「リーゼロッテ、前へ出なさい」

 バルタザールの冷たい声に、リーゼロッテは観念してエーリックの隣へ立った。
 客の面前で怒鳴りつけるようなことはないだろう、そう安心して姿を見せる。そして前に出て、この部屋にいたもう一人の人物へと視線を移す。そこには昨夜温室で会った仮面の伯爵、ベルンハルトが立っていた。

「ロ……」

「リーゼロッテ王女。()()()()()()

 リーゼロッテがベルンハルトの名前を呼びかけようとしたのを塞ぐように、ベルンハルトが初対面の挨拶を口にする。

「ベルンハルト・ロイエンタールと申します。以後、お見知りおきを」

「リ、リーゼロッテです。こちらこそ」

 慌ててリーゼロッテも話を合わせるが、既に顔見知りである事実は、隠さなければならないことだろうか。

「国王陛下、私の顔を突然お見せしては驚かせてしまいますよ」

「あぁ。それもそうだな。だが、これからは其方の顔を見て驚いているわけにもいかないだろう」

 国王と一貴族というには砕けたやり取りの理由も、二人の会話の意味も、リーゼロッテにはわからなかった。
 ベルンハルトの仮面を初めて見た時は驚いたが、今は何も驚くことなどない。今はただ、初対面のフリをしていることと、淀みなく話すベルンハルトに驚いているのだ。
 それに、リーゼロッテがベルンハルトの仮面に驚いていたとしても、それの何がいけないのだろうか。

「リーゼロッテ」

 バルタザールがリーゼロッテに真っ直ぐ向き直り、名前を呼ぶ。
 その顔には怒りや呆れを感じることはなく、記憶の中にないその表情に、リーゼロッテの背筋が伸びる。

「はい。何でしょうか」

「其方には、このロイエンタール伯爵と結婚してもらう」

 予想だにしていなかった言葉に、リーゼロッテの思考が停止する。その顔は驚きを隠せず、瞼は見たこともない速さで瞬き、呼吸することすら忘れるところであった。
 我に返って、ベルンハルトに視線を移せば、その口元には温室で見たぎこちない微笑みが浮かんでいる。
 ベルンハルトは既に了承していたということか。
 すぐにそう判断すると、次に隣に立っているエーリックに顔を向ける。
 扉の前に立っていた時と変わらない冷ややかな表情は何の感情も読めないが、驚いている風でもなければ、エーリックも承知の上ということだ。
 知らなかったのは、リーゼロッテだけ。
 当事者であれども、魔法が使えないからか、社交界へのデビューもまだだからか、それとも女だからか、これまでも肝心な話は全てリーゼロッテ抜きで進められてきた。
 それがまさか、結婚まで。

「わかりました」

 もうどうなったっていい。リーゼロッテは半ば投げやりに返事をした。
 自分の生涯の相手ですら、他人に決められてしまう人生は、リーゼロッテにとっても信じられないほどの速度で色あせていく。
 誰が相手であっても、これまでと同じように心を隠して、本音を伏せて、感情を見せずに生きていくだけだ。
 心が急速に冷え込んでいくのがわかる。昨夜はあれほど好意を感じていたベルンハルトに対しても、もう何の感情もわかなかった。

「伝えるべきはそれだけだ。もう下がっていい。後のことは侍女に伝えておく」

「はい。失礼します」

 リーゼロッテはそれだけ言うと、誰の顔を見ることもなく部屋から出て行こうとする。
 部屋の扉を閉めようと振り返った時に、何かを言いかけていたベルンハルトが見えた気がしたが、何か言うべきことがあるのなら、もう少し早く口を出してほしい。
 リーゼロッテはベルンハルトの方を向きながら、敢えてそのまま扉を閉めた。結婚相手を、自らの手で拒絶した。


 呆然とした心持ちで自室への道を歩く。
 今回の話は誰が知っていたのだろうか。昨夜会った時のベルンハルトは知っていたのか。
 母であるユリアーナはどうだろうか。そう考えた時につい、口元から自傷気味な笑いがこぼれた。

(ありえないわ)

 ユリアーナがそんな大切なことを知るわけがない。
 リーゼロッテにとってユリアーナは母親である以上に他人であった。リーゼロッテがどうしていようと、それこそバルタザールにどんな目に合わされていたとしても、ユリアーナは何かを言ってきたことも、してきたこともない。
 バルタザールの方がまだ関係があった。叱られ、罵倒されるだけであったとしても、そこにはちゃんと関係性がある。
 リーゼロッテにとってユリアーナは血の繋がった他人。

 自室にあるお気に入りのソファに体を沈めても、今日はなぜだか癒されない。
 ぼんやりと天井を見上げ、結婚というものを考えようとも、何も思い浮かぶものはなかった。仲の良い夫婦というものを見たこともない、相手は数日前に初めて見た仮面の伯爵。
 リーゼロッテにはどうしようもできなかった。全てをバルタザールが決め、侍女がそれを伝えにくるだろう。
 このまま流されていけばいいと、リーゼロッテは思考を手放した。