椎名先輩に私を好きだと言われた時は、幸せすぎて怖くなった。

 でも、それはすぐに不安に塗りつぶされた。

 いつ嫌われる?
 いつ捨てられる?

 先回りして不安感から逃げたくなった。

 椎名先輩に嫌われたら私は生きていけない自信がある。

 だけど椎名先輩は逃げようとする私を諦めてくれなかった。

 私が睡眠障害だって知っても家にまで来てくれて好きだと言ってくれた。

 憧れていた好きだった人が、ずっと遠いと思っていた特別な椎名先輩が私に優しくしてくれる。

 私の名前を呼んでくれる。

 話しかけたら私に返してくれる。

 キスをしてくれる。

 こんな幸せって、きっと他にもうない。

 浮かれたくなるほど嬉しくて、ドキドキが止まらなくて、胸がいっぱいになって……。

 椎名先輩は私にはもったいなさすぎる。

 でも誰にも渡したくない。

 大好きで、大好きで、大好きで。

 その言葉だけじゃまだ足りなくて。

 この先ずっと椎名先輩の一番近くに居たい。

 椎名先輩が私の傍に居てくれるならどんな罰だって受け取ってみせる。

 もしかしたら私の睡眠障害はその罰の代償なのだろうか。

 「──万威くんの家に行く?」

 運転席のお兄ちゃんが怪訝に一瞥してくる。

 「うん。椎名先輩のお母さんがね、椎名先輩が居ない間に昔のアルバムとか見せてくれるって」

 「いつの間に吏那は万威くんの母親と連絡とってたんだよ?」

 「椎名先輩と新宿に行った時、偶然会ったの。
 で、実はこっそり名刺を握らされてて、連絡してみたんだ。
 たぶん椎名先輩は気づいてないと思う」

 「大丈夫なのかよ?」

 「大丈夫だよ! 椎名先輩のお母さんが待ち合わせ場所まで送ってくれるって」

 「あんまり悪く言いたくないけど、万威くんは万威くんで、母親は母親で別人だ。全面的に信じるのはどうかと思うぞ」

 お兄ちゃんは頭がかちこちに固いんだ。

 絶対に今は彼女が居ないからって私に八つ当たりしてる。

 「大丈夫だってば」

 「ま、何かあったらすぐに連絡を寄越せ。それに余り遅くなるなよ。高校生のうちはアイツに体を許すのはまだ早いからな」

 「お兄ちゃんサイッテー!!」

 私は照れたのを隠さずに怒りながら、お兄ちゃんに椎名先輩の家まで送ってもらった。

 椎名先輩の自宅は集合マンションだった。

 503号室、と。

 お兄ちゃんは私がマンションの中に入るまで見届けてくれているようで、まだ車は通りに停まっている。

 私はお兄ちゃんに“ありがとう“と手を振ってから、エレベーターのボタンを押した。

 椎名先輩もこうしてこのエレベーターにいつも乗っているんだ。

 ここでいつも椎名先輩が暮らしているんだと思うと、心音がうるさくなってきた。

 503号室の扉前に立ってインターホンを押す。

 なかなか反応がなくて、もう一度押してみる。

 やっぱり応答がない。

 恐る恐るドアノブを回す。

 鍵がかけられていなくて、あっけなさすぎるくらいにすんなりとドアは開いた。

 「お邪魔します……」

 ゆっくりと扉を開いていく。

 途端に何か変な臭いが鼻孔を襲った。

 鉄みたいな、生理の時の臭いがきつくなったような……。

 「……吏……那ちゃん……」

 「ひっ!!」

 掠れた声で名前を呼ばれ、思わず飛び上がる。

 あの開けられた扉の向こうから……?

 退きたい気持ちを押さえ込んで前に進む。

 廊下を歩くたびに、ぎしぎしと、床が鳴った。

 リビングの様子が視界に入り、言葉を失う。

 想像を絶する光景は目から脳への伝達回路を切断した。

 夥しい量の血溜まりの中に、椎名先輩のお母さんが倒れている。

 はいつくばって動いてきたのか血がカーペットに続いていた。