──結局、今日も来なかった。

 あれから吏那が美術室を訪れたことは一度もない。

 別に約束してるわけでもなく、本当に不注意で教科書とノートを落としただけかもしれない。

 ただ吏那の目が、誰かに……俺に助けを求めていたような気がしたなんて。

 「──俺は馬鹿か」

 思い上がりも甚だしい。

 俺には関係ない。

 考えても仕方のないこと。

 脳内で言い聞かせ、放課後になり、いつものように逸早く教室を出ようとする。

 「椎名っちー! 今日もバイトかー?」

 各務が俺の背中に声を放ってきた。

 地声が大きいため、教室中に響く。

 「おー。また明日な」

 振り返らずに片手を上げて、廊下に出る。

 校則でバイトは禁止されていて、たまに無断でやっていた生徒が見つかって停学処分を受けていたけれど、俺は学校からバイトの許可をもらえていた。

 母子家庭だからだとか、家庭の所得が少ないからだとか、そんな情けない理由のおかげで。

 「椎名くん、バイバーイ!!」

 「椎名。今、帰りかー?」

 「あー、明日な……」

 かけられる高低さまざまな声色に適当に答える。

 薄情だろうけれど、顔も名前も記憶にかろうじて残っているかどうかの人間ばかりだ。

 「今からカラオケいこうぜー」

 「クーポンあるから、マック行こうよー!」

 廊下を飛び交う浮かれた同級生たちの声が耳障りで仕方なかった。

 明日の食い扶持の心配なんて一度もしたことがなく、保護者に庇護されてここにいるのが当然の権利だと。

 自覚の有無に関わらず全身からにじみ出ているように感じられた。

 古い白スニーカーに履き替え、昇降口から外へと出た。

 すると、校門に向かう生徒たちがちらほらと散らばっている中で一人の女生徒に目が止まる。

 ──吏那だった。

 やましいことでもあるように俯き、肩身が狭そうに小さな歩幅で進んでいる。

 一人で歩く細身な吏那の背中は、下校の風景の中に素直に埋没していた。

 ひとたび風が強く吹けば、ふわりと舞い上がり消えてしまいそうなほど頼りない後ろ姿。

 あれだけ下を向いて歩いていれば、一方的に女好きな各務の可愛い女子レーダーにひっかからないのも無理はない。

 無性に、吏那が遠く見えた。

 話の種もない。

 高校が同じという他に何か繋がりがあるわけでもない。

 吏那はその他大勢の名前も知らない生徒と何ら変わりはないわけであって。

 わけもなくいらついた。

 いや、理由はあるのか?

 吏那に“その他大勢“と同じ分類にされているのが。

 意味不明な思考を放棄し、吏那から視線を外そうとして……させてくれなかった。

 吏那は校門の前に横付けされた黒い高級SUV車の助手席に吸い込まれるように乗り込んだ。

 車の持ち主はハンドルを握る隙のカケラもないスーツ姿の若い大人の男。

 その光景は上質なクラシック映画のワンシーンのように圧倒的に美しかった。