夏を作る蝉の鳴き声とともに、今日の講義終了のチャイムも鳴いた。今日は夏期講習最終日だから、それは同時に私たちの夏休みの始まりを教えてくれる。
 本当だったら私も喜ぶべきところ。だけど……。
 「皆さん、長い夏期講習お疲れさまでした。良い夏休みをおすごしください。あと、進路調査票を提出していない生徒は教卓の前に集まってください。以上」
 最後から二言目、私は地獄の奥底に突き落とされるような、絶望感を味わう。終わった……怒られる……。昨日楽しく勉強していた時間はどこへ。
 唯一、心配そうに私を見守ってくれる美波ちゃんの救いを背中に受けて、私は地獄へと歩き出す。
 「松浜さん。先生言いましたよね? 提出は今日だと」
 「すみません」
 ただ謝ることしかできない。進路調査票を忘れてたこともそうだけど、ちゃんと夢のことを考えられていなかったことにも。
 「まったく。進路先なんてどうせ変わるし。適当に書いて提出しなさい。とにかく時間だけは守ってちょうだい」
 「はい……」
 素直に肯定の返事をしつつも、裏では真っ黒な暗雲が立ち込めていた。ひどい先生だと思ったから。適当って何? 人生に関わる夢を適当って。
 「もう夏期講習は終わりだけど、来週の月曜日、学校自体は閉まってないから、その日に提出しなさい。次遅れたら、内申にも関わると思いなさいね」
 「わかりました」
 やっと地獄から解放された私は、ここ最近で一番のため息を吐いた。教室にほとんど生徒はいなくて、代わりに廊下の向こう側が騒がしかいことを確認してから。
 「私、あの先生嫌い」
 私が席に戻ると、美波ちゃんは不機嫌なのか、そんな黒い言葉を吐いた。私は慌てて後ろを向いたけれど、教卓には誰もいなくてほっとする。先生に聞かれていたらと思って。それにしても。
 「美波ちゃん、あの先生のこと嫌いだったんだ」
 すると彼女は目を見開いた。私、変なこと言ったのかな?
 「逆に、千紗ちゃんは好きなの?」
 「それもそうだね」
 もともとあの先生のことは好きじゃなかった。いつも不機嫌そうで、厳しくて、授業も教科書通りの進行で。だけど今日、もっと嫌いになった。
 「でも私、あの先生には感謝してるの。ううん、感謝しかない」
 「……さっきと真逆なこと言ってない?」
 嫌いって言ってたのに感謝? 困惑している私が面白いのか、彼女は小さく微笑む。
 「私ね、あの先生のおかげで夢を見つけられたから」
 「そうなの?」
 そう言われても、いまいちピンと来ない。だってあの先生が、生徒に寄り添って将来のことを一緒に考えるとか、想像できないから。ますます疑問符が浮上する。
 「あんな先生には絶対になりたくないって、思ったその強い気持ちが、私の夢になった。あの先生じゃない、もっと優しくて生徒に寄り添えて、授業も工夫できるような、そんな先生になりたいって」
 「すごい、夢の始まりだね」
 まっすぐに夢を語ってくれた美波ちゃんに、そんなきっかけがあったなんて。単純にすごいと思った。嫌いな先生のことを夢を見つける動機にしてしまう美波ちゃんが、本当に。
 「反面教師だよね完全に。だから私はあの先生のこと、嫌いで感謝してるの。それにね」
 千紗ちゃんもきっかけなんだよ、とカミングアウトする。私? そんな記憶ないのに。
 すると彼女は、トレードマークである丸メガネを外し、片方の三つ編みを撫でる。いつも見ている顔のはずなのに、メガネのない彼女はまるで別人のようだった。
 「私、この見た目で小中学生の時はからかわれてたんだ。昭和からタイムスリップしてきたのって。じゃあ、この時代にはおばさん美波がいるのかなって。私は好きでこの格好してるのに」
 怒りが湧いた。人の格好を馬鹿にするなんて。それに、美波ちゃんの昭和スタイルは似合ってると、私は思ってたから。
 「ひどすぎるよ、そのからかってきた人」
 「でも、いいの」
 「よくないよ」
 よくないに決まってる。その言葉たちが美波ちゃんを傷つけてるってことがわかるから。でも彼女は首を横に振る。
 「いいの。だって、千紗ちゃんがいいねって言ってくれたから」
 私は固まってしまった。覚えてる。高校生活に慣れていない頃、まだ親しくなかった美波ちゃんに、その昭和スタイルのことを褒めたこと。ただ素直な感想を言っただけのつもりだったけれど、思えばあの時から、仲良くなっていった気がする。まさか、それが。
 「あの時から、千紗ちゃんと仲良くなりたいって思った。優しくて素直な千紗ちゃんと」
 「私、そんなすごい人間じゃないよ」
 だけど美波ちゃんはさっきよりも強く首を横に振る。そうじゃない、と訴えかけるような。
 「私、思ったの。私みたいに自分のスタイルにこだわりを持つ人を受け入れられるような、そんな優しい先生になりたいなって。だからすごいんだよ、千紗ちゃんは」
 「そうなのかな」
 大きく頷いてくれる彼女を見て、少し自信がついた。こんな私でも、誰かの夢のお手伝いができていたんだって。だけどそれ以上に胸を張って言えることが、私にはある。
 「美波ちゃんは絶対」
 優しくて、いつも私に寄り添ってくれて、勉強を教えることも上手な美波ちゃんは絶対に。
 「素敵な先生になれるよ」
 お世辞じゃない、素直な気持ち。美波ちゃんのスタイルを褒めた時と同じくらいの本音。
 「ありがとう」
 教室のカーテンから差す陽光によって、彼女の笑顔がさらに眩しくなる。私もそれにつられて、顔の力を抜く。二人だけの教室には、夏の空よりも輝かしいもので溢れかえった。


 「やっぱりパズル楽しい」
 鼻歌を歌い出しそうなくらい、上機嫌に真汐くんは紙切れを繋げていく。本当に楽しそうに。
 「結構できてきたよね」
 でも肝心の顔はまだできてない。和服だけができていて顔がまだできていないから、相当今のパズルはホラー要素全開なわけで。
 「誰だろうね。この写真に写ってる人」
 「でも間違いなく白黒写真だから。もしかしたら真汐くんと知り合いだったりして」
 社会の資料集にも、戦時中の写真は白黒で載っていた気がする。
 「千紗ちゃんの家にあったんだから、千紗ちゃんのご先祖様あたりが妥当だと思うなぁ」
 「確かに」
 そもそも私の家にあったのだから、そう考えるのがとても自然。でも今でも不思議に思う。
 どうしてあんな物置の、しかも棚の奥にしまったりしてたんだろうって。
 そしてその疑問は、パズルの完成とともにさらに深まっていき。
 「真汐くん、これって……」
 パズルは完成した。いつもなら、完成して信じられないほどの達成感を味わえる。それがパズルの醍醐味であり、だからこそ、私はパズルが好きなわけで。だけど、今回は違う。
 「僕と似てるね」
 「似てるね、じゃなくて。これ、どこからどう見ても真汐くんなんだよ?」
 完成した写真の中で微笑む人物。それは間違いなく、今目の前にいる男の子だった。そして海人くんにも。だけど今よりほんの少しそれは幼く見えて。
 彼はなにも口にせず、ただじっと写真を見つめていた。
 写真ができれば、全てわかると思っていた。パズルをやっていた時は謎を解いている探偵になれたようで楽しかったのに。だけど余計に謎は深まってしまって。
 どうして昔の真汐くんの写真が、この家にあったんだろう? そしてその謎の答えを目の前にいる男の子は持っているはずで。
 「真汐くんは知ってるんでしょ? 真汐くんの写真がこの家にある理由」
 早くこの疑問を解決したくて、思わず問い詰めるように私は彼に近づく。だけど彼は。
 「もちろん知ってるよ。でも、言えない」
 「どうして?」
 「……色々あって。とにかく言えないよ」
 「そんな……」
 すごく気になるのに。どうして教えてくれないの? というか、もう一週間もずっと一緒にいるのに、どうして彼は。
 「そろそろ教えてほしい。戦時中といっても具体的な日付とか、家族のこととか」
 だけど真汐くんはただ困ったように笑うだけで。ごめんね、とだけ口にする。
 「どうして隠すの?」
 きっと彼にとって話したくないことなのはわかっている。それでも、隠していることを知りたい。だけど次に彼は信じられないことを言って。
 「千紗ちゃんだって、隠し事してたよ」
 「え、してないよ。そんなの!」
 私はなにも隠していない。本当に。だけど。
 「嘘つき」
 冷たい声でそう言われて、気づけば私は暑い夏の外を走っていた。


 汐の香りが鼻をやんわりとくすぐる。海が目の前にあって自然と心が安らいでいくのを感じた。でもまださっきの会話を思い出すとその安らぎにも波が立ってしまう。
 あの後、勢いのまま外を出て、気がつけばここにいたけれど、後悔が白波のように私を襲ってきた。
 「なにそんなところで一人黄昏れてるの?」
 「わっ」
 思わず変な声が出てしまう。だけど突然話しかけてきたことにも、ほんの少し頭にきたりして。さっきのこともあって、私の沸点はきっと大きく下がってしまったと思うから。
 「変な声」
 「いきなり話しかけてこないでよ」
 「そんなこと言われても。俺何回も呼んだんだけど」
 はぁ、とため息を洩らしながら彼は流木に座る私の隣に腰を下ろす。それにしてもどうして。
 「一昨日もここにいたよね?」
 一昨日の夏期講習の帰りにも、今日の昼の真ん中にもいて。海人くんは浜辺で暮らしているのだろうか。
 「あぁ、そんなの簡単な話だよ。海が好きだから。ほら、昔海になかなか行けなくて憧れてたっていう話したでしょ?」
 「……言われてみればそうかも」
 昨日昔のことを思い出した時に彼が話してくれたこと。いつか海の近くで暮らしたい。幼い彼の声がまた記憶の中を駆けめぐる。そっか、だから大きくなった今は自由にここへやって来ているんだと一人納得した。
 彼に改めて視線を注いでやっぱり真汐くんそっくりだなと思っていると。
 「それで、オープンキャンパスのことは? 考えてくれた?」
 「あっ……」
 すっかり忘れてた。真汐くんのことで頭がいっぱいになりすぎて。いや、そんなことを理由に自分の将来のことを後回しにするのもよくないと頭を捻らせていると。
 「あっ、じゃあさ。俺の家来る? 昔みたいに色んなことしよ」
 「えっ、いやそれはちょっと……」
 おじいさんに助けられて以来、毎年夏にあそこへ行くと海人くんの家で彼と一緒に遊んでいた。いつの間にか、あそこへは帰ることはなくなってしまったけれど。だけどいくら昔一緒に遊んでいたとはいえ、男の人の家に行くなんて。相手は年上だし。なのに海人くんは聞く耳を持ってくれず。
 そうと決まれば、と流木から立ち上がって海岸を歩き始めた。こっちの気も知らずに。
 「ほら、おいで」
 突然歩き始めたかと思えば、私のほうへ振り向いて、手を差し出してきて。昔おじいさんに花のおつかいを頼まれた時のことをふと思い出して、手を伸ばしかけたけれど、すんでのところでそれを止めた。
 駄目だよ。昔と今とでは全然状況が違うのに。なのに彼は止めた私の手を強引に繋いできて。
 「行くよ」
 力強く握られた手は私に拒否する隙を与えてくれない。彼が思うがままに私の足は動いていく。だけど不思議と嫌な感じはしなかった。


 車の窓に写る風景が緑へと変貌していく。車の揺れが多くなったのは、きっと道の安定しない田舎にやって来た証。
 「よし、やっと着いた。やっぱりそれだけ俺の実家が海から離れてるってことだよね」
 海人くんが車を降りると、私のいる助手席の扉を開けてくれた。片足を地面につけると、じゃりっと音が鳴る。海岸とはまた違った砂の音。
 「ここ、懐かしい」
 「まぁ、十数年ぶりだもんね」
 海人くんの勢いのまま彼の実家まで来てしまった。狭い彼の軽自動車で二人きりになった時は鼓動がおかしな刻み方をしていたけれど、思い出の場所に来たからか、今はすっかり落ち着いている。
 「きっとお母さんたちも喜ぶよ」
 「え、海人くんのお母さんたち絶対忘れてるよ。だってずいぶん昔のことだよ?」
 それに一緒にいたのも、あの年の夏だけ。そんな短い期間にいた小さな女の子のことなんて、きっとみんな忘れてるよ。むしろ海人くんが覚えていたことのほうが衝撃的だったから。
 「大丈夫だよ。あの人たち驚異の記憶力の持ち主だから。ほら、田舎って近所付き合い大事だから、名前とかすぐ覚えるし。それに俺がそうさせてないから大丈夫」
 私に向けて親指を立てると、彼は玄関の鍵穴に鍵を通した。そういえば二度目にお邪魔したときには、ちゃんと名前で呼ばれていたような。あと最後の一言も気になったり……。
 ガラガラ
 「わっ」
 「ただ開けただけだから」
 みれば、ただ引き戸が開かれただけで、驚くところなんて一つもない。ちょっとしたことで驚く私が面白いのか、彼がくすり笑いを始めて恥ずかしさで心がいっぱいになった。
 「海人おかえり。って、もしかして千紗ちゃん、だよね? えぇ、こんなきれいになって」
 奥の部屋から、見覚えのある女性が現れて、すぐに記憶の中の人と合致する。この人が海人くんのお母さんだと。そして海人の言うとおり、彼女は驚異の記憶力の持ち主だった。
 「いえ、そんなことないです。突然お邪魔してすみません」
 礼儀よくお辞儀して挨拶をする。美波ちゃんの家に上がる時と同じ振る舞いだけどいいのかなと不安に駆られていると。
 「すごいちゃんと挨拶できて、しっかりしてるんだね。海人にも見習ってほしいものだわ」
 「俺だって、ちゃんと挨拶してるよ?」
 反論する海人くんに、彼のお母さんは訝しげな表情を見せて。
 「挨拶するのなんて当然のことだよ。そうじゃなくて海人には千紗ちゃんみたいな礼儀正しさみたいのが備わってないんだよね」
 「え~」
 不機嫌そうに彼は口を尖らせた。そのしぐさに思わず笑ってしまった私は、彼にさらなる不機嫌を呼んだようで。
 「ふん」とそっぽを向かれてしまう。気まずい状況のはずなのに、彼のお母さんはくすり笑いをしながら私たちを中へ通した。
 「ゆっくりしていってね」
 不機嫌な海人くんと私を残して、彼のお母さんは立ち去ってしまう。だけどその気まずさは、和室特有の畳の香りで幾分か和らいだ。上の方には白黒写真が飾られていて、そういえば昔ながらの家では家にご先祖様の写真を飾るのがあたりまえなんだっけと思っていると、その中に見覚えのある人を見つけた。他の写真とは違う彩りのある写真。それを見つけた途端、ずきっと胸が痛んだ。だってその写真の中の人物は。
 「あのカラーの写真の人、昔私のことを助けてくれた人だよね?」
 家に入ってから黙っていた海人くんは私と同じように写真を見上げると、少し目を細めて。
 「そうだね」と小さく呟いた。いつもの余裕に満ちたものではなく、弱々しい声で。それが彼のひいおじいちゃん、ううん真汐くんが帰らぬ人となってしまったことを強く示している気がして。
 「はい、麦茶持ってきたよって。どうしたの、千紗ちゃん? もしかして海人にいじめられた?」
 慌てて私は首を横に振る。海人くんがいじめたなんてとんでもない。
 「ほんとに? じゃあどうしてそんな辛そうな顔してるの?」
 「あの天井のところに飾られている写真を見ていたんです。それであのカラーの写真を見つけて昔のことを思い出して」
 ひいおじいちゃんに助けてもらったこと。お墓参りに行ったこと。そして、今この時代にいる私と同い年のひいおじいちゃんとの日々。
 そう考えるとひいおじいちゃんと過ごした時間は、私にとってあまりにも濃すぎるもので。そんな濃密な時間を与えてくれた人物が、もうこの世にいないことが信じられなくて。
 「あぁ、おじいちゃんのことね。そういえば千紗ちゃんが私たちの家に来たのも、おじいちゃんが助けてくれたからなんだっけ」
 彼のお母さんは襖を開けて隣の畳の部屋へ進むと、備えつけられてあるタンスをなにやら漁り始めて。
 「あったあった」と一人嬉しそうに見つけたものを胸に抱き締めた。それを持ったまま私たちのところへ戻ってくると。
 「これね、おじいちゃんのアルバムなの。よかったら見てみて」
 「ちょっと待って。俺には見せたことないのに、なんで千紗ちゃんにはあっさり見せるの?」
 ふて腐れた子どものようにまた不機嫌さを顔に表した海人くんをみて、彼のお母さんが小さく笑う。
 「海人も見ていいよ。年下の千紗ちゃんとなら、海人も泣かないだろうし」
 「は? 俺そんな子どもじゃないんだけど」
 「おじいちゃんのお葬式のとき、一番泣いてたのはどこの誰だったっけ?」
 痛いところを突かれたのか、海人くんが黙ってしまう。そんな親子のやりとりに、私はただただ羨ましいという感情しか出てこなくて。
 『今日の花火大会には行けない』
 お母さんとお父さんの声が重なる。いつも一緒にいることができないのなら、せめて特別な日だけでも一緒にいてほしい。その願いさえ、二人には届かないんだと思うと、自分が孤独の渦に飲み込まれていくような錯覚を覚えた。
 ストン
 すぐ隣から聞こえた音に首を動かすと、視線が海人くんと交わった。さっきまで向かいにいたから、驚きで表情が固まってしまう。
 「一緒に見ようと思って」
 彼が持っているアルバムを机に置いて、こっちへ動かす。
 「海人くんも見たことないの?」
 さっきの話が気になってそう聴いてみると、彼はこくりと頷いた。
 「泣くかもしれないから見せなかったってひどい話だよ」
 はぁとため息をつきながら、彼の指は最初の一ページを開くと、そこには私の知っている顔がたくさん並べられていた。そしてやっぱり思う。ひいおじいちゃんの真汐くんと隣にいる海人くんはそっくりだなって。
 ページを進めると、当然写真の中の人物も年を取っていく。まるでアルバムの中で時間が流れていくように。
 「ひいおじいちゃんの若いときって俺に似てるんだな」
 新しい発見をした子どものように、海人くんの目はキラキラしていて。
 「じゃあ、海人くんも将来はこんなおじいちゃんになるんだね」
 最後のほうのページに載っている写真を指さすと、彼は「え〜、もう少し髪の毛残っててほしいんだけど」と不満そうに言った。まぁ、好きなひいおじいちゃんに似るのもいっか、とその後は笑って。そして最後のページをめくると、二人して首を傾げた。
 「なんでこんなものが挟まってるんだ?」
 疑問符を浮かべた海人くんはティッシュで包まれたものを取り出し、それを開ける。すると彼は目を見開いたまま固まってしまって。
 「どうしたの?」
 微動だにしないから心配して声をかけると、彼はゆっくりそのティッシュの包みを手渡してくれた。そして私もそれを見た途端、衝撃が走って彼のように思わず固まってしまう。
 ティッシュに包まれていたのは、写真だった。それも画像が白黒だから大昔に撮られたものだと思う。だけどそこが問題じゃない。
 「この人、私に似てる……」
 そこに写っていたのは、私にそっくりな女性。一瞬自分のことかと思ったけれど、私がこの時代にいるなんてありえない話のはずで。
 「誰なんだろう?」
 私じゃなければ、ここに写る被写体は誰なのか。うん? こんな写真、最近どっかで見たような?
 「ちょっと、もう一回見せて」
 海人くんが私に寄ってきて、手に持つ白黒写真を見つめてきた。彼の腕が少し触れて、ドギマギしてしまう。そして。
 「普通に考えて、千紗ちゃんの親戚だと思うんだけど」
 「親戚……あっ!」
 思い出した。真汐くんと物置き部屋を片付けていた時に、私は見たんだ。そういえば昔お母さんが言ってた気がする。
 「千紗ちゃんの知ってる人?」と彼に尋ねられた直後、彼のお母さんが襖を開けて現れた。両手に持つお皿には、お腹の虫を鳴かす美味しそうなクリームシチューが盛られていて。初めてここへ来たときと同じように。
 「どうしたの、そんなに深刻そうな顔して。もしかしてシチュー苦手? でも昔は食べてたよね?」
 「あ、いえ」
 私は素早く首を横に振る。苦手よりむしろ大好きだから。
 「この写真の女性、私に似てると思いまして」
 本当に深刻な顔をしていた理由を話す。あぁ、と彼のお母さんは何度か頷く。なにか知ってるような反応。
 「お母さん、この人のこと知ってるの?」と私も今聞こうとしたことを海人くんが代弁する。すると彼のお母さんは「まぁ、シチュー食べながらゆっくり話してあげるから」と笑みを浮かべた。
 

 
 いただきます、と手を合わせてカレーをスプーンで口に運ぶと、それから手が止まらなくなった。彼のお母さんが「それでね」と口を割ったときには半分以上平らげられていて、少し恥ずかしくなる。
 「あの女性ね、実は」
 「お母さん、シチューにじゃがいも入ってるんだけど!」
 怒り口調の海人くんの声が割って入ってきた。もう、気になるところなのに。
 呆れた表情を浮かべた彼のお母さんは仕方ないなぁ、とため息混じりに呟く。彼が指さす方向にあるじゃがいもをスプーンですくいとると、それをそのまま口の中に放り込んだ。
 大人な海人くんのちょっと可愛い一面をみられたことに少し頬を緩めると、こっちをみた彼にそっぽを向かれてしまった。
 彼のお母さんもくすりと笑いながら「あっ、ごめんね。あの写真のこと話そうと思ってたのに」
 「いえいえ」
 ごめんなさいなんて。むしろ突然お邪魔したこっちのほうがはるかに申し訳ない気持ちでいっぱいなのに。
 ふぅ、と息を吐いてから「実はあの女の人、千紗ちゃんのご先祖様で、海人のひいおじいちゃんの初恋の人なんだよ」と衝撃の事実を私たちに告げた。
 ひいおじいちゃんって、昔私を助けてくれた人、つまり。
 真汐くんは私のひいおばあちゃんに恋をしていたってこと!?
 そのあと彼のお母さんから二人のことを聴いていくと、二人は幼馴染みで、一緒にいるうちにいつしか二人はお互いを意識し始めるようになったらしい。
 だけど時代は自由な恋愛を許してくれなくて、お見合いによって二人が結ばれることはなかったと。
 授業でも聴いたことがあった。昔はお見合い婚が当たり前だと。その例外にもれず、幼なじみであった二人は結婚できなくて。その話を聴いて胸が鈍く痛んだ。
 「千紗ちゃん、どうして泣いてるの?」
 目からこぼれていく雫が止まらない。隣から私の顔を覗き込んできた海人くんの顔が滲んでいく。
 「す、好きな人と一緒になれないなんて、悲しすぎるよ……」
 好きになった幼なじみと結ばれないなんて。いくら当時の慣習がそうであったとしても、あんまりだよ。
 きっとおじいさんは、真汐くんはその人と繋がりたかったはずなのに。
 「でもね、おじいさんは結局お見合い相手のことも大事にしてたよ。やっぱり一緒にいると、誰だって特別な存在になれるんだと思う」
 彼のお母さんの言葉に、そういえばと思った。昔おじいさんとお墓参りに行ったとき、デートに行くんだって言ってた。きっとそれくらいおじいさんは亡くなった奥さんを大事に思ってたんだ。たとえそれが初恋ではないお見合いによって結ばれた女性でも。
 いつも私に笑いかけてくれた真汐くん。だけどその裏では、色んな苦悩に揉まれていて。戦争という過酷な時代を生きて。両親を亡くして。そして大好きだった幼なじみとも繋がれなくて。お見合いの相手のことを心から好きになったとはいえ、きっと当時は苦しいくらいに悩んだはず。
 考えれば考えるほどに胸の痛みは強くなっていく。まるで自分がそんな悲惨な状況に置かれたように。結局美味しかったはずのシチューは、その味を思い出せなくなるほどに記憶が曖昧になっていった。


 チリン、チリンと風が吹くたび風鈴が鳴く。その音は夏風を涼しい風に変えて、心の中へと吹いてきた。
 お昼ご飯を頂いた後、海人くんのお母さんにごゆっくりと言われて、その言葉に甘えた私は縁側に座っていた。昔ここへ座っていた記憶も相まってか、とても心地よくて。だけど真汐くんのことを考えると、その心地よさもまた胸の痛みを助長させた。
 思い返せば返すほど、自分がひどいことを言ってしまったことに気づいていく。彼にとっては言いたくないことだったはずなのに。だけど落ち着いて考えてみても、彼が嘘つきと言った理由を私は見つけることができないでいた。でもきっとなにか、理由があるはず。
 「あのさ、お墓参りに行かない? 昔みたいに」
 「えっ?」
 気づけば居間の襖を開けた海人くんがそばに立っていた。それって。
 「おじいさんもそこにいるの?」
 昔真汐くんのことをそう呼んでいた。そのことを思い出してか、少し間を置いてから彼は頷く。
 「昔一緒にお墓掃除したあのお墓にいるんだ」
 「あのお墓って。そっか、奥様と同じ場所にいるんだね、おじいさん」
 「そうだよ」
 「わかった。連れてってほしい」
 立ち上がって海人くんのあとをついていく。これがひどいことを聞いてしまった私が、真汐くんにできる精一杯のことだと思いながら。


 
 お花やろうそく、ライターなどお墓参りの必需品を揃えた私たちは、墓地へと二人並んで歩いていた。
 こうして歩いていると、本当に昔に戻った気分になれた。でも違うところもある。
 危ないからと、昔の海人くんだったら私の手を握ってくれていたから。だけどもう私は高校生で彼は大人。恋人同士じゃない限り異性で手を繋ぐことなんてない年齢。そのことにほんの少しだけ寂しくなっていると。
 「アルバムみた時、千紗ちゃんはどう思ったの?」
 真夏の容赦ない暑さの中、一瞬の涼しい風とともにその一言は吹いてきた。
 「どう思ったのって言われても……」
 そんなのいっぱいありすぎるよ。若い頃の写真をみたらやっぱり真汐くんと海人くんに似ていて、晩年の写真をみたらあの日助けられた記憶を鮮明に思い出して。でも真汐くんのことは海人くんに多分信じてもらえないと思うから容易に話せない。
 「じゃあ、最後の写真をみたとき。あの千紗ちゃんそっくりの女性が写ってたのあったでしょ。それみてどう思った?」
 「海人くんの家とそんな繋がりがあるんだなって思った。でも昔は好きな人と簡単に結ばれることができないんだなって……あっ、そういえば」
 「どうしたの?」
 「あ、えっと……実はそのおじいさんの写真、私の家にもあって」
 びりびりに破られた写真。それをパズルのように繋いでいった日々を思い出して。
 「そうなの? 詳しく聴かせて」
 興味津々といった態度で、彼が綺麗な瞳でまっすぐこちらを見てきた。私は話せる範囲でそのことを話した。物置き部屋の棚の奥でそれを見つけて少しずつその紙切れ同士を繋いでいったことを。
 「ふ〜ん。なんとなくわかった気がする。千紗ちゃんのご先祖様がそうした理由」
 「えっ、そうなの?」
 自然とそう疑問が口に出た。だって写真のパズルが完成してからずっとそれは気になってたことだから。私の話を聴いただけで推測できる海人くんすごいなって感心した。 
 「多分千紗ちゃんのご先祖様もお見合い相手が決まって、でもまだ俺のひいおじいちゃんへの想いは残ってたからその写真をその物置き部屋? でみてたんじゃないかな」
 「でもそれだったら写真を破る必要ないと思うんだけど」
 「きっとその現場をお母さんとかに見られて、あなたにはお見合い相手がいるんだから幼なじみのことなんか忘れなさいって破られたんだと思う」
 「そんなのかわいそすぎるよ。一緒になれなくて辛いはずなのに、その人との唯一の繋がりすらも壊すなんて」
 私のご先祖様、ひいおばあちゃんがそんな目に遭っていたなんて。
 「着いたよ」
 彼の声とともに目に意識がいくと、数えきれないくらいの墓石がそこにはあった。門をくぐるとわずかに空気が変わったように感じた。きっと墓地という特殊な空間がそうさせているんだと思う。記憶どおり奥にある海人くんのひいおじいちゃんたちが眠る墓石へと歩いていく。
 あのときよりも大きくなった私は、スムーズにお墓掃除ができるようになった。けがもせずに買ってきたお花を供えて、無事掃除を終わらせることができた。
 二人で手を合わせて私は祈る。目を閉じた暗い世界には、自然と色んな彼の姿が浮かんだ。
 モノクロな若い真汐くん。私を助けてくれたときのおじいさんになった真汐くん。そしてついさっきまで目の前にいた私と同じ肌の色をした真汐くん。そして彼の境遇。
 戦時中という私には想像もできない時代を生き抜き、戦争によって両親を失い、そして初恋の幼なじみである私のひいおばあちゃんと結ばれなかった。
 そんな過酷な人生を歩んできた真汐くんに私ができることはないかもしれない。できたとしてもきっとこれっぽっちだと思う。
 そんなこれっぽっちのできることは今の私にとってただ天に祈ることだった。
 どうか、ここではないどこかで真汐くんが幸せでいてくれますように、と。それから、もう一度ちゃんと話して謝れるように、と。


 ひいおばあちゃんの墓石にも手を合わせてから、私たちは海人くんと合流して家に向かって歩いて行く。私がひいおばあちゃんのお墓参りをしている間、彼は近くのお店を回っていたのだ。すると海人くんはウエストポーチの中をごそごそとし始めて。
 「はい」
 手渡されたのは、真っ白なソフトクリーム。綺麗に渦を巻いていて、美味しそうなビジュアルをしていた。でもこれ。
 「もしかしてそのソフトクリーム、余ったお花代で買ったもの?」
 「うん!」
 自信に満ちた笑顔で彼は頷く。海人くん、全然昔と変わってない。
 「海人くん、もう少しいなくなった人に優しくしないとたたられちゃうよ?」
 「昔も言ったけど、俺はもういない人よりも生きてる人のほうが大事だから」
 持ったソフトクリームを彼は私に近づける。
 「ほら、早くしないと溶ける」
 「あ、うん」
 このまま溶けて食べられなくなるのはもったいなくて、私はそれを受け取る。ご先祖様に申し訳ないなと思いながら。
 一口食べると、冷たさと甘さが広がって頬っぺたが落ちそうになる。
 「海人くんは生きている人になら誰でも優しくするの?」
 この世にいない人には辛辣で、でもその分生きている人には誰にでも優しくするのかなって不思議に思って。五歳のときに私のけがに気づいて手当てしてくれたり、今日だってソフトクリームを私のために買ってくれたり。
 「う~ん、どうだろう。まぁ、俺がしたいと思ったことをしてるだけで。生きている人でもそんなむやみやたらに助けないけど」
 「そうなの?」
 少なくとも私や真汐くんのときは、なにも考えないで普通に助けてくれたからてっきり誰にでも手を差しのべているものだと思っていたけど。心なしか、海人くんの顔がわずかに赤く染まって見えるような……。
 「それよりオープンキャンパスはどうするの? もう明日だよ?」
 強引に話を逸らされたと思いつつ、真汐くんのことですっかり頭がいっぱいになっていた私は、さらに考えなければならないことが増えてパンクしそうになる。
 「その様子だと全然考えてないんだね」
 「そ、そうだね……」
 図星を突かれたことで、言葉の覇気が奪われた。
 はぁ、と小さく息を吐いた海人くんは「どうせ、ひいおじいちゃんとかご先祖様のこととか考えてたんでしょ? そんなのもう昔の話だし、千紗ちゃんは生まれてすらいないんだから、考えたって仕方ないと思うよ」
 「そのとおり、だよ……」
 白黒写真を完成させてから、ずっとそのことばかり。自分じゃどうにもできない過去のことに頭を使って、今からやってくる未来のことは後回しにして私はなにをやっているのだろう。
 「未来のこと、ちゃんと考えて」
 その声に畳に落としていた視線を上げると、彼の視線と強くぶつかる。まるで複雑に絡んでしまったかのように、目は離せなくなって。
 「未来のこと考えないで後悔してたら、今の千紗ちゃんみたいに、子孫たちが悲しむよ」
 「そうだよね」
 そんな思い、未来を生きる子孫たちにはさせたくない。その人たちが私のお墓の前で悲しみよりも希望が先行するような、そんなご先祖様でありたい。だから。
 「私、海人くんの大学のオープンキャンパスに行きたい!」
 そこが実際の進学先になるかはわからない。だけどそれは確かな未来への一歩。子孫たちが前を向いて歩いていく姿を見せることこそが、きっとご先祖様たちにできることだと思った。だけど冷静になると、考えることは山積みで……。きっと今の自分の顔は青くなってる。
 「大丈夫。交通費は必要ないから」
 「え?」
 どういうこと? 交通機関を利用して行くんじゃないの?
 「行きたいんでしょ、俺の大学。だったら車で連れて行くから」
 「ほんとに!」
 「あぁ。あそこは情報系の学部が豊富でね。パズルが好きなら、プログラミングでパズルを制作することもできるし、その道のプロになれたら、在宅で仕事することもできるよ」
 「在宅、かぁ」
 それなら、もし結婚して子どもができても、その子を一人にさせることはない。家族のいない生活はやっぱり寂しい。だけど在宅なら子どもに私と同じ思い、させずに済むんだ。
 「よし、そうと決まったら俺も明日大学に行く準備しないと。千紗ちゃんも荷物とか親に伝えるとかしといてね」
 「うん!」
 未来のビジョンが少し見えてきて、私の気持ちは自然と前向きになる。ご先祖様のこと、真汐くんのことも知ることができて、今日で大人への道を大きく前進できた気がした。すると頬に冷たいものが滑った。でも目からはなにも出ていない。あれ?
 「雨が降ってる。早く家戻ろ?」
 海人くんが小走りになるけれど、私はなぜか立ち止まったまま。ううん、なぜかなんてもうわかりきっている。昨日の時点で天気予報は今日晴れマークだったはず。昨日の美波ちゃんとのやりとりが脳裏を駆け巡る。
 「真汐くん……」
 嫌な胸騒ぎがする。もしかしたらが当たるような、そんな予感が頭を突っつく。
 「待って。そっちは家とは反対方向だよ」
 気づけば、自分の家のほうへと私は走り始めていて。だけどそれは海人くんが私の腕を掴んだことで止まった。
 「千紗ちゃんの家まで歩いて行ける距離じゃないよ」
 「でも……」
 「帰りたいなら俺が車で送るから」
 私は小さく頷いた。それが今一番早く家へと辿り着ける方法だと思ったから。


 「なに、これ」
 家に着いて彼の部屋へ真っ先に向かうと、私は思わずそう声をもらしてしまう。誰も家にいないというのに。
 『千紗ちゃんへ。一週間お世話になりました。それから、嘘つきと言ってしまって本当にごめんなさい。許してほしいとは言いません。だけど一つだけ言わせてください』
 ぽつんと置かれた学習机には手紙と、封筒が並んでいて。そして手紙の最後には。
 『ありがとう』
 シンプルな、これまでの彼の口から何度も聴いてきた言葉が添えられていた。まっすぐな長方形であるはずの便せんがぐにゃぐにゃに曲がっていく。雨ではないしょっぱい雫が頬を伝った。そして力いっぱい足を動かして部屋を、この家を飛び出そうとする。だけど私をここまで送り届けてくれた海人くんが、それを許さなかった。
 「落ち着いて。どうしたの?」
 「真汐くんが……いなくなっちゃった」
 子どものように私は泣いた。伝えたいこと、話したいことがたくさんあったのに。
 ひどいことを言ってしまったこと、私も謝りたかったのに。でも、それはもう叶わない。彼はもうこの時代にはいないから。遠い海の彼方へと旅立ってしまったんだ。
 雨は屋根をドラムのように激しく叩き始める。その雨のように、私の瞳からはとめどなく雫が降りしきった。