翌日の放課後、彼女との帰り道。
「ねーどうしたのー? そんな思い詰めた顔して」
「なんか予知夢を見た気がするんだけど、覚えてなくてさ」
「……そういう重要なことはちゃんと覚えておいてよ。なんか怖いんだけど」
 顔を歪ませながら彼女は言う。本来なら覚えているはずなのだが、目覚めた時から思い出せないのだ。印象に残っていなかったのかなとも思ったが、なぜか涙が頬を伝っていたのでかなり大切なことだったのだろう。気分も最悪で、どこかぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような感覚もあった。
 雰囲気だけは覚えている。どこか静かな場所で、全体的に色味が白かった。差し込む光で物も何も見えなかったが、その空間には僕ともう一人の二人きりで他に気配はなかった。男性か女性かもわからないし、年齢も全く見当がつかない。残っている情報はたったこれだけ。対策どころか場所も何が起こるのかもわからない。
「まぁ大丈夫っしょ。私たちはずっと一緒だしね!」
 どこか無理矢理放たれたように感じるその一言に、僕は動揺を隠そうと努力しながら笑った。これからも一緒にいれるとは思えないような体調と行動を見せられては、素直に受け取ることはできない。
 僕がうまく呑み込めていないのを察したのか、彼女は深掘りされないうちに話題を変えた。
「そういえばさ、優弥くんは文化祭どうするの?」
「どうするって?」
「誰と行動するのってこと。いないなら、一緒に行こ」
「……僕はいいけど、君はいいの? 他の人じゃなくて」
「私は君と一緒がいいの」
「ならいいけど……」
 今までの僕なら、特に聞き返すことなく了承していた。でも彼女は最近様子がおかしい。体調とかそういうことではなく、何か全く別のことを抱えているような感じ。そしてそれは日を追うごとに悪化していて、妙にそわそわしていたり、時々言葉の言い回しがおかしなときもある。彼女が友人同士で過ごしているときも、どこか受け答えがおかしかったり、発言が少し乱暴になることもある。焦っているような、何かから目を逸らしているようと言ったらしっくりくるだろうか。
 これも彼女に尋ねてみようかと思ったが、それで彼女の調子を悪化させてしまってはいけないし、仮に話してくれたとしてそれがとても苦しいものだった時、それを受け止めてあげられる自信がない。
 自分でもわかる。彼女が変わり始めてから、僕は現実から目を背け続けている。何かはわからないが、一度踏み込んではもう引き返せないような、絶対に向き合えないようなことが待っているのだという危機感がある。それを乗り越える勇気もなく、こうしてずるずると引きずったまま。いつかは来るであろう向き合わなければならないときに、僕は本当に正常でいられるのだろうか。どうせ何も起こらないだろうと信じたがっている時点でだめなのではないだろうか。
 もう少し、もう少しだけ、もう少しだけ観察してみよう。
 また逃げた、と自分に悪態をつく誰かがいた。

 それからはいつも以上に彼女を様子を気にしながら過ごした。登下校の時や授業中、文化祭の準備……。普段の明るい素敵な彼女でいてほしいと切に願いながら。
 だがそんなことは全くなく、今まで通り悪くなっていく一方だった。情緒が不安定になりやすいみたいで、意味深な発言をすることも増えた。そしてそれは僕だけでなく他の人に対しても。
 クラスメイトもそれに気づき始めたのか、今までの活気はしだいに薄くなっていった。そしてやがて全員がこの事態を重く捉えなければならない雰囲気に包まれていった。その決定的発言を彼女がしたから。
「一人にさせてほしい」
 ある日突然、そんなことをしょっちゅう口走るようになった。別に人間誰しも一人でいたいときはあるだろうし、珍しくも何ともないのだが、彼女の言葉と表情はとても冷たく、鉛のようにずっしりとした重みがあった。そしてそれは一日だけに留まらず、一週間経った現在も続いている。僕に対しても例外ではなく、しまいには登下校も別となった。朝はぎりぎりに来て、帰りはすぐに帰ってしまう。声をかけるタイミングさえとらせてくれないのだ。
 僕までもが避けられたことで、クラスメイトはかなり心配している。だが日が経つたびに沈んでいく彼女を前にして、「大丈夫? 何かあった?」なんてことは誰も言い出すことができす、次第にクラスには少し気まずい空気が流れ始めた。
 みんなのことが大嫌い。近づかないでほしい。そんなオーラを纏うようになり、誰も行動を起こすことができなかった。
 そして文化祭一週間前の今日。彼女は再び欠席した。
 今までの出来事もあって、みんな動揺を隠せなかった。大丈夫かな、何かできたかもな、なんて不安や葛藤、懺悔があちらこちらから聞こえてくる。僕含め多くの人が定期的に連絡を送っていたみたいだが、ずっと既読はつかないまま。中には一週間前から既読がつかない人もいるらしい。
 不安ばかりがどんどん増大する。これだけに留まらず沢山の姿を僕は目撃している。だからこそより大きく、重いものへと変化していく。何かできることはないか、と何度も頭で逡巡する。病気か、家庭の事情か、最近見続けている予知夢がヒントなのか。何が正解かもわからないまま何度も何度も考える。
「おい霧原ー。何も知らないのかよ」
 そんな日々を三日過ごした今も、何もできずにいる。見当もつかないし、行動を起こす勇気もない。そこへクラスメイトが複数人で声をかけてくる。いつも彼女と一緒にいた女子生徒も混じっている。
「わからないよ。こっちだって突然で混乱してるんだ」
「霧原くんまで知らないなんて……。連絡もつかないんだよね?」
「うん。なかなか話すこともできなかったから、見当すらつかないんだ」
 クラス中混乱の渦に飲まれ、ほとんどの生徒が不安を覚えている。愛されていた証拠でもありながら、これほどまでに人に好かれる彼女のすごさを実感する。
 あの手この手でいろいろ考えてみたが、答えは見つからないまま放課後になってしまった。
 土曜日に行われる文化祭二日前の今日。当日三日前からは昼で授業が終わり、午後を準備に当てさせてくれるらしい。僕のクラスはほぼ終わっているので、今日は少しだけ手伝って帰宅させてもらった。どうやら僕と慈希の関係を何となく察している人もいるらしく、辛いだろうから休んで、と耳打ちされた。何度も感謝を述べながら僕は学校を後にした。
 学校で何度も尋ねられた時、いっそのこと全部話してしまおうかとも考えたが、彼女はそんなことを望んでいないであろうことは明確なのですぐにやめた。だがそうなってくると、誰の協力も得ずに一人で探し出すことになる。僕が持っていない情報がある可能性はゼロではないし、複数人の方が調べやすい。
 そんな言い訳のようなものを並べて今日もまた終わってしまうのだろうか。そんなことを考えていた時、手術のことを思い出す。
 手術で休んでいる可能性は十分にあるのだが、こんなにも急に決まるとは思えないし、仮にそうなのであればあの病院にはいないだろう。それに手術を受けるなら僕にだけは言えるはずだ。
 何か不安要素があったのか。ここまでくると手術自体嘘なのではないかと考えてしまう。そうであれば彼女の様子が変わった原因になるだろうし、少しばかり前進できる。
 本人の家に行ってみるのもありかもしれないが、確実に居留守をつかわれるだろう。
 どうしたらいいんだろうか。あれから何度も見た予知夢だってまともに思い出せないから、本当に打つ手がない。
「なあ知ってるか? 猫って死期が近づくと姿を消すらしいぜ」
「えーほんとー?」
「本当だって! 昨日テレビでやってたもん!」
 ふと耳に入ってきた、側を通り過ぎていった小学生たちの会話。とっさに立ち止まり、笑いあいながら駆けていく少年たちを見つめる。
 猫の話は僕でも聞いたことのある話だが、本当にそうなのだろうか。
 ――待てよ、"死期が近づくと姿を消す"だって?
「慈希、まさか……!」
 僕は来た道を引き返して最寄り駅へと駆けた。総合病院へ向かうために。

 当たっているかどうかはわからない。とっさに思いついたことだから。
 もし外れたら、それはそれでいい。行かないよりはよっぽどましだ。
 手術をすると告白してからあまりにも時間が経っていたので不審には思っていた。初めて会ったときは絶対に治らないと言っていた病気が急に手術可能になったことも不思議だった。だがそれは喜びにかき消され、今日この日まで見過ごしてしまった。彼女と生きていける……それだけでものすごく嬉しかったから。多くの犠牲を払って僕を助けてくれた彼女に、恩返しができると知ってとても嬉しかったから。
 後悔、懺悔、切望……いろいろなことを考えながら、総合病院へと疾走する。通行人にぶつからないように、駅では人の間をぶつかる寸前なぐらいの速さで抜けていった。運動不足の自分がこれほどまでに動けるとは思っていなかったが、大切な人が死ぬかもしれないんだ。今だけはどうか、この覚醒したような状態でいさせてくれ。
 目当ての病院が見えてきて、体が急に重くなる。足も痛み始め、胸に大量の空気が取り込まれていく。どんなに疲れても、止まってはいけない。今止まったらもう二度と走れなくなる。そう言って足に鞭を打って動かす。
 きっともう長くないはずだ。間に合ってくれ、頼む。
 やっとの思いでたどり着いた総合病院。自動ドアを抜けて受付へ急ぐ。学生服で、肩で息をしながらいかにも疾走してきたことが丸わかりの僕に対し、周囲の人から驚きの視線を向けられているのを感じた。普段はかなり気にしてしまうが、今はそれどころではない。
「望月、望月慈希のところへ、行かせてください……!」
 安定しない呼吸の中、受付で懸命に訴えかける。だが対応してくれたのは受付員ではなく、奥の方で作業をしていた事務員さんだった。
 一度目を丸くし、悩むようなそぶりを見せた後、やむを得ないという表情で僕に告げた。
「私が案内しますので、ついてきてください」
 そう言うと受付から去り、どこからともなく現れた事務員さん。黒い髪は短めに整えられ、クールな印象なその人の後を追ってエレベーターへ向かう。この待ち時間でさえもとても長く感じ、「早くしてくれよ……」と苛立ってきてしまう。
「望月さんのことは、誰から聞いたのですか?」
 扉が開いたとき、彼女は突然そんなことを聞いてきた。こんな時に何を言っているんだとも思ったが、ここで聞いてくるということは少し病室が遠いのだろう。
「……ただの憶測で、確証はないです」
 エレベーターに乗り込み、彼女は四階のボタンを押す。
「………………望月さんからは、あなたに伝えないでくれと言われました」
 やっぱりか。そう言うということは、僕の考えていることはほぼ的中したといっていいのかもしれない。
「何度か本人から話を聞きました。どうか、傍にいてあげて下さい」
 ほぼ答えのような発言に鼓動が加速する。早く会いたいという欲、何でもっと早く気付かなかったという怒り……いろいろなものが湧き出てくる。
 一番強く出たのは、彼女ともう一緒に生きることはできないのだろうという絶望。
 初めて会った時からこれは決まっていたこと。だから何も突然のことではなく、覚悟する時間はいくらでもあった。だが彼女と時間を共有していくたびに、彼女の優しい嘘によって、彼女と生きたいという想いが膨らみ覚悟は遠のいていった。そこに僕の控えめな部分が重なり、悪い方に事が進んでいった。最悪の事態――彼女を看取ってあげられないことはなんとか(まぬが)れたが、それでもやはり良い結果とはいえないだろう。
 エレベーターの扉が開き、先に降りた彼女についていく。少し遠い場所まで、無言で歩いていく。
 彼女が立ち止まり示した部屋には、「望月慈希」という名前が書かれていた。名前を見るだけでもいろいろな想いが溢れてくる。何から伝えよう、まずは全部説明してもらうべきか……。
「望月さん、入りますね」
 どうぞ、という最近になって変わった冷たく消えそうな慈希の声が聞こえてくる。あまりの小ささに驚いてしまうほどだ。
 事務員さんは、あとはご自由にというように目くばせする。
 恐る恐る扉に触れ、ゆっくりと開ける。
 慈希と目が合った。一週間ぶり、もっと会えない時期もあったのに、なぜかこれがとても長く感じた。途端に目が熱くなるが、今はまだ堪えなければいけない。
 彼女はというと、どうしてここにという驚きや知られたことによる怒りで顔が歪んでいる。事務員さんは彼女に睨まれるや否や立ち去って行った。
 入室してそっと扉を閉める。窓は開けられていて、入ってくる冷たさを帯びた風にカーテンが揺らされる。差し込む強い陽光が部屋を照らし、たまに眩しくて目を閉じたくなる。白いベッドの上で、病院服姿の彼女は寝た状態で多くの機会に囲まれている。
 ここにきて、立って気づいた。真っ白に包まれたこの景色。これが、予知夢の内容だった。二週間前から、腹が立つくらいにわかりにくいヒントをくれたのだ。
「もう、優弥くん、空気読んでよ……。今日が最期だったのに」
 そんなことを言う彼女のベッドの側にあった木製の椅子に腰かける。
 彼女はもう悟っているのだろう。思っていた以上に事態は深刻なようだ。今日気づけなかったらどうなっていたことか。
「その感じだと、全部、バレちゃっ、たんだよね」
 苦しいのか、言葉が途切れ途切れになっている。
「何となくだけどね。…………僕のこと、どうして騙したの?」
 何から話そうか迷って、ことの全てを明かすことが先だと判断した。後悔も何も残すことなく終わりにしたかった。
「もう君を、苦しめたくなくて、さ。……気遣わせちゃった、だろうし。君も、一緒に疲弊していくことが嫌、だったんだ」
 ただでさえ弱々しい声が、長い文になると終盤は聞き取れなくなってしまう。これほどにまで衰弱しているのは予想外だ。
 僕はまた、現実から目を背けている。本当はもうわかっているはずなのに。
「でも、最期に、君と話せて、よかったなぁ」
 ふっと零された笑みは、いつもの慈希だった。僕が惚れてしまった、大好きだった、何よりも綺麗で素敵な笑顔。最後に見れたのはいつだっただろうか。
 彼女の笑顔を見た瞬間、僕はもう涙を我慢できなかった。とっさに僕は彼女の手を強く握る。
「どうしちゃったの? 急に」
 そんな風にして彼女は笑っている。人の気持ちも知らないで。
 笑顔を見れたことへの嬉しさ、傍にいてあげられなかった後悔、騙していたことへの怒り……そして、もうお別れだいう悲しみ。
「死なないでくれよ……一緒に、もっと、世界を……」
 泣きじゃくりながらそんなことを口にしていた。こんなこと言っても無駄だとはわかっていても、抑えることなんてできそうになかったから。
 泣いている顔がどれだけ酷くてもいい。ただ最期くらい、言いたいことは全部言いたい。
「どうして、ここまで犠牲を、君は払ったのに、死んじゃうの……」
 そんなことを言ってふと顔を上げると、「まだ気づいてなかったの?」という顔でこちらを見ている。
「鈍いなぁ、優弥くんは。私の予知夢――病気で、死ぬ夢の『代償』は、君だよ。優弥くんだよ」
「で、でも、『代償』は、想いだって」
「あれは嘘だよ。君の夢の『代償』は、私。望月慈希」
「はっ…………?」
 驚きのあまり、涙も引いて何も言えなくなる。それも嘘だったのか……?
「お父さんとお母さんが死んだときに気づいたんだ。『代償』が私だったから、予知夢は現実になったんだよ。病気の予知夢も今日までずっと見続けてきた。その『代償』は、優弥くんだよ。一番、大切な人」
 お互いの夢の『代償』は、お互いだった。どちらかが生きれば、どちらかが死ぬ。
 彼女の夢は、現実になってしまう。
 彼女の予知夢を僕も見ていたのは、ここで「代償」が慈希だと気づいて殺さなければ、僕の予知夢は現実になるという警告だったのだろう。
 よく考えてみれば、予知夢を変えたあの日、慈希は少しだけ答えを言っていた気がする。
『"すごく無理矢理"だけどさ、きっと『代償』はものだけじゃなかったんだよ。そこには想いもあって、だからどうしようもできなかったんだよ。いくら頑張ったって、人の想いを変えることはほとんどできないに等しい。……君は、正反対の考え方を持つ私に感化されたんでしょ?』
 "すごく無理矢理"。これは彼女の考察ではなく、無理矢理こじつけた嘘だったということ。
 そして泣きじゃくり声が小さかったために聞き取れなかったあの言葉。
『だ…………てっ、……よか……』
 今ならわかる。その言葉の全文は、『騙されやすくて、本当によかった』だ。あの時の状況をもう一度再生したとき、こう言っているとしっくりくる。
 他にもヒントはたくさんくれたと思う。妙に思い出作りに執着していたのは自分が死ぬことが僕を助けた時点で確定しているからだろうし、おじいさんと会って手術が成功したと聞いたときに『え? あ、あぁうん、そう、だね』とたどたどしかったのは、手術と言って僕を騙しているのと同時に、手術をして治ればいいのにという叶わない願いからだろう。
 そもそも「普通」でいたいという想いが完全に消えていなかった時点でもう少し疑うべきだった。本当に騙されやすい。全て彼女の思惑通りになってしまった。
 騙されたことに怒ったりするつもりは一切ない。それは彼女の優しさであって、傷つける意図なんて全くないのだから。できればこんなことはやめてほしかったけど、多くのものを失った彼女が最善と判断したのなら、許そうと思ってしまう。
 ただ、僕が死ねば彼女が生きれるなら、話は別だ。
「ふざけんなよ! なんで……なんでちゃんと相談してくれなかったんだよ! 僕が死ねば、僕が死ねば君は生きていけたのに……! 僕なんかよりも、もっと良い君が生きるべきな」
「そう言うと思ったから、言わなかったんだよ」
 僕の言葉を遮って、彼女は微笑みながら言う。
「君は絶対、私のために死ぬって言うと思って。だから、言わなかった」
 反論する気力はなかった。だって彼女のその顔を見てしまったから。
 きっと話し合ったところで、結果は同じだったんだ。どう足掻いたってこの結果に収束する。それを思い知らされたから。
 彼女は深呼吸すると、微笑みながらも真剣な瞳で僕に話し始める。
「全てを失った、私からのお願い、よく聞いて? …………私は、君のことをずっと見てるから、傍にいるから。だから、『素晴らしくて面白い世界』を、君が、見せてほしい」
「見せる、見せるから……だからまだ、もう少しだけ、生きててよ……」
 いつかは来るであろう向き合わなければならないときに、僕は本当に正常でいられるのだろうか。その答えがこれだ。僕はやっぱり、彼女の死を受け入れられないみたいだ。堪えていたのではなく、ずっと逃げ続けていた。わかってはいたが、あまりにも逃げていたせいで、わがままばかり彼女に零してしまう。
「結婚とかしたく、なったら、私のことなんて、忘れて、幸せになって」
「できるわけないだろ……バカかよ……」
 力なくあはは、と笑う彼女が、どこか懐かしく感じる。以前のように冗談言い合って笑った日々がとても恋しい。できることなら、またあの日に戻りたい。またあの日常を歩みたい。
「……優弥くん、大好きだよ」
 突然放たれた彼女の言葉。彼女の瞳を覗くと、一気に涙が零れだした。
 ぼろぼろと溢れかえる大粒の涙に僕もつられ、お互い顔を歪ませて泣いている。
「優弥くん、私は動けないけど、最期に抱きしめて」
 僕はそれを聞いてすぐに抱き着く。彼女の体はとても細くなっていて、とても冷たかった。ただでさえ華奢だった彼女の体は、少し変に力を入れようものならすぐに折れてしまいそうだ。
 僕ができる精一杯の抱擁をする。
「大好きだよ……っ、優弥くん、大好きだよ。死にたく……ないよ……」
 相当な我慢をしていたであろう彼女は、とうとう抑えきれずに全部吐き出してしまった。お互い、溢れかえる愛情を抑えられず、何度も好意を伝え合う。
「嫌だ、やだやだやだ、いやだ……もっと生きたい、もっと君と……優弥くんと一緒がいい」
 溢れて止まない彼女の弱音を聞くその度に胸が苦しくなった。まだいかないでほしい、傍にいてほしい……。生きていてほしいと望む裏で、僕はもう一人でも生きていける、素晴らしい世界を見せるから心配しないで、と伝える自分がいた。
 目を閉じて想いをぐっと堪えていると、突然唇に生温かい感触があった。驚いて目を見開くと、すぐ目の前に彼女の顔があった。
「ふふっ。君の唇、奪っちゃった。最期に、してみたかったんだー」
 動けないと言いつつも、最期の力を振り絞って、最期まで笑顔を見せてくれる彼女。きっとこの笑顔が大好きだということを彼女は知っているのだろう。少しでも良い雰囲気で最期を迎えようとしている。それが僕を騙した償いであるかのように。
 お互い見つめ合ったあと、もう一度寄せ合う。彼女が望むようにしてあげたかった。奪われてしまったのだし、躊躇う必要はない。
「予知夢改変同盟は、これにて、解散とします」
 彼女はその名前を懐かしむように口にする。
「……ほんと、変な名前だなぁ」
「そんなことないよー」
 彼女が言い始めた予知夢改変同盟。予知夢の旅はきっともう終わる。だから自然と解散になる。
 最後まで変な名前だったが、いざ無くなるとなると少し寂しい。
「でもやっぱり、僕も好きだな、予知夢改変同盟」
「でしょー? やっぱ私センスあるなぁ」
 そんなことを言って力無く笑う彼女。わずかに入っていた彼女の力が、少しずつ抜けていく。それを感じて、余計に胸が苦しくなる。握りつぶされそうなほど痛く、呼吸も苦しくなる。涙でぐしゃぐしゃになった顔を見合わせて、最期を見届ける。
「たくさんの時間を、たくさんの愛を、ありがとう。優弥くん」
 もう聞き取れそうにないほど小さな声で、彼女は懸命に訴える。
「僕を変えてくれて、一緒にいてくれて……『普通』じゃない生き方を教えてくれて、ありがとう。慈希」
 最初は恥ずかしかった名前も、もう何の恥じらいもなく言える。たくさん伝えたいけど、もうお別れだ。
 名前も、好意も、感謝も、謝罪も、もっとたくさん伝えたい。でも、それももうできない。彼女はそれを聞けるほどの体力も時間もない。
 僕たちは手を握り合い、「ありがとう」を何度も伝え合う。辛いことだけど、この時間がどこか幸せでもあった。彼女の温度を感じて、こうして過ごすことが久しぶりだったからだろうか。彼女も笑っていて、死ぬことが少しばかりか怖くなくなっているみたいだった。
 安心したような表情で、大好きな笑顔を浮かべている彼女。手を握る力が次第に弱くなっていく。
「ありが、とう…………優弥、くん……」
 そう言って一滴の涙が瞳から零れ落ちたとき、彼女の手はすとんとベッドに落ちた。全身の力が一気に抜けたのだ。
 僕は彼女の落ちた手をもう一度握り、ベッドの傍で膝から崩れ落ちる。
「あぁぁっ……慈希、……し、き……」
 まだ温かみを帯びていた手が、みるみる冷たくなっていく。
「ああぁぁ…………ぁぁああああああああああああぁぁぁ!」
 病を前にした自分の無力さ、彼女と生きていけなかった悲しみは、やっぱり大きい。耐えきれずに、泣き叫んでしまった。
 それを皮切りに、医師や看護師さんが入室してきた。扉の前で待機していたであろう彼らは、人とは思えないほど冷たくなった慈希のもとへ動いていく。事務員さんが僕一人を部屋に残したということは、彼女が延命を拒否していたのだろう。そしておそらく、今日が命日になることもわかっていたのだろう。
 死亡確認をしている間も、僕は彼女の傍で泣き叫び続けた。嗚咽も我慢できずに。
「瞳孔の散大と対光反射の消失を確認。心音と呼吸音も聞こえず、心臓の停止も確認しました。十一月二十日、午後三時三十三分、死亡を確認しました」
 咽び泣く声を縫うようにして耳に届いた冷たいその言葉が、彼女の死をより深く実感させる。
 慈希はもういない。これが本当にお別れ。
 僕はそっと彼女の手を離す。
 さようなら、慈希。ずっと愛しているよ。
 僕が「素晴らしくて面白い世界」を見せるから。
 これからも一緒。でも今は少し、休んでね。
 お疲れ様、慈希。

 どれだけ時間が経っても、涙は止まらなかった。
 嗚咽や叫びはなくなったものの、いまだに涙だけは零れ続けている。勢いは治ってきているが、すぐにまた滲んでくる。
 死亡確認が終わって医者や看護師が去った後、ここまで案内してくれた事務員さんだけは残っていることに気づいた。彼女はかれこれ十分そのままだ。
 僕は流石に動かなければいけないと思いゆっくりと立ち上がる。だが、ずっと座りっぱなしだったのと死のショックが重なってうまく立ち上がれない。膝がガクガクと震えてしまっている。
 椅子を駆使しながらやっとの思いで立ち上がる。クラクラして呼吸も不安定なので一度深呼吸する。
 相変わらず止まらない涙。いつまで悲しんでるつもりだ。早く前に進まなきゃいけないだろ。
「涙を無理やり止める必要なんてないと思いますよ。泣きたいのなら、沢山泣いてあげていいと思います」
 突然言葉を発した事務員さん。心を読んできたかのような発言に、少し後ずさる。
「……あなたは、何をしてるんですか? 何か、目的があって残ってるんですか?」
 少し失礼な、威圧的な聞き方になってしまったが、そんなことを考えている余裕はなかった。
 彼女もそれをわかってくれているのか、顔をしかめることもなく流してくれた。
「………………慈希さんから伝えてほしいと言われていることがあります。……あなたが良いのであれば、場所を変えさせてください」
 慈希から……? もう一杯いっぱいなのにまだ何かあると言うのか……?
「もう大丈夫です。ここにずっといたら、本当に離れられなくなっちゃいそうなので……。どこに向かえばいいですか?」
「そうですか……では、このあと四時半に、星空が見えるあの場所に来てください」
「……どこですか?」
「あなたならわかるはずです。望月さんと時間を過ごしたあなたなら」
 それだけ言い残して、彼女は病室を後にした。
 慈希と過ごした"星空が見えるあの場所"……交際が始まったあの公園だろう。どうして彼女はそのことを知っているのだろうか。慈希から聞いたとはいえ場所までは流石にわからないだろうから、彼女も行ったことがあるということか……?
 考えるのをやめ、僕も病室を後にする。
 病室を出る直前、僕は慈希が眠るベッドにもう一度目を向けたかった。
 でもそれはできなかった。してはいけないと思ったから。
 目を瞑り、心の中で呟いた。
 君の知らない世界、楽しみにしててね。
 彼女を残し看護師さんと入れ違いになって病室を出たとき、慈希の親戚であろう人たちとすれ違った。報せを受けて来たのだろう。彼らはまだ涙を浮かべていないようだった。
 彼女の最後に、彼女の両親がいないことが、本当に苦しかった。

 十一月下旬。日没時刻はかなり早くなり、気温もがくっと下がる。現在時刻は午後四時二十五分。まもなく太陽は沈み、街は闇に包まれる。最後にここで星を見たときに比べて、上着を着ていても少し肌寒い。今となっては、あの暑さまでもが恋しく思えてしまう。
 あの星たちのように輝いていた慈希は、今どこにいるのだろう。地獄に落ちるわけないから、天国だろうか。それともあの星たちに仲間入りでもしてるのだろうか。約束通り、もう僕の傍に戻ってきてくれているのだろうか。
「綺麗だよね。ここの星」
 突然隣から投げかけられた言葉に、僕は声も出せずに驚く。私服姿となった事務員さんは、髪形などからクールな印象は変わらずだ。
「ごめんね、驚かせちゃって。あ、敬語じゃないのは許して。これも慈希のお願いだから」
 呼び方が「望月さん」から「慈希」に変わっているうえに敬語じゃなくなった……。慈希は彼女に一体何を託したというのだろうか。ここからさらに絶望するようならば、すぐに逃げたい。
「私は望月、あの子と同じ苗字。よろしくね。……君は優弥くんだよね。慈希から聞いてる」
 よろしくお願いします、と彼女の挨拶に応える。混乱してることもあってかなり遠慮気味になってしまったが、望月さんは笑ってくれた。僕だけが緊張しているようで、彼女も平然を装っているだけなのだろう。
「伝えたいことは二つ。どっちから聞きたい? 予知夢のことか、未来のことか」
 彼女の持つ聞き取りやすい低めな声は、落ち着いているようで悲しみを帯びている。
 迷った末、二つの選択肢よりも気になっていることから聞くことに決めた。
「…………慈希とはどんな関係だったんですか?」
「やっぱり気になる? ……長くなっちゃうんだけど、あの子とは……」
 言うべきか悩んだような仕草の後、思い出を噛みしめるように、逃がさないように語り始めた。

 ※※※

 大学卒業後、私はこの総合病院で働くことになった。
 特に理由があったわけではない。ただ息を吸って吐くだけの人生の中で、「働く」ということを取り入れられれば――収入さえ確保できればなんでもよかったから。在学中に暇だったので、会計士などの専門資格も持っていたし、別でやりたいことが見つかれば、直ぐに辞める予定だった。
 職員も患者も年齢層は広く、いろんな人がいる。狂った人生に少しでも良い刺激になればいいと思ったが、全くそんなことはなく、二年目にして退職を予定していた。
 こんな調子で私には何ができるんだろう。生きていけるんだろうか。生きているより死んだほうがいいのかな。何年も考えてきたことをまたぼんやりと考えていたある日、私を変える人物が現れた。
 医薬品などの管理をするのも事務職の仕事の一つ。要望を聞き、在庫を確認。不足しているもの、もう少し増やしてほしいものを注文する。
 その仕事の流れで、入院患者もいる四階に来ていた。やることを終えて一階に戻ろうとエレベーターを待っていた。資料を片手にため息をつくと、ぶら下げていた右手を引っ張られた。
 ふと顔を向けると、涙目の少女がいた。今にも泣き出しそうなくらいに顔が歪んでいる彼女は、病室の方を懸命に指差し、私の手を引っ張る。何か緊急事態が起きているのではないかと思った私は、とりあえず医療従事者を呼ぼうとしたのだが、それよりも先に様子を確認する方が大事だと判断して彼女が指す先へ向かった。だがなぜか、私の手を引っ張って連れて行く彼女は焦っている様子がなく、とてもゆっくりと歩いていた。とぼとぼと私を連れて行く彼女はどこか悲しそうで、幽霊のように静かだった。
 望月慈希と書かれた病室の扉を開けた彼女。それに続いて入ると、彼女は急いでバタンと閉めた。
 中に人はおらず、私と彼女だけ。何か起こっていると思って来たので安堵すると同時に、なんで連れて来られたんだろうと尋ねようとした。
 が、彼女はぼろぼろと涙を零し、私に抱きついてきた。
「死にたい」
 何度も彼女はそう言ってきた。それはもはや、私に「殺してほしい」と言っているかのようだった。あまりにも突然のことで私は驚き何も言えなかったが、これがただ事ではないことぐらいわかる。とりあえず私はしゃがんで、彼女と目線を合わせて言った。
「何でも話していいから、とりあえずお互い座ろ」
 いつか彼が私に言ってくれたみたいに、優しく、不安を和らげるように。
 彼女は私の顔を見るなり頷いて、彼女はベットに、私は側にあったまだ新しい木製の椅子に腰掛けた。
「本当に、何でも、聞いてくれるの?」
 彼女は泣き止んできたとき、不安そうに言った。
「何でもいいよ。好きなだけ話しちゃいな」
 正直仕事があるし、医療従事者でない私が長居していいのかわからなかったが、彼女を放っておくなんてことはできなかった。
 力になってあげたい。久しぶりにそう思った。
「私の病気、治らないみたいなの。いろんな病院で検査しても無理だって。でも、頑張って薬とか飲んで、回復させたんだよ?」
 なのにさ、と彼女は続ける。
「何をしたって、お母さんとお父さんに迷惑かけてばっかで、頑張って学校行っても見た目だけで人が寄ってきて、何をしたって苦しいだけで……。もう、いやだ……、死にたいよ……」
 彼みたいだな。猛烈にそう思った。
 どこまでも優しくて、どうしようもないくらい馬鹿だ。病気でこれだけ苦しんでいるんだから、少しくらい我儘言ったっていいと思うし、難病ならば迷惑かどうかなんて考えなければいいのにと思った。でもそれができないくらいに優しい心の持ち主だ。
 だがなぜだろう。どうしてそんなことを私なんかに話したのだろう。私がこの子と関わるのは初めてだろうし、そんなことを言われても何かをしてあげられる保証なんてないのに。
「どうして君は、私にそれを話したの?」
 私は気になって尋ねてみた。
「なんか、目が優しそうだったし、お姉さんなら、力になってくれるかもって、思って……迷惑だった……?」
 再び目を潤ませて訊いてくる。この子はいつもこうやって、他人のことを第一に考えているんだろうなぁ。
「迷惑なんかじゃないよ。私に何か、してほしいこととかある?」
 彼女は私から視線を外し、ベッドを見つめ考えている。やがて彼女は、やや申し訳なさそうに口を開いた。
「私、また入院生活になるんだけど、無理のない範囲で、ずっと私の傍にいてほしいです。独りは寂しい、ので……」
 これは要するに、これから毎日彼女を訪ねてほしいということだろう。
 ここまで話に付き合ったんだし、彼女の要望には応えたいな。
「わかった」
「え、い、いいんですか? 本当に?」
「うん。仕事の都合もあるけど、できるだけ顔出すね」
 彼女はそれを聞いた瞬間にぱあっと顔を輝かせ、私のもとへ抱き着いてくる。
 泣くこともなく、何も言わなかった。
 でも確かに、彼女の心は泣いていた。
 感謝や謝罪、苦しみ、寂しさ……いろんな涙が、彼女の心から流れていた。

 ほぼ毎日、慈希のもとを訪ねた。彼女と過ごす時間が楽しかったら。ただ息を吸って吐くだけの人生の中で、生きている意味を再び見つけた気がしたから。彼女がくだらない話で笑ってくれた時、苦しそうな顔が晴れたとき、久しぶりに学校に行ってしばらく会えなかったときに「ご褒美がほしい」と甘えてきたとき。いろんな彼女が愛おしくてたまらなかった。
 仕事で関わる人間にはこのことを話していた。仕事に支障をきたしてはいけないから。それがだめと言われれば素直に従ったのだが、意外にも快諾してくれた。主治医曰く、それで彼女の力になれるなら構わない、らしい。彼女はまだ八歳で、生きれてもあと三年ほどみたいで、いずれ知ることになった時に、私のように泣き所があった方がいいとも言っていた。
 何よりこんなにも彼女を溺愛している理由は、彼女が私を「お姉ちゃん」と呼んでくれるからだ。同じ苗字なだけあって本当の妹のように感じてしまい、余計に離れられない。
「お姉ちゃんがいてくれるから、私はもっと生きていける気がする!」
 彼女が十二歳の誕生日を、不運にも病院で迎えてしまった日。彼女は花が咲いたような笑顔でそう言った。その笑顔を見れて、あと三年と言われていたのにここまで頑張って生きてくれたことが、どれだけ嬉しかったことか。今でも忘れられない。
 全てに絶望し、狂った人生をゾンビのように過ごしていた。働いて、食べて、寝て……。そんな人生に彼女は、彩だけでなく変化まで与えてくれた。
 死んでしまってもいい。こんな人間が生きていけるのか、生きていていいのか。そんなことばかりを考えていたのに、もうそんなものは消えていた。生きたい、ただそれだけが残った。生きたい理由があったから、誰かのために生きることができたから、彼女が生きていていいと体現してくれたから。
 ある日の夜、彼女は突然言い出した。星を見に行きたい、と。
「幼い時にお父さんとお母さんに連れて行ってもらった場所で、もう一回見たいんだ。ここから電車で行って少し歩いた公園なんだけど…………連れていってほしい、一緒に見に行きたい……!」
 すごく気になったし、彼女の思い出の場所に足を運んでみたいとも思ったのだが、私と外に出ることをご両親は許すだろうか。それに彼女は外出許可を得ているのかな。
「……君の親御さんは、許してくれるの? 全く知らない私と一緒に外出なんて」
「えっ? お姉ちゃんのことはもう話してるよ? すごい感謝してたよー。今度ちゃんとお礼を伝えたいって」
 そうだったのか……。てことは私はかなり失礼な人間だったのかもしれない。こんなに一緒にいるのに挨拶の一つもせずに……。
「それに、星を見に行きたいって話もしてるんだぁ。怒るどころか、全然いいよって。だからさ、あとは外出許可だけなんだってばー」
 やはり外出許可が出てなかったのか……。
「主治医に聞いてみるね。私も慈希と見に行きたいし」
「……やっぱりお姉ちゃんならそう言うと思った! ありがとう本当に! あぁぁ、楽しみだなぁ……」
 決まったわけでもないのに目を輝かせ、妄想を膨らませる彼女。可愛い子だな、なんて思いながら、その日は病室を後にした。
 結論から言うと、外出は許可されなかった。
 事情を話した時、少し悩むようなそぶりはあったのだが、容態を考慮するとまだ不安があると言われてしまったのだ。
 これを慈希に話すと、もちろん黙っているわけがなく、許可してほいしと何度も何度もお願いしていた。駄々を捏ねる五歳児みたいで、それはそれで可愛かった。
 あまりにも彼女がお願いするので、主治医も許可を出したがっていたのだが、やはりまだできないのだと言う。医療の世界は全くわからないが、ここまで拒むということは一つ間違えば危険な事態になるのだろう。

 慈希はそんな言い争いをしながら中学生になった。小学生のときは退院の頻度も多かったのだが、中学生はそうもいかなかった。少なからず病気は進行しているので、中学校にはほとんど行けなかった。退院できないということは、両親とも都合の合う日しか会うことはできない。そこに私は、できるだけ穴を埋められるようにした。すると彼女は、決まって嬉しそうにしてくれたから。
 高校に行けるように、たくさん勉強も教えた。地頭がいいのか、呑み込みが早いのか、学校に行っていないとは思えないほど頭が良かった。
「お姉ちゃん、教えるのほんと上手だよね」
「そんなことないよ。慈希の理解する能力がすごいんだよ」
「じゃあ、お姉ちゃんがいて、やっと完成するってことだね!」
 そんなことを言って二人で笑った。二人きりの静かな病室で。素敵な笑顔を独り占めできるのは、本当に嬉しかった。
 そんな生活を続け、彼女が中学二年へと進級するとき、主治医からプレゼントがあった。
「えっ!? 本当ですか!? やったー!」
 容態が良い状態で保てているらしいく、星を見に行くことが許可された。うまくいけば退院もできるそう。
「でもどうして急に許可してくれたんですか? 今まで学校に行けた日もあったんだから、その時に行かせてくれればよかったじゃないですか」
 彼女は首を傾げながら主治医に問いかける。
「でもその後、あなたはすぐここに戻ってきたでしょ。そういうことです」
 と、返ってきた。彼女の性格上、星を見に行けば間違いなくはしゃぐ。体調が崩れやすい中で見に行けば、確かにその場で倒れる可能性はある。主治医は彼女が幼い頃から診ているらしいが、納得だ。
 夜空の絶景は、もう言うまでもないだろう。圧巻だった。
 電車に乗車した段階で興奮を抑えきれていなかった彼女の気持ちもわかる。こんなに素晴らしいものをもう一回見れるとなったら、さぞ嬉しいだろう。
「やっぱり綺麗……。お姉ちゃんと見れてよかったぁ」
 隣で彼女はそう零す。喜びを噛み締めるように。
「素敵な進級プレゼントだね」
「うん。ここまで頑張ってよかった!」
 満面の笑みと、心の奥底から告げられた言葉。"ここまで頑張ってよかった"。
 自分が本当に情けなく感じてくる。途中で物事を投げ出そうとして、勝手に死のうとして。私なんかよりもっと辛い、もっと若い彼女は、こんなにも懸命に生きているのに。
 醜く狂った人生に彩りを添え、腐った世界に価値を見出している。
「ほんとにすごいよ、慈希は」
 私は彼女に聞こえないように、ぽつりと呟いた。
 
 彼女が最も苦しかったのは、高校入学が決まって三カ月が経とうとしていた頃だろう。
 試験には頑張って合格したものの、体調が優れずに一度も登校できていなかった。そしてそこに、簡単には受け止めきれない報せが入ったのだ。
 私はその日、仕事が普段より忙しくなかなか慈希のもとへ行けなかった。やっとの思いでたどり着いてとき、心苦しそうな顔で出てくる彼女の両親らしき人とすれ違った。何かあったのかな、そんな言葉では片付けられないほど禍々しい雰囲気が病室の扉から溢れていた。
「慈希、私だよ」
「……………………入っていいよ」
 消えてしまいそうなほど小さい声。これは絶対に何かあったな。覚悟を決めて私は扉を開けた。
 そこにいたのは、ベッドに上で膝を抱えている彼女。
「何があったの?」
 私は恐る恐る尋ねた。
「……お姉ちゃんは、どっちがいいと思う? 今まで通り薬の投与で長く生きようとするか、強い薬で不自由なく生活できるようにして退院するか」
 なるほど。かなり病気は悪化していたんだな。少ない人生を謳歌するか、少しでも長く生きれるように病院生活を送るか。
「慈希はどっちがいいの?」
「私は、この世界のこと全く知らない。ほとんど病院だったから、行ってみたいとこ、したいこと、たくさんある。だから、強力な薬で外に出て、"素晴らしくて面白い世界"を見に行きたい」
 彼女の中では選択できているみたいだ。となると、両親に反対されて少し迷いが生じたのだろう。
 彼女と離れてしまうことは少し悲しいが、彼女がそう望むならその方がいいだろう。それに私は、彼女からいろいろともらって、生きる意味がある。彼女がいなくても、きっとうまくやれる。誰かの役に立てる。
「慈希の想いが大事だと思うよ。君の人生だしね」
「…………やっぱり背中を押してくれるのはお姉ちゃんだね! ありがと! そうする!」
 すると彼女は、そんなことはどうでもいいというかのように話題を変えた。話したい事が山ほどあるみたいだ。
 その翌週から、彼女は大量の薬を抱えて退院した。
 正直心配だったし、寂しかった。彼女にとっては久々の外だし、もっと話したかった。
 でも彼女は、何かあればまた私のもとにくるだろうし、うまくやれたならそのまま生きていくはずだ。
 頑張れ、慈希。

 ※※※

「君も知っている通り、何度か彼女は再入院した。自慢げに君のことを語ってくるし、病気の愚痴もたくさん聞いた。だから、優弥くんが慈希とどんな関係だったかとか、どんな出来事があったかとかは大体知ってるんだ」
 望月さんが話し終えた後、しばらく僕は黙ってしまった。
 たくさん訊きたいことがあった。ところどころ本人から聞いていたことと違う部分があるから。
「慈希から聞いてる話と、食い違いがあるのですが――」
 洗いざらい全部話した。不思議な点を、繋ぎ合わせたくて。
 一番知りたいのは、『ずっと独りだった』と彼女が言っていたこと。交際が始まった日、誰も心に踏み込もうとしなかった、独りで闘うことに疲れた、寂しかったと言った。だがその役は、望月さんが担っていたではないか。
 慈希の話はどこからどこまでが嘘で、どこからどこまでが事実なのか。望月さんが嘘をついているのか。いや、後者はあまり考えられない。大切な人が死んで疲弊している人間にこんな嘘をつくなんて人としてあり得ない。
 彼女は少し考えた後、あの子は欲張りだなぁと零す。
「足りなかったんだろうね、私だけだと。それに私とは長い間離れて過ごすわけだから、私以外に、学校生活や日常生活であの子に寄り添った君を好きになったんだろうね。共に時間を過ごしたいって思うぐらいに」
 君なら想像できるでしょ? と彼女は尋ねてくる。
「彼女らしいですね。過去の話も、今の話も。そんなとこも可愛いですけど」
「そうなんだよーだから離れられないんだよねぇ。ほんと、ずるい子だよ。嘘までつくなんてさ」
 共感のあまり僕たちは顔を見合わせて笑ってしまう。
 そこで一気に空気が緩んで、お互いの思い出について話し始めた。僕は慈希と過ごした半年間、彼女は慈希が退院するまでの数年間。知らなかった一面ばかりが出てきて、「猫被りすぎだよー」と望月さんは何度も言った。感心するような出来事から恥ずかしい話まで……お互い呼吸が苦しくなるくらい笑ったりした。初めて会う人物と関わるのが苦手な僕でさえ、ほとんどを曝け出してしまうほどに。彼女が慈希に好かれる意味も分かったし、ここに慈希がいたらもっと面白くなっただろうなぁとも想像する。
 たくさん話して、たくさん笑って落ち着き始めた時、彼女は急に顔を上げた。
「なんかさ、血も全く繋がってない赤の他人なのに、本当は……関わることなんてなかったのに、あの子がいなくなって、すっごく、悲しいんだよね。また、失われるのは苦しいし…………なんでだろうね。…………でも、最後にちゃんと伝えてくれたから、悔いはないけどね」
『今までありがとう、お姉ちゃん。…………お姉ちゃん、大好きだよ』
 そう慈希は伝えたらしい。最期は独りにしてほしいと言って、それがお別れになったみたいだ。
 上を向いて星空を眺めている彼女。だがそれは、星を見ているのではなく、涙を零さないようにしているのだろう。彼女と慈希の話を聞いて、知らなかった部分に触れて、より鮮明に僕の持つ今までの思い出が浮かびあがり、また愛しさや涙がこみあげてくる。
 だがここで涙するわけにはいかない。まだ聞かなければいけないことがある。
「『また』って、どういうことですか……?」
「…………予知夢のこと、未来のこと、どっちにも繋がるから、よく聞いてね?」
 望月さんは、苦しそうに悩んだ後、勇気を振り絞るように話し始めた。
「彼女が予知夢の答えを見つけられたのは、私が答えを教えたから。私が、予知夢を見たことのある人間だったから。君たちと、全く同じ」
 嘘だ、と言えるはずなのに、それを口に出すことはなかった。そんな非現実的すぎることを何度も体験してきたからか、反論することなく彼女が再び話し始めるのを待った。
「あなたたちと全く同じ年齢の時に、全く同じタイプの夢を見た。彼女の両親が死んだ日にその相談をされて、すぐにわかった」
 全てを話そうか悩んで末に、慈希には自分の経験を含めて答えを教えたらしい。
「私は、霧原くんの立場だった。大好きな彼氏が死ぬことで、私は生き残った。『代償』の答えは、"対象者の一番大切なもの"」
 片方が死に、片方が生きる。これは絶対に約束されていたということであり、それに気づかせるために、多くの犠牲を払う必要があった。犠牲を払ったって、幸せになれるとは限らないのに。
 二人で生き残るために何度も話し合い、たくさんの手段を試し、多くのものを失った。なのにそれを、神様は嘲笑うように見ていただけで、必ず苦しみが残る方へと導いた。いや、僕たちに導かせた。
 本当に腹が立つ。
 こんなことなら……。
「だったら、僕たちは"出会ったこと"自体間違いだったんですか……?」
「出会わなければ『代償』は変わった。あれだけ多くの犠牲を払う必要もなかった」
 彼女は諦観を含んだ声でそう零す。自分も経験していることから、僕たちの気持ちを少し理解できるのだろう。どこにも当てられない、どうしようもできなかったことに対する怒りや辛さを。
「だけど、"出会わなければよかった"は間違いだよ」
 彼女は語気を強めて言う。そして僕の方に向き直り、肩をがっしりと掴む。
「出会ったから、霧原くんは"普通"だけでなく、"生きること"の良さを知った。『面白くて素晴らしい世界』を知ったんでしょ? 本来なら、悲劇を予知して変えることなんてできない。でもそのチャンスがあったから、今の君があるんじゃないの?」
 常に意識するのは、「普通」。「普通」に生きることが、僕の命綱。
 この考えを変えることができたのは、予知夢があったから。予知夢があったから彼女と時間を共有できたし、いろんな想いを知ることができた。学校でも"普通"を意識することは少なくなり、頼りになる、関わりやすいと僅かながらに認めてもらえた。彼女のためとはいえ「生きたい」と思うことができた。
 慈希の華やかな、綺麗な笑顔に惚れた。
 その笑顔を見ていたい、ずっと傍にいたいと思った。
 僕が彼女の生きる希望になったんじゃない。彼女が僕の生きる希望だった。
 常に意識するのは、彼女と過ごすこと。彼女と過ごすことが、僕の命綱。
 いつの間にかそうなってしまったんだ。
 だからこんなにも悲しくて、寂しんだ。
「私みたいにはならないで。優弥くんがどんな決断をするかはわからないけど、予知夢で得たことを踏まえて、後悔のないように生きて」
 まるで自分が罪を犯したかのように懇願する彼女。きっと過去に、僕がまだ知らない何かがあったのだろう。予知夢によって、人生が大きく変えられてしまった彼女が僕に何を望んでいようが、僕の答えは決まっている。
「         」
 僕の言葉に、彼女はとうとう涙を零した。安心したように微笑みながら。
 会ったばかりの望月さんと、涙した。
 初めてあった人と、お互い顔をぐしゃぐしゃにしながら、たくさん泣いた。
 慈希のように儚く、美しい夜空も泣いていた。
 数えきれない星が、空から、瞳から、降り注ぐ。
 酷く、苦しい世界に取り残された僕たちが紡ぐ物語を、君に届けたい。
 君が見れなかった、夢の向こうへ――――。