その瞬間、君は世界に対して無防備になる。

 「吏……那ちゃん……」

 「?!」

 椎名先輩のお母さんは倒れたまま目だけをこちらへ向けた。

 力をいれられず、顔を血だまりから上げられないのだろう。

 ぎょろりと目だけが私に向けられた。

 踏み入れた惨状に私は腰のボルトが抜かれたように廊下へしゃがみこんでいた。

 「客の……男に……刺されたの……」

 喉を切られているのか、椎名先輩のお母さんが喋る度にヒュッヒュッと空気の抜ける音がした。

 「……お願い……私はいいから、あの子を……万威を……助けて……」

 「……え……」

 「……万威が吏那ちゃんと……待ち合わせてる場所を……知られている……」

 「……」

 ガタガタと歯が噛み合わない。

 手足の先が痺れて震えが止まらなかった。

 「あのオトコは……私の息子を……万威も……殺すつもりなの……」

 「……え……」

 「……万威をだずげでぇぇ!!」

 今際の絶叫だったのか、椎名先輩のお母さんは事切れたように動かなくなった。

 いつの間に泣いていたのか私の頬は涙に塗れている。

 これは何……?

 私の今、見ている惨い光景は何なんだろう。

 絶えず鼻をつく錆びたにおいは何なんだろう。

 悪い夢……だよね?

 悪夢なんてまだ生易しい。

 一瞬で天から谷底まで叩き落とされる絶望的な現実が目の前に広がっている。

 冗談だろうと思いたい。

 誰か嘘だと言ってほしい。

 じゃあ目の前に広がるこの惨劇は何?

 椎名先輩のお母さんからは生気がなくなっていく。

 血液の湖のうえで肉の塊と変わってしまった。

 きっと死んでしまったのだろう……。

 椎名先輩も殺される……?

 私は生まれたてのバンビのように覚束ない足で立ち、外へ飛び出した。

 やだ。やだ。やだ。

 椎名先輩が殺されるなんてやだ……!

 何で椎名先輩はスマホを持ってないんだろうか……。

 私は全力を更に振り切るように走りながら、110番に電話をかけた。

 椎名先輩の家でお母さんが刺されたこと。

 逃走中の犯人が椎名先輩も狙っていること。

 そして、待ち合わせ場所も……。

 うまく説明できていたかは自分でもわからない。

 警察の人がそれでもうまく私から聞き出そうとしてくれた。

 「お願いです……椎名先輩を助けてください……」

 椎名先輩のお母さんの意思を繋ぐように、ひたすら電話越しに警察の人へ懇願していた。

 なりふり構わずに走って、タクシーに飛び乗り、椎名先輩と待ち合わせしている駅へ向かう。

 椎名先輩を助けて……!

 とにかく、ひたすら、ひたすら、その一心しかなくて。

 椎名先輩を失う恐怖に、周りの景色も音も遮断されている。

 濁流に飲み込まれ、気が動転して冷静な判断なんて出来なくなっていた。

 あれほど一人で出歩くなって言われていたのに……。