——次の日の金曜日 自宅マンション 星見(ほしみ)凛虎(りんこ)


 意外にも、私の足はすんなりと玄関を出て、登校へと()み出してくれた。
 昨日の朝よりも、気持ちはずっと重い。にも(かか)わらず、この足はグングンと歩いて、私をマンションから遠ざけていく。
 たぶん、私の身体(からだ)は判断したのだろう。
 あの陰気な自宅に閉じこもって、再び母と険悪(けんあく)になるよりかは、教室で孤独(こどく)(さいな)まれていた方がまだマシだ、と。
 本当に打算的(ださんてき)だなあ、と我が身に(あき)れる。
 だけど単純(たんじゅん)なことに、(うら)らかな朝陽を()びていたら、気分は少しずつ晴れてきた。
 瑞々(みずみず)しい春風で(すす)けた肺を(すす)ぐのも、素直に気持ちが良い。
 そうだ。ちゃんと登校してくれる私の身体には、ご褒美(ほうび)をあげよう。
 今日の朝ごはんに、デザートをつけてあげよう。
 食事しか楽しみのない私の身体を上手(うま)くコントロールしていくなら、食べ物で()るのが効果的(こうかてき)だろうと思ったのだ。
 そうして、いつものコンビニへと入り、昼食用のサンドイッチと野菜ジュースを手に取った瞬間(しゅんかん)(あん)(じょう)、足はすぐさまにスイーツコーナーへと向かいだした。
 きっと、私の足みたいなもののことを、いけしゃあしゃあ、というのだろう。
 そんないけしゃあしゃあが、ある商品の前で(きゅう)にブレーキを踏み込んだ。

「っ! ……わ」

 期間限定(きかんげんてい)、春のときめきクレープ。
 普通のクレープ屋さんと(くら)べても遜色(そんしょく)ない本格クレープが、そこにあったのだ。
 まっしろな生クリームに、ふんだんに(いちご)があしらえてあって、贅沢(ぜいたく)なのに可愛い。
 (ひと)りぼっちの私にとって、クレープは(あこが)れだ。
 一人で食べるには勇気がいるし、テイクアウト出来るほどの近所にはお店が無い。
 回転寿司やランチ焼肉に一人で入れる私にとっても、クレープだけは()がれに焦がれた憧れだった。
 ……ただ、栄養(えいよう)成分表(せいぶんひょう)(すご)かった。
 このクレープは、普段(ふだん)の朝食の三倍近い脂質(ししつ)とカロリーで形成(けいせい)されていたのだ。
 私は、毎晩食べる()りマヨ(とん)とろ弁当のために、朝昼は節制(せっせい)しなくてはいけない。
 そして今の私に、これを食べる資格は一切(いっさい)なかった。
 一日中玄関に座り込んでいたくせに、しっかりとこってり弁当を食べた挙句(あげく)不健康(ふけんこう)嗜好品(しこうひん)にまで手を出して、その後即座(そくざ)不貞寝(ふてね)をした、今の私には。
 昨日、登校しなかった(ばつ)だよ。心の中で、そう自身を叱責(しっせき)する。
 私は下唇(したくちびる)()()めて、(まぶた)()じ、クレープに()()け、られなかった。
 足が、動いてくれなかったのだ。
 ああ、仕方がない。これはもう、仕方がない。
 こんなところで、昨日のように足が動かなくなったら、周りに迷惑をかけてしまう。
 それに、こんな特段(とくだん)成功報酬(せいこうほうしゅう)があるとなれば、今後は私の身体も素直(すなお)に登校してくれるようになるかもしれない。
 それこそ、目の前に人参(にんじん)をぶら()げられた馬のように。
 そう思った通り、クレープを手に取った瞬間、私の身体は(すみ)やかにレジへと歩き出し、(はず)むような足取りで店の外へと踏み出した。
 本当に、いけしゃあしゃあだな……、と自嘲(じちょう)する。
 そうやって、自身を俯瞰(ふかん)する頭と、喜びを感じ()れていない心が、(ひど)く気持ち悪い。
 スキップでもしそうな(いきお)いを()た身体と、そんな自身を冷笑(れいしょう)する脳内(のうない)
 その狭間(はざま)で、ただぼんやりと()いている鈍感(どんかん)な心。そのちぐはぐさが、気持ち悪い。
 そう自覚した瞬間、私は、奇妙(きみょう)な感覚に(おそ)われた。
 なんだか、急に、自分の五感(ごかん)実感(じっかん)が持てなくなった。
 だんだんと、視界(しかい)鼓膜(こまく)、心に、(うす)くて透明(とうめい)(まく)()られていくような感覚がする。
 私の意識(いしき)だけが、周囲(しゅうい)から(へだ)てられていくような、気味の悪い感覚。
 自分の身体の中なのに、居心地(いごこち)が悪くて、()(たま)れなくなるような、この感覚は……

「ときめき」

 今、脈絡(みゃくらく)のない(ひと)(ごと)を私に言わせたのは、上機嫌(じょうきげん)な身体のほうだろうか。
 それとも、不安定(ふあんてい)情緒(じょうちょ)にうんざりした脳のほうだろうか。
 どちらにせよ、助かった。
 せっかく憧れのクレープを手に入れたのに、(しず)んでいたら勿体(もったい)ない。それは(たし)かだ。
 気持ちを、切り替えないと。

「ときめき、か……」

 口の中で、その(うわ)ついた単語をつぶやいてみる。
 ときめき。私は、その感覚を知っているのだろうか。
 思えば、最後に強い喜びを感じたのは、いつだっただろう。
 灰色(はいいろ)の日々を振り返る。けれど、初めて豚とろ弁当を食べたとき以外、思い出せない。

「え、やだな」

 思わず声がこぼれ出た。
 私の女子高生時代の一番のときめきが、豚とろ弁当だというのは、切実(せつじつ)にいやだ。
 せめて、せめてクレープであってほしい。
 (かばん)の中を覗き込み、可愛らしいシールに印字(いんじ)された、春のときめきクレープ、という商品名を見つめる。
 そして、その名に()じない感動を心から願った。

(たの)むぞ」

 思ったよりも重圧(じゅうあつ)な、武将のような声が出てしまって、恥ずかしい。
 仕方がない。女子にとってのときめきは、武士にとっての(たかぶ)りのようなものだろう。
 知りもしないのに、勝手に女子と武士を(ひも)づけて、私は登校を再開する。
 時間を見計(みはか)らいながら、ゆっくりゆっくりと歩いていく。