慈希の夢を変えて今日で一週間。毎日同じ――自分たちが死ぬ予知夢を見る僕たちだけの"日常"を送っていた。
「ねぇーもううんざりなんだけど!」
 電車から降りて改札を抜け、学校に向けて歩いているとき、彼女はそう嘆いた。
「何で何回も何回も私が死ぬ夢をみなきゃいけないの! わかってるっての、めんどくさい!」
 鞄を強く握りしめ、ぶつけ場所のない怒りを吐き出している彼女。いつもは見ない新鮮なものを見せられ、なぜか微笑ましかった。
 だが確かに、死ぬ夢を見るのはかなりうんざりしている。自分が死ぬのだから、目覚めはもちろん最悪なわけで。
 何度か予知夢の中の「代償」を探してみたが、なかなか見当がつかない。自由に視点を動かせるわけではないので、映るものの中からしかヒントは得られない。だがこれといったものはなく、自分の所有物すらなかなかみつからない。
「もうちょっとさ、良い夢も見させてほしいよね。……宝くじが当たるとか!」
「それは無謀すぎるよ」
 彼女はえーと言って肩を落とし、ぷくりと頬を膨らませる。
「まぁ確かに、悪いのばっかりは嫌だよな」
「でしょー? 早く変えろってことなのかなぁ」
 彼女のその何気ない言葉ではっとする。予知夢が現実になる日が近いことを表しているのならば、それは早く行動しなければまずい。不親切なことに、内容はわかっても日時はわからないので、見えない恐怖がなんとなく僕らを急かす。
「あそうだ、今日の会議はそれにしよう! 『お互いの予知夢』について!」
 拳を高々と突き上げそう宣言する。
「それはもうお互い知ってるんじゃない?」
「確かに一回話したけどさ、愚痴とかそういうの言い合って少しでも気分を軽くしようってわけよ」
「……聞いてもらいたいだけでしょ」
「大正解!」
 バレるよねーなんて笑っている彼女。綺麗なその笑顔は、病気を患っているとは思えなかった。
 学校にて席に着くと、いつも通り彼女には人が集まる。いまだに僕は嫌な視線を向けられるが、それは仕方ないだろう。
 時々、彼女が病気だということを忘れているときがある。
 登下校は一緒で、友達とたくさん話して、休日は一緒に出掛けて……。空元気なのかはわからないが、明るく笑顔の絶えない彼女を見ていると、これからもずっと健康に生きていきそうに思えてしまう。そしてふとした時に、病気だと思い出して複雑な気分になる。
 何があそこまで彼女の生きる希望になっているのだろうか。何が彼女の"素晴らしくて面白い世界"を信じる光になっているのか。
 考えたってわからないが、どうしてもそれが気になってしまう。近い将来命を落とすであろう身として、どうしてもそれを知りたいと叫んでいる気がするのだ。

 放課後、電車に乗って図書館へ向かい、いつも会議している場所に腰を下ろす。
「やっと君と話せるよー。学校じゃ全然話せないからさー」
「それは、君が人気者だからでしょ」
「……好きじゃない人に話しかけられてもねぇ」
 彼女はじーっと僕を見つめ、お前が話しかけろよと語り掛けてくる。そんなこと言ったって、僕から話しかけたら周りの見る目がもっと大変なことになるだろ。
 彼女には交際してることを隠すように言っている。僕が殺される可能性があるから。あとは彼女がバラさなければいいのだが、彼女のことだから少し不安だ。
「まぁいいや。じゃあ予定通り、予知夢の話をしよ」
 それに頷いて彼女が話し始めるのを待っていると、きょとんとした様子で首をかしげる。
「どうしたの? 早く話してよ」
「えっ僕から!? 今日聞き専のつもりだったんだけど」
「私は朝少し話したもん。君は何も話していないから、それでフェアでしょ?」
 彼女の性格的にどう考えても断れる状況じゃない。
 話せと言われても、いったい何を話せばいいのやら……。そう悩む僕に彼女は助け舟を出す。
「あ、そういえば、どうして私に協力してくれてるの?」
 予知夢のこととは関係ないかもしれないが、話題を出してくれるのはありがたい。
 協力する理由……それを聞かれると、やっぱり初めて彼女とここを訪れた日を思い出してしまう。
『私はまだ、この世界を知らない。だから、この世界をもっと知りたい。いろいろなところに行って、いろいろなことして……とにかく、こんな素晴らしくて面白い世界を、もっと生きたい』
 彼女のあの言葉は、今でも一語一句思い出せる。それくらい、彼女の厳しい境遇から生み出された想いに僕は感化された。彼女のような考えをもっていなかった僕でも、そんな風に生きたいと思ってしまった。
「君の生きたいって想いに心を動かされたんだ。正反対の想いを持つ僕も、生きたいって思えたから」
 何かを考えるように下を向いた後、少し微笑みながら「嬉しいことばかり言ってくれるね」と言った。どこか悲しみを含んだその顔と声は、妙に心をちくちくと刺してくる。
「……君はどうして、僕を選んだの?」
 すると彼女は、「前も言ったけどさ」と話し始めた。
「病気で外出もなかなかできなくて、学校に行けることもほとんどなくてさ。久しぶりに行っても容姿のことばかり見てきて、余計に苦しくて。……病は気からっていうけど、本当にそうみたいで、どんどん悪くなっちゃった」
 中学校はほとんど出席できず、高校はなんとか入学を果たしたらしいが、体調は回復せずにずるずると引きずっていたらしい。
「もう治療もやめようかなって思ってたら、余命宣告されたんだ。そしたらなんか、どうにでもなれって思って治療も拒否して、強い薬でこうやって不自由ない生活を送ることにしたんだ。で、もっと世界を知りたいって思ったの」
 彼女の「世界を知りたい」という言葉はいつも重みがある。過酷な生き方をしたからこその彼女の意志は、簡単にへし折ることはできなさそうだ。
「今までとは違って、家族とか以外で唯一真剣に私の話を聞いてくれた君は一筋の光だったんだよ? それで、この人だったらいいかもって……いや、君がいいなって思ったんだ。君じゃなきゃだめだったんだよ」
 君じゃなきゃだめだった。その言葉は徐々に徐々に沁みていく。
 過去の自分と今の自分。この二つを知っているのにも関わらず、それを全く対比せずに僕を見てくれる。その初めての感覚が少しくすぐったかったが、とても嬉しかった。
「これからも頼ってね」
「うん。信じてるよ、優弥くん」
 僕らはお互いにしばらく見つめあった後、耐えきれなくて同時に吹き出してしまう。「恋人なのに今更何言ってんだろうね」という彼女の言葉には心底同意できる。
 落ち着きを取り戻し、予知夢のことなんて忘れて適当に談笑していると(周囲にはもちろん気を遣って)、突然彼女のスマホが振動する。誰かからの着信のようだ。
「あ、お母さんからだ。ちょっと外出てくるね」
「うん。行ってらっしゃい」
 そういって送り出すと、控えめな足音でパタパタと駆けていった。
 改めてここの図書館は造りがすごいなぁなんて考えてものの数十秒後。慈希はもう帰ってきた。
「おかえり。早かっ――」
 そう言葉を言い終わる前に、彼女の様子がおかしいことに気づく。スマホを耳に当てたまま、深刻そうな顔でこちらを見つめて肩で息をしている。
 うん、うん、と力のない声で返事をして電話を切ると、消えてしまいそうな声で「嘘だ……」と零した。
「おばあちゃんが……死んじゃった……」
「えっ……?」
 僕らは何も言えず、その場に立ち尽くした。何が起こっているのか、それが本当なのかと疑いたかったからだろうか。
 しかしそれは嘘でも間違いでもなんでもなく、確かな死だった。彼女の母がお菓子を持って家を訪れたとき、反応がない上に犬の懸命な鳴き声が聞こえたため、念のため用意していた合鍵で侵入すると、廊下で倒れていたそうだ。救急搬送された結果、心筋梗塞だったらしく、その鼓動は二度と響かなかった。

 恋人の祖母の死。それは本来なら自分にはあまり重くのしかかるものではないと思っている。だが、今回はわけが違う。
 何度も目の前で死ぬ夢を見て、何度も話し合って作戦を立て、彼女の大切なものを切り刻んで燃やすという選択をしたにも関わらずこの結果だ。彼女の心境を想像するだけで胸がズキズキと痛む。
 確かに予知夢は回避したと言える。実際に予知夢は現実にならなかったのだから。だが唯一、"死ぬ"という結果だけは現実になってしまった。「代償」が間違っていたのか、そもそもこの「代償」の仮説すら間違いなのか。その疑問は僕らの思考を余計に狂わせにくる。
 後日彼女に尋ねてみたのだが、ミサンガを処分した後は一度もあの予知夢を見なかったらしい。だから完全にうまくいったと思い込んでいた中での出来事だったそうだ。
 慈希はというと、ショックのあまりしばらくの間は口数が減った。学校に再び登校し始めたものの、学校でも放課後でも、ただ僕の傍から離れずに腕をつかんでいる(交際がバレてしまったかもしれないが、これはもう仕方ない)。無言のまま、悔しさや悲しみを頑張って殺しているようだった。
「何もしなくていいから傍にいて」
 訃報から五日が経った頃、六月中旬だというのに暑さばかりが増し、雨もなかなか降らないとき。少し立ち位置に困りつつあった僕に気づいたのか、いつもの図書館で彼女はそう言ってきた。僕はそれに何も答えずにそっと手を握った。言葉にはしなかったが、大丈夫だよという想いが伝わるよう、優しく包み込むように努めた。それをうまく受け取ってくれたのか、目には薄っすらと涙の膜が張っていた。何とか堪えようとしていたみたいだが、「堪えなくていいよ」と一声かけると、とうとう吹っ切れたように嗚咽と共に泣き出してしまった。きっとずっと泣くことを堪えていたのだろう。だってそれは、死を完全に受け入れるということなのだから。
「大丈夫、大丈夫だよ。傍にいるから」
 僕はただ、机に伏せてしまった彼女の背中をさすりながら言葉をかけ続けた。
 それから一週間が経つ頃には、ほとんど元の状態に回復していた。まだ影は残っているが、口数や口調はだいぶ戻ってきている。以前のように笑顔を見せることも少しずつ増えてきて、いつもの慈希そのものが顔を覗かせている。
「君のおかげだよ。本当にありがと」
 相変わらず腕を掴んだままの彼女だったが、いずれそれもなくなるであろうことは感謝を含んだ笑みから見て取れる。僕はただ彼女の傍にいただけだが、役に立てていたなら素直に嬉しい。
 学校生活では少しずつ僕から離れていき、いつものように明るく振る舞う場面が多くなった。クラス全体が心配していたことなので、少し下がり気味だったクラスの雰囲気も次第に良くなっていった。事情が知られるまでは僕が何か悪いことをしたんじゃないかと疑われて、本当に殺されるんじゃないかとびくびくしていた。結局はそんな暴力沙汰もなく終わったのでよかった。
 まぁでも、これでようやく日常に戻ることができそうだ。お互い予知夢は見続けて疲弊していたが、支えあって乗り越えたこの日々は間違いなく関係を強くしてくれた。
 引き続き予知夢との闘いは続いていくのだろう。でもなぜか、彼女がいるなら何とかなる、という確信が持てた。

 駅の上に広がっている茜色の空。わずかに吹く風は少し冷たく感じる。
「まもなく、三番線に、電車が参ります。通過列車です。黄色い線の内側で……」
 聞き馴染んだ機械的なアナウンス。ホームの端の方では駅員さんが黄色の線をこえていないかを確認している。彼らは自分たちの仕事にどんな想いを抱えているのだろうか。誇りに思っているのか、早く辞めたいと思っているのか……。少なくとも、彼らがいなければ駅の秩序は守られない。誰が何と言おうと必要な職で、多くの人の助けになっている。"意味のある人間"なのだろう。
『みんなお前のことなんか嫌いなんだよ! 誰にでもいい顔しやがって! うざいんだよ!』
 ——っ!?
 突如脳内にノイズと共に流れた罵詈雑言たち。他に何個も重なって頭が割れそうなほどに痛く、声にならない呻き声が出た。一体何なんだ。こんなこと言われた覚えないぞ。
「危ない!」
 声に気づくと同時に、僕は線路の上に落とされた。落ちたときに捻ったのか、足首に若干の痛みが走る。
「早く! 手を伸ばしてよ!」
 僕の顔を見て懸命に手を伸ばしている慈希の目には涙が浮かんでいる。
 ――ごめん、もう立てないんだ。
 心の中でそう言いながら彼女の痛々しい表情を見つめる。そんな顔、しないでほしいな。
 電車のライトによってみるみる照らされていく肉体。
 すぐそこまで死が迫っている。
「優弥くん!」

 ――はっ!
 夢の中の彼女に悲鳴のような声で名前を呼ばれてやっと起きれた。あれは予知夢。完全にその世界に入っていた。まだ呼吸が浅く速い。
 慈希の夢を改変して二ヶ月経った。最近はこんなことばかりだ。以前までは予知夢だとわかって気を保っていられたのに、今はその区別がつけられなくなっている。そして今日は一部普段と違った。若干の変化は毎回あるが、あのノイズと共に流れた暴言。どこか聞き覚えがある気もするが、どうしても思い出せない。本当はそんなことなくて、勝手に作り出されただけなのかもしれない。真偽はわからないが、最近の予知夢は何かを語り掛けに来ている気もする。油断するな、忘れるなとでもいうように。
 捨てきれない思考を抱えたまま、僕はベッドから立ち上がる。今日は大切な用事があるのだ。早めにやることを済ませておこう。
 僕が住む地域では毎年花火大会が行われている。河川敷で打ち上げられる花火は高々と夜空を昇り、輝く星たちに負けない輝きを見せる。その数と大きさから、毎年とんでもない量の人が押し寄せる。数年前に行ったときは屋台も大行列を成し、歩くスペースも確保できるか怪しいほどだった。
 最近では家から出るのもめんどうで家の窓から眺めていた。はっきりと見えるわけではなかったが、時々映るそれはとても美しく、また近くで見たいと思っていた。
『ねぇ、花火大会行こうよ!』
 今日行われる花火大会に、僕は慈希に終業式の日に誘われた。特に断る理由はなかったし行きたかったので了承したが、今になって少し億劫な気持ちも芽生えている。同じ学校の生徒も集中するだけあって冷やかしの視線を送られるのが少しめんどうなのだ。学校で散々な目にあっているので慣れてきてはいるが、居心地が悪いのは事実。ここはひとつ彼女との思い出ができる代償だと思おう。彼女と時間が過ごせるなら構わない。
 ――さて、先に課題から終わらせるか。
 そう思って僕は、日が傾くまで時間を潰し始めた。

 少しずつ太陽が沈み始めている午後七時近く。八月は夜も暑く、日中の熱気が会場にこもっている。会場となっている場所の時計台の足元で慈希を待っていた。
 予想していた通り、とてつもない量の人がいる。彼女は現地集合でいいと言っていたが、こんな状況で無事に合流するのはかなり難しい気がする。だからと言って勝手に動くのはよくないので、もう少しここで待機しておく。
 集合時間を五分過ぎたところで少しずつそわそわしてくる。これまでに何度か彼女と出かけたが、集合時間より後に来たことなんて一度もなかった。彼女曰く、『待たせるなんて私が一番やりたくないことだからね』らしい。五分やそこらで心配するのはおかしいことなのかもしれないが、彼女の性格や普段のことを考えると気が気でならない。
 そんな時、ポケットに入れていたスマホが震える。液晶を点灯させると慈希からの連絡で、『ごめん! 道わからん!』とのことだった。言わんこっちゃない、この人混みの中で集合はやっぱり無謀だな……。
 そこに続けて『迎えに来て!』との連絡があったので、『会場の入り口の外で待ってて』と送信して、アプリを起動させたまま僕は入口へと歩き出す。
『ありがと~、ほんとごめんね』
『いいよ、気にしないで。何となく想定はしてたから』
『えー、だったら早くいってよ~』
 そんな雑談を繰り広げながら、僕は人の間を縫うように進んでいく。ながらスマホは控えたいが、彼女の性格的にすごく気にして落ち込んでいるだろう。こうして話し相手になってそれを軽減してあげたいので、今回は許していただきたい。
 人とぶつからないように細心の注意を払いながら進んでいく。会場が広く人が多いゆえに体力の消耗がかなり激しい。部活にも所属せずだらだらと過ごしてきたのがかなりこたえている。僕は日頃から運動をしようと心に誓った。…………多分三日坊主だろう。
 やっとの思いで入口にたどり着き、一度会場の外に出て慈希を探す。視界をぐるぐる回していると、こちらに気づいて手を振っている彼女が見えた。少し早足で彼女のもとへ向かう。
「優弥くーん。ありがと、助かったよー。いやーまさかこんなに人が多くて、こんなにも広いなんて思わなかったな」
「ごめんね、わかってたのに言えなくて」
「いいんだよー、私が初めてのくせにはしゃいじゃっただけだし」
 一緒に過ごしていて思うのは、彼女は何も考えてなさそうで意外とかなり真剣に物事を捉えている。今もこうして、僕のことも尊重しつつ会話を進めてくれる。彼女の境遇がそうさせているのかもしれないが、だとしても彼女はかなり素晴らしい存在だと思う。
「じゃあ行こっか。花火までいろいろ見て回りたいし、いい場所探そ?」
「いいけど、迷子にならないようにね」
「そこまで子供じゃないってば。それに、君が手を握ってくれるでしょ?」
 そんなことを言われると、普段していることでも途端に恥ずかしくなってくる。そんな心境を読み取ったのか、彼女はにやりと笑ってこちらを見てくる。
「手、繋いでくれないの?」
 上目遣いで、可愛げにお願いしてくる彼女のそれが演技だとわかっていても、好きだという感情を揺さぶってくるので従わざるを得ない。
「……はぐれないように、離すなよ」
「……ありがと、本当に。大好きだよ」
「なんだよ急に、そんなに改まって」
「んー? ただ伝えたかっただけ」
 なんだか様子が急変しているような気もするが、あまり深くは考えずにそっと彼女の手を握る。指と指の間に手を通す所謂(いわゆる)「恋人繋ぎ」は、交際後初めて手を繋いだ時からそれが自然となっていた。彼女は僕の手を握り返し、お互いの体温を感じあって存在を確認する。きっと考えていることは同じで、ただ好きだという想いが、僕らを温かく包み込む。
 それから僕たちは会場に入り、いろいろな場所へ歩き回った。屋台や提灯の灯りが煌々と輝き、活気をより際立たせる。どこで見ようか、あそこはどうだろうか、あれ飲んでみたい……彼女の移り変わる表情やはしゃぐ様子、楽し気な雰囲気を感じてとても嬉しくなった。いつの間にか疲れも吹っ飛び、この時間がずっと続けばいいのにとも思った。
 彼女にとっては初めての夏祭りなだけあって幼い子供のように動き回っていた。あちらこちらに目を輝かせ、足を運んで行った。ぱぁっと輝き広がる彼女の笑顔。大好きなその顔は普段よりも何倍も綺麗に見えた。
 花火大会開始まであと十五分に迫ったとき、僕たちは花火がよく見えそうだと言って事前に見つけた場所へ向かっていた。比較的人が少なかったから今も人が少ないといいねーなんて話しながら。
 目的の場所まであと少しといったところで、突然繋いでいた手が後ろに引っ張られる。何かまた興味を持つものがあったのかなと思い振り向くと、その引っ張る力は彼女自身のものではないことがわかる。
「君、そんな男じゃなくて俺たちと花火見ようよ」
 慈希の腕を無理に引っ張ったのは三人組の男の一人。年齢的には同い年ぐらいだが、ネックレスをつけ、明るい色の髪をしている少しチャラそうな彼らは、下手に絡むと大事になりかねないオーラを纏っている。
 慈希は彼らの問いに答えずに手を振りほどこうとしているが、手首付近をがっしりと掴まれてそれができない。そして掴む力が次第に強くなっているのが見てわかる。
「逃げないでよー。ね、一緒に見ようよ」
 痛みに少しずつ彼女は顔を歪ませる。こんなに拒絶しても離れないので、僕も流石に声をかける。
「離してあげてください、嫌がってますので」
 途端に三人の視線がこちらに集まる。さっきまでの慈希を見る目とは全く違う――鋭く威圧的な目をしている。
「なんだよお前……って、おい! こいつ、優弥じゃん!」
「え? あー、確かにどことなく似てんな」
 彼らはそう言うなり僕を指差し大きな声で嘲笑(わら)う。そして僕は、その声と朧げな記憶で彼らの正体に気づく。
 小学生最後の年、陰で僕を虐げ続けていた存在。僕が今の僕へと変化するきっかけともなった出来事の中心人物。
「まさか、また会うなんてなー。あ、いるよ? あいつも」
 笑いを抑えながら言葉を並べた後、彼は後ろにいた人物を指す。
 ――僕がしつこく声をかけ、勝手に助けようとしていた女の子。
 彼女は髪の毛をばっさり首元の長さまで切っていて、顔もほとんどが明るみになっていた。耳にはピアスをつけ、雰囲気が一変していた。そして彼女の目は、彼らが僕を見ていた目とは比べ物にならないくらい鋭く睨みつけていた。
 手を繋いでいる慈希の方からは、「まさか……」と呟く声が聞こえた。以前話したからなんとなく察しがついているのだろう。
「久しぶり、私は会いたくなかったけど」
 絶句する僕を前に、彼女は低く冷たい声でそう言い放つ。胸がざわつき、痛みを感じ始めている。
「ヒーロー気取りのあれ、まじでうざかったんだけど。おかげで余計居心地悪くなったし」
 低く、低く、憎しみを込めれるだけ込めたような、重みのある言葉。
 わかってるよ。十分わかってる。わかってるから……。
 もう僕を、刺さないでくれ。
「お前のせいで……ほんと、余計な事しやがって。お前なんか、……お前なんか、大嫌いだよ!」
 がなりの入った心からの大きな声に、周囲の人も異常を感じざわつき始めている。
「とうとう言っちゃいましたー! 長年抱えていた恨み、晴らしちゃいましたー!」
 慈希の腕をまだ掴んでいる人物が大声で嘲る。他の人物もつられて僕を指差し腹を抱えて嘲笑(わら)っている。彼女だけは相変わらず、僕を睨みつけたまま。
 周りの音が少しずつ小さくなっていき、視界もあやふやになっていく。頭がすごく重く感じてふらふらする。呼吸が浅くて脳に酸素が行き届いていないのだろうか。周囲の人全員が僕をひそひそと貶しているように感じてしまう。実際はそんなことないと思うようにしても、なかなか変わらない。そんな力さえも次第になくなっていく。
 いい子ぶっていたって、ヒーロー気取りでいたって、それでもいいじゃないか。こんなに素晴らしい世界なら、どんな形だっていいじゃないか。
 そうやって再び芽生え始めた本当の僕は、またしても簡単に打ち砕かれた。暗闇の奥底へと突き落とされていき、今までのもう一人の僕が僕を支配する。
 やっぱり、世界は苦しいことばかり。
 生きていたって、辛いだけ。
「ふざけんな!」
 隣で慈希が力いっぱいに声を出したかと思い視線を上げると、男の手を振りほどき悔しそうに顔を歪ませていた。
 まるで自分が虐げられたかのような鋭い目つきをした彼女を見て、やっと意識が取り戻せそうになる。
「優弥くんの想いを、そんな簡単に踏みにじらないでよ!」
 ただそう言い放つと、無言で彼らとは反対方向に僕の手を引っ張って駆けていく。「お前には関係ねぇだろ!」という鋭い彼女の叫びが後ろから聞こえたが、振り向くことはできなかった。不思議そうに見てくる人々の中を、力の向きに従って僕は足を動かす。どこに向かおうとしているのかは検討もつかないが、そんなことはどうでもよく、ただ疾走する彼女についていった。
 かなり走ってたどり着いたのは、花火が打ちあがる河川敷からかなり離れた橋の下。すぐ側には水が流れている。ここから花火を見る人はおらず、暗いこの場所にいるのは僕ら二人だけ。お互いかなり走って肩で息をしており、落ち着くのを待っていた。
 疲れとは言えない何か大きなものがどっと流れてきて、僕はその場で膝から崩れ四つん這いになる。足に力を入れることができない。さっきの言葉、嘲笑、忘れていた記憶、それらが一気に傷を切り開き、言葉にできない痛みが襲ってくる。
 慈希は僕と目線を合わせるようにしゃがんでくれたが、今の僕は彼女と目を合わせたくなかった。きっと見られたくない顔をしているだろうし、何より今は彼女の優しさが逆に僕を刺すのではないかと考えてしまう。
 だが彼女は、僕の両頬をパチンと挟んで無理やり目を合わせる。怒りか、哀しみか、同情か……。何かはわからないが、彼女の綺麗なその瞳は目を逸らしたくても見てしまう。
 じっと僕を見つめた後、一つ深呼吸をすると、何も言わずに僕を抱きしめ、後頭部付近を撫でながら優しく語りかける。
「頑張ったね。辛かったよね。もう大丈夫だよ」
 第三者から見てみれば、ただ適当によくある言葉を並べたように感じるのかもしれない。だがこの僕の壊れ切った心が原因なのか、単に相手が彼女だからなのか、一つ一つ丁寧に並べられた言葉は抵抗もせずにすっと腑に落ちる。
「死にたいって感じるのもわかるな。世界って、あんな一面もやっぱりあるんだね」
 ずっと目を背けてたよ、と彼女はしみじみと口にする。
 ただ「生きたい」と言っていた彼女。そこで僕は生きることの良さを知り、彼女は今、死ぬことの良さを知った。辛いことから逃れるには、それも一つの選択肢であるということを知ったのだ。
「君は、やっぱり優しいんだね」
 彼女はもう一度僕の顔を見て、唐突にそう言ってくる。「やっぱりってどういう意味?」と聞く前に、彼女はその想いを汲み取ったのか答えてくれる。
「そのままの意味だよ。いつも周りを見てて、本当に優しい。……もう言葉にできないくらいだもん」
 優しく微笑む彼女を見て、途端に申し訳なくなってくる。僕はそんな人間じゃない。「普通」であればなんでもいい、そんな自己中な思考の持ち主だ。
 勝手に助けようとして、勝手に傷ついて、勝手に塞ぎこんで……。いつもいつも、自分のことばかり。
「僕は、優しくなんかないよ。自分さえよければなんでもいい。周りの人間のことなんて(ろく)に考えることもできない、酷い人間なん」
「そんなことないよ」
 僕の話を遮った彼女の言葉は、少し怒りを含んでいるみたいだった。
 彼女はもう一度僕の頬を両手で挟む。両頬に触れる手により力を込め、僕の瞳を覗き込んでくる。
「君は優しいんだよ、すごく。良い結果になるかは置いておいて、君は人のことを常に考えてるでしょ?」
 一呼吸置いて、彼女は続ける。
「優しさの形は、たくさんあるんだよ。君みたいに自己犠牲の形もあれば、昔の君みたいに何に対しても力になろうとしたり。私に君は、深く知ろうと努力してくれた。それも優しさ」
 彼女は両手の力を緩めると、再びそっと僕を抱擁する。さっきよりも伝わってくる温かさに、視界が少しずつぼやけてくる。
「君の優しさは、みんなには伝わらなかったかもしれない。でも、私にはすっごく伝わってる。助けられたしね」
 優しさの形……。僕のこの想いは、本当に優しさだといえるのだろうか。
 でも、彼女がそう思ってくれるのなら、少しは信じてみてもいいのかもしれない。
 一滴の雫が、僕の頬を濡らす。
「君の感じる痛みや辛いことは、私に少しだけでも背負わせてほしい。だから、その優しさは私だけに向けてほしいな」
 なんてね、と冗談ぽく濁している彼女だが、きっと本気なのだろう。僕からしても、彼女相手なら本望だ。
 やっぱり僕は「死にたい」わけではないみたいだ。かといって、「生きたい」というわけでもないらしい。
 今、止めどなく流れている涙を、嗚咽をすべて受け取り、僕のために傍にいてくれる彼女がいるからこそ「生きたい」と願っているんだ。彼女のために「生きたい」というのが、僕の本当の想い。
 バンッ!
 途端に大きな音が闇の中に響き、ふと顔を上げる。そこには色光に照らされた慈希の横顔があった。それに倣って僕は彼女の目線を追う。
 時刻はいつの間にか花火大会開始時刻を迎えていたらしい。
「始まっちゃったね」
「でも、いいんじゃない。僕たち二人きりで見れるんだし」
「いいこと言うじゃん!」
 ははっと笑う彼女につられて僕も笑みを零してしまう。
 僕たちはその場に腰を下ろし、肩を寄せ合って夜空に咲く花を眺める。
 夜空に上がる一筋の光が消えたかと思えば、誰もを魅了する花がばっと咲く。それに遅れて響く轟音までもが心地よく感じてしまう。周りに人は誰も居ない。会場から距離があるので、少し低めの位置は見えないが、ここからの眺めも十分いい。僕たちだけの空間がこれからもずっと続けばいいのにと切に願ってしまう。
 フィナーレが近づいてくると、小さいものから大きなもの、様々な色の花火が一気に打ちあがる。会場では大いに盛り上がっているのだろうが、僕たちは感動のあまり何も言葉を放つことはなかった。そんな中、僕は慈希に尋ねる。
「どう? 初めての打ち上げ花火」
「本当に綺麗……。君と来れてよかった」
 儚く映る彼女の横顔は、どこか寂しさを含んでいるようにも思えた。苦しみを乗り越えてここまで生きてきた彼女が、この景色を見て何を思っているのか正確に汲み取ることはできない。
 だが今は、それでもいいと思えた。
 大好きな彼女の顔に隠れる想いと事実に関してはわからなかったのではなく、気づかないふりをしていたのだろう。

「両親が死ぬ?」
 二学期が幕を開けて数日、放課後の図書館会議で慈希は言った。
「ねぇ、意味わかんなくない? 何で急にこんなことになるんだよー」
 彼女はそうやって愚痴を漏らすと、諦観を含んだ目でぐったりと伏せてしまった。前回の一件があったからこそ、ここは慎重に動かないといけない。変える手がかりを見つけ、素早く実行しないとより悲惨な結果になりかねない。
「君の『代償』説はあってると思う。実際に予知夢は回避したからね。だから今回は、対象に注目してみることにしたよ」
 僕自身も「代償」説はかなり答えに近いと思っている。それは夏休みの間に彼女といろいろ試したから。
 予知夢はどうやら小さなことまで教えてくれるらしく、自分の不注意でコップを割ったり、何か作業中に失態を犯して取り返しのつかないことになるなど、死に限ったことばかりを見せてくるのではないらしい。
 それをチャンスだと思った僕たちは、ありとあらゆる手を尽くした。夢日記を書いてみたり、ずっと部屋に引きこもってみたり。だがそれらは全部効果を成さず、予知夢では日中だったのに夜に現実になることだってあった。どんな形であれ事象を発生させてくる。
「どういうこと?」
 彼女の言う「対象に注目する」についてもう少し深掘りしてみる。
「前回は"私"の大切なものを『代償』にしたでしょ? 今回は変えたい対象、つまり"両親"の大切なものを『代償』にしてみる」
 彼女の考えはすごくいいと思うし、その可能性は十分にあると思う。だがそうなると、大切なものの予測がかなり難しくなる。探して、入手し、失くす。人の所有物というのもあってかなり精神的にもきてしまうだろう。
「やってみる価値はあると思う。でも、君のことが少し不安かな」
「……まぁ確かにミサンガの時より苦しいと思うし、難易度は高いと思う。でもやっぱり、家族は守りたいな。ずっと、傍にいてくれたんだし」
 彼女にとっての家族は、病気で苦しい中ずっと見守ってくれていた存在。医療費だって出してもらっていただろうし、孤独ともいえる沢山の時間を少なからず埋めてあげようとしていたはずだ。
 彼女自身がそういうなら、僕の答えは一つ。
「力になれることがあれば、何でも言ってね」
「ふふっ、君ならそう言ってくれると思った。ありがと」
 そう言って彼女は、またいつもの素敵な笑顔を向けてくれる。
 が、その表情はすぐに曇ってしまう。
 突然口元を手で覆い、ゴホゴホ苦しそうに咳き込む。その回数はかなり多い。少し収まってきたところで彼女は、「あぁもう……」と悪態をついて鞄の中を漁る。水の入ったペットボトルと薬を取りだし、慣れた動作で体内へ入れていく。
 最近はこういうシーンをよく見るようになった。きっと病気が進行して、飲む薬の量や頻度が多くなっているのだろう。症状に悩まされる彼女を見たり、一度に摂るとは思えない量の薬や見たことない検査道具。それは見ているだけで痛々しく、心をえぐられるものだった。望月慈希という人間が、病に蝕まれていることを現実が再確認させてくる。どれだけ医学が進歩しても抗えないこのもどかしさが、胸に引っかかってなかなかとれない。
 一連の動作をじっと見ていた僕に気づいた彼女は苦笑する。
「流石に気づいてきてるよね。……うん、お察しの通り、大変悪化しております」
「……そんな胸を張って言わないで。不謹慎だよ」
「あはは、ごめんてば」
 不満を露わにした僕を、彼女は面白がりながら謝罪する。
「なんかさ、想定より病気の進行が速いみたいでさ。強い薬使ったのにこれって、なんかちょっと複雑だよね」
 医療技術が発達したとはいえ、寿命がぐんっと跳ね伸びるわけではない。身をもって呈する彼女の気持ちを考えようとするだけで苦しくなる。
「あ、でね、予知夢の話なんだけど」
 雰囲気が悪くなったと感じたのか、彼女は急いで話を戻しにいく。
 予知夢の内容を簡単にまとめると、僕が介入することはほぼ不可能だ。
 結果から言ってしまえば、彼女の両親は建設中の足場の崩壊に巻き込まれて即死する。病院の帰りなのかどうかは断言できないらしいが、そこで突然建設補助の足場が崩れてしまったらしい。鉄でできたパイプや板。高所から落ちれば余裕で人を殺せてしまうであろうものが彼女らを襲おうとしたが、少し早く気付いた父が慈希を突き飛ばし、両親二人が鉄塊の雨に晒されるだけに事態は留まったらしい。
 身内が何度も死ぬなんて、どれだけ世界は残酷なことをするんだと恨めしく思う。そんな中で彼女の傍にいたいと思うが、いつなのかわからない故にそれができない。家族の帰路に知らない男子高校生が混じってるなんて考えられたもんじゃない。僕自身も気まずいし、両親からしたら意味が分からないだろう。
 そういうわけで、こうして裏で作戦を立てたり、何かヒントを一緒に探して手伝うことしかできない。
「確かになぁ、彼氏ですなんて言って急に連れてこられて、ましてはついてくるなんてたまったもんじゃないよねー」
「……わかっていても、なんか傷つくな」
「ははっ、拗ねないでよ」
 拗ねてるわけじゃないんだよな……。
 そんなことはひとまず置いておいて、予知夢の「代償」を考えなければ。
「何か心当たりのあるものはあった?」
「うーん……。いやあるよ? あるんだけどね?」
 一体何を見つけたんだろうと首をかしげていると、少し困ったような顔をして言った。
「け、結婚指輪なんだけど……」
「あー……確かにそれは壊しにくいね。そもそも壊れるのかな」
「いやできないよ! そんなの! 幸せの証の指輪を壊すなんてできないよ! 無理無理無理無理!」
 ここ図書館、と以前もしたことあるようなことを言って彼女を宥める。彼女の気持ちはわからなくもない。僕だって絶対やりたくない。そんな悲しすぎること。
「でもさぁ……、それぐらいしかなかったんだよー。もう三回見たんだけどさ、それ以外に大事そうなものなんてなかったよ」
 極めつけに彼女の両親は毎日結婚指輪をつけているらしい。そんなもの絶対大切に決まってるという彼女の主張には僕も賛成だ。
 だがそうなってくると、問題は破壊の仕方だが……。
「どうやって破壊するの?」
「そうなんだよねー。盗み出す時点で結構きついんだよね……」
 こればっかりは僕はどうしようもできないので、彼女に頑張ってもらうしかない。力になれない分、せめてこういう場だけでは何か役に立ちたい。
「どこか外してるタイミングで盗るしかないよね……」
「そうだよねー。あとは私が白々しく演技をして、後日破壊するしかないな」
「……指輪って破壊できるの? すごく固くない?」
「そこは、うん、なんとか頑張る」
 自信満々な顔でそんなことを言う彼女。
 やっぱり彼女はどこか抜けてるんだよな……。抜けてるというか、脳筋というか。
「指輪を売るとかでもいいのかな。それだったらできるんだけど」
「まぁ無くなってるから『代償』を払うことにはなるんじゃない?」
 そうするかー、と彼女は僕の答えを聞いてぼやく。そこに浮かぶ苦しみで歪んだ痛々しい顔は、僕の無力さをより実感させる。彼女はこんなに苦しんでいるのに……。
「よし、今日はありがとう、優弥くん。あとは私が頑張らないとね」
「おう、あまり追い詰めんなよ。いつでも頼っていいから」
「……やっぱり君は優しいなぁ」
 彼女はそんなことをぼやきながら図書館を後にした。僕は彼女の後姿を見て途端に切なくなる。
 そこには、普段とは違う弱々しくなった彼女の姿があったから。
 夏休み前までは病気を患っているとは思えないほど元気だった。それは言動だけでなく行動も。だが今は全く違って見える。病気を患っているように見えないのは、言動がまだ元気だからかもしれない。夏休みの間も一緒に過ごしてはいたが、こうしてみたことはなかったので気づかなかった。
 終わりなんてない、永遠にこの幸せは続くと思っていたのに、急に終わりが見えてきて複雑な気持ちになる。恐怖なのか、悲しいのか、断言はできないが、それだけ僕は彼女のことを好きになってしまっている。「普通」が消えてしまったにも関わらずだ。
 いつ来るかわからないその日のことなんて考えても無駄だろう。そんな簡単な想いだけを抱えて危機感は持っていなかった。

 その日の夜、彼女から連絡がきた。
 まだまだ寝苦しい夜が続きそうな九月の上旬。冷房の効いた部屋から外に出ると、生ぬるい風が僕を出迎える。
 スマホの液晶を点灯させ、メッセージアプリを起動する。
『図書館前まで来て』
 五分前に来たそのメッセージは普段の彼女のものとは違い、とても単調だった。感情を押し殺したような雰囲気を感じ取ってしまう。僕はただ『わかったよ』とだけ送って、気持ち早足でそこへと向かう。
 図書館が見えてくるのと同時に、慈希の姿を見つける。彼女はただ立ったまま空を見上げている。その表情は、とても疲れ切っていた。
「来たよ。遅くなってごめん」
「ううん、ありがとう」
 僕は彼女に近づき、二人並んで夜空を見上げる。彼女と初めて星空を眺めた場所には少し劣るが、やはり星空はどこで見ても綺麗だ。視界には堂々と夏の大三角が輝いている。どれが何て名前の星だったかは忘れてしまったが、こうやってしっかりと見るとかなりの輝きだ。
 夜空に瞬く星たちを眺めながら、僕たちは気まずくない沈黙を共有する。二人で過ごした時間が絆を作り上げたからこそ、この居心地の良さが存在しているのだと思うと、なんだかしみじみとする。
 僕は彼女が話すのを待ち続けた。本来なら僕から何か言葉をかけるべきなのかとも思ったが、やめておいた。きっと彼女はそんなことを望んではいない。それにそれは、彼女を少し追い詰めるような行為になってしまいそうだ。彼女自身の整理がついてから、ゆっくりでいいから話をしたい。
「指輪ね、うまく盗んだよ。でもね、ちょっと関係が悪くなっちゃった」
 彼女は右手を開き僕に見せる。そこには、二つの指輪があった。ご両親が大切にしていたであろう、永遠の幸せを誓ったであろう指輪。今でも輝きを保ったままのそれは、まるで関係の切れないことを表しているみたいだった。
 しばらく経ったあと、僕は彼女の右手に手を添え、指輪を側溝にそっと捨てた。残酷なそれを二度と視界にいれないように、僕たちはすぐに夜空に視線を戻す。
「わかってるよ。生き残ってもらうためには、これくらい我慢しなきゃいけないってことぐらい。でも、でもさ……」
 彼女は一度俯き、言葉を詰まらせてしまう。
 やっぱり、そうだよな。ずっと我慢してたんだよな。
 彼女はこっちを見て、訴えかけるような目で言った。
「辛いよ。何でこんな思いしなきゃいけないの。こんなにも、大好きなのに」
 そして彼女は、思いっきり僕に抱き着いてきた。泣き顔を見られたくないのか、声を響かないようにしたいのか、顔を強く胸に押し付けている。僕はそっと彼女の背中に手をまわし、片方の手で頭を撫でる。
「辛いよな……。そうだよな……」
 嗚咽を堪えようとしている彼女だったが、もうそれは無理みたいだ。今までかなりの我慢をしていたことが、はっきりと表れている。
 辛いときに傍にいてくれた両親を裏切る行為をして、それを隠し、これからも騙し続ける。そんなこと、並大抵の覚悟じゃ成し遂げられない。そしてその先には、わかっていても辛すぎる現実が待っている。
「嫌だ……いやだ、いやだいやだ! 何で! なんで……!」
 どこにも投げられない痛みを懸命に押し殺そうとしてもしきれない彼女を見るのは本当に辛い。でもこれは、僕も逃げてはいけない。彼女の傍にいる人間として、同じ予知夢を見れる同志として、少しでも背負っていかなければいけない。すでに大きなハンデを背負っているのに、これ以上背負わせるなんて鬼畜の所業だ。
「もう、君しか、たよれない……。お願いだから、傍にいて……」
 泣きじゃくりながら訴えてくる彼女。最後の味方は、実質僕だけなのだろう。頼られることは、嬉しくもありプレッシャーでもあった。でもそんなことより……。
「うん。傍にいるよ。これからはもう、我慢しないで」
「うっ……、ありが、と……」
 涙ばかりが先行して、とうとう言葉は出なくなったみたいだ。僕の胸に顔を押し当て、幼子のように声を上げて泣いている。恥ずかしさなんてもうないだろう。これくらい、許してあげたい。
 普段はこんなこと思わないけど、神様。
 もう、彼女から何も奪わないであげてください。
 こんなにも苦しんでいるんです。最期ぐらい、幸せにしてあげてください。
 お願いします、お願いします……。
 珍しく神様に祈りながら、僕は彼女に「大丈夫だよ」と念を込めて撫で続けた。
 その次の日から、彼女は学校に来なくなった。