「お話はそれだけでしょうか。わたくし、少し気分が優れず……申し訳ありませんが、本日は退席させていただいても、よろしいですか?」

 予想していたことのはずだった。
 レティシアが部屋へ訪れたとき、ヘルムートの態度を見たとき、頭の奥で『この人だ』と誰かが言っていた気がする。
 それでも、ヘルムートの言葉を信じたくて、毛布をかけてもらった優しさにすがりついて、その言葉に耳を貸さなかった。

「あ、あぁ」

 リーゼロッテが席を立つより先に、ベルンハルトが部屋の扉を開ける。
 自分が退席を申し出たはずなのに、ベルンハルトの振る舞いに、部屋から追い出されている様に感じてしまう。

(とんだ被害妄想だわ)

「それでは、失礼します」

 リーゼロッテが席を立ち、ゆっくりと扉まで足を運んでいる間、ベルンハルトは何か言いたげに口を開けては閉めてを、繰り返した。
 何かを言ってもらえるのではないかという期待と、これ以上何も聞きたくないという拒絶が、リーゼロッテの中で交錯する。
 ベルンハルトの横を通り過ぎる際、彼を見つめて、一呼吸だけその時を待った。

「ま、また……」

 ようやくベルンハルトの口から吐き出される息に音が乗る。

「話を、す、する機会を、作ってもらえるか?」

 その言葉は、いつかのようにつっかえていて、そこにベルンハルトの本音が混じっているのだと、今のリーゼロッテにはわかる。

(また、お耳まで赤くされて……)

「ふふ。もちろんですわ。お声かけいただけるのを、お待ちしておりますね」

 リーゼロッテが笑いかければ、ベルンハルトの耳は更に赤さを増して、その様子にリーゼロッテの気持ちが凪いでいく。
 ベルンハルトのこうした態度や様子は、初めて会った時から愛おしく感じていて、月日が経つにつれその思いが濃くなっていた。
 ベルンハルトの気持ちがレティシアのものだったとしても、この様子を見せてもらえるだけで十分だと、ほんのわずかな本音を覗かせてくれるだけで満足だと、自分に言い聞かせようとする。
 
 自室に戻れば、ベルンハルト自らが吟味したという家具に囲まれ、王城の広間で踊った記憶を呼び起こし、ベルンハルトから向けられた本音と笑顔のかけらを必死でかき集めた。
 それにすがれば、まだ平気なフリを貫いていられる。自分を立て直していられると、愛用のソファの背もたれが、涙で濡れた。


 レティシアはその後も城の至るところに出没する。
 ベルンハルトの執務室、食堂。
 リーゼロッテがベルンハルトと顔を合わせるその時ですら、周辺をフラフラと飛び回っていた。
 レティシアがベルンハルトと親しげに話をするのを見たくなくて、これまでと変わらない振る舞いを約束したはずのリーゼロッテが、ベルンハルトから距離を取り始めるのも仕方ない。
 レティシアのことを『第二夫人』だと紹介される日を恐れ、ベルンハルトのことを誘えなくなった。
 ヘルムートとの約束は今でも頭の中にちゃんと存在していて、『以前』に戻さない努力をすると誓ったというのに。

「リーゼロッテ。今、少しいいだろうか」

 リーゼロッテの部屋の扉をノックする音と共に、聞こえてきたのはベルンハルトの声だ。
 距離を取り始めたリーゼロッテとは対象的に、ベルンハルトが話をする機会を持とうとしていることには気がついていた。
 リーゼロッテがベルンハルトを訪ねるときとは違い、レティシアがその場にいないことを考えれば、ベルンハルトの気遣いが垣間見える。

「はい。少しお待ちくださいませ」

 部屋の扉を開け、リーゼロッテ自ら自室へと招き入れる。

「こちらにお見えになるのは珍しいですね。わたくしの部屋は、他人を招く為にはつくられておりません。それでもよろしければ、そちらへどうぞ」

 応接セットが備えられていないことを伝え、かろうじて他人に勧めることのできるソファへとベルンハルトを誘う。
 一人で座るには大きいソファへとベルンハルトが座るのを見届け、自分は部屋の隅に置かれた移動可能な簡易椅子を、ソファの向かい側にくるように置く。
 ベルンハルトの対面にいられれば良いだろうと、見栄えの悪さを気にしながらその椅子へと座った。

「そんなものに座らず、こちらへ」

 リーゼロッテが簡易椅子に座ると同時に、ベルンハルトがソファから立ち上がる。

「いえ、そちらはベルンハルト様がお座り下さい。せっかく訪ねてきてくださったのに、この様な形で申し訳ありません」

 ベルンハルトを簡易椅子に座らせるわけにもいかず、まさかソファに並んで座ろうなどと思いもよらないリーゼロッテが席を立つことはない。
 簡易椅子に座ったまま、ベルンハルトの申し出を断った。

「そ、それではっ、と、隣にっ」

 ベルンハルトの言葉に、リーゼロッテの表情が固まる。

(隣? そのソファに? 並んで座るってこと?)

「そちらのソファはさほど大きいものではございませんわ」

 一人で座るには確かに余裕のあるものだが、二人で座って間に空間を取れるほど大きくもない。ベルンハルトと並べば間違いなく肩の触れ合う距離。

「だ、だが、座れないこともないだろう」

「それはそうなのですが」

 リーゼロッテの言いたいことは伝ってはいないようで、ベルンハルトから折れる素振りは感じられない。
 つっかえた様な口ぶりと、赤く染まった耳に、その言葉が本気であることが伺える。

「嫌でっ、なければ」

「まぁ、嫌なんてことありませんわ。ベルンハルト様がそう仰ってくださるのなら、お隣にお邪魔いたしますね」

 ベルンハルトが立ち上がったまま、空になったソファの端にリーゼロッテが腰を下ろす。
 ベルンハルトが狭い思いをしないように、嫌な思いをさせてしまわぬように、その身をできるだけ小さくした。
 リーゼロッテのそんな様子に、ベルンハルトが小さなため息を漏らした様にも見えたが、彼もまたその身を小さくして端へ寄った。