慈希が学校に来ない。ただそれだけで、クラスの雰囲気は一気に暗くなる。転校してきたばかりのときのような雰囲気は消えてしまったが、彼女の人間性の良さには多くの人が魅了されている。友達として、仲間として慕われているのだ。いまだに彼女が嫌う人間――容姿目当てで迫ってくる人間もいるそうだが……。
「霧原ー、お前なんか知ってる?」
クラスの友人がそう僕に尋ねてくる。彼は彼女に興味はないのだろうが、こうもクラスに影響が出ると気になるのだろう。
「僕もわかんないよ。すごく急だからね」
「ふーん、そっか」
僕の答えには嘘なんてない。本当にわからない。
考えられるのは病気の悪化か、あの指輪の一件か。それ以外に見当はつかない。
「霧原ってさ、なんかちょっと変わったよね」
大きく話題を変えたかと思えば、そんなことを言ってくる。
「え、そうかな」
「なんて言うんだろ……今までどこか暗かったり、自信なさそうだったのに、今はちょっと生き生きしてる」
突然そんなことを言われたら、なんて返したらいいのかわからなくなってしまう。そもそもそんなに変化が表れていること自体衝撃的なのだが。
「みんなそう言ってるよ。普段頼りになるお前が、すっごい生き生きしてて、こっちからも関わりやすいって」
確かに思い返してみれば、クラスメイトと話す機会は少しばかり増えた気もする。だがこうやって言われると、なんか照れくさい。
「……ありがと」
「照れんなよー」
そう言って笑って僕の肩を小突いたあと、友達に呼ばれた彼はどこかへ去っていった。
初めて周囲からの自分の評価を知った。あんな風に思われているのは少し衝撃的だが、素直に嬉しかった。慈希と出会って、「普通」から逸れて変わってしまった自分を良い形で受け入れてくれているのが本当にありがたい。これが本来あるべき形ではあるのだろうけれど……。
慈希が学校に来なくなってから一週間が経った日、陽気なメッセージが届いた。
『ちょっとばかり入院してました~! 今日の午後には退院できるみたいだから迎えに来てほしいな。君なら来てくれるよね? ねっ!?』
いつも通りの彼女のこの文を翻訳するなら、「退院するから迎えに来い」だ。素直に伝えればいいものを、こうも回りくどく伝えるものだから、少しばかりこっちのやる気も下がってしまう。
何はともあれ、彼女のことは少し……いやかなり心配なので、命令通り迎えに行くことにする。
今日は先生内での会議とやらで普段とは日課が違って、昼には帰ることができる。普段は彼女と一緒にどこかに行くか、まっすぐ家に帰るかなのだが、今日はそのまま病院に直行しよう。
『どこの病院?』
『お!? 来てくれるの!? やったぁー! 場所は総合病院だよー』
総合病院……となるとあそこか。
『わかった。おとなしくしとけよ、病人なんだから』
『わかってるってー。何年病院に住んでると思ってるんだい?』
病院に住むなんて聞いたこともない物騒な日本語使うんじゃないよ……。言われるこっちの身にもなってくれ。
結局僕は彼女のジョークかもわからない言葉に何も返せず、学校を出て総合病院へと向かった。
何か不吉なものを感じたような気もするが、それは久しぶりに彼女に会えるという喜びに飲まれてしまったのだろう。
暑さに体が悲鳴を上げ、汗が少しずつ滲んでくる。まだまだ気温が高いうえに日差しが強いので、体感温度はより増していく。……秋はどこいった。
自動ドアをくぐって病院に入ると、涼しい風が僕の体を出迎える。外とは別世界のような涼しさに、思わず声を出してしまいそうになる。
総合病院なだけあって中はとても広い。職員の人数も多いし、患者の年齢層は結構広い。重病とは今まで無縁だったので、すごく新鮮に感じる。
彼女には『私からそっちに向かうから待ってて』と言われていたので、特に受付に行ったりせず空いてる席に腰を下ろす。
ここ数日彼女が学校に来ないことがとにかく不安だった。あの一件もあったし、なにより少しずつ悪化している彼女を見てきたので、不安はどんどんと膨らんでいく一方だった。こうして退院できると知った時は、行動には出さなかったがすごく安心した。
彼女と再会してなんて言葉をかけたらいいのかわからなかったが、それは考えておくようなものじゃない気がしてスマホを取り出し、彼女がここに来るのを待つ。
適当に待って数分後、陽気な声が僕の名前を呼ぶ。
「優弥く~ん、来てくれてありがと~」
僕は立ち上がって声のする方を向くと、私服姿でこちらにかけてくる慈希の姿があった。彼女はそのまま僕の胸元に飛び込んで、背中に手をまわしてくる。
「会いたかったよ~、もうすっごく苦しかった!」
「ここ病院。もう少し声抑えて」
「あはは、ごめんごめん」
彼女は僕の顔を愛しそうに見上げてまた胸に顔を埋める。
「うーん、大好きだよー」
「薬はもらった? もう帰る?」
「えっ!? 無視!? 私の愛情表現を!? え!? 酷くない!?」
「冗談だよ冗談。僕も大好きだよ」
僕はそれを証明するように抱きしめる力を強くする。僕自身も彼女の温かさを感じたかったのかもしれない。
「今の若い子は盛んだね~」
側を通り過ぎようとしていたおじいさんにそう声をかけられた。
「あはは、良いでしょー? おじいさんも若い頃はこんな感じだったんだよー」
「面白いこと言うねぇ。思い返してみればそうだったかもなぁ」
それから二言三言言葉を交わすと、「お幸せになぁー」と言って去っていった。一度僕から離れた彼女は手を振りながら見送っている。
「君のそういうコミュ力には心底驚くよ。僕は何も話せなかったのに」
「うーん普段の私だったら無理だと思うよ。でもさ、病院に来てるってことは事情があるわけじゃん。暗い雰囲気じゃなくて、明るく接する方が気分が良くなるでしょ? 病気で苦しんでるかもしれないから、それを少しでも和らげたくてね」
病気を患っているからこそ浮かぶ考えに、どれだけ綺麗な人なんだろうと思ってしまう。同じ境遇になったとしても、ここまでいい人間に誰しもがなれるわけじゃないだろう。普通は塞ぎこんでしまったりで他人に気を配る余裕なんてないのではないか。
「素敵な人だね、本当に」
「なに急に。照れるじゃんかー」
そうやって僕を肘で小突いてくる彼女。こんなやりとりをしていると、本当に彼女のことが愛おしくなってくる。どうかこのまま、ずっとそばにいてほしい。
「じゃあ出よっか。もう手続きとか済んでるし」
「うん、わかった」
本来なら彼女は、家族と共に安心できるはずの家へと帰っていくのだろう。だが今は、それができない。険悪な雰囲気の中、彼女が足を踏み込むのはどれだけ辛いことだろうか。きっと想像しても仕切れない痛みが、彼女を襲ってくるはずだ。
自動ドアを再度くぐって、秋を押しのけている夏の洗礼を受ける。さっきよりも日差しの強さが増している気がする。
「うひゃーあっついねぇ。ずっと室内だったから溶けちゃいそう」
彼女も隣でそんなことを漏らしている。弱っている体にこの暑さはかなりこたえるのではないだろうか。
せっかくだからどこか遊びに行こうか、と話して数歩進んだとき、彼女は急に立ち止まり言葉を零した。
「えっ」
隣から聞こえてきたのは暑さに対する悲鳴や嘆きでも、これから向かう場所を決めるための問いでもなんでもなく、ただ絶句する一言だけだった。
急に立ち止まり、ただ茫然と一点を見ている。
「お父さん、お母さん……」
そう彼女が呼んだ男女は、手に花束を抱えてこちらに駐車場を横断している。きっと退院に合わせて迎えに来たのだろう。辛い日々に彩りを持たせるための花束だろうか。
苦い一件があっても、彼女は大切な子供。長い間苦しみに囚われ、それを支えてきた身として、この場にいるのだろう。
なんだ、大丈夫そうじゃないか。今度はちゃんと自己紹介しよう。そんなことを思ったとき、二人に軽自動車が近づいていた。
前方に人がいるにも関わらず急加速したようなそれは、二人を真っすぐ三メートル先ほどまで撥ね飛ばした。だが車はスピードを緩めるどころか、速度を上げてそのまま直進し続ける。
――あ、だめだ。そう直感する。
車は両親を、そのまま潰した。速度は十分にあったためなんなく潰すことができた。ぐしゃりとかいう効果音が聞こえなかったのは、聞こえないように勝手に脳がシャットアウトしたのだろう。
頭部に車輪がのっかった"お母様とみられる"体は、頭部が判別できないほどに損傷しており、もう二度と動かないであろうことが医療資格のない一般市民にも見てわかる。手元には花束を大事そうに抱えていた。お父様は足の方に大きな損傷が見られてまだ生きているのではとも思ったが、全身や頭部からの出血量を見るに助かりそうにない。
彼らを踏み潰した車は敷地を隔てる壁に衝突して停止した。速度のあまり前方部分が少し潰れていて、運転席のエアバックが作動してる。運転席に乗っていたのはご高齢の男性で、衝撃であたふたとしているみたいだった。きっと、アクセルとブレーキの踏み間違えだろう。あの車は間違いなく徐行していた。あの速度で駐車場を走っていたのなら、周囲の人間は間違いなく違和感に気づけるはずなのだから。それに二人を跳ね飛ばした後も加速していたので、ブレーキだと思って踏み続けたのだろう。
あまりにもグロテスクなこの惨状は、見ていられるものではなかった。特に、彼女にとっては。
「あ……ああぁ……っ……」
隣にいた慈希はご両親のもとへ少しだけ足を進めたが、三歩ほどで膝から崩れ落ちた。彼女の瞳から零れた一滴の涙を皮切りに、ボロボロと大粒の涙が零れる。しかしそれは、悲しみだけの涙ではなかった。
「どうして! どうしてっ! 何が……正解なの! くそっ! くそっ! ……ああぁぁあ!」
弱々しくなったり、荒くなったり、そんなの波がある彼女の叫び。
拳で何度も地面を叩いている。
「あんだけ頑張って、我慢したのにっ! なんで、っ、なんでっ!」
彼女のその嘆きは、事情を知っている僕の胸をグサグサと刺していった。怒り、悲しみ、後悔……彼女の叫びはなんと表せばいいのだろう。
彼女からまた一つ、大切なものが奪われた。一体なぜなのか。「代償」が間違っていた……? 彼女はあんなに苦労したのに? そもそも「代償」説が違うのか?
思考は平行線をたどり続け、結局なにも答えは出なかった。彼女に言葉をかけてあげることもできず、ただ立ち尽くしていた。
その後、警察も駆け付けたこの事故で、彼女のお母様は頭部を踏み潰されたことによる即死、お父様は頭を強く打ち意識不明の状態に陥った後、出血が止まらず出血性ショックで死亡した。
側に落ちていたフリージアの花束は、血がべったりとついていた。
事情聴取も終えて少しずつことが落ち着いてもなお、彼女は一向に立ち直れる気配がなかった。それが当たり前ではあるのだけれど。
そんな彼女をただ見ているだけというのも辛くて、少しずつ、言葉を選びながら寄り添うのがいいのではないかと考えた僕は、そっと彼女の背中に手をまわした。
が、彼女はその手を振りはたいてきた。
「やめてよ。同情のつもり? そういうの、余計に辛いから」
逆に彼女の神経を逆撫でしてしまったらしい。
「ご、ごめん。で、でも、少しでも元気を取り戻してほしくて……」
「何言ってんの。元気なんて出るわけないじゃん。こんな状況で」
いつもより冷たく放たれるその言葉は、普段の彼女とはとても思えなくて怖い。だがそれも仕方ないことなのだと自分に言い聞かせる。だからそんなに、そわそわしないでくれ。
「もう、どっかいってよ。私の気持ちも知らないで、無責任なこと言って」
わかってる。わかってる。これは仕方ないことだって。でも、『私の気持ちも知らないで、無責任なこと言って』という彼女の言葉が、僕の疲弊した心に火をつけてしまった。
「君の気持ちなんかわかんないよ! 病気でもないし、両親を亡くしたわけでもないから一ミリもわからない! でも、だからこそ君に寄り添いたいって思ってるんじゃないか!」
「そんなに頑張らなくてもいいよ。どうせわからないんだから」
間髪入れずに放たれたそんな彼女の言葉が、火のついた想いに油を注ぐ。
「ふざけんなよ! こっちだって毎日予知夢が流れて大変なんだよ! 君だけじゃない、僕だって……!」
「そんなのわかってるよ! だからもう傍にいてくれなくてもいいって言ってんじゃん! ……そんなに言うなら、自分の時間に使えば!?」
吐き捨てるようなその言葉は、油を再投入するとともに、悲しみを置いていく。
そして彼女は、諦めたようなため息をついて言う。
「もういいよ。今までありがとね。じゃあ、さよなら」
「お、おい、待てよ!」
言葉を残して去っていく彼女を呼び止めたが、彼女は足を止めずに歩き続ける。追いかけて捕まえればいいのかもしれないが、彼女の悲しそうな背中や、ぶつけられた言葉たちがそれを拒み、ただ涙を浮かべて見ていることしかできなかった。
今日で彼女と一切関わらない日々を過ごして二週間。
心にぽっかり大きな穴が空いたような感覚で、寂しさや脱力感が溢れかえりそうになる。
あれからも彼女は学校に来ていない。こちらからいろいろな手段で何度連絡しても、既読だけつけて一切応答なし。
本当は僕も学校なんて行きたくなかったが、休める理由なんてないので辛さを殺して登校する。
学校では彼女が登校しないことに不信感を募らせていた。そして僕は、彼女の名前が聞こえる度に、尋ねられる度に過剰に反応してしまい、すぐに存在を思い浮かべてしまう。考えちゃいけない、振り払うんだと思っていても、なかなかそれができない。
まるで幽霊かのように、生きているという感覚がなかった。気づけば時間が経っていて、朝は予知夢を見て目覚めが悪い。彼女のことを思い出してしまってまた苦しくなる。そんなことの繰り返し。胸を何者かにぎゅっと掴まれるような痛みが走った。
あの時、どうしてもっと気の利いたことを言ってあげられなかったのだろう、どうしてカッとなって言い返してしまったのだろうとずっと考えている。辛いのは彼女だとわかっていたはずなのに、あれは一時的に整理がついていなかっただけだろうとわかっていたのにも関わらず、こんな結果を招いてしまった。お互い疲弊していたとはいえ本当に選択を間違えたなと後悔している。
こんなことになっても、僕の「生きたい」という気持ちは変わらなかった。それは、まだ僅かに"彼女の光になれるのではないか"と思ってしまっているからだろう。諦めているようで、まだ心のどこかで何かできないか模索している。「普通」が壊されてもいいと思えた彼女のためにできることを、懸命に探し出そうとしている。
予知夢を変えることなんて忘れて、どうにかして彼女と話す方法を模索していた時、再び悲しい報せが入った。
「望月さんなんですが、家庭の事情により転校することになりました」
担任から放たれた矢のように速く心を射止める言葉。息をのむ音が教室のあちらこちらで起こったような気もする。
家庭の事情……。きっと親族に引き取られる関係でここにはいられなくなったのだろう。わかっていても、やっぱり辛い。事情を知っていて納得したのか、割と衝撃は少なく涙も出なかった。だがどうにかして最後に彼女と話したいという想いだけが膨らみ続けた。
彼女がいる場所……家は知らないし、再び入院しているならまた総合病院だろうか。あの事故現場にもう一度足を運ぶのは気が引けるが、行ってみる価値はある気がする。
いろいろなことを考えながらその日は学校を終え、いつもよりも早足で駅へと向かった。
総合病院は普段利用する駅から駅の間にある。なので基本的には帰るついでということになる。
改札を抜けて見慣れたホームで電車を待つ。最近ではこうして黄色の線の近くでも待てるようになった。茜色の空の下、わずかに頬を撫でる風は少し冷たく気持ちいい。暑さも少しずつ和らぎ始めているこの時期、季節もそろそろ変わるのだろうか。
『紅葉とか見に行きたいなぁ』
以前彼女がそんなことを言っていたのを思い出す。夏休みの後半、秋と冬も絶対どこか遊びに行こうと約束したときに彼女が言っていたのだ。
きっともう叶うことはないのだろう。彼女の病気が悪化しているうえにもうこの地域に住むことができないのであれば、会うことでやっとになってしまう。かなり悔しいが、我慢するしかない。それにだからこそ、彼女がいなくなってしまう前に会ってもう一度話さなければならない。感謝も謝罪も、たくさん伝えなきゃいけない。
「まもなく、三番線に、電車が参ります。通過列車です。黄色い線の内側で……」
聞き馴染んだアナウンスにはっと意識を戻し顔を上げる。離れた方が良いだろうかと考えたが、いつものように何もないだろうと思い特に離れたりはしなかった。今日もきっと大丈夫だろう。
なんとなく周囲を見渡す。
同じ学校の生徒や他校の生徒、会社員や買い物帰りの人、多くの人がこの駅を利用し、今電車を待っている。死にたい、生きたい……自分自身に対する何らかの想いを抱えながら今日もここに存在している。誰かのために、何かのために頑張ったり、誰かがいるから、何かがあるから頑張れたり、理由は様々であろうが、彼女と過ごしてきてそのすごさを実感させられた。あんな彼女でさえ生きようとした世界で、自分も生きていたいと考えてしまったくらいに。
電車が見えてきた。アナウンスが早かったのか、まだホームまでの距離は十分にある。
病院にいなかったときはどうしようか。彼女の家を探すのもいいけどかなり時間が
「危ない!」
「えっ?」
聞き覚えのある大きな声がしたと思えば、突然後ろから肩をトンッと押されてそのまま線路の上に身を投げる。とっさの出来事に体はうまく対応できずに線路の上へ倒れ込む。
肩や足、いろいろな箇所に痛みが少しずつ表れてくる。打撲や捻挫でもしたのだろう。
まさか、嘘だろ……?
痛みに歯を食いしばりながら見上げた先にいたのは綺麗な少女――望月慈希だった。
「優弥くん、早く! 手を伸ばして!」
幸い人が落ちたことには彼女の叫びで気づいてくれたらしく、一目散に緊急停止ボタンの方へ駆けていく人も捉えられた。
足に痛みが走って立ち上がれそうにない。だから懸命に手を伸ばしているが、どう考えても掴めそうにない。ホームから少し離れた場所に落とされたから。這って近づくことができればいいのだが……。
――ここまで予知夢通りにことが動いてしまうのか……。
緊急停止ボタンが押されているとはいえ、もうホームに電車は侵入している。鼓膜を大きく震わせる、金属と金属が擦りあうブレーキ音がずっとなり続けているが、きっと止まりきることはできずに轢かれてしまうだろう。
最期にもっと、彼女顔が見たい。だから手を伸ばしながらも、僕は無意識に微笑んでしまっていたであろう。
二週間ぶりに彼女を見れた。どうしてここにいるのかはわからないが、それだけで嬉しかった。これで死ぬなら、悔いはない。
死ぬ間際って、どうしてこんなにも時間がゆっくりに感じるのだろう。もう死んでもおかしくないんじゃないか?
そんな疑問の中、彼女の顔が一瞬だけ歪む。微笑む僕を見て何かを察したのと同時に、何かを決めたような顔だ。
彼女が伸ばしている手をひっこめた。彼女も無理だと考えたのかなと思いきや、ほんのわずかに助走をつけてこちらに飛び込んできた。
「はっ!?」
そんなことしか言えない僕に彼女はそのまま飛びつき、僕と一緒にホームの反対側へと転がっていった。そして二拍ほど空いたあと、多くの人を運ぶ車体が先ほどまで僕がいた場所を通過し、最後尾の車両が見え始めたところで停車した。
先ほどまでいた三番線ホームから、向かいの二番線ホームまで僕を転がしたのだ。間に合わずに二人とも死ぬかもしれない危険があったのにも関わらず。間に合うわけないと思っていたが、人間は危機に陥ると本当に能力が上がるのかもしれない。
すぐに駅員が駆けつけてきて、僕たちを二番線ホームへと引き上げてくれた。事情をいろいろと聞かれたとき、「誰かに突き落とされました」なんて信じてくれるのかとも思ったが、彼女を含む目撃者が多かったことから安易に信じてもらえた。二番線からも悲鳴に気づいて見ていた人がいたらしいのだ。
事態が落ち着くまで、僕たちは何も言葉を交わせずにいた。それはきっと、予知夢を変えることができたということへの喜びと感謝、今までの態度の謝罪、未来への不安など、それぞれ抱える想いがありすぎたからだろう。
少しずつ痛みが引いてきた足で三番線ホームまで戻り、ベンチに腰を下ろす。電車を待ちながら彼女と話すため。
「どうして僕が駅にいるってわかったの?」
「……君と話すために学校を訪ねたんだ。でももうみんな帰ってたから、時間的にまだ駅にいるんじゃないかって」
どこか寂しそうに淡々と話す彼女。少し心当たりがあることを彼女に伝えてみることにする。
「僕が死ぬ予知夢を見たんだね」
「…………うん。最初は気のせいだと思ったんだけど、なんだか妙にそわそわしちゃってさ」
また僕たちの間に沈黙が落ちる。聞きたいことがありすぎて、お互い整理がついていないんだ。
「だからって、あんな危ないことしないでよ。君がもし死ん」
「君が死んだら私はどうするの!? 私はどうやって生きたらいいの!? …………わかってよ。君がいないと、もうだめなんだよ!」
想像以上に声が大きく震えていた。周りの人の視線ではなく涙を堪えている彼女の苦しい顔だけが胸をきつく締める。
「あんな酷いことしておいて何言ってんだって思うかもしれないけど、お願いだから……許して……。もう予知夢を変えるのに付き合わせるのは申し訳なかったの。君だって、すごく苦しんでたから」
でもね、と彼女は続ける。
「君がいなくなった日々は、想像以上に苦しかったの。どうせ死ぬんだから、いっそのこと死んでやろうかとも思ったよ。でも……でも君がまだどこかで生きているなら、傍にいたかったの」
病気が悪化してもう寿命が短い上に、大切な人やものを幾度となく失った彼女。そんな人間が独りで生きていくことが、どれだけ苦しく辛いことなのかを、改めて実感させられた気がする。いや、実際はわかっていたのだろう。わかっていてもなおあの時、彼女を追いかけることができなかったのだ。
「ごめん、辛い思いさせて。本当は僕が、何があっても傍にいるべきだったよね」
「突き放したのは私だから、君は悪くない。そんな謝罪より……最期まで一緒にいてくれるって約束してくれる方が嬉しいな」
笑みを零しながらも、その目は懇願しているようだ。
最期、という言葉がとても嫌だったが、彼女の覚悟を表す大切な一部なのだろう。
「その時まで、一緒にいるよ。もう離れないって約束する」
「…………ありがとう。……本当に、ありがとう」
一筋の光が彼女の頬を伝い、ぽたりと落ちてスカートを濡らしていく。
「あの場所で話したい。私たち二人で見たあの星空を、もう一度……」
僕は無言で頷き、彼女に寄り添いながら来た電車に乗車する。周囲の人からは不思議そうな目線を送られたが、特に気にしていなかった。周りのことなんて考えずに、今だけは……いや、これからは、好きなだけ泣いてほしいと思ったから。
僕が「最期」と口にできなかったのは、きっとその覚悟がないからなのだろうと、電車に揺られながら弱さを痛感した。
電車を降りて星空の下に着いたときには、すっかり暗くなってしまった。日が少しずつ短くなっているうえにあの一件があったので、とてもちょうどいい時間帯だ。
あの時のように星空を眺め、彼女が話し始めるのを待つ。綺麗な星空――藍色のパレットはお互いの弱音で染めるには十分な広さ。だからここを選んだのだろう。
「まだ、私のこと、好き?」
沈黙を破ったのは彼女の疑問だった。
「好きだよ。心の底から」
ははっ、と笑って「こんだけ可愛いもんね~」と冗談ぽく呟く。彼女が綺麗なことは事実なので、否定はしない。
「転校するって、本当なの?」
「そう! その話を学校に伝えに行って、君と話す予定だったんだよ!」
思い出したー、といつものテンションに戻った様子で彼女は言う。駅で見えていたのは寂しさだったのだろう。だが今はその代わりに、哀しさが表れてしまっている。
「取り消してもらえたんだ、引っ越し。ここに残りたいって言ったら、了承してくれた。"独り"暮らしってことになるけど、あの人たちといるよりかはかなりましだしね」
親戚の方たちも、建前上はそういったものの一緒に住むのは気まずいというのが本音だろう。病院が近いのもあってこっちの方がなにかと都合がいい。
どんな事情があっても、彼女とまだ時間を共有できるならそれでいい。
「独り暮らし、大変だと思うから、何かあったらいつでも言ってね」
「うん。その時は遠慮なく頼らせてもらうね」
いつもの素敵な笑みを零しながら言う彼女。またこうして僕の前で大好きな笑顔を見せてくれることがたまらなく嬉しい。二度とないのではないかという未来が打ち消された喜びは、表現しきれない。
夜の色がまた少し濃くなってきたとき。懐かしい心地のいい沈黙を破ったのは慈希だった。
「どうして予知夢が変わったと思う?」
「……それが全くわからなくてさ。何か心当たりあるの?」
何かを知っているような聞き方をしていたので尋ねてみたが、なぜか口にすることを拒むような様子だった。何か言えない事情があるかのように。
「…………君の夢の『代償』は、"『普通』に生きること"じゃない?」
……確かに言われてみれば、最近失くしたものは「普通」である気がする。だが大切かと問われればわからないし、それが完全になくなったかどうかも曖昧な気がする。
「"すごく無理矢理"だけどさ、きっと『代償』はものだけじゃなかったんだよ。そこには想いもあって、だからどうしようもできなかったんだよ。いくら頑張ったって、人の想いを変えることはほとんどできないに等しい。……君は、正反対の考え方を持つ私に感化されたんでしょ?」
確信しているような彼女の口調。だが言われてみればそうなのかもしれない。
実際何度も自覚していた。彼女が見たい世界を信じたいと思って、彼女がいるから生きたいと思った。それがきっと、「代償」になる何らかの想いを打ち砕いたのだろう。どちらも正体はわからないが、そこは深く考えるほどでもないのかもしれない。
わかってしまえば、それは「代償」を払ったことにはならないのだから。
「君のおかげで、ここまで来れたってことだね。ありがとう」
「何もしてないよ、私は。結局想いを知るのも、生み出すのも、自分自身なんだから」
どこかいつもと様子が違う彼女。全てを悟ったような、わずかに諦観を含んでいるみたいだ。言葉の一つ一つに重みがあり、不思議に思わざるを得ない。
「何か、あったの?」
僕は思い切って尋ねてみる。何かあったことは明確だったから。
「……手術するんだ。助かる可能性があったから」
静かに彼女はそう零した。
経過観察で新しく判明した事実から、手術を施せば治る可能性があると言われたらしい。成功率が低く、再発するリスクが高いため推奨はされなかったらしいが、彼女はすぐに手術を決定したらしい。
「手術をするということは予知夢にはなかったし、決定してからも内容は変わらなかった。だから、きっともう私の予知夢は変わったんだよ。手術の話が舞い込んできたってことは、何か『代償』を払えたってことだろうね」
「でも、どうして急に手術を? もうどうでもよくなったって言っ」
「君のおかげだよ。君が私に優しさをくれて、いろんな世界を見せてくれたから、もっともっと生きて、『素晴らしくて面白い世界』を見たいと思ったんだよ。"少しだけでも長く"、生きたいの」
二人とも、想いが「代償」だったのか。このたった一つの予知夢を変えるために見せられたのが今までの予知夢だったのだろうか。祖母が死に、両親が死んだ。この出来事があったからこそ「代償」に気づき、想いを捨てることができた。
皮肉なことに、あの出来事がなければ僕たちは生きていなかったんだ。彼女はあまりに失ったものが大きすぎるが、これが死と引き換えるということなのだろう。
「これから、たくさん思い出を作りたいな。優弥くん」
こちらを真っすぐと見据える彼女の瞳はとても綺麗なのだが、どこか暗さを感じる。きっとまだ恐怖があるのだろう。
「うん。抱えられないくらい、思い出を作ろう」
そう伝えると、彼女は涙を零すとともに微笑み、「ありがとう」と言って僕に抱きつく。
「大好きだよ。大好きだよ、優弥くん」
数多の星のように、たくさんの涙をぼろぼろと零しながら、声を震わせてそう話す彼女は、どこか悲しそうだった。そして少しだけ期待を帯びている気もする。
これから何が待っているかわからないけど、今度こそ彼女とずっと一緒に過ごせる。そう確信した。
「だ…………てっ、……よか……」
震える声で、全く声になっていなくてわからなかったが、そこは聞かないでおいた。彼女とこれからを過ごせるなら何でもよかったから。
その日から、僕たちの予知夢との闘いは終わった。お互い予知夢を見ることは無くなったのだ。
予知夢の「代償」が判明し、結果を変えた翌日から慈希は再び学校に姿を現した。沈み切っていたクラスの雰囲気も、以前と同じように……いやそれ以上に活気がある。まるで彼女が神様であるかのようだ。
「ごめんねー心配かけて。あ、転校? あれ結局なしになったんだよー。親が取り消してくれてさー」
約三週間ぶりの登校となる彼女の周りには、相変わらず男女問わずたくさんの人が集まっている。聞こえてくる話の内容は休んでいた理由、転校の件……。転校から数カ月たってもなおこの状態ということは、彼女は相当愛されているのだろう。裏ではたくさん愚痴をはいているが、根はすごく優しいのでいろんな人に好かれるんだろうなぁ。
人気者は大変だなぁなんて思いながら眺めていると、質問攻めに合っている彼女と集まる人の隙間から一瞬目が合った。見つめ合うような形になった時、とても助けてほしそうだったが、肉壁を無理やりこじ開けることもできなければ、声をかけた後に向けられる殺気立った視線にも耐えられないので、僕はそっと目を逸らす。今彼女がどんな顔をしているかわからないが、放課後に間違いなく怒られるだろう。
いつも通り呼び出されて怒られて終わりだと、少し事態を楽観視していた僕に、鉄槌が下される。
それは、昼休みのことだった。
「優弥くん、お昼一緒に食べよ?」
授業が終わり、教室が会話に包まれ始めた時、彼女はそう僕に投げかけてきた。目を細めてにっこりと笑っているように見えるが、そこには少し怒りを含んでいる。
彼女の声はよく通るし人気者なので、一瞬にして教室が静寂に包まれる。そして驚きや嫉妬などのいろいろな感情が込められた視線が僕たちに向けられている。
「中庭とかどう? ちょっとまだ少し暑いかな」
「ちょちょ、待って待って」
了承もしてないのに勝手に話が進んでいくので、僕は慌てて止めに入る。それに向けられている視線がたまらなく怖くて痛い。当の彼女は「何かあった?」というように首を傾げている。目は細められたままで怒りを抑えているようだった。
「さ、流石にまずいって、一緒に食べるのは。てか急にどうしたの? いつもはそんなこと言わないじゃん」
「だってさ、どこかの誰かさんが朝助けてくれなかったし」
と言って今度はニヤニヤしている慈希。それは「わかってるよな?」と訴えかけているみたいで、僕は何も言えずに彼女に連れて行かれる形となった。
指示通り中庭に連れて行かれる合間にも、少しもどかしい視線が送られた。クラスでは危ういシーンが少しばかり合ったので慣れている生徒も多かったが、他クラスや他学年となると話は別だ。学校中で人気の彼女と全く知名度のない人間が一緒にいるのはあまりよろしいことではないらしい。男子生徒からの嫉妬や女子生徒からのたぶらかしたなんて噂に耐えなければいけない日々はまた続きそうだな。
季節が変わり始めた十月。気温は落ち着いたがまだ少し日差しの強い外で待っていたのは、昼食という建前の説教と愚痴だった。何でもっと話しかけてくれないのか、どうしてあの時割って入って助けてくれなかったのか、そもそも休み明けの人に対して踏み込んできすぎなんだよだとか。いつまで続くのだろうとかも思いつつ、確かにあまり居心地が良い空間ではないだろうなと、助けてあげられなかった罪悪感が芽生えてくる。
「し、仕方ないだろ。余計にクラスの視線がこ」
「そういうの、もうやめて」
怖くなる、といつもの言い訳をしようとした時、彼女はそう言って突然僕の胸の中に顔を埋めてくる。彼女の声は呆れや怒りが込められている上に、相変わらず悲しみを帯びていた。
「お願いだから、私と一緒にいてよ。たくさん思い出、作るんでしょ?」
切実に訴えかけてくる彼女の言葉。確かに、全ての事情を知っているのは僕だけで、ありのままの彼女でいられるのは僕の前だけなのだ。それに思い出をたくさん作ろうと約束したのは事実で、できる限り破りたくない。彼女の心の拠り所になることができるのなら、そうしてあげたい。
これからは言い訳せずに、本質に向き合っていこう。だから僕は、素直に自分の非を認めた。
「ごめん、僕の考えが甘かったよね。聞かれたくないことも聞かれて、辛い想いしてたはずなのに」
「君しか味方はいないんだからさ。……そばにいてよ、ずっと」
ごめんね、という謝罪を込めて、力一杯彼女を抱擁する。見た限り周囲に人はいなかったので、今だけは許してほしい。僕しか助けられないのなら、僕で助けになるのなら、ずっと傍にいてあげたいということをどうしても伝えたかった。彼女自身が気づいていないであろう全身の震えを少しでも緩和させてあげたかった。
自身の命を引き換えにたくさんの存在を失って、一人の人間を助けてくれた彼女に恩返しがしたかったし、もう最後かもしれない彼女の大切な存在として、ずっと寄り添ってあげたかった。
それからの学校生活はほぼ毎日、全ての時間を慈希と過ごした。朝、昼休み、放課後、加えてこれからある文化祭の準備なども一緒に過ごした。いつも決まって彼女の方から来るようになって、周囲に生徒がいないときは溜め込んだ愚痴を吐き出している。彼女の愚痴に付き合うのは不思議と嫌じゃなかったし、辛そうな様子から一変して足取りが軽くなった彼女を見ると、安堵や愛しさやらでこちらまで笑みを零してしまう。やっぱり彼女の笑顔は惚れた原因でもあるほど綺麗で、いつまでも見ていたいと思ってしまう。
これだけ彼女と学校で過ごしていると、周りからの視線も少しずつ柔らかいものになってきた。中にはまだ僕のことを恨んでいるような男子生徒もいるみたいだが、クラスの中では気楽に彼女のそばにいることができる。
彼女と時間を共有するのは、休日でも変わらなかった。動物園や植物園、美術館、ショッピングモールなど、彼女の要望にはできるだけ応えられるように努め、たくさんの思い出を作っていった。以前彼女が言っていた紅葉を見に行くという話も、嬉しいことに実現させることができた。県の端の山が多い田舎まで二人で移動して、全身で季節を味わった。もみじを着飾った木々に囲まれ、学校での出来事やらなんやらを話して時間を溶かすことでさえとても落ち着く。こうして出掛けたり、かなり歩くようなことはなかなか許可されなかったみたいで、初めて見たり触れるものばかりだったらしい。あらゆるものに興味を持ってはそこに駆けていく彼女。まるで幼児かのように元気すぎる彼女は、僕の少ない体力を全部持っていってしまう。でも全然嫌じゃなかったし、それがすごく楽しかった。彼女の喜びに満ちた綺麗な表情を見ていると、不思議と体力が回復しているみたいだ。
その日の夜に展望デッキから見た星空はとても美しかった。夏の大三角に変わって秋の大四辺形が姿を現し、あの時とは違った一面を見せていた。慈希みたいに綺麗だね、とあの時言えなかったことを伝えると、彼女は顔を真っ赤に染めてしまった。加えて全く目を合わせてくれなくて、「優弥くんのバカ……」と終始呟いていた。
だが、そんな超健康人間のような彼女をずっと見ていられるわけでもなく、時々病気に蝕まれている様を目の当たりにしなければならない時がある。そしてそれは、日が経つごとに増えていった。症状にはすごく波があるみたいで、紅葉を見た時のように走り回れるぐらい元気な日もあれば、予定を当日キャンセルしなければならないくらい辛い日もあるらしい。できるだけ離れずずっとそばに居たかったし、一人暮らしということもあってその時はほぼ毎回家にお邪魔していた。彼女もそれを望んでいるみたいだったので、できるだけ寂しい想いはさせないようにした。
そして今日は彼女の定期検診に同行している。予知夢を変えて一ヶ月弱経って、文化祭を三週間後に控えている。季節はあっという間に変わり、気温も少し肌寒さを覚えるほどに落ち着きを取り戻してきている。汗ばむ日々とおさらばできたことは限りなく嬉しい。
今回定期検診に同行することになった理由は、すぐに終わるだろう検診の後にどこか遊びに行きたい、という彼女の願いからだ。どこに行こうか、何をしようかなんて話しながら、二度と見たくない現場を素通りして、今は彼女の検診が終わるのを待っている。彼女は一緒に居たいだけでなく、そこを乗り切る勇気が欲しかったのだろう。実際その付近で彼女は急に黙り込んでしまっていた。
多くの人が診察を待つ静かな場所で待つこと数十分、僕を見つけた彼女は手を振りながらこちらに来る。
「ごめんねー、意外とかかっちゃった」
「いいよ、全然」
「うー、ありがとうほんとに。……じゃあ行こ。どこ行く?」
そう言いながら僕が立ち上がり、出入り口へ向かおうとした時、すれ違ったおじいさんに声をかけられた。
「君たちは、あの時の熱いカップルさんじゃないか」
「え? ……あっ! あの時の!?」
彼女のご両親が事故に遭った日、声をかけたおじいさんだった。あの時よりはどこか生き生きとしていて、表情も明るかった。
主に彼女が前のように会話をして、話は少しばかり盛り上がっていく。
「にしてもどうしたんですか? どこか嬉しそうですけど、何か良いこととか?」
僕と同じように彼女も疑問に思っていたようだ。もう友達かと思うくらい仲良くなっている彼女は、さりげなく尋ねている。
「実はね、手術して病気が治ったんだよ。今日はその定期検診でね。妻とこれからも一緒に過ごせるのが嬉しくて」
今までで一番穏やかな声で、喜びを噛み締めるように彼は言った。大切な人との未来が増えることは、心底嬉しいに違いない。
それからは時間が迫っているみたいで手早く会話して去っていった。本当に元気な人なんだなと後ろ姿を見て思う。
「治ったんだね。あの人」
隣にいた慈希は静かにそう呟いた。
「嬉しいだろうね、すごく。……慈希も、治ることを信じてがんばろ。二人でいれば、きっとうまくいくよ」
「え? あ、あぁうん、そう、だね」
何か考え事をしていたのか、まだ喜びに満ちた後ろ姿を見ていたのかはわからなかったが、目が合わない彼女はどこか焦っているみたいだった。言葉もたどたどしい。手術に対する恐怖は、やっぱり彼女にもあるのだろうか。
少し不安になって声をかけようとした時、彼女の方から急に腕に抱きついてきた。何かを堪えるように、縋るように。
僕はただ彼女が抱く負の想いを和らげてあげられるように、そっと近くの席に腰を下ろして彼女をそっと抱きしめた。僅かに震えている彼女は、どこか嗚咽を堪えて泣いているようにも感じられた。
「今日は、どこにも遊びに行かなくていいから、ただ一緒にいてほしい。……適当に散歩しよ」
胸に顔を埋めて彼女は言う。さっきまでとは明らかにテンションが違うし、不思議なお願いに少し困惑している。
だが僕は、変に探りを入れるのはやめておいた方がいいだろうと結論付けた。
「わかった。落ち着くまで、こうしてていいよ」
こくりと頷いた彼女は、僕により強く抱き着いてくる。一体彼女の心の中で何があったというのだろうか。手術という迫りくる日がやっぱり怖いのか。それとも事故のことを思い出してしまったのか。理由は何であれ、とても苦しい状況になっていることは間違いないのだろう。
震えが止まらず、怯える子犬のようになってしまった彼女の頭を優しく撫でる。大丈夫、大丈夫、と心の中で呟きながら。
その後は少しずつ、少しずつ落ち着きを取り戻した彼女と共に、過ごしやすくなった街を散歩した。特にどこか寄るわけでもなく、普通に散歩した。散歩が嫌だとかそういうことではない。こういうことは初めてではないから。だがどこか浮き沈みの激しい彼女がすごく気がかりなのだ。病院ではあんな感じだったのに、そんなことなかったかのような様子だった。これからある文化祭が楽しみだねとか、隣のクラスは何やるんだろうとか、最近あった友達との出来事とか、他愛もない話を繰り広げていた。彼女が何を思い、何を考えているのかはわからないし、踏み込む勇気がなかなか出ない。これで彼女を傷つけてしまったらと考えてしまう。
きっと彼女は疲弊しきっているんだ。病気が進行しているのは間違いないだろうし、一人暮らしでもある。なんでもこなせるとはいえ、誰しも流石に限界がある。手術もまだまだ先の様だし、大変なことばかりなんだろう。
小一時間ほど歩いて各々帰宅した後、就寝前に彼女と通話した。ここ最近はほぼ毎日行っていて、彼女はこれだけでもかなり落ち着くという。時々聞こえてくる咳き込む声が僕の不安を煽るが、その度に『大丈夫だよ』、『気にしないで』と返ってくる。もちろんそんなことで不安が消えるわけでもなく、逆に不安は増していくばかりだった。
三十分ほど話して通話を切り、部屋の電気を消してベッドに倒れる。少しずつ微睡みの世界へと入る準備をしていく。
目を瞑り、今日あったことを振り返る。彼女とこうして過ごすことは今では当たり前になっていて、特に驚くことではなかった。彼女と過ごして、通話して、寝る。そんなことの繰り返し。この生活は『声が聴きたい』という彼女の要望から始まった。嫌というわけではなかったし、一緒に過ごせるならいいかと思って始めたのだが、最近では様子がおかしい。
まず体調がどんどんと悪くなっている。それは当たり前のことなのだが、その速度が以前よりも増している気がするのだ。何度か一緒に行った定期検診の際、終わった時にいろいろと聞いてみたものの、『改善も悪化もしてないよ』としか言わなかった。そしてそれを聞くと決まってその話題を避けようと別の話題を振ってくる。雰囲気が悪くなるのが嫌なのか、病気のことを考えたくないのか、いろいろ理由があるのだろうが、どうもその様子が不自然なのだ。
その次に生活の様子だ。学校生活では見せる笑顔が少し変わってきている気がする。自然と出てた華やかな笑顔が、無理矢理作っているように見えてしまうのだ。他の生徒は気づいていないようなので、僕の勘違いの可能性もあるが……。
それに今日もあったようにテンションの浮き沈みが激しい。悲しそうな態度と声をしていて何かあったのかなと思えば、いつの間にか大はしゃぎしているし、ふと見れば遠い目をしている。これも同じく何を聞いても『大丈夫』としか返ってこないので、断定することはできない。
とにかく心配だ。彼女のことを信じたいけど、あの様子からは到底信じられない。本当は病気が悪化していて、手術の準備が間に合わないとかそういうことではないのかとかいろいろ考えてしまう。そして同時に、病院側はどうして対応が遅いんだと八つ当たりしてしまうことも増えている。総合病院で手術できるものではないだろうから他の病院との打ち合わせもあるのだろうが、もう約一ヶ月も経っているため疑問に思わざるを得ない。
意識が落ちる寸前で、僕はまた神様に祈る。
どうか彼女を救ってあげて下さい。
もう、苦しみから解放させてあげて下さい。
心の底からそう祈った。だがこれは、彼女が陥っている現実から目を逸らしてしまいたかっただけなのかもしれない。
その日の夜、久しぶりに予知夢を見た。
「霧原ー、お前なんか知ってる?」
クラスの友人がそう僕に尋ねてくる。彼は彼女に興味はないのだろうが、こうもクラスに影響が出ると気になるのだろう。
「僕もわかんないよ。すごく急だからね」
「ふーん、そっか」
僕の答えには嘘なんてない。本当にわからない。
考えられるのは病気の悪化か、あの指輪の一件か。それ以外に見当はつかない。
「霧原ってさ、なんかちょっと変わったよね」
大きく話題を変えたかと思えば、そんなことを言ってくる。
「え、そうかな」
「なんて言うんだろ……今までどこか暗かったり、自信なさそうだったのに、今はちょっと生き生きしてる」
突然そんなことを言われたら、なんて返したらいいのかわからなくなってしまう。そもそもそんなに変化が表れていること自体衝撃的なのだが。
「みんなそう言ってるよ。普段頼りになるお前が、すっごい生き生きしてて、こっちからも関わりやすいって」
確かに思い返してみれば、クラスメイトと話す機会は少しばかり増えた気もする。だがこうやって言われると、なんか照れくさい。
「……ありがと」
「照れんなよー」
そう言って笑って僕の肩を小突いたあと、友達に呼ばれた彼はどこかへ去っていった。
初めて周囲からの自分の評価を知った。あんな風に思われているのは少し衝撃的だが、素直に嬉しかった。慈希と出会って、「普通」から逸れて変わってしまった自分を良い形で受け入れてくれているのが本当にありがたい。これが本来あるべき形ではあるのだろうけれど……。
慈希が学校に来なくなってから一週間が経った日、陽気なメッセージが届いた。
『ちょっとばかり入院してました~! 今日の午後には退院できるみたいだから迎えに来てほしいな。君なら来てくれるよね? ねっ!?』
いつも通りの彼女のこの文を翻訳するなら、「退院するから迎えに来い」だ。素直に伝えればいいものを、こうも回りくどく伝えるものだから、少しばかりこっちのやる気も下がってしまう。
何はともあれ、彼女のことは少し……いやかなり心配なので、命令通り迎えに行くことにする。
今日は先生内での会議とやらで普段とは日課が違って、昼には帰ることができる。普段は彼女と一緒にどこかに行くか、まっすぐ家に帰るかなのだが、今日はそのまま病院に直行しよう。
『どこの病院?』
『お!? 来てくれるの!? やったぁー! 場所は総合病院だよー』
総合病院……となるとあそこか。
『わかった。おとなしくしとけよ、病人なんだから』
『わかってるってー。何年病院に住んでると思ってるんだい?』
病院に住むなんて聞いたこともない物騒な日本語使うんじゃないよ……。言われるこっちの身にもなってくれ。
結局僕は彼女のジョークかもわからない言葉に何も返せず、学校を出て総合病院へと向かった。
何か不吉なものを感じたような気もするが、それは久しぶりに彼女に会えるという喜びに飲まれてしまったのだろう。
暑さに体が悲鳴を上げ、汗が少しずつ滲んでくる。まだまだ気温が高いうえに日差しが強いので、体感温度はより増していく。……秋はどこいった。
自動ドアをくぐって病院に入ると、涼しい風が僕の体を出迎える。外とは別世界のような涼しさに、思わず声を出してしまいそうになる。
総合病院なだけあって中はとても広い。職員の人数も多いし、患者の年齢層は結構広い。重病とは今まで無縁だったので、すごく新鮮に感じる。
彼女には『私からそっちに向かうから待ってて』と言われていたので、特に受付に行ったりせず空いてる席に腰を下ろす。
ここ数日彼女が学校に来ないことがとにかく不安だった。あの一件もあったし、なにより少しずつ悪化している彼女を見てきたので、不安はどんどんと膨らんでいく一方だった。こうして退院できると知った時は、行動には出さなかったがすごく安心した。
彼女と再会してなんて言葉をかけたらいいのかわからなかったが、それは考えておくようなものじゃない気がしてスマホを取り出し、彼女がここに来るのを待つ。
適当に待って数分後、陽気な声が僕の名前を呼ぶ。
「優弥く~ん、来てくれてありがと~」
僕は立ち上がって声のする方を向くと、私服姿でこちらにかけてくる慈希の姿があった。彼女はそのまま僕の胸元に飛び込んで、背中に手をまわしてくる。
「会いたかったよ~、もうすっごく苦しかった!」
「ここ病院。もう少し声抑えて」
「あはは、ごめんごめん」
彼女は僕の顔を愛しそうに見上げてまた胸に顔を埋める。
「うーん、大好きだよー」
「薬はもらった? もう帰る?」
「えっ!? 無視!? 私の愛情表現を!? え!? 酷くない!?」
「冗談だよ冗談。僕も大好きだよ」
僕はそれを証明するように抱きしめる力を強くする。僕自身も彼女の温かさを感じたかったのかもしれない。
「今の若い子は盛んだね~」
側を通り過ぎようとしていたおじいさんにそう声をかけられた。
「あはは、良いでしょー? おじいさんも若い頃はこんな感じだったんだよー」
「面白いこと言うねぇ。思い返してみればそうだったかもなぁ」
それから二言三言言葉を交わすと、「お幸せになぁー」と言って去っていった。一度僕から離れた彼女は手を振りながら見送っている。
「君のそういうコミュ力には心底驚くよ。僕は何も話せなかったのに」
「うーん普段の私だったら無理だと思うよ。でもさ、病院に来てるってことは事情があるわけじゃん。暗い雰囲気じゃなくて、明るく接する方が気分が良くなるでしょ? 病気で苦しんでるかもしれないから、それを少しでも和らげたくてね」
病気を患っているからこそ浮かぶ考えに、どれだけ綺麗な人なんだろうと思ってしまう。同じ境遇になったとしても、ここまでいい人間に誰しもがなれるわけじゃないだろう。普通は塞ぎこんでしまったりで他人に気を配る余裕なんてないのではないか。
「素敵な人だね、本当に」
「なに急に。照れるじゃんかー」
そうやって僕を肘で小突いてくる彼女。こんなやりとりをしていると、本当に彼女のことが愛おしくなってくる。どうかこのまま、ずっとそばにいてほしい。
「じゃあ出よっか。もう手続きとか済んでるし」
「うん、わかった」
本来なら彼女は、家族と共に安心できるはずの家へと帰っていくのだろう。だが今は、それができない。険悪な雰囲気の中、彼女が足を踏み込むのはどれだけ辛いことだろうか。きっと想像しても仕切れない痛みが、彼女を襲ってくるはずだ。
自動ドアを再度くぐって、秋を押しのけている夏の洗礼を受ける。さっきよりも日差しの強さが増している気がする。
「うひゃーあっついねぇ。ずっと室内だったから溶けちゃいそう」
彼女も隣でそんなことを漏らしている。弱っている体にこの暑さはかなりこたえるのではないだろうか。
せっかくだからどこか遊びに行こうか、と話して数歩進んだとき、彼女は急に立ち止まり言葉を零した。
「えっ」
隣から聞こえてきたのは暑さに対する悲鳴や嘆きでも、これから向かう場所を決めるための問いでもなんでもなく、ただ絶句する一言だけだった。
急に立ち止まり、ただ茫然と一点を見ている。
「お父さん、お母さん……」
そう彼女が呼んだ男女は、手に花束を抱えてこちらに駐車場を横断している。きっと退院に合わせて迎えに来たのだろう。辛い日々に彩りを持たせるための花束だろうか。
苦い一件があっても、彼女は大切な子供。長い間苦しみに囚われ、それを支えてきた身として、この場にいるのだろう。
なんだ、大丈夫そうじゃないか。今度はちゃんと自己紹介しよう。そんなことを思ったとき、二人に軽自動車が近づいていた。
前方に人がいるにも関わらず急加速したようなそれは、二人を真っすぐ三メートル先ほどまで撥ね飛ばした。だが車はスピードを緩めるどころか、速度を上げてそのまま直進し続ける。
――あ、だめだ。そう直感する。
車は両親を、そのまま潰した。速度は十分にあったためなんなく潰すことができた。ぐしゃりとかいう効果音が聞こえなかったのは、聞こえないように勝手に脳がシャットアウトしたのだろう。
頭部に車輪がのっかった"お母様とみられる"体は、頭部が判別できないほどに損傷しており、もう二度と動かないであろうことが医療資格のない一般市民にも見てわかる。手元には花束を大事そうに抱えていた。お父様は足の方に大きな損傷が見られてまだ生きているのではとも思ったが、全身や頭部からの出血量を見るに助かりそうにない。
彼らを踏み潰した車は敷地を隔てる壁に衝突して停止した。速度のあまり前方部分が少し潰れていて、運転席のエアバックが作動してる。運転席に乗っていたのはご高齢の男性で、衝撃であたふたとしているみたいだった。きっと、アクセルとブレーキの踏み間違えだろう。あの車は間違いなく徐行していた。あの速度で駐車場を走っていたのなら、周囲の人間は間違いなく違和感に気づけるはずなのだから。それに二人を跳ね飛ばした後も加速していたので、ブレーキだと思って踏み続けたのだろう。
あまりにもグロテスクなこの惨状は、見ていられるものではなかった。特に、彼女にとっては。
「あ……ああぁ……っ……」
隣にいた慈希はご両親のもとへ少しだけ足を進めたが、三歩ほどで膝から崩れ落ちた。彼女の瞳から零れた一滴の涙を皮切りに、ボロボロと大粒の涙が零れる。しかしそれは、悲しみだけの涙ではなかった。
「どうして! どうしてっ! 何が……正解なの! くそっ! くそっ! ……ああぁぁあ!」
弱々しくなったり、荒くなったり、そんなの波がある彼女の叫び。
拳で何度も地面を叩いている。
「あんだけ頑張って、我慢したのにっ! なんで、っ、なんでっ!」
彼女のその嘆きは、事情を知っている僕の胸をグサグサと刺していった。怒り、悲しみ、後悔……彼女の叫びはなんと表せばいいのだろう。
彼女からまた一つ、大切なものが奪われた。一体なぜなのか。「代償」が間違っていた……? 彼女はあんなに苦労したのに? そもそも「代償」説が違うのか?
思考は平行線をたどり続け、結局なにも答えは出なかった。彼女に言葉をかけてあげることもできず、ただ立ち尽くしていた。
その後、警察も駆け付けたこの事故で、彼女のお母様は頭部を踏み潰されたことによる即死、お父様は頭を強く打ち意識不明の状態に陥った後、出血が止まらず出血性ショックで死亡した。
側に落ちていたフリージアの花束は、血がべったりとついていた。
事情聴取も終えて少しずつことが落ち着いてもなお、彼女は一向に立ち直れる気配がなかった。それが当たり前ではあるのだけれど。
そんな彼女をただ見ているだけというのも辛くて、少しずつ、言葉を選びながら寄り添うのがいいのではないかと考えた僕は、そっと彼女の背中に手をまわした。
が、彼女はその手を振りはたいてきた。
「やめてよ。同情のつもり? そういうの、余計に辛いから」
逆に彼女の神経を逆撫でしてしまったらしい。
「ご、ごめん。で、でも、少しでも元気を取り戻してほしくて……」
「何言ってんの。元気なんて出るわけないじゃん。こんな状況で」
いつもより冷たく放たれるその言葉は、普段の彼女とはとても思えなくて怖い。だがそれも仕方ないことなのだと自分に言い聞かせる。だからそんなに、そわそわしないでくれ。
「もう、どっかいってよ。私の気持ちも知らないで、無責任なこと言って」
わかってる。わかってる。これは仕方ないことだって。でも、『私の気持ちも知らないで、無責任なこと言って』という彼女の言葉が、僕の疲弊した心に火をつけてしまった。
「君の気持ちなんかわかんないよ! 病気でもないし、両親を亡くしたわけでもないから一ミリもわからない! でも、だからこそ君に寄り添いたいって思ってるんじゃないか!」
「そんなに頑張らなくてもいいよ。どうせわからないんだから」
間髪入れずに放たれたそんな彼女の言葉が、火のついた想いに油を注ぐ。
「ふざけんなよ! こっちだって毎日予知夢が流れて大変なんだよ! 君だけじゃない、僕だって……!」
「そんなのわかってるよ! だからもう傍にいてくれなくてもいいって言ってんじゃん! ……そんなに言うなら、自分の時間に使えば!?」
吐き捨てるようなその言葉は、油を再投入するとともに、悲しみを置いていく。
そして彼女は、諦めたようなため息をついて言う。
「もういいよ。今までありがとね。じゃあ、さよなら」
「お、おい、待てよ!」
言葉を残して去っていく彼女を呼び止めたが、彼女は足を止めずに歩き続ける。追いかけて捕まえればいいのかもしれないが、彼女の悲しそうな背中や、ぶつけられた言葉たちがそれを拒み、ただ涙を浮かべて見ていることしかできなかった。
今日で彼女と一切関わらない日々を過ごして二週間。
心にぽっかり大きな穴が空いたような感覚で、寂しさや脱力感が溢れかえりそうになる。
あれからも彼女は学校に来ていない。こちらからいろいろな手段で何度連絡しても、既読だけつけて一切応答なし。
本当は僕も学校なんて行きたくなかったが、休める理由なんてないので辛さを殺して登校する。
学校では彼女が登校しないことに不信感を募らせていた。そして僕は、彼女の名前が聞こえる度に、尋ねられる度に過剰に反応してしまい、すぐに存在を思い浮かべてしまう。考えちゃいけない、振り払うんだと思っていても、なかなかそれができない。
まるで幽霊かのように、生きているという感覚がなかった。気づけば時間が経っていて、朝は予知夢を見て目覚めが悪い。彼女のことを思い出してしまってまた苦しくなる。そんなことの繰り返し。胸を何者かにぎゅっと掴まれるような痛みが走った。
あの時、どうしてもっと気の利いたことを言ってあげられなかったのだろう、どうしてカッとなって言い返してしまったのだろうとずっと考えている。辛いのは彼女だとわかっていたはずなのに、あれは一時的に整理がついていなかっただけだろうとわかっていたのにも関わらず、こんな結果を招いてしまった。お互い疲弊していたとはいえ本当に選択を間違えたなと後悔している。
こんなことになっても、僕の「生きたい」という気持ちは変わらなかった。それは、まだ僅かに"彼女の光になれるのではないか"と思ってしまっているからだろう。諦めているようで、まだ心のどこかで何かできないか模索している。「普通」が壊されてもいいと思えた彼女のためにできることを、懸命に探し出そうとしている。
予知夢を変えることなんて忘れて、どうにかして彼女と話す方法を模索していた時、再び悲しい報せが入った。
「望月さんなんですが、家庭の事情により転校することになりました」
担任から放たれた矢のように速く心を射止める言葉。息をのむ音が教室のあちらこちらで起こったような気もする。
家庭の事情……。きっと親族に引き取られる関係でここにはいられなくなったのだろう。わかっていても、やっぱり辛い。事情を知っていて納得したのか、割と衝撃は少なく涙も出なかった。だがどうにかして最後に彼女と話したいという想いだけが膨らみ続けた。
彼女がいる場所……家は知らないし、再び入院しているならまた総合病院だろうか。あの事故現場にもう一度足を運ぶのは気が引けるが、行ってみる価値はある気がする。
いろいろなことを考えながらその日は学校を終え、いつもよりも早足で駅へと向かった。
総合病院は普段利用する駅から駅の間にある。なので基本的には帰るついでということになる。
改札を抜けて見慣れたホームで電車を待つ。最近ではこうして黄色の線の近くでも待てるようになった。茜色の空の下、わずかに頬を撫でる風は少し冷たく気持ちいい。暑さも少しずつ和らぎ始めているこの時期、季節もそろそろ変わるのだろうか。
『紅葉とか見に行きたいなぁ』
以前彼女がそんなことを言っていたのを思い出す。夏休みの後半、秋と冬も絶対どこか遊びに行こうと約束したときに彼女が言っていたのだ。
きっともう叶うことはないのだろう。彼女の病気が悪化しているうえにもうこの地域に住むことができないのであれば、会うことでやっとになってしまう。かなり悔しいが、我慢するしかない。それにだからこそ、彼女がいなくなってしまう前に会ってもう一度話さなければならない。感謝も謝罪も、たくさん伝えなきゃいけない。
「まもなく、三番線に、電車が参ります。通過列車です。黄色い線の内側で……」
聞き馴染んだアナウンスにはっと意識を戻し顔を上げる。離れた方が良いだろうかと考えたが、いつものように何もないだろうと思い特に離れたりはしなかった。今日もきっと大丈夫だろう。
なんとなく周囲を見渡す。
同じ学校の生徒や他校の生徒、会社員や買い物帰りの人、多くの人がこの駅を利用し、今電車を待っている。死にたい、生きたい……自分自身に対する何らかの想いを抱えながら今日もここに存在している。誰かのために、何かのために頑張ったり、誰かがいるから、何かがあるから頑張れたり、理由は様々であろうが、彼女と過ごしてきてそのすごさを実感させられた。あんな彼女でさえ生きようとした世界で、自分も生きていたいと考えてしまったくらいに。
電車が見えてきた。アナウンスが早かったのか、まだホームまでの距離は十分にある。
病院にいなかったときはどうしようか。彼女の家を探すのもいいけどかなり時間が
「危ない!」
「えっ?」
聞き覚えのある大きな声がしたと思えば、突然後ろから肩をトンッと押されてそのまま線路の上に身を投げる。とっさの出来事に体はうまく対応できずに線路の上へ倒れ込む。
肩や足、いろいろな箇所に痛みが少しずつ表れてくる。打撲や捻挫でもしたのだろう。
まさか、嘘だろ……?
痛みに歯を食いしばりながら見上げた先にいたのは綺麗な少女――望月慈希だった。
「優弥くん、早く! 手を伸ばして!」
幸い人が落ちたことには彼女の叫びで気づいてくれたらしく、一目散に緊急停止ボタンの方へ駆けていく人も捉えられた。
足に痛みが走って立ち上がれそうにない。だから懸命に手を伸ばしているが、どう考えても掴めそうにない。ホームから少し離れた場所に落とされたから。這って近づくことができればいいのだが……。
――ここまで予知夢通りにことが動いてしまうのか……。
緊急停止ボタンが押されているとはいえ、もうホームに電車は侵入している。鼓膜を大きく震わせる、金属と金属が擦りあうブレーキ音がずっとなり続けているが、きっと止まりきることはできずに轢かれてしまうだろう。
最期にもっと、彼女顔が見たい。だから手を伸ばしながらも、僕は無意識に微笑んでしまっていたであろう。
二週間ぶりに彼女を見れた。どうしてここにいるのかはわからないが、それだけで嬉しかった。これで死ぬなら、悔いはない。
死ぬ間際って、どうしてこんなにも時間がゆっくりに感じるのだろう。もう死んでもおかしくないんじゃないか?
そんな疑問の中、彼女の顔が一瞬だけ歪む。微笑む僕を見て何かを察したのと同時に、何かを決めたような顔だ。
彼女が伸ばしている手をひっこめた。彼女も無理だと考えたのかなと思いきや、ほんのわずかに助走をつけてこちらに飛び込んできた。
「はっ!?」
そんなことしか言えない僕に彼女はそのまま飛びつき、僕と一緒にホームの反対側へと転がっていった。そして二拍ほど空いたあと、多くの人を運ぶ車体が先ほどまで僕がいた場所を通過し、最後尾の車両が見え始めたところで停車した。
先ほどまでいた三番線ホームから、向かいの二番線ホームまで僕を転がしたのだ。間に合わずに二人とも死ぬかもしれない危険があったのにも関わらず。間に合うわけないと思っていたが、人間は危機に陥ると本当に能力が上がるのかもしれない。
すぐに駅員が駆けつけてきて、僕たちを二番線ホームへと引き上げてくれた。事情をいろいろと聞かれたとき、「誰かに突き落とされました」なんて信じてくれるのかとも思ったが、彼女を含む目撃者が多かったことから安易に信じてもらえた。二番線からも悲鳴に気づいて見ていた人がいたらしいのだ。
事態が落ち着くまで、僕たちは何も言葉を交わせずにいた。それはきっと、予知夢を変えることができたということへの喜びと感謝、今までの態度の謝罪、未来への不安など、それぞれ抱える想いがありすぎたからだろう。
少しずつ痛みが引いてきた足で三番線ホームまで戻り、ベンチに腰を下ろす。電車を待ちながら彼女と話すため。
「どうして僕が駅にいるってわかったの?」
「……君と話すために学校を訪ねたんだ。でももうみんな帰ってたから、時間的にまだ駅にいるんじゃないかって」
どこか寂しそうに淡々と話す彼女。少し心当たりがあることを彼女に伝えてみることにする。
「僕が死ぬ予知夢を見たんだね」
「…………うん。最初は気のせいだと思ったんだけど、なんだか妙にそわそわしちゃってさ」
また僕たちの間に沈黙が落ちる。聞きたいことがありすぎて、お互い整理がついていないんだ。
「だからって、あんな危ないことしないでよ。君がもし死ん」
「君が死んだら私はどうするの!? 私はどうやって生きたらいいの!? …………わかってよ。君がいないと、もうだめなんだよ!」
想像以上に声が大きく震えていた。周りの人の視線ではなく涙を堪えている彼女の苦しい顔だけが胸をきつく締める。
「あんな酷いことしておいて何言ってんだって思うかもしれないけど、お願いだから……許して……。もう予知夢を変えるのに付き合わせるのは申し訳なかったの。君だって、すごく苦しんでたから」
でもね、と彼女は続ける。
「君がいなくなった日々は、想像以上に苦しかったの。どうせ死ぬんだから、いっそのこと死んでやろうかとも思ったよ。でも……でも君がまだどこかで生きているなら、傍にいたかったの」
病気が悪化してもう寿命が短い上に、大切な人やものを幾度となく失った彼女。そんな人間が独りで生きていくことが、どれだけ苦しく辛いことなのかを、改めて実感させられた気がする。いや、実際はわかっていたのだろう。わかっていてもなおあの時、彼女を追いかけることができなかったのだ。
「ごめん、辛い思いさせて。本当は僕が、何があっても傍にいるべきだったよね」
「突き放したのは私だから、君は悪くない。そんな謝罪より……最期まで一緒にいてくれるって約束してくれる方が嬉しいな」
笑みを零しながらも、その目は懇願しているようだ。
最期、という言葉がとても嫌だったが、彼女の覚悟を表す大切な一部なのだろう。
「その時まで、一緒にいるよ。もう離れないって約束する」
「…………ありがとう。……本当に、ありがとう」
一筋の光が彼女の頬を伝い、ぽたりと落ちてスカートを濡らしていく。
「あの場所で話したい。私たち二人で見たあの星空を、もう一度……」
僕は無言で頷き、彼女に寄り添いながら来た電車に乗車する。周囲の人からは不思議そうな目線を送られたが、特に気にしていなかった。周りのことなんて考えずに、今だけは……いや、これからは、好きなだけ泣いてほしいと思ったから。
僕が「最期」と口にできなかったのは、きっとその覚悟がないからなのだろうと、電車に揺られながら弱さを痛感した。
電車を降りて星空の下に着いたときには、すっかり暗くなってしまった。日が少しずつ短くなっているうえにあの一件があったので、とてもちょうどいい時間帯だ。
あの時のように星空を眺め、彼女が話し始めるのを待つ。綺麗な星空――藍色のパレットはお互いの弱音で染めるには十分な広さ。だからここを選んだのだろう。
「まだ、私のこと、好き?」
沈黙を破ったのは彼女の疑問だった。
「好きだよ。心の底から」
ははっ、と笑って「こんだけ可愛いもんね~」と冗談ぽく呟く。彼女が綺麗なことは事実なので、否定はしない。
「転校するって、本当なの?」
「そう! その話を学校に伝えに行って、君と話す予定だったんだよ!」
思い出したー、といつものテンションに戻った様子で彼女は言う。駅で見えていたのは寂しさだったのだろう。だが今はその代わりに、哀しさが表れてしまっている。
「取り消してもらえたんだ、引っ越し。ここに残りたいって言ったら、了承してくれた。"独り"暮らしってことになるけど、あの人たちといるよりかはかなりましだしね」
親戚の方たちも、建前上はそういったものの一緒に住むのは気まずいというのが本音だろう。病院が近いのもあってこっちの方がなにかと都合がいい。
どんな事情があっても、彼女とまだ時間を共有できるならそれでいい。
「独り暮らし、大変だと思うから、何かあったらいつでも言ってね」
「うん。その時は遠慮なく頼らせてもらうね」
いつもの素敵な笑みを零しながら言う彼女。またこうして僕の前で大好きな笑顔を見せてくれることがたまらなく嬉しい。二度とないのではないかという未来が打ち消された喜びは、表現しきれない。
夜の色がまた少し濃くなってきたとき。懐かしい心地のいい沈黙を破ったのは慈希だった。
「どうして予知夢が変わったと思う?」
「……それが全くわからなくてさ。何か心当たりあるの?」
何かを知っているような聞き方をしていたので尋ねてみたが、なぜか口にすることを拒むような様子だった。何か言えない事情があるかのように。
「…………君の夢の『代償』は、"『普通』に生きること"じゃない?」
……確かに言われてみれば、最近失くしたものは「普通」である気がする。だが大切かと問われればわからないし、それが完全になくなったかどうかも曖昧な気がする。
「"すごく無理矢理"だけどさ、きっと『代償』はものだけじゃなかったんだよ。そこには想いもあって、だからどうしようもできなかったんだよ。いくら頑張ったって、人の想いを変えることはほとんどできないに等しい。……君は、正反対の考え方を持つ私に感化されたんでしょ?」
確信しているような彼女の口調。だが言われてみればそうなのかもしれない。
実際何度も自覚していた。彼女が見たい世界を信じたいと思って、彼女がいるから生きたいと思った。それがきっと、「代償」になる何らかの想いを打ち砕いたのだろう。どちらも正体はわからないが、そこは深く考えるほどでもないのかもしれない。
わかってしまえば、それは「代償」を払ったことにはならないのだから。
「君のおかげで、ここまで来れたってことだね。ありがとう」
「何もしてないよ、私は。結局想いを知るのも、生み出すのも、自分自身なんだから」
どこかいつもと様子が違う彼女。全てを悟ったような、わずかに諦観を含んでいるみたいだ。言葉の一つ一つに重みがあり、不思議に思わざるを得ない。
「何か、あったの?」
僕は思い切って尋ねてみる。何かあったことは明確だったから。
「……手術するんだ。助かる可能性があったから」
静かに彼女はそう零した。
経過観察で新しく判明した事実から、手術を施せば治る可能性があると言われたらしい。成功率が低く、再発するリスクが高いため推奨はされなかったらしいが、彼女はすぐに手術を決定したらしい。
「手術をするということは予知夢にはなかったし、決定してからも内容は変わらなかった。だから、きっともう私の予知夢は変わったんだよ。手術の話が舞い込んできたってことは、何か『代償』を払えたってことだろうね」
「でも、どうして急に手術を? もうどうでもよくなったって言っ」
「君のおかげだよ。君が私に優しさをくれて、いろんな世界を見せてくれたから、もっともっと生きて、『素晴らしくて面白い世界』を見たいと思ったんだよ。"少しだけでも長く"、生きたいの」
二人とも、想いが「代償」だったのか。このたった一つの予知夢を変えるために見せられたのが今までの予知夢だったのだろうか。祖母が死に、両親が死んだ。この出来事があったからこそ「代償」に気づき、想いを捨てることができた。
皮肉なことに、あの出来事がなければ僕たちは生きていなかったんだ。彼女はあまりに失ったものが大きすぎるが、これが死と引き換えるということなのだろう。
「これから、たくさん思い出を作りたいな。優弥くん」
こちらを真っすぐと見据える彼女の瞳はとても綺麗なのだが、どこか暗さを感じる。きっとまだ恐怖があるのだろう。
「うん。抱えられないくらい、思い出を作ろう」
そう伝えると、彼女は涙を零すとともに微笑み、「ありがとう」と言って僕に抱きつく。
「大好きだよ。大好きだよ、優弥くん」
数多の星のように、たくさんの涙をぼろぼろと零しながら、声を震わせてそう話す彼女は、どこか悲しそうだった。そして少しだけ期待を帯びている気もする。
これから何が待っているかわからないけど、今度こそ彼女とずっと一緒に過ごせる。そう確信した。
「だ…………てっ、……よか……」
震える声で、全く声になっていなくてわからなかったが、そこは聞かないでおいた。彼女とこれからを過ごせるなら何でもよかったから。
その日から、僕たちの予知夢との闘いは終わった。お互い予知夢を見ることは無くなったのだ。
予知夢の「代償」が判明し、結果を変えた翌日から慈希は再び学校に姿を現した。沈み切っていたクラスの雰囲気も、以前と同じように……いやそれ以上に活気がある。まるで彼女が神様であるかのようだ。
「ごめんねー心配かけて。あ、転校? あれ結局なしになったんだよー。親が取り消してくれてさー」
約三週間ぶりの登校となる彼女の周りには、相変わらず男女問わずたくさんの人が集まっている。聞こえてくる話の内容は休んでいた理由、転校の件……。転校から数カ月たってもなおこの状態ということは、彼女は相当愛されているのだろう。裏ではたくさん愚痴をはいているが、根はすごく優しいのでいろんな人に好かれるんだろうなぁ。
人気者は大変だなぁなんて思いながら眺めていると、質問攻めに合っている彼女と集まる人の隙間から一瞬目が合った。見つめ合うような形になった時、とても助けてほしそうだったが、肉壁を無理やりこじ開けることもできなければ、声をかけた後に向けられる殺気立った視線にも耐えられないので、僕はそっと目を逸らす。今彼女がどんな顔をしているかわからないが、放課後に間違いなく怒られるだろう。
いつも通り呼び出されて怒られて終わりだと、少し事態を楽観視していた僕に、鉄槌が下される。
それは、昼休みのことだった。
「優弥くん、お昼一緒に食べよ?」
授業が終わり、教室が会話に包まれ始めた時、彼女はそう僕に投げかけてきた。目を細めてにっこりと笑っているように見えるが、そこには少し怒りを含んでいる。
彼女の声はよく通るし人気者なので、一瞬にして教室が静寂に包まれる。そして驚きや嫉妬などのいろいろな感情が込められた視線が僕たちに向けられている。
「中庭とかどう? ちょっとまだ少し暑いかな」
「ちょちょ、待って待って」
了承もしてないのに勝手に話が進んでいくので、僕は慌てて止めに入る。それに向けられている視線がたまらなく怖くて痛い。当の彼女は「何かあった?」というように首を傾げている。目は細められたままで怒りを抑えているようだった。
「さ、流石にまずいって、一緒に食べるのは。てか急にどうしたの? いつもはそんなこと言わないじゃん」
「だってさ、どこかの誰かさんが朝助けてくれなかったし」
と言って今度はニヤニヤしている慈希。それは「わかってるよな?」と訴えかけているみたいで、僕は何も言えずに彼女に連れて行かれる形となった。
指示通り中庭に連れて行かれる合間にも、少しもどかしい視線が送られた。クラスでは危ういシーンが少しばかり合ったので慣れている生徒も多かったが、他クラスや他学年となると話は別だ。学校中で人気の彼女と全く知名度のない人間が一緒にいるのはあまりよろしいことではないらしい。男子生徒からの嫉妬や女子生徒からのたぶらかしたなんて噂に耐えなければいけない日々はまた続きそうだな。
季節が変わり始めた十月。気温は落ち着いたがまだ少し日差しの強い外で待っていたのは、昼食という建前の説教と愚痴だった。何でもっと話しかけてくれないのか、どうしてあの時割って入って助けてくれなかったのか、そもそも休み明けの人に対して踏み込んできすぎなんだよだとか。いつまで続くのだろうとかも思いつつ、確かにあまり居心地が良い空間ではないだろうなと、助けてあげられなかった罪悪感が芽生えてくる。
「し、仕方ないだろ。余計にクラスの視線がこ」
「そういうの、もうやめて」
怖くなる、といつもの言い訳をしようとした時、彼女はそう言って突然僕の胸の中に顔を埋めてくる。彼女の声は呆れや怒りが込められている上に、相変わらず悲しみを帯びていた。
「お願いだから、私と一緒にいてよ。たくさん思い出、作るんでしょ?」
切実に訴えかけてくる彼女の言葉。確かに、全ての事情を知っているのは僕だけで、ありのままの彼女でいられるのは僕の前だけなのだ。それに思い出をたくさん作ろうと約束したのは事実で、できる限り破りたくない。彼女の心の拠り所になることができるのなら、そうしてあげたい。
これからは言い訳せずに、本質に向き合っていこう。だから僕は、素直に自分の非を認めた。
「ごめん、僕の考えが甘かったよね。聞かれたくないことも聞かれて、辛い想いしてたはずなのに」
「君しか味方はいないんだからさ。……そばにいてよ、ずっと」
ごめんね、という謝罪を込めて、力一杯彼女を抱擁する。見た限り周囲に人はいなかったので、今だけは許してほしい。僕しか助けられないのなら、僕で助けになるのなら、ずっと傍にいてあげたいということをどうしても伝えたかった。彼女自身が気づいていないであろう全身の震えを少しでも緩和させてあげたかった。
自身の命を引き換えにたくさんの存在を失って、一人の人間を助けてくれた彼女に恩返しがしたかったし、もう最後かもしれない彼女の大切な存在として、ずっと寄り添ってあげたかった。
それからの学校生活はほぼ毎日、全ての時間を慈希と過ごした。朝、昼休み、放課後、加えてこれからある文化祭の準備なども一緒に過ごした。いつも決まって彼女の方から来るようになって、周囲に生徒がいないときは溜め込んだ愚痴を吐き出している。彼女の愚痴に付き合うのは不思議と嫌じゃなかったし、辛そうな様子から一変して足取りが軽くなった彼女を見ると、安堵や愛しさやらでこちらまで笑みを零してしまう。やっぱり彼女の笑顔は惚れた原因でもあるほど綺麗で、いつまでも見ていたいと思ってしまう。
これだけ彼女と学校で過ごしていると、周りからの視線も少しずつ柔らかいものになってきた。中にはまだ僕のことを恨んでいるような男子生徒もいるみたいだが、クラスの中では気楽に彼女のそばにいることができる。
彼女と時間を共有するのは、休日でも変わらなかった。動物園や植物園、美術館、ショッピングモールなど、彼女の要望にはできるだけ応えられるように努め、たくさんの思い出を作っていった。以前彼女が言っていた紅葉を見に行くという話も、嬉しいことに実現させることができた。県の端の山が多い田舎まで二人で移動して、全身で季節を味わった。もみじを着飾った木々に囲まれ、学校での出来事やらなんやらを話して時間を溶かすことでさえとても落ち着く。こうして出掛けたり、かなり歩くようなことはなかなか許可されなかったみたいで、初めて見たり触れるものばかりだったらしい。あらゆるものに興味を持ってはそこに駆けていく彼女。まるで幼児かのように元気すぎる彼女は、僕の少ない体力を全部持っていってしまう。でも全然嫌じゃなかったし、それがすごく楽しかった。彼女の喜びに満ちた綺麗な表情を見ていると、不思議と体力が回復しているみたいだ。
その日の夜に展望デッキから見た星空はとても美しかった。夏の大三角に変わって秋の大四辺形が姿を現し、あの時とは違った一面を見せていた。慈希みたいに綺麗だね、とあの時言えなかったことを伝えると、彼女は顔を真っ赤に染めてしまった。加えて全く目を合わせてくれなくて、「優弥くんのバカ……」と終始呟いていた。
だが、そんな超健康人間のような彼女をずっと見ていられるわけでもなく、時々病気に蝕まれている様を目の当たりにしなければならない時がある。そしてそれは、日が経つごとに増えていった。症状にはすごく波があるみたいで、紅葉を見た時のように走り回れるぐらい元気な日もあれば、予定を当日キャンセルしなければならないくらい辛い日もあるらしい。できるだけ離れずずっとそばに居たかったし、一人暮らしということもあってその時はほぼ毎回家にお邪魔していた。彼女もそれを望んでいるみたいだったので、できるだけ寂しい想いはさせないようにした。
そして今日は彼女の定期検診に同行している。予知夢を変えて一ヶ月弱経って、文化祭を三週間後に控えている。季節はあっという間に変わり、気温も少し肌寒さを覚えるほどに落ち着きを取り戻してきている。汗ばむ日々とおさらばできたことは限りなく嬉しい。
今回定期検診に同行することになった理由は、すぐに終わるだろう検診の後にどこか遊びに行きたい、という彼女の願いからだ。どこに行こうか、何をしようかなんて話しながら、二度と見たくない現場を素通りして、今は彼女の検診が終わるのを待っている。彼女は一緒に居たいだけでなく、そこを乗り切る勇気が欲しかったのだろう。実際その付近で彼女は急に黙り込んでしまっていた。
多くの人が診察を待つ静かな場所で待つこと数十分、僕を見つけた彼女は手を振りながらこちらに来る。
「ごめんねー、意外とかかっちゃった」
「いいよ、全然」
「うー、ありがとうほんとに。……じゃあ行こ。どこ行く?」
そう言いながら僕が立ち上がり、出入り口へ向かおうとした時、すれ違ったおじいさんに声をかけられた。
「君たちは、あの時の熱いカップルさんじゃないか」
「え? ……あっ! あの時の!?」
彼女のご両親が事故に遭った日、声をかけたおじいさんだった。あの時よりはどこか生き生きとしていて、表情も明るかった。
主に彼女が前のように会話をして、話は少しばかり盛り上がっていく。
「にしてもどうしたんですか? どこか嬉しそうですけど、何か良いこととか?」
僕と同じように彼女も疑問に思っていたようだ。もう友達かと思うくらい仲良くなっている彼女は、さりげなく尋ねている。
「実はね、手術して病気が治ったんだよ。今日はその定期検診でね。妻とこれからも一緒に過ごせるのが嬉しくて」
今までで一番穏やかな声で、喜びを噛み締めるように彼は言った。大切な人との未来が増えることは、心底嬉しいに違いない。
それからは時間が迫っているみたいで手早く会話して去っていった。本当に元気な人なんだなと後ろ姿を見て思う。
「治ったんだね。あの人」
隣にいた慈希は静かにそう呟いた。
「嬉しいだろうね、すごく。……慈希も、治ることを信じてがんばろ。二人でいれば、きっとうまくいくよ」
「え? あ、あぁうん、そう、だね」
何か考え事をしていたのか、まだ喜びに満ちた後ろ姿を見ていたのかはわからなかったが、目が合わない彼女はどこか焦っているみたいだった。言葉もたどたどしい。手術に対する恐怖は、やっぱり彼女にもあるのだろうか。
少し不安になって声をかけようとした時、彼女の方から急に腕に抱きついてきた。何かを堪えるように、縋るように。
僕はただ彼女が抱く負の想いを和らげてあげられるように、そっと近くの席に腰を下ろして彼女をそっと抱きしめた。僅かに震えている彼女は、どこか嗚咽を堪えて泣いているようにも感じられた。
「今日は、どこにも遊びに行かなくていいから、ただ一緒にいてほしい。……適当に散歩しよ」
胸に顔を埋めて彼女は言う。さっきまでとは明らかにテンションが違うし、不思議なお願いに少し困惑している。
だが僕は、変に探りを入れるのはやめておいた方がいいだろうと結論付けた。
「わかった。落ち着くまで、こうしてていいよ」
こくりと頷いた彼女は、僕により強く抱き着いてくる。一体彼女の心の中で何があったというのだろうか。手術という迫りくる日がやっぱり怖いのか。それとも事故のことを思い出してしまったのか。理由は何であれ、とても苦しい状況になっていることは間違いないのだろう。
震えが止まらず、怯える子犬のようになってしまった彼女の頭を優しく撫でる。大丈夫、大丈夫、と心の中で呟きながら。
その後は少しずつ、少しずつ落ち着きを取り戻した彼女と共に、過ごしやすくなった街を散歩した。特にどこか寄るわけでもなく、普通に散歩した。散歩が嫌だとかそういうことではない。こういうことは初めてではないから。だがどこか浮き沈みの激しい彼女がすごく気がかりなのだ。病院ではあんな感じだったのに、そんなことなかったかのような様子だった。これからある文化祭が楽しみだねとか、隣のクラスは何やるんだろうとか、最近あった友達との出来事とか、他愛もない話を繰り広げていた。彼女が何を思い、何を考えているのかはわからないし、踏み込む勇気がなかなか出ない。これで彼女を傷つけてしまったらと考えてしまう。
きっと彼女は疲弊しきっているんだ。病気が進行しているのは間違いないだろうし、一人暮らしでもある。なんでもこなせるとはいえ、誰しも流石に限界がある。手術もまだまだ先の様だし、大変なことばかりなんだろう。
小一時間ほど歩いて各々帰宅した後、就寝前に彼女と通話した。ここ最近はほぼ毎日行っていて、彼女はこれだけでもかなり落ち着くという。時々聞こえてくる咳き込む声が僕の不安を煽るが、その度に『大丈夫だよ』、『気にしないで』と返ってくる。もちろんそんなことで不安が消えるわけでもなく、逆に不安は増していくばかりだった。
三十分ほど話して通話を切り、部屋の電気を消してベッドに倒れる。少しずつ微睡みの世界へと入る準備をしていく。
目を瞑り、今日あったことを振り返る。彼女とこうして過ごすことは今では当たり前になっていて、特に驚くことではなかった。彼女と過ごして、通話して、寝る。そんなことの繰り返し。この生活は『声が聴きたい』という彼女の要望から始まった。嫌というわけではなかったし、一緒に過ごせるならいいかと思って始めたのだが、最近では様子がおかしい。
まず体調がどんどんと悪くなっている。それは当たり前のことなのだが、その速度が以前よりも増している気がするのだ。何度か一緒に行った定期検診の際、終わった時にいろいろと聞いてみたものの、『改善も悪化もしてないよ』としか言わなかった。そしてそれを聞くと決まってその話題を避けようと別の話題を振ってくる。雰囲気が悪くなるのが嫌なのか、病気のことを考えたくないのか、いろいろ理由があるのだろうが、どうもその様子が不自然なのだ。
その次に生活の様子だ。学校生活では見せる笑顔が少し変わってきている気がする。自然と出てた華やかな笑顔が、無理矢理作っているように見えてしまうのだ。他の生徒は気づいていないようなので、僕の勘違いの可能性もあるが……。
それに今日もあったようにテンションの浮き沈みが激しい。悲しそうな態度と声をしていて何かあったのかなと思えば、いつの間にか大はしゃぎしているし、ふと見れば遠い目をしている。これも同じく何を聞いても『大丈夫』としか返ってこないので、断定することはできない。
とにかく心配だ。彼女のことを信じたいけど、あの様子からは到底信じられない。本当は病気が悪化していて、手術の準備が間に合わないとかそういうことではないのかとかいろいろ考えてしまう。そして同時に、病院側はどうして対応が遅いんだと八つ当たりしてしまうことも増えている。総合病院で手術できるものではないだろうから他の病院との打ち合わせもあるのだろうが、もう約一ヶ月も経っているため疑問に思わざるを得ない。
意識が落ちる寸前で、僕はまた神様に祈る。
どうか彼女を救ってあげて下さい。
もう、苦しみから解放させてあげて下さい。
心の底からそう祈った。だがこれは、彼女が陥っている現実から目を逸らしてしまいたかっただけなのかもしれない。
その日の夜、久しぶりに予知夢を見た。


