「はい、では今日の講義はここまで。皆さんお疲れ様です」
 担任の先生のそんな声と共に教室は活気に包まれる。今まで勉強によって奪われていた自由を取り返したかのように。だけど次の先生の言葉によって、騒ぎ立てていた生徒たちは再び静寂のヴェールを被る。
 「高校生活も残り半分。二年生の皆さんにとっては、進路実現に向けて動き出す大切な時期でもあります。そこで皆さんには進路希望調査書を提出して頂きます」
 教卓に置いていた紙の束を一度トントン揃えてから、それをひらひらとさせ、前列の席に座る生徒たちに手渡していく。それを後ろへ回す途中に私も受け取る。最後に配った列の一番後ろの席に座る生徒がそれを受け取ったのを見て、先生は再び口を開く。
 「提出期限は一週間後の金曜日です。期限厳守でお願いします。以上下校してください」
 そう言い残して、先生は教室の向こうの廊下へと姿を消す。話は終わったはずなのに、さっきと違って教室は静かなままだった。時間が経つにつれて、それも崩れていったけれど。
 「千紗ちゃんはどうするの、進路?」
 教室もさっきと同じくらいの活気が戻ってきた頃、すぐ隣でそんな声が注がれる。
 先生から配られたそれを凝視していた私は、視線をなんとか隣にスライドさせた。
 小嶋美波。小嶋美波(こじまみなみ)高校で仲良くなった私の友だち。彼女はまるで昭和の時代からタイムスリップしてきたかのような風貌をしている。大きめの黒縁メガネに綺麗に結ばれたおさげが特に。だけど小柄で、困り眉な彼女は同時に優しさも滲み出ていて。
 「う~ん、そうだね……。全く考えたことがないっていったら嘘になるんだけど、今はまだわからないかな」
 こんな調子だと絶対に決まらないことは自分でもわかっている。今までがそうだったから。だけど高校生も半分が終わり、いよいよ進路については本格的に考えなければならない。
 一週間。今まで考えても決められなかったことが、そんな短い期間で決められるはずない。でもなぁ。あの先生、期限過ぎると鬼のように怖いで有名だし。普通に終わった……。
 「私はね、将来高校の教師になりたくて。でも地元から離れるのは不安だから、近くの大学の教育学部を考えてるの」
 「えっ、そうなの?」
 知らなかった。いつも一緒にいる友だちが、私とは違ってちゃんと進路のことを考えていることに。そう遠くない未来のことを。
 私は机の上に突っ伏す。自分だけ置いて行かれた気持ちになって。背中が一か所温かくなる。撫でられることによって、その範囲は大きくなっていく。
 「美波ちゃんはすごいね」
 「全然。私もつい最近決めたことだもん」
 「それでもすごいよ。だって決めたら、もうあとはその夢に向かって走るだけでしょ」
 「それが一番大変なんだけどね」
 「確かに」
 それじゃあ、進路も決まっていない私は、たとえ決まったとしても実現不可能かもしれない。突っ伏しているせいで真っ暗になっている視界が、私をますますそんな暗い気持ちにさせる。
 「千紗ちゃんもすぐに見つかるよ、夢」
 その一言は最大限の慰めの言葉なはずなのに、進路が決まったという余裕から生まれた戯言のようにも聞こえた。
 
 
 
 「千紗ちゃん、ばいばい」
 満面の笑みで手を振る美波ちゃんに、私も手を振る。彼女よりも小さい振りで。
 せっかく仲良くなれたのに、お互いの家が全くの真逆で二人してショックを受けていたのを今でも覚えているほどに。でも今日は、それでよかったなと思った。
 一緒に帰っていたら、彼女を傷つけていたかもしれないから。進路の決まっている彼女の言葉が、私への当てつけのように感じて。だから、これでいいんだ。
 突き当りのところまで歩いていくと、私は家へと届けてくれるバス停に向かうと見せかけて、くるっと方向転換する。ちなみに私はいつもそうする。
 先にはお城の塀のようにそびえ立つ砂防林。その先に広がる風景を私は知っている。それを眺めるためにいつも学校の終わりはまっすぐに帰らない。
 重かった足取りは、その存在に引き寄せられるように軽くなっていく。今日の出来事を、ほんの少しでも忘れるために。


 夏の林の中だというのに、蝉の声が一瞬たりとも聞こえてこない。まるで授業中の教室のように。
 天候の問題なのかなと思い、私は四角い電子機器に電源を入れる。多分誰もがインストールしているアプリをタップしてみると、私は顔をしかめた。午後から大雨になるらしい。
 電子機器の端に視線を移す。災難なことに今は正午。いつ嵐になってもおかしくない。
 私は盛大にため息を漏らす。あそこに行けないのだと思って。だけど今日に限って色々なものを抱えている私がこのまま帰ったら、孤独な家の中で延々と悩み苦しむことになるだろう。
 私はそれを鞄の中にしまって、再び歩き出す。もちろん砂防林の向こう側の風景を眺めるために。
 踏みしめるたび、柔らかい地面が私の足を受け止める。立ち止まって大きく息を吸うと、汐の香りが鼻をくすぐった。
 目の前にはどこまでも果てしなく続く海。大航海時代に船乗りたちが、冒険に憧れを持つのもわかるくらいに。
 もうすぐ大雨になるから、当然人はいない。それが余計に私の心を和ませる。夏らしくない少し冷めた風がなおさら。
 だけどふいに目線を横にずらした途端、その心地よさは消え去った。きれいさっぱりに。
 「えっ、嘘……」
 一人でそう呟くほどに仰天した。
 私の視界に映るもの。波打ち際辺りに倒れる大きな流木のそばに人が……。
 今日の気候も相まって、鳥肌が立つ。腕をこすってなんとか温めようとするも、寒さは消えなくて。
 人が倒れているところを、このとき私は初めて目撃した。


 ごろごろと空が地上の生き物を驚かせる。その空模様はまさに今の私の感情そのものだった。正直怖くてたまらない。だけどなぜか、足がその人の方へと動いた。好奇心という名の感情が邪魔をして。
 やがてその人の外見の情報を認識できるくらいに、私は近づいてしまった。細くて長い身体。年は見たところ同じくらい。固く閉ざされた瞳。触れたら柔らかそうな眉まで伸びる前髪。ワイシャツの袖から伸びる肌は、絹を思わせるくらいに白くて綺麗だった。そして微妙に上下する胸板。
 私はほっとした。息があるってことは、生きていることの何よりの証拠だから。
 見るからに多分男の人。寝顔でもわかるくらいに綺麗な顔立ちをしている。つい凝視してしまう。
 すると固く閉ざされていたはずの瞳が一瞬和らいだ気がした。ううん。気がしたじゃない。
 彼の視界に映る前に、私は退散しようと走り出した。だけど砂浜の柔らかな足場が、それを妨げる。
 「あっ」
 着地した右足がずれて、思わず盛大に転んでしまう。膝と咄嗟についた手を見て、胸を撫で下ろす。どうやら怪我はなさそう。パンパンと制服に付着した砂を払い落としていると。
 「大丈夫?」
 肩がビクッと震える。転んだことで頭がいっぱいで、私は忘れていた。
 面倒なことになるかもしれないとはいえ、心配する声を無視するのは人としてよくない。
 ゆっくり。ゆっくりと振り返る。完全に振り向いたその瞬間、汐の香りが強くなった気がした。
 体が動かない。指の一本さえも。時間が止まるとはまさにこのことだと、私は思った。
 大きく透き通った瞳がじっと私を見つめていた。まるで王子様のような瞳。くっきりと浮かび上がる二重まぶたがそれを際立たせている。
 「今って何年……ですか?」
 「えっ?」
 一瞬なんのことなのかわからなくて。えっと西暦のことかな。
 「今年は2025年です……」
 もしかしたら水難事故かなにかで、記憶を失っているかもしれない。こんな時にこんな場所で倒れていたから、その可能性はかなり高いと思う、って……。
 彼の方をみると、動きかけていた時間が再び止まった。だって。
 「どうして泣いてる、んですか?」
 彼の綺麗な瞳から、それ以上に綺麗な雫が頬を伝っていたから。まるで液体になった宝石のように。
 視線を落としてそのまま海の方を向いたかと思えば、今度は砂防林のほうを見つめていて。そうして一通り辺りを見回し終えたのか、また私のほうに彼は視線を戻した。口を開いては閉じてを繰り返し、それから彼は信じられないことを口にした。
 「僕……戦時中の時代から、やって来たんです」
 途切れ途切れに、だけど確かに目の前の彼はそう答えた。


 「信じ、られないですよね」
 空の怒号によってかすれがすれにしか聞こえないほどの小さな声。綺麗な黒目はわずかに海のほうへとずらして。
 「行く当てはあるの?」
 ありえない話に頭は白波のように真っ白になった。到底信じられないこと。タイムスリップなんて、物語の世界でしか聴いたことがなかったから。だけど、どうしてかそんな不信感より大きな、自分にもわからない感情が渦巻いて。
 目を閉じて首を横に振る彼。きっとそれは当然のこと。戦時中は今からずっと昔の話。そんな時代からやって来たというのだから、知っている人はいなくてあたりまえのことだと思う。
 もうすぐ嵐がくる。今目の前で起きていることをなにも信じないでそのまま帰路につけば、彼はきっと……。
 「よかったら……私の家に来ます、か?」
 気づけばそう口にしていた。
 「えっ、でも……」
 「もうすぐ嵐が来ちゃうので」
 渋る彼の一押しまでした。そうしてでも私は彼を助けたかった。見ず知らずの男性を家にあげるなんて、はたからみれば危険極まりない行為。そんなのはわかっている。だけど、怪しいと思ってもなお。
 「……ほんとにいいの?」
 不安そうに見つめる涙によって潤った瞳。その目に語りかけるように、ゆっくりと私は頷いた。
 正直この決断に一番驚いているのは、いつも面倒ごとを極力避けてきた自分自身。だから今回だって避けようと思えばいくらでもそうすることはできた。でも。
 「立てる?」
 手を差し伸べて、彼を徐々に立たせた。手を離しても倒れなくて、自力で立てることに安心する。それから一歩踏み出し、私に近づけた彼に「ゆっくり歩くから、焦らないでついてきてね」と呼びかけた。
 砂防林のほうへと向かっていく途中、何度も振り返りながら、彼がついてきているのを確認できるとまた一安心する。
 助けたい。どこから湧いているかわからないそんな想いが、時々空の上を走る稲光によって眩しく照らされた。


 家の近くまで運んでくれるバスがちょうど停留所にやってきて、私たちは乗り込んだ。
 バス内はかなり空いていて、一人用の席か二人用の席のどちらに座ろうか私は悩む。彼から聴きたいことは山ほどあるけれど、かといってついさっき知り合った、しかも男性と隣に座るのはどうしても躊躇ってしまう。
 「えっと、先に座ってもいい、ですか?」
 「あっ、うん。ごめん、なさい……」
 私があたふたしている間に彼は一人用の席に腰を下ろした。気を遣ってくれたんだ。隣同士になって私が戸惑わないように。話は聴けないけれど、彼が優しい人なんだなと知ることができた瞬間だった。
 「あの」
 私もその流れで一人用の席に座ろうとしたとき、ふいに彼に呼び止められる。
 「どうしたの?」
 視線を下に落とした彼はなにかを考えているようで。そして思いついたのか、視線が上がって私のと交わる。
 「なにか、紙とか持ってますか? ノートとかメモ帳とか」
 「持ってるけどそれが……。あっ、そっか。そういうことか」
 彼が言おうとしていることが理解できた私は一言ありがとう、と伝えて彼の前の席に座った。一人用の席に座った上に、私に彼のことを知る手立てまで用意してくれるだなんて。物語の中のタイムスリップをする登場人物は皆極端な性格を持っているイメージがあった。だけどバスの中という状況を理解した上で私語を使わない情報共有を提案した彼は、その類に含まれない誠実さと常識を兼ね備えた人物で、私の中のタイムスリーパーのイメージが大きく覆った。
 通学用のリュックサックから今日の講義で使ったノートを取り出す最中、バスが揺れを伴いながらも走り始めた。
 


 後ろの席から返ってきたノートにはいくつかの情報が上書きされていた。どこかで見たことがあるような少し角ばった文字。
 あのあとノートとペンを取り出した私は、後ろの席にいる彼にそれを渡していた。もちろん、私が山々に聴きたい彼の情報を得るために。だけどそこに書かれていたのは、私が想像してたよりも少ない数の文字。決して山々ではない。
 『戦時中からやってきました。名前は真汐と言います。誕生日はまだ来ていないので、今は十六歳です。よろしくお願いします』
 転校生の挨拶みたいな文面。本当に必要最低限の情報しか載ってなくて、バスの中だというのに少し笑いそうになってしまった。どうやってタイムスリップしたのか、戦時中といっても具体的に西暦何年からやってきたのか、そういうのが聴きたかったけれど、無理に聴き出すのも悪い気がする。私もそうだけど、人は誰かに話したくないことがたくさんあるから。
 真汐。戦時中にしてははいからな名前で、だけどあの容姿にはぴったりだとも思う。あっ。
 ふと私は大事なことに気づいた。とっても重要なこと。彼がこの時代で生きていく上で。
 彼の自己紹介文の下に私は文字を繋げる。そして再びノートを後ろの彼へと回した。
 『ここは戦時中よりも遥か未来の時代です。身の回りのことでわからないことがたくさんあると思いますが、そのたびに迷わず私に聴いてください。あっ、私の名前は千紗で、誕生日はもう来たので17歳です』
 ノートにはそう綴った。随分と堅苦しい文面になってしまい、彼の文をどうこう言える立場でない、とさっきまでの自分に怒られそう。だけどこれで彼の、この時代に対する戸惑いが少しでも減ってくれれば。そう思いたい。
 「まもなく……」
 私が降りる停留所名がアナウンスされる。バスカードを手にとった私はまさに今、彼にとってのわからないことが起きていることに気づく。お財布をリュックサックから取り出し、必要な分の小銭を指で摘んで、さっきのノートを回すように後ろへと渡した。
 タイムスリップしてきたのなら、そもそもお財布を持ってきているか怪しいし、持っていたとしても戦時中の小銭が使えるはずもない。
 バスが止まる少し前に立ち上がると、後ろの彼も同じように立って、運転席へと近づく。
 今では大多数の人がバスカードで支払いを済ませるから、後ろで並んでいた彼が運転席の箱に小銭を入れる音は、新鮮な響きで耳の中を弾ませた。


 バスからアスファルトへと降り立つと、私は絶望した。有能な電子機器の言うとおり、天気予報が現実になったのを目の当たりにしてしまったから。
 残念ながら普通の傘は持ってきてなくて、見るからに彼も同じで。だとすると、これしか。いや、それだと私と彼が……。どうしよう。
 時間が経つにつれて雨脚も強くなり、それが私の決断を急かしているように思えてくる。はぁ、仕方ないかぁ……。
 リュックサックをまたごそごそとし始め、目当てのものを取り出す。
 「折り畳み傘で一緒に帰りませんか?」
 大胆な発言に自分が恥ずかしくなって、つい視線を逸らしながらになってしまう。だけど他に方法が思いつかなくて。
 「大丈夫ですか? もしだったら、お手数かけてしまうかもしれませんが、千紗さんが一度家に戻ってから傘をもう一本持ってこのバス停に来るのはどうですか?」
 初対面の、しかもかなり容姿のいい男性に下の名前で呼ばれて、一瞬だけ心臓が変な音で刻んだのを感じた。
 「それって、真汐さんがここで待つということですか?」
 こくりと頷く彼。確かにそのほうが私と彼にはいいのかもしれない。多少彼にはここで待ってもらう必要があるけれど。
 「わかりました。じゃあ、いってきます」
 折り畳み傘を広げて、私は停留所をあとにする。地面よりも傘は雨粒をうるさく弾くから、彼と仮に相合傘をしても、まともな会話ができなかっただろうなと思いながら、一人家へと向かった。


 不安だった。もしかしたら私が傘を取りに行っている間に彼が最寄りの停留所から消えているかもしれないって。突然現れたから、突然いなくなってしまうかもと。
 だけど停留所の屋根の下にいる人物を見つけて、私はほっと胸を撫で下ろす。しとしとと屋根から滴り落ちる雨粒と容姿のいい彼の姿は、絵になるほどに幻想的だった。
 近くまで行くと、彼が私に気づいて視線を向けてくれる。そして。
 「ありがとう。本当にごめんなさい。わざわざ傘を取りに行かせてしまって」
 私は慌てて首を横に振った。だって、それも彼の気遣いから生まれた提案だと思ったから。
 家にあった青を基調とした傘を彼に差し出す。
 「ありがとう」
 控えめな笑みを浮かべる彼に、私も自然と頬をが緩んだ。それから海岸のときと同じように、先導して歩こうとすると。
 「あの、話し方はこんな感じにしますか?」
 「話し方? あぁ!」
 後ろを振り返ると、彼が視線を下ろしていた。これは彼が考え事をしているときのサイン。そして視線を上げる。これは彼が考えをまとめたときのサイン。まだわずかな時間しか一緒にいないけれど、不審なところがないか注意していたからか、なんとなく彼のことをわかってきた気がする。
 「会話をする機会はこの先たくさんあると思いますから、できれば敬語ではなく普通に会話をしたいなと思いまして」
 確かに。家にあげるということは、それだけ必要な会話も増えるということ。それなら。
 「そうですね。では、敬語はなしにしましょう」
 「千紗さん、そういっておきながら敬語直ってないですよ」
 「ちょっと。そういう真汐さんも敬語直ってないですよ」
 お互い指摘し合って、同時に笑う。笑いが空に届いたのか、雨脚が少しだけ弱まった気がした。


 「名前はどうする? 敬語で話さないなら、さん付けも固いよね」
 雨が弱まったことで傘に弾く雨粒の音が小さくなり、意識すれば声も通った。さっき笑い合ったおかげで敬語も外すことに成功できた。
 「でも呼び捨てもね。僕そもそも呼び捨てで人のこと呼んだことないんだけど」
 「私も同じだよ」
 お母さんやお父さんを呼び捨てにはもちろんしないし、美波ちゃんもちゃん付けしてるし。あっ、じゃあ。
 「真汐くんで、どうかな?」
 呼び捨てじゃなくて、でも堅苦しくないからいいと思ったんだけど。
 「うん、いいと思う。えっと、千紗さん」
 「だから違うよ。ちゃんとちゃん付けして、真汐さんって……」
 さっきとまったく同じ流れになって、どっちからともなく笑った。そうこうしているうちに家は姿を現し。
 傘をぱたぱたさせ、家の中に入ると、ちょうどお風呂のお湯が沸きました、とアナウンスが聞こえてきた。
 「あれ、入らないの?」
 玄関の扉を閉めようと振り返ったら、彼はまだ外にいて家の様子をキョロキョロと見回していて。
 それもそうだよね。戦時中とはまったく異なる家の造りに、彼が驚かないはずがない。
 その様子をみていたら、彼がこちらに気づいて慌てて家の中へと入ってきた。
 「ごめん。つい集中しちゃって」
 「ううんいいよ、全然。それよりちょうどお湯が沸いたから、先に入る?」
 「あっ、いや。でもそっか」
 砂で所々茶色くなっているワイシャツをみて、今やっと自分が汚れていることに気づいたのか、彼の言葉が詰まって。
 「やっぱり先に入ろうかな」
 汚れた箇所を指でなぞる彼。このままお風呂に入らなければ、部屋が汚れてしまうと悟ってくれたんだ。
 「お風呂はまっすぐ行けばあるよ」
 「ありがとう、千紗ちゃん」
 千紗ちゃん。付き合ったことがないのはもちろん、異性との交流をほとんどしてこなかった私にとって、男性から名前を呼ばれることはすごく特別で、つい反応してしまう。
 私が思っていることなんてつゆ知らず、会釈をすると、彼はそのままお風呂場へと向かって行った。あっ、そうだ。
 私は一階の奥にある普段は足を踏み入れない部屋へと向かう。生まれてからずっとこの家に住んでいるけれど、その部屋には数えるほどしか行ったことがない。
 部屋の扉を開けると、私は真っ先にタンスのほうへ歩いていく。彼の、真汐くんの着替えるものを探すために。
 いくら彼が細身でも私やお母さんの服は入らないから、この部屋の主であるお父さんの部屋着を借りるしかなかったのだ。だけど引っ張り出す服は、どれもふくよかなお父さんにしかぴったりフィットしないものばかり。どうにかマシそうな服を選んだ私は、引っ張り出して散らかしてしまった服を畳んで元通り棚に納めた。
 まだ彼のサイズに合いそうな服を脱衣所まで持っていくと、ふいに緊張が走る。脱衣所とお風呂場を仕切る戸の向こうに服を着ていない彼がいると思うと。籠が視界に入ると、すぐさま私は持ってきた服をその中に入れ、ばたばたと音を立てながら脱衣所をあとにした。


 リビングにつけば、ふぅと自然と息が漏れ出た。私が提案したことだけれど、タイムスリーパーとはいえ同年代の男性がひとつ屋根の下にいると心臓が持たない。
 少し疲れた体を癒すために、リビングに配置されているソファに全体重を預けた。目を閉じて、さっきまでの出来事を思い浮かべる。今は彼がいないから、これまでのが全部夢だったじゃないかと思ってしまう。だけどそれは夢じゃないと、時折お風呂場から届くシャワーの音が伝えた。
 彼は何者なのだろう。時間を越えたといってもどうやって? なにか目的があるのかな?
 挙げていけばきりがないほどに浮かぶ彼の謎。気になる。だけどそれを聴く勇気が、まだ私にはなくて。
 そして謎は彼のことだけじゃない。衝動的にあの時、どうして私は彼を助けたのか。すごいおかしなことだけど、その真意を自分自身が一番わかっていない。
 悶々と謎を頭の中で彷徨わせているうち、シャワーの音が遠くなっていって……。


 「お風呂上がったよ」
 その声にハッと目が覚める。いつの間に寝てしまっていたみたい。どれくらい寝てたんだろう。寝る前に時計は見てないし。そもそも寝るつもりはなかったのに。
 タオルで髪を拭きながら、彼はリビングにやってきた。どうやら、まだ上がってきたばっかりのよう。それなら時間も経ってはなさそうでほっとする。
 やっぱりお父さんの服は、彼には大きかったみたい。余分な服の布が垂れ下がってしまっている。
 「ごめんね。大人の男性って、私の家にはお父さんしかいなくて」
 「全然。むしろ着やすくていいよ!」
 Tシャツの裾をぴっと引っ張って控えめに笑う彼。真っ白なタオルで彼は今も濡れた髪を拭いている。そうだ。
 「あの、真汐くんはドライヤーってわかる? 髪を乾かす道具のことなんだけど」
 彼にとって、この家にある大半の物は未知の産物だと思うから。戦時中にどんな道具が使われていたのかなんてわからないけれど、多分ドライヤーはなかったはず。だけど彼は予想に反して。
 「わかるよ。大丈夫」
 「ほんとに? 使い方も大丈夫?」
 半信半疑だった。ただドライヤーをかけるだけでもコンセントを挿したり、電源を入れたりしなければ使えない。現代人ならそれらの工程はものの一瞬で済ませられるけれど、これを知らない過去の人が使うには難しいと思う。それでも。
 「大丈夫大丈夫!」
 人を安心させる言葉を連呼して、自信満々な表情を浮かべる。
 「そこまで言うなら……。でもわからなかったらすぐ呼んで?」
 不安だけれど、自信に溢れた彼を信じてみようと。ドライヤーの場所だけ教えて、私は再びソファに腰を下ろした。すると自信があっただけに、ふわぁと耳に優しい風の音が聞こえて。
 ちゃんと使えたことに一安心すると同時に、彼の臨機応変さに感心した。知らない道具のはずなのにすごい。
 ドライヤーの音は心地いいけれど、それだけ聞いてても退屈だから、私はソファの前にあるテーブルの上のリモコンでなんとなくテレビを点けてみた。
 するとそこには見慣れない白黒の映像があった。我が家のテレビが白黒テレビになったようで、一瞬だけ昭和の時代へタイムスリップした気分になる。彼とは逆バージョンだ。
 画質が荒くて見えづらいところもあるけれど、戦車らしきものや軍服を着た人たちが見える。画面の端には戦後八十周年という肩書。
 それを観た途端、腕に鳥肌が立つような寒気を感じた。その映像を目で追うたびに。画面に映されているのは間違いなく、人々の殺し合い。現代を生きる私たちには決して理解できない世界。
 ううん。一人だけいる。この時代にそんな世界のことを知っている人が。
 今頃、温かい風を頭上から浴びている彼しか、そのことは知らない。あの白黒の世界のような生活を彼は送ってきたのだろうか。
 ああ、また気になってきてしまった。彼を取り巻く謎のことを。
 人の頭って一度に色んなことを考えると、疲れて休むことを無意識に選んでしまうのだろうか。きっとそうなのだと思う。
 だってまた周囲の音が小さくなっていってるのだから。


 「千紗ちゃん起きて」
 彼の呼びかけでまたも眠ってしまっていたことに気づく。さっきまでテレビを観ていて、彼のことを……。
 血の気が引くのを感じる。私、テレビを消した記憶がなくて。画面には戦時中の映像が。それを彼が観てしまったら、色々とまずい。日本が負けてしまう事実を知ることになるし、なにより戦時中の辛い記憶を彼に強く思い出させることになるし。
 「あっ、料理番組やってる」
 「料理番組?」
 さっきまでは戦争のドキュメンタリー番組が放送されていたはず。だけど彼が指さした方向には、確かに中年の女性二人がそうめんのアレンジ料理を作っている画面が映し出されていて。あの番組、終わってたんだ。私は胸を撫で下ろして、画面に目を奪われている彼のほうを見る。
 「料理美味しそう」
 そうめんのアレンジ料理を見る彼は目を輝かせていて、まるで小さな子どものよう。そのときぐぅという音が部屋の空気を震わせた。
 「今の、真汐くんのお腹の声?」
 すると顔を少し赤くして、視線を泳がせながらゆっくりと頷いた。
 「だって、すごい美味しそうだったんだもん」
 「確かに。じゃあ、ごはんにしよっか」
 

 とんとんと具材を切っていると。
 「……僕も手伝っていいかな?」
 「料理できるの?」
 「うん。最近はあんまりなかったけど、結構家のお手伝いとかしてたんだよ」
 「そうなんだ。じゃあ、お願いしようかな」
 なんだか意外。昔の男の人って料理しなさそうだなと思ってたから。男性は外、女性は家みたいなイメージが強くて。
 台所に行くと、まな板の上には切りかけのジャガイモが散乱していた。
 「ねぇ、何作ろうとしてたの? コロッケ? ポテトサラダ?」
 「シチューだよ」
 「シチュー……」
 「もしかして苦手?」
 彼が視線を落として沈んだ表情をしていたから。違うの作ろうかと言おうとしたら、彼は首を強く横に振った。
 「シチュー大好物だよ。だから早く作ろ!」
 明るい声を放って、彼はジャガイモを切り始めた。鼻歌が聞こえてきそうなくらいに楽しく。
 

 「いただきます」
 すると目の前に座る彼はすぐさま銀色のスプーンを片手に、シチューをもりもり食べていく。主食に添えた食パンをちぎって、それに浸しながら。
 年頃の男の子ってこんなに食べるのかなと思いながら、私もスプーンでそれをすくって口に入れる。
 「あっ、美味しい!」
 思わず、口からそう言ってしまうほどに、シチューの出来上がりは最高だった。大袈裟じゃなくて、今まで食べてきたシチューの中で一番美味しい。
 「ほんと?」
 真汐くんがキラキラした目で私を見てきた。とても嬉しそうに。
 「うん。真汐くんが言ってたとおりチーズでコクが増してて。今度自分で作るとき試してみるよ」
 「よかった。僕も初めて食べたよ。じゃがいも入りのシチュー」
 「え? シチューってじゃがいもも普通に入ってるでしょ?」
 真汐くんの家庭のシチューはだいぶ変わってるみたい。チーズを隠し味に使ったかと思えば、じゃがいもは入っていないなんて。
 「ごちそうさまでした」
 私がまだ食べている最中で、彼が手を合わせた。一応二人前を作ったつもりだけど、男性の彼には少なかったのかもしれない。
 「ごめん。全然足りなかったよね」
 身体が細いからあまり食べないと思っていたけれど、高校生って男の人が一番成長する時期だよね? そんな大切な時期真っ只中の彼に私と同じ量のごはんを与えてしまうなんて。
 「謝らないで。むしろこんなに食べた気したの、久しぶりだったから」
 伏せていた目を上げると、向かいにいる彼がそれほど膨れていないお腹の上に円を描くように手を回していた。これはお腹いっぱいってことで解釈してもいいのかな? でも。
 「ほんとにいいの? 足りないなら、なにか作るよ?」
 食パンや冷凍されたごはんだってあるし。作るのは面倒だけど、簡単な料理ならどうにでもなる。
 「ほんとに大丈夫だから。それに僕慣れっこだし。空腹には」
 「あっ」
 そうだった。こうして普通に一緒にごはんを食べていると、忘れてしまう。彼が戦時中からやって来た不思議な存在だということを。そして一つわかった。彼は食べ物に困るほどの生活をあの時代では送っていたってこと。
 「ただいま」
 なんとなく暗い雰囲気になっていた中、それを消すような明るい声が我が家に響く。その主を私は知っている。だけど、どうしてこんなに早く。
 リビングの扉を開けたその人は、「千紗、今日は早く帰ってこられたよ」と私まっしぐらに歩いて抱き締めた。く……。
 「苦しいよ、お母さん」
 締めつけられて今胃袋に滑らせた麺が出てきそう。すると体にかけられた力は解かれて。
 「ごめん。今日ほんとは休暇をとってた看護師が出勤してね。それで急遽私が午後にお休みを頂けて」
 お母さんは看護師さん。平日はもちろん休日も出勤するから、一緒にいられることは少なくて。だからこそ、こうして早く帰ってきてくれたときは。
 「嬉しい、とっても。早く帰ってきてくれて」
 自然と笑みがこぼれる。だけどお母さんが私じゃないほうに視線を移すと。
 「えっと、どちら様?」
 「あっ……」
 お母さんの早い帰宅が嬉しすぎて大事なことをすっかり忘れてた。えっと、どう説明すればいいんだ……。
 タイムスリップしてきた男の子をとりあえず保護してます、なんて絶対信じてもらえないだろうし……。すると彼が一歩お母さんに近づいた。
 「初めまして、真汐と申します。あ、あのいつも千紗さんには仲良くしてもらってて……」
 ありもしないことを話したかと思えば、彼は言葉に詰まってしまう。そっか、彼は自然に話を進めようと。それなら私も。
 「えっとね、お母さん。実は、彼の両親が実家に帰省してて。だけど彼は高校の補講があるから一緒には行けなくて。だから、補講が終わるまで私の家に泊まったらって思わず誘っちゃったんだ」
 うん、我ながらよくできた設定。果たしてその嘘がお母さんに通じるかどうか……。
 「えっ。千紗って男の子の友だちいたの? あっ、友だちじゃなくて……」
 「お母さんそれ以上言わないで」
 両手を振ってなんとか彼女の口を止める。お母さん、絶対変な勘違いしているから。
 うんうんと頷いたあと彼女は「そっか。そんな事情があるなら、綺麗な家じゃないけど好きに使って」と笑みを浮かべる。
 「そんなにあっさり承諾してくれるの?」
 いい出来の設定だとは思ったけれど、一つくらいなにか突っ込まれると思ってたから。
 「まぁ、お母さんあんまり家に帰ってこないから、住人が一人増えても別に問題ないし。千紗がそうしたいなら好きにしていいよ」
 「ありがとうございます」
 そう言ったのは私ではなく、真汐くんのほう。視線を向ければ、礼儀正しくペコリと彼は頭を下げていて、さっきも感じた誠実さが滲み出ていた。
 「す、すごい真面目な子だね。よし、早く帰ってきたことだし、今晩は贅沢なものでも食べよっか! 家族も一人増えたことだし」
 「ありがとう」
 私も彼に倣ってぺこりと頭を下げた。顔を上げればお母さんは微笑んでいて。だけどなにかを思い出したようにお母さんはあっ、と声をもらした。
 「どうしたの?」
 「お部屋、どうしよう。真汐くん、しばらく泊まるんでしょ?」
 「あ、はい。でも部屋なんて、泊めて頂けるだけでもありがたいのに」
 首を横に振って断ろうとする真汐くん。だけど部屋がないのはなんだか申し訳ないし、なにより突然タイムスリップしてきて混乱している彼が一人落ち着ける場所は必要だと思う。
 「そんなわけにはいかないよ。そうねぇ。あっ」
 いいことを思いついたといった明るい表情をお母さんは浮かべる。
 「二階に二つ部屋があって、一つは千紗のでもう一つは物置部屋なんだけど」
 「でもあそこ、物が多すぎるよ」
 それは私も考えた。だけど物が多すぎて、片付けるのに一日はかかると推測できるほど。
 「そうだよねぇ。今からやるのも大変だろうし。じゃあ明日掃除して、だけどそしたら今日は……」
 「全然いいですよ。迷惑でなければソファで寝ますから」
 「いいの?」
 確認するようにお母さんが聞くと、彼は愛想のよい笑みを浮かべた。するとお母さんも笑って。
 「本当にごめんね。あ、でも明日私いないかったんだ。どうしよう、自分で言っておいてやらないなんて」
 「お母さん、私が掃除するよ。明日は休日で夏期講習もないから」
 夏期講習がないということは、一日すべてを掃除に費やせるということ。それに彼を連れて来たのは私。だからちゃんと責任もって掃除もしないと。
 「でも、重たい物もあるから、一人だと心配だよ」
 眉根を下げて、本当に心配そうにするお母さん。そんなに頼りないのかな……私。
 「もちろん僕もやりますから。自分の部屋になる場所なので」
 「そ、そっか。本当にごめんね、仕事で手伝えなくて」
 ごめんと言うように手を合わせたお母さんは「じゃあ、美味しいもの作らないと」と台所へ向かった。
 お母さんの姿が見えなくなると、ふぅと息をつけた。その音がより大きく聞こえたから、私じゃない彼も息を吐いたんだと思う。
 「なんとか誤魔化せたね。ありがとう、嘘をついてくれて」
 いたずらをした子どものように彼は笑う。よかった。これで彼がこの時代で途方に暮れることがなさそうで。
 未だにどうして私が彼を助けたのかわからなかったけれど、不思議なことに後悔はしていなかった。