はぁっ! リーゼロッテは忘れていた息をようやく吐き出した。
 二度目はベルンハルトと間違いなく目が合った。やはりリーゼロッテが茂みに隠れていることに気がついていた。
 それならなんで、バルタザールにそれを報告しなかったのだろう。国王に隠しごとをしたなどと、後々バレたら大問題になるのに。
 去り際に振り返ったベルンハルトの微笑みの意図が見出せなかった。

 足音が聞こえなくなり、辺りがまた静寂に包まれると、リーゼロッテはさっきまでの木の根元にもう一度戻ることにした。
 茂みの中の方が安心ではあるが、芝生の触り心地や、木の幹を背もたれにするとすっぽりと収まりの良い場所が、どうにも居心地が良い。
 今夜の寝床と決めたその場所で心を落ち着けようと、闇に包まれた夜空にくっきりと浮かんだ丸い月を見上げた。

 ベルンハルトはリーゼロッテを庇ってくれたのだろうか。会うのも初めてのはずの小娘を、庇う必要がどこにあるのだろうか。
 それとも何か他に意味があるのだろうか。

 月を見上げながらも、やはり思い起こすのはベルンハルトのこと。
 仮面を付けた伯爵のことなど、一度でも会っていれば忘れるわけがない。リーゼロッテの記憶の中に、あの姿は存在しない。
 ただ、以前お茶会で耳にした噂を思い出していた。

『ロイエンタール家の方はこの様な場にはなかなか出て来られないんですって』

『あぁ。あの仮面の伯爵ね。こうした社交の場はお嫌いな様よ』

 そんな風に他の貴族の婦人達が話した噂話。あれが、噂の仮面の伯爵。ベルンハルト・ロイエンタール伯爵か。
 他の貴族よりも一足早く城に来たと言っていたのはなぜだろうか。城に何か用があるのだろうか。
 リーゼロッテのことを知っているのだろうか。

 リーゼロッテの頭の中には、ベルンハルトについての疑問が次から次へと浮かんでは消え、堂々巡りする。そのうちにゆらゆらと心地良い揺らめきを感じ始め、リーゼロッテは今度こそ深い眠りに落ちていった。


 瞑っているはずの瞼の上から、容赦なく降り注ぐ朝陽のシャワーの眩しさに、リーゼロッテはついに観念して目を開けた。
 木の根元に座り込んで寝たことで、身体中が固まっていて、多少の痛みを感じる。思いっきり手を伸ばし、背筋を伸ばすと、体の上から何かが滑り落ちていったのがわかった。

(何? これ。)

 滑り落ちたものを拾い上げると、それが柔らかくて温かい毛布だと気づく。間違いなくリーゼロッテがかけたものではないが、それをかけてくれる相手に心当たりもない。
 城で日常的に使うものとは少し質が違う様で、普段リーゼロッテが使っているものより温かいように感じた。
 温室の中だから心地よく感じていたが、今の季節にベッドの上でこれをかけていたら、少し熱いぐらいだろう。だけど、この温かさのお陰で、朝までぐっすり眠れたのかもしれない。
 誰かもわからない犯人に感謝をしながら、毛布を綺麗に畳み、一晩お世話になった温室を抜け出した。

 昇ったばかりの朝陽は目にはあまり優しくないが、その柔らかな温もりがリーゼロッテの体を包み込む。そんな穏やかな温もりを感じながら、早朝の静かな城の廊下を音を立てないように歩いた。
 ようやく自室に辿り着き、部屋着へと着替え、お気に入りのソファに腰を下ろす。
 木の根元の芝生の上も悪くない座り心地ではあったが、ソファの心地よさは別格だ。そんなソファに座りながら、手に取るのはさっき温室から持ち帰ってきた毛布。
 柔らかな手触りを味わうように撫でながら、毛布の持ち主を考えようとする。温室を確認にきた使用人のものだろうか。
 いや、もし使用人であればリーゼロッテを起こすだろう。それならば、誰?

 リーゼロッテの頭の中には、人差し指を口元に添えて、わかりづらく微笑んだベルンハルトの顔が浮かび上がる。
 それこそあり得ない話だ。ベルンハルトが毛布をかける理由がないし、温室からバルタザールと一緒に出て行って、もう一度戻ってくるなんて、意味がない。
 リーゼロッテは頭を左右に振りながら、浮かび上がったベルンハルトの顔を追い出そうとする。

(ダメだ。わかるわけがない)

 ふぅ。とひと息ため息を漏らすと、ソファから立ち上がり毛布を引き出しへとしまい込んだ。