リビングに帰った瞬間、私の目を、やけに(するど)夕陽(ゆうひ)が突き刺した。
 浄化の光で(めっ)される悪霊(あくりょう)のようにヨタヨタ歩いて、ベランダのカーテンに手を()ばす。
 そして指先が届いたその時、不覚(ふかく)にも、窓の向こうの校舎が目に入ってしまった。
 私の通う高校は、このマンションからとても近い。
 だから自宅に居ても、どうしても学校を意識してしまって、ずっと気が休まらない。
 そして、辛くなるのに、いつも思わず見入ってしまう。
 友達同士で楽しそうに帰路(きろ)につく生徒達や、汗を流しながら激励(げきれい)しあう運動部員達を。
 青春だ。
 触れることのできない青春が、今日もすぐそこで繰り広げられている。
 私の指先が、物欲しそうにカリリと窓を()いた。

「……(えさ)さえあれば、(あり)は一匹でも生きていけるのかな」

 おかしな独り言に、自嘲(じちょう)()め息をつく。何を言ってるんだろう、私は。
 心はいよいよ重症だ。一刻も早く(いや)さなくては。
 そう思い、カーテンも閉めないままテーブルに着く。
 もう温める時間すら()しい。
 ささっと軽く手を合わせ、私は冷めたままのお弁当を頬張(ほおば)った。

「……ん! んー!」

 いつも食べている味に、私は何度も(うなず)き、感嘆(かんたん)する。
 それほどまでに、この照りマヨ豚とろ弁当は美味しいのだ。
 (かげ)った心も、急速に明るくしてくれる。
 冷めていてもタレはしっかり甘塩(あまじょ)っぱく、マヨも(あぶら)濃厚(のうこう)で、お肉はちゃんとお肉って感じの歯ごたえだ。
 多幸感(たこうかん)無理矢理(むりやり)ねじ込んでくるような暴力的(ぼうりょくてき)調味(ちょうみ)も、(にぶ)った私の脳にはちょうど良い。
 このお弁当は、きっと私のためにあるんだ。
 思えば、私以外に、このお弁当を買っている人を見たこともないし。

「うん、……うん!」

 喜びを最大限に味わうため上半身を()らす。
 ()き上がった感動はできるだけ声に出す。
 恥ずかしがってなんか、いられない。





 だって私の一日には、夕食くらいしか幸せを感じられる時間はないのだから。

「うん! 旨ぁ……」

 だけど、その独り言に、私の心はざわついた。
 何かが、ひそやかに胸へ戻ってくる。

「ん、……最高!」

 不穏(ふおん)な影を振り切るようにお弁当を頬張る。
 けれど効果は薄く、黒い圧迫感(あっぱくかん)が胸から込み上げてきて、喉を(ふさ)ぎ、味覚を阻害(そがい)し、ついには頭にまで到達(とうたつ)して、(わめ)き始めた。

『旨みゼロじゃん! 最悪!』

 (はし)が、止まる。
 沙彩さんの声が、また再生され始めてしまう。
 咲彩さんの声を借りた、私自身の劣等感(れっとうかん)が、また私を()め立ててくる。

『あの人大嫌い!』

 ……私だって、私が嫌いだ。
 母に洗脳(せんのう)されて、強く()れと強迫(きょうはく)してくる頭が嫌いだ。
 他人に臆病(おくびょう)で、拒絶的(きょぜつてき)な態度で自己保身(じこほしん)するばかりの身体も嫌いだ。
 そんな(からだ)の中で、(なげ)くことしかできない幼弱(ようじゃく)(じぶん)が大嫌いだ。
 私はバラバラだ。脳の指針(ししん)と、身体の言動と、心の思いが(ともな)わない。
 だから時折(ときおり)、今朝のような不具合を起こして、登校すら出来なくなってしまうんだ。
 脳の指令に従えず、重い鎧を動かせず、弱い心は閉じ込められてしまう。

「……うん、おいしい。このお弁当、大好き」

 前向きな言葉を絞り出す。
 だめだ。
 こんな暗い気分に(とら)われていてはだめだ。
 私には夕食くらいしか、楽しい時間なんてないのに。
 元気を取り戻すためにお肉を食べようと、箸を持ち直す。
 だけどもう、たくあんしか残っていなかった。
 たくあんも、美味しくて好きだ。
 ただ、ぽりぽりと小気味良(こぎみい)い食感は、脳内の雑音を()き消すには優しすぎた。
 心は晴れぬまま、お弁当は(から)になる。
 名残惜(なごりお)しく、箸先(はしさき)でバランを(もてあそ)ぶも、気が(まぎ)れることはない。
 空の弁当容器が放置された薄暗いこの部屋は、今の私の心象(しんしょう)風景として、ぴったりだと思った。
 横たわってしまうと、もう息をすることしかできなくなる。
 ぼんやりと身体が固まってきて、酷く重たくなってくる。
 虫のように()いてくる自己嫌悪(じこけんお)が溜め息を押し出し、声に満たない音が口から落ちる。

「もう、いき……」
 
 あぁ……、ダメだ。これは、本当にダメな時だ。
 金縛(かなしば)りを()くように、(いきお)いづけて無理やり身体を起こし、キッチンへと()う。
 鈍重(どんじゅう)な我が身が(かろ)うじて思い通りに動いてくれている、ということは、今、あの緊急処置(きんきゅうしょち)は確かに必要だということなのだろう。
 シンクに指を()けてつかまり立ち、頭上の戸棚(とだな)(ひら)いて、電気も()けないまま手探りをする。
 そして、指先にそれが触れた時、突如(とつじょ)として玄関から解錠(かいじょう)音が響いてきた。
 動揺(どうよう)した手元からバラバラと落ちてくるそれを拾い上げ、乱雑(らんざつ)に戸棚に戻し、私はリビングのソファへと(すべ)り戻る。

「……()るなら電気くらい()けなさい」

 母がリビングの明かりを点ける直前に、私の狸寝入(たぬきねい)りは間に合った。
 たったいま()せたばかりの身体を起こして、あくびの振りをしながら出迎(でむか)える。

「ん……おかえり、お母さん。またすぐ仕事に戻るの? 今日も遅くまで?」

 母は、(かばん)を肩に掛けたまま食器棚からコップを取り出すと、溜め息で返事をした。

「海外への販路開拓(はんろかいたく)の件を()めているって話したでしょう。その協力会社の担当してくれている役員が、夜中にしか会えないの。外国側の時差(じさ)を優先して動いているんですって」

 母は換気扇(かんきせん)を回しながら煙草に火を着けて、疲れの(にじ)紫煙(しえん)を吹いた。
 そして、いつも通りの流れるような所作で、自社商品のサプリメントを口に(ふく)み、ペットボトルの珈琲(コーヒー)をコップに()ごうとしたところで、急にその手を止めた。

「どうかした? お母さん」
「……いつも社宅(しゃたく)客間(きゃくま)に呼ばれて、待つ間に珈琲をくださるんだけどね。毎回、かなり待たされるのよ。ご自宅みたいなものだし、お手洗いをお借りするのも気が引けてね」

 そう言ってサプリメントを()(くだ)いて飲み込むと、ゆっくりと煙草を吸った。
 その、ほんの(つか)()沈黙(ちんもく)すらも、どこか気不味(きまず)くて、私は思わず口を開く。

「ついに、海外進出するんだね。初志(しょし)貫徹(かんてつ)するなんて、お母さんは立派な社長なん」
「あなた、今日、学校行ってないでしょう」

 心の込もりきらない私の(ねぎら)いを、母は(するど)い口調で(さえぎ)った。その目つきに背中が(すく)む。

「……今日は始業式だったから。明日からは普通の授業始まるし、ちゃんと行く」
「そう。なら、いい」

 容赦(ようしゃ)したような言葉とは違って、母は、その視線を解いてはくれなかった。
 (のが)れたい一心で顔を(そむ)けてしまう。
 幼い頃から私は、この目が苦手だった。
 母はいつも、眉間(みけん)(しわ)を寄せ、(まぶた)(なか)()じるようにして、私を(にら)む。
 何かを(あきら)められているような、(あわ)れまれているような、つらい眼差(まなざ)し。
 そんな目を、唯一(ゆいいつ)肉親(にくしん)から向けられるのは、()(がた)かった。
 暴力を受けるような事は一切無かったけれど、私は母に睨まれるだけで酷く焦燥(しょうそう)し、(みじ)めな気分になっていく。

「……何? ちゃんと学校行くって言ってるでしょ」

 嫌な視線を振り払いたくて、思わず語気(ごき)が強まってしまった。

「……。心配しているのは、そっちじゃないわ」

 深く吸われた煙草が、ジリジリと音を立てて灰になっていく。
 その間も、母は私を睨み続けた。

「強く生きなさいって、あなたにいつも言っているけど」

 また、強く生きなさい。母が私に、何度も()()み続ける言葉。

「私が言う強さって、髪色とかピアスとかじゃないから。クズでも出来るような見せ()けの話じゃないの」

 嫌な空気が立ち込める。母がクズという言葉を使う時は、必ずあの人の話題になる。

「強さを()(ちが)えていると、いつか返り()ちにあって、取り返しがつかなくなるから」
「……また、お父さんの話? 嫌なんだけど」

 物心がつく前に亡くなった父の事を、私は、ほとんど何も知らない。
 (はじめ)という名前以外は、顔も覚えていない。
 この家に、父に関連する物は、写真一枚すらも無いのだから。
 その環境が、母がどれほど父を嫌悪(けんお)しているのかを、よく物語(ものがた)っていた。

「そうね。あの人も見せ掛けばかりの、クズだったわ」
「……聞きたくない」

 母の話す父は、私の中に(かす)かに残っている記憶の父と、印象が全く違う。
 私の思い出せる唯一(ゆいいつ)の父は、優しい手だ。
 そっと頬に触れる指先。柔らかく抱っこしてくれる腕。
 淡雪(あわゆき)に触れるように私を()でる手のひら。
 とても優しい手の人。
 それが、私の知っている唯一の父だった。
 その父を、母は黒く塗り(つぶ)そうとする。
 他人に迷惑を掛けるような事を生業(なりわい)とし、身の(ほど)(わきま)えずに越えてはいけない一線(いっせん)を越え、妻子(さいし)(のこ)して死んだ(おろ)かな男。
 たとえ事実だったとしても、優しい手をした私のお父さんが、愚劣(ぐれつ)悪漢(あっかん)へと塗り替えられてしまうのは、とても受け入れられなかった。

「まぁ、でも、一つだけ(ため)になる真理(しんり)を教えてくれたわね」

 嫌がる私に構わず、母は話し続ける。まるで、教導(きょうどう)しているかのような口振(くちぶ)りで。

「草食動物ってね、肉食動物に食べられる為に存在しているんですって。繁殖力(はんしょくりょく)が高くて数が多いのも、優れた肉食動物を繁栄(はんえい)させる為だそうよ。私も若い頃は信じたくなかったけれど、本当に案外、人の社会も仕組みは同じだったのよね」

 母は短くなった煙草を吸って、鼻で笑うように吹いた。
 そして、眉をひそめ、換気扇に吸われていく紫煙を見送りながら、呟いた。

「結局は、あの人も食べられる側の人間だったくせにね」
「……ねえ、本当に嫌なんだけど。早く仕事に戻ったら?」

 拒絶(きょぜつ)する私を睨みつつも、母は蛇口(じゃぐち)(ひね)って、煙草の火を水にさらした。
 ようやく解放される。
 そう思ったのも束の間で、母は身支度(みじたく)をしながら、今度は(さと)すような口調に切り替えて、また、私の頭の中へ言葉を吹き込んでくる。

「凛虎、真理よ。生きていくには、捕食者(ほしょくしゃ)()り続けないといけないの。だから、その為の強さを(つちか)って。この先も、ずっと安心して()らし続けるために。あの人とは違って」
「もう、本当にやめてよ……!」

 思わず叫びかけた、その時だった。
 母が、シンクの上の戸棚を開いてしまった。
 止めようにも、もう間に合わない。
 私は、それを、ただ見守ることしかできなかった。
 先ほど、慌てて()(もど)した煙草の箱が、バラバラと床へ落ちていく。
 血の気が引いて青ざめた身体が、凍りついたように動かない。
 落ちた煙草を拾い上げた母が、床に座ったまま硬直(こうちょく)する私を睨み、近づいてくる。
 (あせ)りで、言い訳が思い浮かばない。
 喉が張り付いて、声も出せなかった。
 そして、狼狽(うろた)える私の前に立った母は、膝元(ひざもと)に、それをそっと一箱(ひとはこ)置いた。

「それくらいに(とど)めておきなさい。()も無い強がりは」

 その言葉は、私を静かな激昂(げっこう)へと(いた)らしめた。
 羞恥(しゅうち)(いきどお)りが、じわじわと全身を紅潮(こうちょう)させていく。
 まるで、理解のある親のような顔をして部屋を出て行った母が、酷く憎かった。
 玄関の施錠(せじょう)音と同時に立ち上がり、私は、(まぶ)しすぎる照明を真っ先に消した。
 キッチンのコンロを点け、そのほのかな(あか)りで箱のフィルムを()き、一本抜き出す。
 すぐに(くわ)えるのは、負けたようで気に食わない。
 だけど、そんな心とは裏腹に、指先は吸い口を唇へと押し当てて、私を()かしてくる。
 火に、顔を近づける。
 横髪を耳に掛けたとき、爪にピアスが当たって、ふと、胸が痛んだ。
 見せ掛けの強がり。
 そう言われたんだ。このピアスも、金の髪色も。
 正直、図星なところがある。
 端的(たんてき)に言えば、心底自分が嫌になって、早急に変わりたくて始めたことだったからだ。
 形だけでも強さを(おぎな)えたら、という卑怯(ひきょう)な期待があったことも、自覚している。
 憧れがあった。ファッションとして楽しみたかった。そんな人達と比べれば、ずいぶんと不純な動機(どうき)だった。
 今でこそ、気に入って、好きでやっている。
 だけど、鏡を見た時に、ふいに自分でも思ってしまうことがある。
 ハリボテの補強(ほきょう)ばかり、私はいつまで続けるんだろう。
 何も変わらなかったのに。

「……あああ」

 自己嫌悪に()()ねて喉が(うめ)きだす。
 (あふ)れる焦燥(しょうそう)を煙に沈めたくて、私は火を吸った。
 強いメンソールの清涼感(せいりょうかん)が喉を刺激し、肺へと落ちていく。
 そうだ。
 思えば、これに手を出した動機も、実に情けないものだった。
 母に対する当てつけだったのだから。
 私達親子は、いつも通じ合うことができない。
 話せば話すほど険悪になってしまう。
 そんな不仲(ふなか)さに苛立(いらだ)った私は、母の娘である私自身を、母の嗜好品(しこうひん)で傷つけてしまいたくなったんだ。
 だけど、母は今日、これを自ら私に差し出してきた。
 つまり、この程度の娘の自傷行為(じしょうこうい)なんて、痛くもなんともない、ということ。

「……まぁ、いいよ。もういい」

 肺へと吸い込んだ煙毒(えんどく)は、徐々に立ちのぼってきて、だんだんと頭の中に()ちていく。
 身体に合わないのか、私はすぐにクラクラとしてしまう。
 だから都合が良くて、なおのこと癖になってしまった。
 頭が朦朧(もうろう)とするおかげで、制御不能(せいぎょふのう)な悪い思考が(おさ)えられて、陰鬱(いんうつ)とした苦悩を、文字通り煙に巻くことができるから。
 いつもなら、そのはずだった。

「もういい。なんか、もう」

 煙から逃れた自己嫌悪の虫が()い出てきて、私の口からこぼれた。

「もう、生きてるのやだな」

 ぽつりと落ちた無表情な音は、本心だった。
 何も無い人生だったけど、もういい。
 この先に幸せがあったとしても、そこまでの痛みに、もう耐えたくない。
 もちろん、頭ではわかっている。
 命の貴重さとか、(とうと)さとか、そういうもののことは。
 きっと壮大(そうだい)な数の人々が、いくつもの奇跡を()て、命のバトンを私にまで繋いでくれたのだろう。
 多くの願いや苦しみを経て、今、私の命へと至っているのだろう。
 だけど、申し訳ないけれども、私なんかに至ってしまったのだから、きっとそれらは、その程度のものなんだ。
 気付けば、私は呆然(ぼうぜん)と、ベランダの向こうを見つめていた。

「……はは」

 チープな自己憐憫(じこれんびん)(ふけ)る自分を、心から自嘲(じちょう)する。
 本気で飛び降りることなんて、できないくせに、と。
 粗末(そまつ)沈鬱(ちんうつ)(とら)われているうちに、いつの間にか完全に陽は落ちていた。
 ろくに吸わないまま長くなった灰をシンクに落とし、(くすぶ)りを水滴(すいてき)で消火する。
 顔を上げると、やけに視界が白っぽくて、換気扇(かんきせん)を点け忘れていたことに気付いた。
 薄暗いキッチンいっぱいに、もやもやと紫煙が揺蕩(たゆた)っている。

「……暗雲(あんうん)って感じだ」

 (かす)れた息で呟いた。
 暗雲だ。
 暗雲なんだ。
 この部屋も。たぶん、私の人生も。
 ふと、お弁当屋さんで見た、あのキャッチコピーを思い出す。
 あなたの人生の、主人公は…………
 やっぱり、私には、無理だ。
 他者を傷つける言動ばかりして、紫煙で苦痛を誤魔化(ごまか)す、鬱屈(うっくつ)した心の女子高生。
 自嘲のあまり口元が()(ゆが)む。
 自分のことながら、酷すぎる。
 社会も、世間も、こんな私を許容(きょよう)してくれるはずがない。
 私自身でさえ、受け入れられないのだから。
 私みたいな人間は、規制されてしかるべきだと、私自身も思うから。