいえ、お母さんの味は変わらないから。
「ありがと、真汐」
にこっと頬の力を弱めたお母さんは、回していた麦茶を口の中に含んだ。それにつられて僕もお椀に注がれたわずかな量の味噌汁を口へ運ぶと、昔はわかめとお麩が入っていたなとつい感傷的になってしまった。追想しだすと止まらなくて昔はあったおかずのことまで考えてしまう。
半熟の目玉焼きに、パリパリとして食感が楽しいウインナー。お皿の外にはこっそり味付けのりも置かれたりして。目玉焼きはどの調味料をかけようかなんて食卓に出されるたび悩んでって。
記憶雲を消すように味噌汁を口へ注ぐと、氷がからんと音を立ててあれ? と思った。
「お母さんのごはんは?」
もしかしたら僕はお母さんの分の食事まで取っているのかもしれない。そんな不安がよぎったけれど。
「ごめん。真汐の分のごはん作ってたら私も食べたくなって、ついつまみ食いしちゃった……」
おどけたお母さんを見て胸を撫で下ろす。よかった。僕がお母さんの食料を奪っていなくて。だってお母さん、ほっそりしているから。昔よりも遥かに。
美味しくて少ない朝ごはんはものの数分で完食してしまった。
「ごちそうさまでした」
手を合わせるのと同時にお母さんは立ち上がって、食器を片付けようとする。だけどその瞬間、トンッとなにかがダイニングテーブルの上に落ちる音がした。
目を音の方へ向けると、そこには指輪が落ちていた。お母さんが最愛の人からもらった結婚指輪。
「あっ、ごめん」
お母さんは慌ててその指輪を薬指にはめる。だけどはめても、空洞が大きくてまた近いうちに落ちてしまいそうだった。
それはお母さんがお父さんにプロポーズしてもらった時よりもずっと彼女が痩せ細ってしまったことをなによりも意味していて。お父さん……。
ふいになにかが頬を滑った。それは口に入ると、しょっぱくて自然と顔をしかめる。
「真汐、大丈夫?」
眉を下げて明らかに心配そうな表情をお母さんは浮かべる。
「ちょっと、ね。お父さんのこと思い出して……」
「そっか……」
するとお母さんも目に涙を溜め始めていた。しまった。僕はなんてことを。お母さんにも思い出させてしまった。昔生きていたお父さんのこと。
「ごめん」
その意味が伝わったのか、お母さんは首を横に振りながら「私も、思い出してたよ。お父さんのこと」と話してくれた。
お父さん。一年ほど前は一緒にいてくれたのに。食卓を囲んで、たくさんお話して、お風呂にも入って。そんな他愛ない日常を一緒に送っていたのにどうして……。
「まだちょっと時間あるし、お父さんに挨拶してから学校行く?」
「うん!」
大きく首を縦に振る。そして僕たちは今の隣にいるお父さんに会いに行った。
写真の中にあるお父さんは僕そっくりで、心に焼き付けるようにじっと見つめる。手を合わせて目を閉じている間、お父さんにできる限りの色んなことを知らせた。
戦争の状況のことや僕のこと、お母さんのことを。
戦争は未だに終わる気配がない。近くの小さな国から始まった戦争。だけどいつしかそれは世界を巻き込む大戦争となり、もう四年も続いている。お父さんはその戦争への参加によって一年前、帰らぬ人となってしまった。強制じゃなく、任意で軍に入ったお父さん。軍人として働けば、他のどの大企業よりも高収入を期待できるらしい。
我が家はお父さんだけの収入でやりくりしていたから金銭的に余裕はなく、そんな家を助けるためにお父さんは……。
「ほら、涙拭いて」
「うん……」
いつのまにまた泣いていた。そばにいるお母さんからティッシュを一枚もらい、目と鼻を押さえる。
「いってきます」
写真の中のお父さんと、暗がりでもわかるほどに目を赤く充血させたお母さんに旅立ちの挨拶をする。旅立ちといっても学校へ行くだけだけど。
一度二階へ荷物を取りに行き、僕は家を出た。
「真汐、もしかして泣いてた?」
学校までの道を歩いてる途中、僕にとって面倒な人物が話しかけてきた。はぁ、ほんと面倒くさい。
「別に泣いてない」
「いや、だって目赤いし」
「ただの睡眠不足だよ」
「でも睡眠不足でまぶたは赤くならないよね?」
「あぁ、もういいよ。こうくんは僕のお父さんかなにかなの?」
自分でお父さんというワードを出して、目を伏せた。もう嫌だ。
早歩きをして航晴ことこうくんから距離をとる。だけどしつこいことに彼も歩くスピードを速めて。
「もうそんなに怒るなよ」
「怒ってないよ。ただ静かに学校行きたいだけ」
だから話しかけないでほしいのに。だけどそんな想いがこうくんに届くはずもなく。
「まぁ、そんな寂しいこと言わずにさぁ。一緒に学校行こ?」
それはずるいよ。そうまっすぐにお願いされたら断れない僕の性分を家族以外では一番に知っておいて。
口で返事をする代わりに僕は歩く速度を緩めた。
「今日はいつにも増して暑いなぁ」
「なにその初対面の人との最初の会話みたいなのは」
とても十数年一緒に育ってきた幼なじみ同士の会話とは思えない。
「じゃあ、真汐もなにか話して」
「話す?」
毎日一緒にいるのに話すことなんてないよ、とは言わなかった。さすがにそれはひどい。仕方なく彼をよく観察してなんとかネタを捻り出す。昔と今とで彼が劇的に変わったところ。
「こうくんってほんと痩せたよね」
「おっ、もしかして真汐は俺狙い?」
もう話してあげない。そう決め込んで沈黙を貫いていると、冗談冗談とおちゃらけて彼が笑う。まったく、何年経ってもこのノリにはついていけない。
「はぁ。お父さんのハンバーガー、また食べたいなぁ」
「あぁ、美味しかったよね。こうくんのお父さんのハンバーガー」
思い出しただけで、さっき朝ごはんを食べたばかりだというのに、お腹が小さくぐぅと鳴った。
昔こうくんの家で遊んでいたときに彼のお父さんが作ってくれたハンバーガー。ほっぺが溶けてなくなってしまうかもしれないと危惧したくらいに、美味しかった。今でもあの味を忘れられない。
小さく息をもらしながら、彼は平らな下腹部を両手で撫でる。
小学生の頃のこうくんは今では想像もつかないほどふくよかな体つきで、給食も毎日のようにおかわりをしていた少年だった。彼のお父さんも同じような体つきで、きっとあのハンバーガーが彼らの体を作り上げたんだろうなと当時から納得していた。だけど。
「真汐、またマイナスなこと考えてるよね?」
「だって、戦争さえなかったらこうくんは今もお父さんのハンバーガーを味わえたんだよ?」
戦争さえなければ。何度そのフレーズを心のなかで繰り返してきたことだろう。暗くなる僕とは反比例に、彼はなぜかにこっと笑って。
「まぁ、色々不便はあるけどさ。でも戦争があって初めて気づいたこともあって」
「気づいたこと?」
戦争が起きていいことなんて一つもない。ずっと僕はそう思ってきたから。
「生きてることがすごい特別なことなんだってことにだよ。戦争で命を失うことが多くなったこの時代を生きてみて思った」
「……前向きに考えるのもいい加減にしてくれる?」
怒りがふっと湧いて、そこからは止められなかった。
「こうくんは、まだお父さんが生きてるって望みがあるから、そんなこと言えるんだよ」
かっとなってついそんな心ないことを口走ってしまう。こうくんだって辛いに決まっている。辛さを天秤にかけるのは間違い。それを知った上で……。
僕は走るように歩いた。今度こそ、彼に追いつかれないように。
夏期講習を受けている間、さっき言ってしまったことをずっと心の中で唱えていた。
丸眼鏡をかけていて、おさげをした小柄で可愛らしい昭和風の女性教師が優しく講義を進めてくれるけれど、残念なことにその教えは、僕の頭を通り過ぎて宙へと浮かんでしまう。
隣を見ると、こうくんは黒板に記された文字を懸命にノートへ写していた。
やがてチャイムが鳴り、帰る支度をしていると、こうくんが僕の前を通り過ぎていく。いつもなら待っててくれるのに。
その瞬間、胸がチクリと痛んだ。全部僕が悪いのに。
「どうしたの?」
「あっ、先生……」
二つのおさげが目の前でふわりと揺れる。柔和な笑みが傷んだ胸を少しだけ癒やす。
「今日なにかあったの? 講義のときも上の空な感じがして」
「すみません……」
講義を聴いていなかったことに頭を下げる。本当にあのときはぼーっとしていたから。
「全然、謝らないで。怒るつもりはこれっぽっちもないから。話したくないなら、話さなくてもいいの」
怒らないんだ。ううん、この先生が怒ったところを僕は見たことがない。優しくて、おまけに教えるのも上手で。真面目に聴いているときは先生の講義が一番早く習った内容を理解することができるから。
「先生、僕……」
「小嶋先生、職員会議があるので急いでください」
「あ、はい!」
ごめんね、と先生は僕に向けて手を合わせると、講義で使った参考書を持って教室を出て行ってしまう。気づけば僕一人しか教室に残っていなくて、静かな空間の中、帰宅の準備を始めた。
はぁ、とため息がもれる。こうくんのこと、先生に相談したかったなぁと。
耳をすまさなくてもカラスの鳴き声が自然と聞こえてきた。自室はオレンジ色に染まり、まるでコップの中のオレンジジュースの中で泳いでいる気分になる。
オレンジジュース飲みたいなぁ、なんて贅沢なことを考えては首を振って妄想雲を消す。床に散らばったピースを繋げることに専念する。
僕は昔からパズルが好きだった。ピースがはまる時の快感が心地よくて。テレビゲームもしたいけれど値段が高騰して、電気代も節約したいから、今はやっていない。
「コンコン」
数回のノックの後、扉が開き、お母さんが顔を覗かせる。
「もうすぐごはんだよ」
「うん。わかった、すぐ行く」
「パズルやってたの?」
僕が頷くと、お母さんは部屋に入ってきて床に散るパズルのピースを眺めた。
「真汐はパズルが好きだね」
「うん」
お母さんは一つのピースを摘まむと、柔らかく微笑んだ。そして視線をパズルから僕に移した。
「お母さんもやっていい?」
突然の申し出に思わずえっ?という声が漏れる。
「いいじゃない、たまには。最近あんまり構ってあげられなかったからさ」
そんなことはない。確かに一緒に遊ぶことは少なくなったけど、毎日料理は作ってくれるし、基本家にいてくれる。それだけで嬉しい。だけど久しぶりにお母さんとパズルができるのはもっと嬉しい。
「うん。一緒にやる!」
こうして二人の共同作業が始まった。ピースを埋めながらお母さんを見ると、昔の記憶が自然と蘇る。
誕生日プレゼントにパズルをもらうと、いつだって三人でピースをはめていた。最初は端っこからで、周りから埋めていく。そうやってそれぞれが指を動かしていた。
過去の指の動きが今動かしている指とピタリ重なる。
「ねぇ真汐」
指を動かしたまま、お母さんが僕の名前を呼ぶ。
「どうしたの?」
それから少し沈黙が続いた。何か言おうと口を開いては結ぶ。それを何度か繰り返した後で、やっと声が外気を震わした。
「人生ってパズルみたいだよね」
「あ、またお母さんのパズル講座が始まる」
お母さんはくすり笑いをする。それから。
「お母さんね、人生は最初から決まっていると思うの。パズルみたいに」
「うん、何回も聞いたよ」
もしそうだとしたら、お父さんを失うことも最初から決まっていたのかな。どんなに頑張ってその運命に抗っても変えられないのだとしたら、それはとても残酷な考えだとも思った。
少し間を置いて再びお母さんは口を開く。
「最初から絵が決まっていて、それを完成させるためにただ埋めていく。人によってピースの形とか数は変わるけどね」
「それで、ピースが少ないと人生が終わる、んだよね」
そんなの悲しすぎる。神様は不平等に人生を創造しているのだろうか。そもそも容易くお父さんの命を奪ったこの世に神様がいるとは思わないけど。
「そうだね……」
お母さんは笑みを崩して眉根を下げる。きっとお父さんのことを頭に浮かべて。
「僕がどんなに頑張っても変わらない?」
そうしたら悲しい結末を避けられるかもしれない。そんな希望を込めて言ったけれど、お母さんはゆっくりと首を横に振った。
「変わらない。でも変えられることは世の中にはたくさんあるから。最後のピースをはめるまで、人の人生は終わらないから」
じっと僕の目を見つめてから、お母さんは。
「真汐、今悩んでいることあるでしょ?」
「え?」
「母親だからわかるんだよね。話したくないなら別にいいんだけど」
「あのね、お母さん」
もしかしたら、帰ってきた時から僕の様子に気がついてて。だから最近構ってくれなかったのに、今日僕の部屋に来て一緒にパズルをしてくれたんだ。
事情をすべて話すと、お母さんは僕の両肩を掴んで。
「真汐、明日絶対に航晴くんと仲直りして」
お母さんの強い剣幕に僕は気圧される。ごめん、とお母さんは力を緩めるとともに深い息を吐く。なにか重いものを吐き出すような、それくらい深い息のように思えた。それからなにかを決意したように強く息を吸い始めて。
「実はお母さんも昔、友だちにひどいことを言ってしまったことがあって。それ以来、仲を戻すことはできなかった」
ぽつりぽつりと丁寧に昔のことを話してくれるお母さん。ずっと後悔していたんだ。
「だから、真汐には後悔してほしくないの」
「お母さん……」
だからこそ、今ならまだやり直せる僕のことをこんなにも後押してくれて。
僕も嫌だ。こうくんとずっとこんな関係が続いてしまうこと。
「仲直り、してくれる?」
僕は大きく頷いた。するとお母さんは優しく僕の髪を撫でてくれて。
「真汐はいい子だから、明日仲直りの記念に、奮発して真汐の大好きなクリームシチューを作っちゃおうかな?」
「ほんと!」
「うん。だからちゃんと仲直りしてね。あ、ちょうどパズルも」
お母さんと同じほうへ視線を映すと、完成されたパズルの姿が。
を見ると、絵が現れていて、かなりパズルのピースが埋まっているように思える。この瞬間が僕は一番大好き。バラバラだった絵が一つになって。
すると下の階から何かを知らせる電子音が聞こえてきた。長年この家にいるからわかる。これは炊飯器の音だ。ごはんが炊き上がる音。
その音とともに、お母さんは立ち上がり部屋を出ようとした。
「お母さん、今日は楽しかった。また一緒にパズルしようね!」
思わず声が上ずってしまう。久しぶりに昔の平和なときのような空気を味わえたことがなにより嬉しくて。
「うん。お母さんもまたやりたい!」
少し間を置いてお母さんがそう口を開く。あとでごはんができたら呼ぶからねと言い残して、扉の向こうへとお母さんは消えていった。
お財布にこれまでの貯金してきたお金を入れた。夏期講習は午前までだし、こうくんとの仲直りに午後は僕も奮発して遊ぼうと思って。
「いってきます!」
玄関の扉を開けると、一度後ろを振り返ってお母さんを見る。にこっと笑って「いってらっしゃい」というお母さんの声とともに僕は歩き出した。
「ごめん、こうくん……」
彼の後ろ姿を見つけて、真っ先に謝った。許されなかったらという仮定形が不安な気持ちを増幅させる。でもその不安は彼の声で一瞬にして萎んでいくことになった。
「いいよ。僕も悪かった。お父さんがいなくなってマイナスなこと考えるのは当たり前なのに」
「ううん。こうくんのお父さんだって戦地に赴いたんでしょ?」
「それが……」
こうくんが言いづらそうにしている。口を開けたり、閉じたり。そして。
「お父さん、帰ってくることになって」
「え、よかったね」
「でも、俺だけ幸せになるんだよ? なんでこうくんだけってならないの?」
確かに昨日までの僕だったらそう口走っていたかもしれない。だけど。
「僕が幸せじゃないからって、他の人も不幸せになればいいって考えるのは違うと思うから」
戦争は、たくさんの悲しみと不幸が生まれる。だからこそ、その中に少しでも幸せがあればいいなって今は本気でそう願っている。
するとこうくんはにっと笑ってくれた。僕たちの仲が修復されたなによりの証拠。
暑い通学路を、僕たちは横一線で並んで歩いていった。
「えっ、嘘」
異常な光景が僕の視界を占めたから。お昼ごはんを食べてからこうくんと遊ぼうと思い、家に帰ってきたときのことだった。今日は僕の大好物のクリームシチューが食卓に出ると言ってたから楽しみにしていたのに。その異様な光景とは裏腹に、鼻からはミルクの甘い香りが漂ってきて。
僕は腰を抜かした。まるで目の前で幽霊と遭遇した時のように。リビングと廊下の境目。そこにはさっきまで柔らかな笑みを浮かべていたお母さんが横たわっていたから。
「お母さん!」
僕は四つん這いになって、倒れているお母さんのほうへ向かう。大きな声で呼びかけても、なにも反応がない。
「お母さん! お母さん!」
やっとお母さんのもとへ辿り着くと、僕は力いっぱい揺さぶった。ほんの少し。ほんのわずかでいい。どこか反応して!
指がピクッと動いてくれればいい。まつ毛が少し揺れるだけでもいい。とにかく少しでも僕のアクションに応えてほしい。
だけどお母さんの手を握った瞬間、凍りつくような感覚を覚えた。
そこには温かみがなくて、柔らかさもない。それはここに存在していないと宣言されているようだった。
最後の足掻きで、指を口や鼻に添えてみる。だけどそこに空気の流れは何一つ感じられなかった。
もう生きていない。お母さんはもういない。心で必死にそれを否定しても、本能がそうだと嫌と言うほど伝えてくる。
「お母さん……」
違う。これはお母さんじゃない。違うよね。ここにいる人はお母さんのお姉ちゃんか妹でお母さんじゃない。
本当はわかっている。お母さんは一人っ子で、お姉ちゃんも妹もいないことなんて。ここにいるのは紛れもなく、僕を大事に育ててくれたお母さんだということは。
でも認めたくない。まだ、今は。だってお母さんがいなくなったって認めたら、僕は。
一人ぼっちになるから。
その後、どんな道順でここまで来たかはわからない。ただそこには潮に満ちた空気とすべてを呑み込む海が横たわっていた。さっきまで綺麗な青空だったのに、気づけば、雨を持っている雲がその青を飲み込んでいて。いつもは青いはずの海は雲のせいで黒を帯びていて、不気味さを醸し出している。
「あぁ」
情けない声が漏れる。視界が霞んでいく。頬を伝う雫が止まらない。
期待していた。ここに行けば、お母さんがいるんじゃないかって。
平和な時代、ここにはよく来ていたから。家族三人で。その時の思い出は今でも鮮明に思い出せる。
青い海に僕とお父さんはダイブして、白い水しぶきをかけあう。時々、水鉄砲という名の武器も使ったりして。
その様子を楽しそうに見ているお母さん。そのすべての思い出が真夏の太陽に照らされる海面のようにキラキラと輝いていた。
あの頃に戻りたい。どうしたら帰れるの? 僕は一人迷子の子どもとして、これからずっと生きないといけないの?
そんなの嫌だ。たった一人、戦の続く時代を生きていくなんて。
空を見上げると、こちらに向かってくる飛行物体が見えた。あれが平和を奪う権現そのもの。
その時ふと思った。迷子って?
迷子はお母さんとお父さんの居場所がわからなくて途方に暮れている子どものこと。
それが定義なら、僕は迷子じゃない。二人のいる場所を僕は知っているから。
お母さんとお父さんに会いたい。会いに行きたい。だけどお母さんたちからは会いに行けない。きっとそんな場所に二人はいる。
それなら話は簡単。僕から会いに行けばいいんだ。
勇気を出して右足を踏み出す。やがて足先から冷たい海水が染みてきた。一歩を踏み出せば実に簡単だった。海水は膝も胸も肩も通り過ぎ、やがて全身を呑み込んでいく。
息はもうできない。目を開けるとじんわりとした痛みが広がる。そういえば昔、海の中で目を開けると痛くなるよって誰かが言ってたっけ? なんてどうでもいいことを考える。
でもそんなものだろう。命が終わる時に限って人はきっと冷静でいられるのだと思った。だって、今の僕がまさにその状態なのだから。
海水に染みた目が痛い。それでも閉ざすことはなかった。視界に映るのは絵画のように透明で美しい海ではなく砂と人の活動によって汚れた海だというのに。
顔を水面に向ける。汚れているとはいえ、わずかだが太陽の光が差し込んでいるのが見えた。
あの光を反射しているのが海水面なのだろう。だけど少しずつその光も弱まっていくように感じた。それは自分の残りわずかの命の灯火にも思える。命の源である空気が遠ざかっていく。
視界は滲み、思考が働かなくなってきた。だけどそれでいい。それでいいんだ。あっちの世界への入り口はこんなにも冷たくて、そして意外と苦しくなかった。
冷たい。雨が僕を濡らしている感覚。天国も雨が降るんだなぁ。
意識が少しずつ戻っていくとともに、瞼も開けていく。
ずっと目を瞑っていたから視界がぼやけている。ここはお母さんとお父さんのいる場所。
やがて霞んでいた視界が晴れていくと、一人の女性を見つける。その女性は、どうしてか逃げて行ってしまって。だけど転んで動けずにいたから、大丈夫、と声をかけてみた。あれ、天国なのにどうして話せるんだろう? それに砂の感触もするし、汐の香りもするし。
だけどそれは、その女性が振り返ることで、判明してしまう。
お母さん……。
そう声をもらしそうになって慌てて止める。制服姿で、指にはめているはずの指輪もない。それは僕の知るお母さんの姿ではなくて。だとすると、僕は確認する必要があった。
「今って何年……ですか?」
「えっ?」
その人物は目を丸くする。それは当然のこと。誰もが知るはずの西暦を突然聞かれたのだから。
「今年は2025年です……」
当たり前のようにそう口にされて僕は絶句する。ありえない。そんなの小説の世界かなにかの話のはず。だけどこれで確定したんだ。この人が誰であるのか。
「どうして泣いてる、んですか?」
涙が止まらない。もう、会えないと思っていたから。お母さん。ううん、昔のお母さん。だけどちゃんと説明しなくちゃ。
「僕……戦時中から、やって来たんです」
嘘をついた。いや、ついてはいない。僕は戦争を体験しているから。そんな時代からやって来たのだから。
だけど彼女は、それを昭和初期に起きていた戦争を想像すると思う。その時代はお米を釜で炊いていただろうし、ドライヤーもなかっただろうし、ゲーム機なんてもってのほかなはず。
でも、僕の時代は炊飯器もあるし、ドライヤーで髪を乾かすし、節約していて使わなかっただけだけどゲーム機もある。
戦争の時代からやって来た。お母さん、いや、過去のお母さんに伝えたとおり。だけどそれは昭和初期の戦争時代じゃない。
僕は2050年の終戦記念日、未来からやって来た。
もう会えないと思っていたお母さんとのおしゃべりは感動の連続だった。話によれば、こっちのお母さんは高校二年生らしい。僕と同い年だってびっくりした。
今のお母さんは僕を知らないから、ひとまず敬語を意識してみた。いつもバスは隣に座っているから、バラバラで座ることに違和感を感じながらも、お母さんの後ろへ座って。
家に帰ると、ちょうどお昼時だったから、一緒にお昼ごはんを食べた。しかも憎いことに、タイムスリップしてくる前に食べるはずだったクリームシチュー。お父さんが煮たじゃがいもが苦手だったから、じゃがいも入りのシチューは僕にとって新鮮だった。
目の前には確かにお母さんがいる。あの日よりも若いお母さんが。幸せそうにシチューを頬張りながら。
ふと痩せこけた僕の知るお母さんを思い出した。あの容姿で、どうしてあんな嘘を信じてしまったのだろう。いや、きっと違う。僕はそう信じたかった。瘦せていても、どこかで栄養補給をしているって。
いくらお腹が空いていたからって、お母さんの分の食事まで奪っていたなんて。もしちゃんと気を遣っていたらお母さんは生きていたはずなのに。
それから物置部屋で紙切れパズルを見つけて、それからそれを二人で繋ぎ合わせていった。だけどそれが、最後にあんな別れをもたらすなんて。そのときは想像もできなかった。
一週間の居候。あっという間だった。お母さんと昔のようにパズルをして、未来で語ってくれた友だちのこともそこで話してくれた。
友だちのことは本当に解決できてよかった。だけどそこで未来人が過去に与える力がどれだけ大きいのか理解して、この時代にいるのが怖くなった。
それでお母さんに迷惑をかけてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。だけどふと、思い出して。変えることができるとお母さんが言っていたこと。
僕は変えたかった。もっとお母さんのちゃんと山ほどの悩みを聞いていればと後悔を。聞いていれば、お母さんが生きている未来があったかもしれないという仮定形を。
そこではっと気づいた。ここがお母さんの生きている過去だということを。完全に変えるのはよくない。未来のことを直接的に教えることもきっとダメだ。それは僕自身が消えてしまうきっかけになりえるから。
だけど、ほんの少し、仄めかすくらいなら? 未来のお父さんが兵士にならないように。あっ、友だちとのやりとりで後悔したことも。未来のお母さんが栄養失調で命を落とさないように。
だけど僕は失敗を犯してしまった。お母さんに嘘つきと言ってしまったのだ。
どうして味見してるなんて嘘ついたの? そんなの今のお母さんが知ったことではないのに。お母さんは家を飛び出して行ってしまった。追いかけたかった。こうくんと喧嘩したときみたいに追いかけない自分の意地が邪魔をする。
もうここにいちゃいけない。そう思った僕は手紙と、お小遣いでもらったお金を封筒に入れて学習机に置いた。扉を静かに閉めて、僕は家とお別れをする。
気がつけば僕は海にいた。そうして雨が降ってきてしまったんだ。友だちのことを解決できたのはよかった。だけど。
未来を変えたい。そう貪欲に考えてしまったから、罰が当たったんだ。
未来を変えるために、過去をめちゃくちゃにするのはきっとよくない。僕が過去に干渉すればするほど、未来に影響を与える。僕は、悪い影響を与えてしまった。
「ごめんなさい……」
僕は一歩ずつ海へと近づく。この時代で生きるお母さんを背にして。
一歩踏み出すたび、記憶がシャボン玉のように頭の中で弾けていく。
小さい頃、パズルをした記憶。お母さんの作るクリームシチューの香り。お父さんがいなくなったこと。お母さんとの最後の日。タイムスリップしてからの日々。
どれも大切で特別な思い出。全部を抱きしめて、連れていくよ。
未来なんて変えられなかった。でも、嬉しかった。最後にもう一度、お母さんに会えて。一緒に時間を共有できて。
それでいいんだ。最後の記憶は、栄養失調でやせ細った表情じゃなくて、笑顔のお母さんがいいから。
瞼が自然と塞がれていく。酸素が足りなくなったのか、それともタイムスリップの終わりが来たからなのか、わからない。
僕は深い後悔に浸かるように雨の中、海へと潜って行った。もう誰もいない未来でも天国でも地獄でもどこでもいい。辿り着いたその先が、悲しくて孤独で残酷な世界だとしても。
視界が黒く塗り潰された瞬間、意識がぷつりと切れた。あの笑顔を最後の記憶の片隅に残して。
誰かの声が聞こえる。ううん、誰かのじゃない。僕はその声を知っている。この世界に生まれついたときからずっと。
「真汐……」
僕の大好きな人、お母さんとお父さんの声。てことは僕、二人と同じあっち側の世界に行けたってことなのかな。
二人の声。汐の香り。砂の感触。向こうの世界でも五感が働くんだなと思っていると。
「真汐」
肩を揺すられてゆっくりと瞼が上げる。光がそこからもれてきて、まるで木洩れ日のよう。
「真汐? 真汐!」
目を開けるとともに声が比例して大きくなっていく。眩しすぎて目は全然機能していないけれど。
「千紗ちゃん……」
光に目が慣れると、ついさっきまでずっと一緒にいたお母さんの顔が映った。あのときよりも大人になった、僕の知るお母さんの顔が。やっぱり僕はあの世に行ってしまったみたい。だけど次の瞬間、そんな僕の考えはまるっと覆された。お母さんに強く抱きしめられたことで。
「あったかい。でもどうして。お母さんは……」
いなくなったはずなのに。この目で、手でお母さんの命が絶えてしまったことを感じたはず。なのに。
身体が締めつけられる感触。そして手にはまた違う温もりを感じて。視線をそこへずらすと、僕にそっくりな男の人。
「お父さん」
どうして? お父さんだって、戦地で命を落として、だからこそお母さんと二人で泣いていたのに。二人とも、もういないはずなのに。戦争が二人を僕の知らないどこかへ連れて行ったのに。
だけど二人から伝わる温もりが、僕の知る真実を変えて。クリアになっていた視界がまたぼやけてくる。まるで窓に息を吹きかけたように。頬を伝う透明な雫が止まってくれない。
「真汐が私のパズルを変えてくれたからだよ」
お母さんの言っていることかわわからなくて、首を傾げる。って待って。
「僕がお母さんの息子だって、気づいてたの?」
てっきり僕は、二人にとってのひいおじいちゃんと勘違いされているものだと思っていたから。
「ちゃんと気づけた。真汐が帰ってきてからだけど」
「どうして?」
僕が未来人だという証拠を、僕は残していないはずなのに。
「真汐が残してくれたお金のおかげだよ」
「お金……あっ」
そっか。お金の使い方を教えてもらうときに、値段の下に表示されている数字のこともお母さんは説明してくれていた。
「製造年月日が、未来の数字になってたんだよ」
抱きしめるのをやめて、お母さんはふわっと笑った。やっぱり子どもは親には勝てないなと改めて思い知らされた。
「あの日、真汐がやって来なかったら、私のパズルのピースは少ないままだった。真汐が、私の人生のピースを増やしてくれたんだよ」
その瞬間、バラバラだった記憶のピースがはまっていき、やがて一つとなった。
僕は未来を変えたんだ。過去へ飛んだことで、変えることができたんだ。お母さんとお父さんを失う未来を。パズルのピースが増えることは、それだけ長く生きられるということ。完成が遠ざかって、それだけ人生の終わりから離れたということ。
途端に涙の勢いが強まった。嬉しくて、嬉しくて。
もう手の届かない場所にいると思っていた二人がこんなにも近くにいてくれることに。
海水で冷たくなっていた僕の手が少しずつ温もりを帯びていく。愛情を直に注がれているみたいでくすぐったい気持ちになる。
「あのとき真汐が来てくれたから、夢を持つことができて、在宅でパズルを制作してお金も稼げるようになったんだよ。だからお金にも困らなかったし、真汐を一人にさせずに育てることができた」
「お父さんも、千紗のおかげでお金はそれなりに稼げたから、戦地に行かずに済んだんだよ」
どちらからともなく二人は笑う。こんな日を再び迎えることができるなんて。
「まだまだ戦争は続いていくけど、これからも一緒に生きていこう。寿命は先に尽きちゃうと思うけれど、しばらくは絶対に離れたりしないから」
力強いお母さんの瞳。その目が僕を安心させる。ずっと一緒にいてくれるんだと。
二人の手が僕のほうへと伸びた。二人の生きる新しい世界へと、僕を誘うように。もちろん僕はその手を取って。
両手に力を込めて上半身を起こす。それによって二人との距離がぐんと近くなる。
「ありがとう。お母さん、お父さん」
生きていてくれて。本当にそれだけで、心からありがとうと思える。
立てる?と言わたが、すくっと立ち上がってみせると、二人とも驚いていた。
戦争の続く時代の真っ只中、家族三人で手を繋いで帰る。それは平和な時代にとって何気ない日常かもしれない。
だけど戦争が続くこの時代、そして今の僕にとって、なににも代えがたい特別な時間。
僕は真ん中で両サイドにお母さんとお父さんがいる。両方の手を温もりで包んでくれることがとても幸せ。
だから早く終わってほしい。命だけが失われる戦争なんて。
海が遠くの景色になろうとしていた頃、お母さんが僕の心中を読んだのか「戦争はいつか終わるよ」と笑いかけてくれた。そして続けて。
「平和な時代は必ず来るよ。生きてさえいれば。きっとその時代は……」
いっぱいのピースで溢れているね、と。



