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 昼休みに訪れた何日かぶりの美術室。

 相変わらず顔料の匂いがきつい部屋だった。

 開放した窓から堂々と忍び込んでくる乾燥した風は肌を切り裂くように冷たい。

 あの5人の台詞を裏付けるように吏那は美術室に来なかった。

 次の日も、また次の日も。

 ここまで会わないと吏那の存在自体が幻だったんじゃないかとさえ思う。

 体の芯が空洞になったような不安定な感覚のまま、時間だけがぶれないで音もなく過ぎ去っていく。

 俺は廊下の窓から木枯らしが吹き荒ぶグラウンドを見下ろしていた。

 これから体育が始まるのか、体を揺すりながら、笑いあって、じゃれあう女子たち。

 吏那は居ない。何処にも。

 いつも俺は無意識で吏那を探していたんだと。

 理屈じゃなく俺の神経細胞から吏那を求めてる。

 「椎名っ!」

 ナミが俺の肩に手を置く。

 俺は返事の代わりに眼球だけナミに向け、すぐに窓へと戻した。

 ナミの溜め息を鼓膜が拾い取る。

 「各務や織原くんが心配してたよ。椎名が前にもまして無気力だって」

 「前からこんなもんだろ」

 あらかじめプログラムが設定されたロボットのように、時間が来れば登校し、授業を受け、バイトに行き、一日が終わる。

 抗いもせず、淡々とそつなく目の前のことを熟す。

 そうだ。俺はこうだったんだ。

 学校は旨味もなければ苦味もない、刺激もない。

 時間の浪費しかしない場所。

 それだけだった。

 「違うよ。……ううん。同じだったけど違った」

 「謎掛けでもしてんのかよ」

 いちいち考えるのも億劫だった。

 「自覚ないかな。紅月さんと会ってからの椎名は前と違ってた」

 ナミの声で吏那の名前が話されると、やはり吏那の存在は幻ではないと現実味を帯びた。

 「椎名万威は大人びててクールでかっこよくて誰のものにもならない」

 「いきなりどうした?」

 「それが文化祭で窓ガラス割って停学くらうわ、紅月さんを好きだって叫んじゃうわで……」

 「……悪かったな」

 「ううん。今のほうが椎名は人気があるんだよ」

 「は?」

 「椎名一人で泥かぶったんでしょ? 自分だけ悪者になって、紅月さんも周りも助けたんでしょ?」

 「……」

 「そういうのがわからないほど、みんなだって馬鹿じゃないよ」

 俺は吏那を助けられていない。

 むしろ長々と学校を休ませるほど追い込んだのかもしれない。

 罪悪感と自己嫌悪が肺を焼く。

 「私だって馬鹿じゃないし……」

 ぼそっとナミが呟く。

 俺に聞いてほしかったのかほしくないのかわからない声だった。

 「ってことで、手を出して」

 ナミは露骨に空元気じみた笑いを浮かべ、俺の手の上に五百円玉をのせた。

 「ミスターコンのポスターに椎名の写真を使ったギャラ。メロンパンおごるって約束したでしょ」

 「多いだろ。どれだけデカいメロンパン買えって言うんだよ」

 「ギャラ安いって文句言われるかと思ったんだけど」