入学二日目の朝、まだ人の少ない早い時間帯。
教室へ続く階段を上っていたら、不意に甘くて爽やかな匂いが鼻腔をくすぐった。

「いい香り……」

その匂いは教室まで続いていて、自ずとその匂いの源を知れそうな状況に、なんだか胸がドキドキする。

「えっ」

「あ」

教室の扉が開いていたから、廊下との境界線を跨ぐ前に目が合った。
一年一組の教室にはたった一人、憧れの人がいた。

「お、おはよう!夏くん!」

まだ呼び慣れない素敵な名前だけど、勇気を出して呼んでみる。

「めぐみ、おはよう」

僕の名前を呼んでくれるその声は、春の晴れやかな朝によく馴染む優しい声だ。

「夏くん、早いね」

一番前の自分の席をすっ飛ばして、夏くんの席に駆け寄った。

「俺も今来たとこ。めぐみも早いね」

「なんか、まだ二日目だから遅刻するの怖くて……早いけど来ちゃったんだ」

ちょっと恥ずかしくて目線を下げたら、ふと、夏くんの鞄の中のあるものが目に入ってしまった。

「それ、」

「ん?」

「あっ、いや、」

私物を勝手に見られたら嫌な気分になるかなぁ、なんて思って、思わず言葉が詰まる。
でも、夏くんは特に気にしていないようで、自らそれを出して見せてくれた。

「これ?」

「っ、うん!それ、最近流行ってるボディミストだよね!」

「……!知ってるの?」

「いつも見てるSNSで流れてきて、ちょっと気になってたんだ」

シンプルでおしゃれなパッケージにまず一目惚れしたけれど、実際に使用した人たちのレビューも高評価だらけで、いよいよ買おうか迷っていたところだった。

「……もしよかったら、つけてみる?」

「えっ!?いいの!?」

二人きりの教室に僕の大きな声が響いてしまって、とっさに手で口を覆ったけれどもう遅い。
じわじわ羞恥心に襲われて、顔が熱くなってしまう。

「ふふ、声大きくてびっくりした」

「あ……」

夏くんが、笑った。
いつものクールな表情もかっこいいけど、笑うとさらにかっこよくて、信じられないくらい魅力的だ。

「はい、手出して」

「っ!う、うん」

手を前に出すと、夏くんはそっと僕の手を取って、手首のところにボディミストをシュッと噴きかけてくれた。

「わぁ……!」

その瞬間、階段からここまで続いていた香りが、僕の目の前でふわっと優しく広がって、世界がぱっと彩られるように感じた。

「どう?」

「すごいや、この香り、すっごく好きだな」

「!ほんと?良かった。フローラル系、俺も好きなんだ」

「へへ、夏くんと好きな香りが一緒だなんて嬉しいな」

夏くんは先ほどよりも口角を上げて、ちょっとごめんね、と僕の後ろに移動する。

「うなじもおすすめだよ」

「ひゃっ」

言葉通りうなじにワンプッシュ噴きかけられて、くすぐったくて高い声が出てしまった。

「ごめん、大丈夫?俺、勝手に、」

夏くんは僕の過剰な反応に対して、心からの心配の色を見せてくれる。
勘違いしてほしくなくて、夏くんにはずっと笑っていてほしくて、咄嗟にぎゅっと手を握ってしまった。

「っ!」

「ちょっとくすぐったかっただけだよ。夏くんと同じ香りになれて、僕、本当に嬉しいんだ。だから……ありがとう、夏くん!」

「……!めぐみ……俺の方こそ、ありがとう」

「えっ?なんで?」

「ぁ、いや……なんでも、だよ」

目線を逸らす夏くんの唇は、今日もほんのり色づいて潤っている。
夏くんと話せてテンションが上がって、僕はいつもより大胆になっているのか、気づけば口を開いていた。

「な、夏くん!夏くんの使ってるリップって、」

そこまで言ったところで、

「「「「きゃ〜〜!!♡」」」」

廊下の方から高い歓声が聞こえた。
声のする方を見ると、おしゃれな女の子たちが目をハートにして、夏くんのことを見つめている。

「!す、すごいね、」

夏くんを見上げると、その表情はいつものクールなものに戻っていた。
モテているのは僕じゃないのに、僕の方がずっと動揺しちゃってるよ。

「えと、じゃあ、僕はこれで……」

「あっ、めぐみ、」

「っ!」

可愛くて素敵な女の子たちがいるのに、僕が夏くんを独り占めしちゃうのは悪いかな、とその場を離れようとしたら、夏くんが優しく僕の手首を掴んできた。

「な、夏くん?」

「もうちょっと、いてよ」

「でも……」

「大勢に囲まれるの、苦手なんだ」

夏くんが溢した言葉が、思っていたよりずっと繊細な不安を含んでいるように感じる。
僕にとって夏くんはまだテレビの向こうの人、みたいな感覚があるから、夏くんの隣にいる現実は現実味を帯びていないけれど……。

「そっか……実は僕も夏くんとまだ話したかったから、もうちょっとここにいていいかな?」

「……!」

夏くんがここにいることは、たしかに現実で。
夏くんが笑ってくれるなら、僕はずっとそばにいたいな。
夏くんが笑ってくれると、僕も笑顔になれるから。

「めーぐみっ!おはよ!」

「うわっ、みっくん!」

「夏もおはよ!」

「湊斗……おはよう」

夏くんの表情から曇りが少し消えたとき、ちょうどみっくんが元気よく登校してきた。
みっくんが来ただけで、僕たちの周りだけじゃなく、教室全体が明るくなった気がする。
ほんとに、太陽みたいだ。

「なになに、楽しそうに何を話してたんだよ」

「夏くんがね、ボディミストをちょっと試しにつけてくれたんだ」

「へー!ぼでぃみすとってのがあるのか。えっ、それつけたらさ、花音さんに好きになってもらえる!?夏ぅ〜俺にもつけてみてくれよ」

「!いいよ。これで好きになってもらえるかは分からないけど……」

夏くんは僕にしてくれたみたいに、みっくんにもおしゃれな香りを纏わせてくれた。
まもなく花音さんと友達の雪乃さんが登校してきたけど、みっくんはいい香りをさせたまま男子トイレに逃げてしまった。

「みっくん!男子トイレの消臭に貢献しなくていいんだよ」

「だってぇ……めぐみも夏も、見ただろ?あの、あの、可愛すぎる花音さんを目の前にして、平常心でいられるかよ……分かるだろ?好きな人ってキラキラしてんだよう……」

恋愛経験ゼロの僕には多分分からないよ、って言おうとしたら、夏くんが、口を開いた。

「そうだな、分かるよ」

「……!」

「だろぉ〜!?夏……ありがとうよ…」

「でも、もうホームルーム始まるよ。戻ろう」

夏くんが「分かるよ」と言ったとき、心臓がバクンと大きく動いた。
なぜか顔がじわじわとあつあつになった。

「めぐみ?教室戻ろう」

「っ!う、うん!そうだね!」

へにょへにょ歩くみっくんを二人で支えながら、教室へ戻る。
みっくんは教室に入った瞬間、突然ピシッとモデルみたいにいい姿勢で歩き出したので、あとは放っておいて一番前の自分の席に座った。

『そうだな、分かるよ』

さっきの夏くんの声が、ずっと頭から離れない。
自分から香る夏くんと同じ匂いも相まって、すごくドキドキしてる。

夏くん、恋してるんだ。
好きな人がいるんだ。
あんなに綺麗な夏くんが好きになる人って、一体どんな人なんだろう。
夏くんも好きな人に対しては、みっくんみたいに、照れたり焦ったりするのかな。

恋をしたことのない僕が恋について考えると、何時間も使い続けたパソコンみたいに頭の中が熱くなってくる。
危険だから、一旦シャットダウンしよう。

あたまぐるぐるモードの電源をオフにしたとき、ちょうど担任の先生がおはようの挨拶と共に教室に来て、ホームルームが始まった。





「めーぐみ!お弁当一緒に食べようぜっ」

昼休み、一番前の席で項垂れていた僕に、みっくんがニコニコ笑顔で話しかけてきた。

「つかれた……」

そう、僕は疲れている。
一番前の席だからって、何も初回の授業で、黒板に英文の翻訳を書かせなくたっていいじゃあないか。

「まあまあ、正解だったんだからいいじゃん?」

「そうだけど、いきなり当てられたら緊張するじゃん」

「まあなー。でもほら、元気出せよ。夏もいるし」

「えっ」

みっくんの発言で飛び起きて横を見ると、お弁当の包みを抱えた夏くんが立っていた。

「……おつかれ、めぐみ。一緒に食べてもいい?」

不思議だ。
さっきまで鉛のように重たかった体が、あっという間にふわっと軽くなった。
天使の羽でも生えちゃったかな。

「もちろん!三人で食べようよ」

僕がそう言うと、夏くんは嬉しそうに微笑んでくれた。

「俺と夏が隣の席だからさ、そこで机くっつけよう!」

みっくんがいそいそと机を動かしてくれたから、僕は自分の席から椅子だけ持って行って、二人の向かい側に座った。

夏くんのお弁当箱は、僕より少し大きめの二段弁当だ。
蓋を開けると、彩りのあるおかずがたくさん入っていて、思わずみっくんと覗き込んでしまった。

「すげー、夏のお弁当美味しそう」

「ね!たこさんウインナー可愛いな」

「ありがとう。姉さんが喜ぶよ」

「えっ、夏くんお姉ちゃんがいるの?」

「うん。栄養士目指して勉強してて、料理好きな人なんだ」

夏くんのお姉さん。
きっと、夏くんに似て美人なんだろうな。
……まだまだ知らないこと、たくさんあるなぁ。
何か一つ知るたびに、心に花が咲くみたいに嬉しくなるから、もっと夏くんのことを知りたい。

「……めぐみは、兄弟いるの?」

「へへっ、めぐみはこう見えてもお兄ちゃんだもんな〜」

僕が答える前に、みっくんがニヤニヤしながら話す。

「こう見えてもってなんだよう。みっくんだって、自分の妹よりうるさいでしょ」

「めぐみは弟、湊斗は妹がいるのか……」

夏くんは満足気に頷いて、おにぎりをぱくりと食べた。
おにぎりを食べているだけなのに、なぜか上品でかっこよくて、夏くんが食べているところをずっと見ていても飽きないだろうなと思った。





昼休みももう少しで終わる頃、お手洗いから教室へ帰る廊下にある手洗い場の鏡の前で、足が止まった。

「っ……!」

唇の上を滑るローズピンク。
色づいてゆく、潤ってゆく。
ずっと昔に初めて感じた、心がどうしようもなくときめく感覚が、一瞬にして蘇る。

「……めぐみ?」

「っ!」

鏡の中の夏くんと目が合ってハッとする。
そこで、自分がじろじろと夏くんの唇を見てしまっていたことに気づいた。
嫌な気持ちにさせたかな、夏くん怒ってないかな。

「あ、あのっ、ごめ、」

「めぐみ、リップ興味あるの?」

「!」

僕の蚊の鳴くような小さな声を優しく包み込むように、夏くんは振り返ってそう尋ねてくれた。

「朝も、リップのこと何か話そうとしてたよね」

僕が言いかけた言葉を、まさか覚えていてくれたなんて。
……夏くんには、隠したくないな。
なるべく閉じ込めようとしていた光る気持ち、夏くんにはありのまま見せられるんじゃないかって、なぜかそんな予感が背中を押した。

「……あ、あのさ、夏くんの使ってるリップ、どこで買ったのかなって……。夏くんを初めて見たときから、綺麗だなって、素敵だなって思ってたんだ」

「……!」

心臓がバクバクしてる。
期待と不安、ただし期待の割合多めの高鳴り。
夏くんは目を大きく見開いたあと、僕の手を引いて鏡の前に立たせてくれた。

「俺が使ってるの、プチプラだよ。どこの薬局でもあると思う」

ほら、と夏くんが見せてくれたリップは、確かに有名なプチプラのブランドで、安定した人気を誇るシリーズのものだった。

「ほんとだ、これ、人気だよね」

「うん。安いのに、使用感もいいよ」

「へぇ……僕も、買ってみたいな」

「この色、誰でも似合うからいいと思う。めぐみなら、多分もう少しオレンジ寄りのカラーも似合うんじゃないかな」

夏くんは僕の肩に手を置いて、鏡を見ながらそう教えてくれた。

「……僕も、夏くんみたいになれるかな?」

「……俺みたいに?」

「夏くんみたいに、かっこよくなりたい」

「……!」

鏡に映る自分に、今ここで僕を見てくれる夏くんに、もう嘘をつけない。
見ないふりに慣れていたと思っていたのに、まだ僕の中にこんなに強い気持ちが残っていたなんて、知らなかった。

「……なれるよ」

「!」

「メイクは、きっと誰でも変われる魔法だから」

夏くんの瞳が、きらりと輝いた。

「魔法……」

「めぐみ、今日の放課後空いてる?」

「っ!あ、空いてるよ!」

「もしよかったら……一緒にリップ見に行かない?」

「……!行きたい!!」

僕の返事を聞いて嬉しそうに笑う夏くんを見て、僕は人生最大級のワクワクを感じていた。
つい昨日までの弱みが、今は夏くんとつながって、眩しいほどの光になっている。

僕は、僕のまま、変わりたい。