僕が危惧していた通り、「普通」は慈希さんが転校してきた翌日から崩れ去った。特に男子生徒からの妬みを含む視線が痛い。
 朝から、本当に酷かった。
「おっはよー、優弥くん!」
 教室に入って一番に発したのは、クラスメイトに向けた挨拶ではなく僕個人に向けられたものだった。
「お、おはよう……」
 相変わらずの素敵な笑顔で少し笑って見せる彼女。やめてくれ、周りからの圧力がすごいんだ。
「望月さん、霧原と仲良いの?」
 恐る恐るといった様子で、クラスの男子生徒が本人に話しかける。それにつられて彼女のもとへ駆け寄る人物もいれば、勇気は出ないが答えは聞きたい人物とで別れていった。
 望月さんの答えが、一番の問題点だった。
「うん。もう友達というか親友」
 えっ、とクラス中で発せられたような空気だった。気まずい沈黙。集まってくる視線。僕は耐えきれなくて、そしてなるべく知らないふりをするために本へ顔を埋める。
 てか親友ってなんだよおい。僕たちまだ昨日話したばかりだろ。
「霧原くん、放課後空けといてね」
 おい! まじでやめてくれ! 火に油を注ぐんじゃない!
「りょ、了解しました……」
 怖い、本当に怖い。周りの視線が怖すぎる。
 さっきからみんな凍り付いたように言葉を発さない。男子生徒からの妬みや羨ましさからくる視線は痛いし、女子生徒からくる疑いの視線も地味に心を刺してくる。
 本当に、怖い。早くこの場から逃げてしまいたい。でもそんなことしたら余計に状況が悪化する。選択肢はただ一つ、このまま本に集中してこの場をやり過ごすしかない。
 てか慈希さんも何言っちゃってんだよ、これはわざとなのか? 絶対こうなることわかってただろ。
 さっき声をかけられたとき若干口角が上がっていたから、多分面白がってるな。
 地獄のような空気はその後も少し続いた。何も触れずに平然を装って空気を戻そうと努力してくれていたみたいだが、あまりにもショックなのかそれもうまくいかないみたいだった。そんな中、ホームルームの始まりを告げるように担任の先生が入室してきた。クラスメイトが仕方ないというように自席へ戻ってくのを見てほっと一息つく。やっと終わった。僕から見た先生は、救世主も同然だ。本当にありがとうございます。
 てかこんなことしてたら、彼女自身も煙たがられるんじゃないのか……?
 ふと左隣に視線を送り、慈希さんの表情を見る。
 そこには、必死に笑いを堪えようとして肩をぴくぴくと震わせる彼女がいた。
 あー、本当に腹が立つ。こんなこと普段は思わないけど、すっごいむかつく。はらわたが煮えくり返りそうってこういうことか。少しでも心配した僕が馬鹿だった。
「ふざけんなよ……」
 隣にいる彼女にも聞こえていないだろう声で僕は毒づいた。

 こんな最悪な朝を経過して放課後となった今、またしても危機が訪れた。
 彼女が転校してきたのは昨日だというのに、もう他のクラスに、ましては他学年にまで話は広まっていった。休み時間にも、多くの生徒が教室へと押しかけてきていた。
 もちろんそれに(なら)って悪い噂もすぐに広まるわけで、僕たちの異様なほどに深い……かはわからないけど関係性や、朝の出来事を耳にした人物が僕に詰め寄っている。
「お前、望月さんとどういう関係なんだ?」
 話したことは何度かある、クラスでは明るい彼を筆頭に、多くの男子生徒が鬼の形相でこっちを見ている。発せられる言葉の節々から、どことなく殺気を感じるのは僕の勘違いじゃないはず……。
「慈希さんとは別にそういうのじゃ、」
「慈希って、名前呼びなんかお前!?」
 あ、やばい。
 自分で怒りを買いにいってしまった。普段は人に合わせるのは得意なはずなのだが、なぜだろうか。
「ちょっとー、もういい加減にしてよね。霧原くん、場所変えよ」
 突然現れた彼女はそう言うなり僕の手を取り無理やり連れて行こうとする。
「お、ちょ、まっ」
 人並みの長さの腕で何とかして自分の鞄をつかみ取る。
「ちょ、望月さん。なんで霧原なんだよー」
 さっきまで鬼の形相だったクラスメイトの一人が、訝し気な表情で、少し棘のある声で言う。
 まぁそう言われて当然だよな……。そもそもこんな人間が彼女と一緒にいるのはどう考えても釣り合わない。
「あのさ、容姿だけで迫ってきてるの、丸見えだから。そんなあなたたちが彼を下げる権利なんてないよ。あと、あなたたちのことなんて眼中にないから」
 声を荒げているわけでも、あからさまに怒っているわけでもない。ただその言葉は、ものすごく重みがあった。心の底から告げていることがはっきりとわかる。
 言われたクラスメイトは鈍器で頭を殴られたかのように呆然としていた。
 さっきよりも強い力で引っ張られながら、廊下を歩いていく彼女に訪ねてみる。
「慈希さん、本当にあれでよかったの?」
「いいよ、全然。正直鬱陶しかったし。ああいうの、もううんざりなんだ」
 僕が彼女の隣に追いついたことで、徐々に彼女の力は抜けていく。
 その時に見た彼女の目は、どこか遠くを見ていた。
 聞かないほうが、いいかもしれない。けれど……。
「何か、過去にあったの?」
「うーん……君に話してもいいんだけど、まず先に話さなきゃいけないことがあるでしょ?」
「先に話さなきゃいけないこと?」
 本当に心当たりがなくて、意識せずともオウム返ししてしまう。
「もう。私たち、予知夢改変同盟だよ!? 作戦ぐらい考えないと」
「ねぇ、その予知夢改変同盟ってやつ、もうちょっと考えない?」
「え? めっちゃ良くない?」
 うん、触れないでおこう。これ以上広げるとややこしくなりそうだ。
 そんなくだらない会話を繰り広げながら、彼女の行く先に連れていかれた。

 訪れたのは僕が提案した図書館。僕の家の最寄駅から距離が近く、他校の学生の利用者も結構多い。僕と慈希さんは最寄り駅が同じらしいので、帰るついでということでここを提案した。
 自習室や資料室もあり、幅広く多くの本を取り扱っている図書館。初めて利用したときはその数や内装に驚いた。比較的新しい建物ではあるものの、ここまで綺麗な場所は正直見たことない。
「今日ずっと本読んでたもんね。いいところ教えてくれてありがと」
 頻繁に利用しているわけではないし、特に感謝されることではないのに真正面から言われて少し照れ臭かったので、特に何も答えず近くにあった小説に惹かれたかのように振る舞いごまかす。
 なんとなく流れで、僕たちは端っこの方にある席で向かい合って腰掛ける。
「よっしゃー! 予知夢改変同盟の初会議だー!」
「うるさいよ、ここ図書館」
「ご、ごめん」
 生き生きと拳を突き上げていた彼女は、しゅんと委縮してしまう。今日は比較的人が少なくてよかった。大勢の視線が集まるのはもう勘弁していただきたい。
「それで、予知夢を回避する手がかりとかあるの?」
「え、ないよ?」
 会議するぐらいだから何か考えがあるのかと思ったのに……。そんな「当たり前じゃん」みたいな顔しないでくれ。
「ないのに会議開いたの? 何も話せないじゃん」
「今から考えるんだよー。これだったらできそうとか、これについて各々調べようとか」
 意外と真っ当な意見が返ってきて何も言えなくなる。しっかりしてるのかしてないのか……。
「ねぇ、優弥くんはどう思う? 変えるために必要なこと」
 必要なこと、正直さっぱりわからない。
 考えられるとするならば……。
「まぁでも、何か『犠牲』が必要なんじゃないか? 『代償』というべきなのかもだけど」
「あーなるほど、意外とありがちだよね。映画とか」
「確かにベタだけど、候補に入れるのはありなんじゃない?」
「そうだねー……私も考えたけど、何も思いつかないし」
 慈希さんに限っては考えるそぶりすら見えないんだよなぁ。まぁこんなこと絶対口にしないけれど。
「あ、わかった! その状況を作り出さなければいいんだよ!」
「な、なるほど? でもどうやって? 日時とか、詳しいことは全くわからないよ」
「そこは……頑張って調べる!」
「最後は気合なんかい……」
 明るい彼女らしいなとも思うが、これからのことが少し……いやかなり不安だ。
「ねぇ、聞いてもいい?」
 突然穏やかになった声で、彼女はそう問いかける。その瞳は、好奇心というよりは哀しみを帯びているみたいだった。
 彼女は何か抱えている、それはもう確証に近い。
 不思議に思い無言になってしまったのを肯定と受け取ったのか、彼女はもう少し踏み込んでくる。
「君は、どんな夢を変えたいの?」
 なんだ、そんなことか。何かとんでもない爆弾を落としていくのかと思っていたのだが、考えすぎだったか。
「僕の夢は、突然誰かに駅のホームから突き落とされるんだ。そしてそのまま、電車に轢かれてあっさり逝っちゃうんだ」
「なんか、すっごいありきたりだね」
 うん、それは僕も思う。よく映画やアニメで観られるようなことで、だからこそ現実味がない。
「そこまでして、生きたいの?」
 いつもより冷たい声で放たれたその言葉は、少しずつ胸にのしかかっていく。
 確かに、言われてみればどうして変えたいのだろう。
 もう少し生きたいとは言ったものの、こんなことに巻き込まれるなら、「普通」が壊れるなら協力する必要なんてないはずだ。
 どうせ何も変わらない、いつも同じ景色が流れるだけの人生で、僕はどうして生きたいと思うのだろう。
 そもそも僕は、本当に生きたいと思っているのだろうか。心の奥底では、死にたいと泣いてしまっているのではないのか。
 彼女の質問に、僕は答えられない。
「本当の君は、生きたいなんて思ってない。なんなら、死にたいって、思ってるんじゃない?」
 彼女は何かを諭すように、一つ一つの言葉を丁寧に扱う。
 その言葉は、少しずつ心に溶け込んでいき、ある記憶を引っ張り出していく。本当の想いを自覚させる。
 ――「普通」を極めた理由。死にたいと、思った理由。

 ※※※

 昔の僕は、人間性が全くと言っていいほど違った。本は全く読まずに外で遊ぶことが多かったし、友達だってたくさんいたし、進級すれば新しい仲間ができることが楽しみで仕方なかった。純粋無垢な子供だったからこそ、今のような考えはなかったのだと思う。
 変わってしまったのはきっと、小学校六年生の時。当時の僕は、小学校生活最後の一年をどうやって過ごしてやろうかというわくわくと、中学校入学に対する不安と期待が入り混じった複雑な感情だったと思う。
 新しいクラスには、少し浮いている子がいた。腰より少し上まで伸ばされた髪は真っすぐ綺麗に整えられ、目元は隠れている。自席でずっと机を見つめ、話しかけられても素っ気ない態度で返事をする。そんな彼女の見た目と性格は、他のクラスメイトからは怖がられ、避けられる対象となった。
 何も考えてなかった当時の僕は、単純に彼女を「可哀想だ」と思っていた。だから僕は、身勝手にも彼女に手を差し伸べた。
 休み時間には適当に話題を振って世間話に興じたり、授業の意見交流の時は積極的に関わりに行ったり。とにかく彼女が一人にならないように努めていた。

 そこが、人生の分岐点だった。

「優弥ってさ、誰にでもいい顔してるよな」
「あーわかる。なんかちょっとうざい」
「ああいうことされるとさ、なんかクラスの雰囲気乱れるよな」
「それなー。まじ空気読めっての」
 忘れ物を取りに一度教室へ戻った時、ドアに手を添える寸前にそれを聞いてしまった。教室内から聞こえてくる嘲笑するような声。明らかに馬鹿にしているその声を前に、僕は扉を開けることができなかった。来た道を戻り、必死に涙を堪えながら帰宅した。
 家に帰って僕は、何がいけなかったんだと自分に問い続けた。何か悪いことをしたのか、彼女を助けることはだめなことなのか、ありとあらゆる答えが浮かんでは、泡のように弾けて消えていく。
 でも、薄っすらとわかっていたんだと思う。
 何も悪いことはしていないことも、どうしてあんな風に言われてしまったのかも。
 僕は教室の中で異分子だったんだ。「普通」から逸れてしまったから。
 彼女を助けなければよかったとは微塵も思わなかった。実際彼女は悪くないし、これは僕のエゴだと自覚していたから。
 周りに合わせなければ、この世界は生き抜けない。それを思い知らされた。心に深く、刻まれた。
 それから今の僕が出来上がった。失望されたくなくて、両親の前でも偽り続けた。空気が読めてまともになったと思ったのか、両親の表情は以前より柔らかいものに変わっていた。
 生き抜く方法であり、望まれた形でもあった「普通」。わかっていくにつれ、「普通」じゃない僕はいつの間にかどこかに追いやられてしまった。誰にも、僕自身にも見つけられない場所に。死にたいという想いは、きっと「普通」じゃない僕が持って行ってしまったのだろう。

 ※※※

 簡単に話し終えたとき、慈希さんは少し考えるような仕草を見せていた。
「そっかー。君は私とは真逆なんだね」
 少し遠くを見ていた彼女は、目線を合わせずにそう呟く。
 真逆……ということは、彼女には生きたい理由があるのだろうか。あれだけ人を惹きつける魅力があるのだから、将来の夢やらなんやらがあってもおかしくはないが、そんな単純なものではない雰囲気もする。
「私の変えたい予知夢は病死。私は、どうしても生きたい」
 そう言った彼女は、鞄を少し漁って沢山の"銀色の何か"を取り出した。そして、それを苦笑と共に見せてくる。
 それは全て、薬だった。何かの数値を測る機会の様な物もある。
「幼い頃から病気で、ずっと病院にいたんだ。技術が発達して、何度も死を免れてきた。でも、それはもう終わり」
 悟ったような、諦めたような表情で言葉を零す。
 何度も入退院を繰り返していた彼女は、時々学校にも通っていたらしい。だが見られるのは容姿のことばかり。それに群がる人にもうんざりだし、なかなか治らない病気に辟易していたという。
「もう近いうちに死ぬことは決まった。もうどうにもならない。だから、少し強めの薬で生きることにしたんだ。どうせ死ぬなら、最後にいろいろやってみたくて」
 そこへ予知夢が舞い込んできた。予知夢を変えて生きられるなら、なんだってすると言う。
 彼女はもう覚悟を決めている。死ぬことなんて怖くない、そんな想いがひしひしと伝わってくる。
「私はまだ、この世界を知らない。だから、この世界をもっと知りたい。いろいろなところに行って、いろいろなことして……とにかく、こんな素晴らしくて面白い世界を、もっと生きたい」
 強くて、立派で、本当にすごいと思った。
 それと同時に、馬鹿だなと思った。
 世界なんて、全く素晴らしくない。面白くない。
 生きていたって苦しいだけなんだから。
 だがその馬鹿さ加減が、彼女の生きる原動力なんだろう。
 苦しくて、辛い日常にある小さな良さを、素晴らしさを、彼女は信じて見出そうとしている。
 すごく馬鹿だと思うし、やめた方がいいと思う。
 だが、そんな彼女を、応援したいと思っていることも事実だ。
「手伝うよ」
 僕はいつの間にか、そんな言葉を零していた。
「君が知らない世界を見られるように、僕も手伝うよ」
 何を言ってるんだとも思ったが、これは本心である。
 "死にたい"より、"生きて"彼女の役に立ちたい。
「ありがとう。よろしくね、優弥くん」
 彼女は少し涙を浮かべている気がする。きっと、抱えたままで心にこたえていたのだろう。
 微笑みあった僕たちは、そこで解散することにした。帰り際には連絡先を交換した。
 彼女の役に立つという立場を任された中での連絡先の交換は、まるで契約書にサインしたような気分だった。

 それからの日々、とにかく教室の雰囲気は地獄だった。僕へ視線が集まって、早く逃げ出したいといつも思う。なんとかして平然を装っているが、慈希さんも何かとちょっかいをかけてくるのでそれも思うようにいかない。……彼女はどっちの味方なんだ?
 彼女と出会って一週間。目覚めて体を起こし、ため息を吐く。
 結局あの夢――自分が死ぬ夢を見るのは八回目。内容も結果も特に変化はなく、八回も死んでると考えるとなんか不思議な気持ちになる。
 そもそもこれは、本当に予知夢なのだろうか。確かに夢の中の少女と実際に出会った。でもそれだけで、他にはまだ何も起きていない。少しリアルすぎる夢と言われれば納得してしまうだろう。
 予知夢の性質も、変える手がかりも見つからない。もう残された時間は少ないかもしれないというのに、全く進展がない。でもそれは彼女も同じなはず。呼び出されることはあれ以来ないからそうだと思う。
 その日もまた、地獄のような雰囲気に包まれた教室で授業を終えて放課後。
 そろそろ帰ろうと思い席を立つと、突然右手に握っていたスマホが震える。
『図書室来て』
 慈希さんからだ。急なんだよなぁほんと。
 特に用事もないので『了解』とだけ返事する。彼女なりに前回の反省を生かしたのか、今日は人に囲まれる前にそそくさと教室を出て行った。きっと今頃は、すでに図書室で待機しているのだろう。
 図書室に入って彼女の姿を探す。勉強している生徒や本を読んでいる生徒の邪魔にならないように。だがなぜか見当たらない。どの席を見てもいないし、本棚との間にいるのかとも思ったがやっぱりいない。
 おかしいな、場所間違ってないよな、まさか帰ったか? なんて思いながらふと貸し出し処理をしている生徒の方を見る。カウンター越しに感じる迷惑そうな、戸惑ったような顔をしている彼女を見てまさかと考える。
 一直線にその場へ向かい、回り込んでカウンターの下を覗き込む。
「わぁ!? びっくりしたぁ!」
「びっくりするのはこっちだわ! どこ隠れてんだよ!」
「と、図書室ではお静かに……」
「「す、すいません……」」
 二人で何度も頭を下げた後、なんとなく居心地が悪かったのでまた前回の図書館へ向かうことになった。
 少し汗ばんでしまうほどにまで気温が上がった今日。照り付ける日差しがさらに体温を上昇させる。ニュースでも気温の上がり方が異常だと言っていたっけ。
 無言も嫌だったので、彼女に疑問を投げかける。
「何であんなとこに隠れてたんだ?」
「いやーまた昨日みたいに絡まれたら嫌だなと思って人がいないとこに行こうとしたんだよ。この転校してきて一週間の人間がわかるわけないんだけどね。……思ったより人が多くて、どこか隠れなきゃって」
「それであそこに?」
「うん。完璧だったでしょ?」
「え、馬鹿なの?」
「ひどーい!」
 自慢げな表情だった彼女に思いっきり本音をぶつけると、今度は真っ赤になった頬を膨らませた。面白いぐらいに彼女はころころと表情が変わる。
「で、なんで今日は呼び出されたんだ?」
「あ、そうそう! 予知夢改変同盟の君に伝えなければいけないことがあるのだよ!」
 やや興奮気味に目を輝かせ、少し大きな声で彼女はそう言う。予知夢改変同盟、もはや言いたいだけだろ。
「実はね、夢が変わったんだよー! 私が死ぬ夢じゃなかった! すっごい進展だと思わない?」
 まじか。僕はいつも通りだったのに。でもこれで、二人が共通の夢を見ることはないということがわかったな。
「で、それを変えたいから手伝えと?」
「流石盟友! 話が早くて助かる!」
 彼女はバシバシと背中を叩いてくる。結構痛い。
「ところで、どんな夢だったの? 変えたいって言っても、ものによるでしょ?」
「そんな難しいものじゃないよ。実はね、」
 彼女曰く、この地域に住む祖母が交通事故に巻き込まれるらしい。信号のない横断歩道を渡る際、蛇行しながら猛スピードで突っ込んできた車がガードレールに衝突。跳ね返ってきた車と電柱に挟まれて即死していたという。救急車のサイレンが響く中、少しずつフェードアウトして目が覚めたようだ。
「その中から予知夢を変える手がかりを見つけなければならないのか」
「そうだねー。いつ起こるかとかわからないから、結構不安なんだよね。早く解決しないと」
 時間がかかりすぎてはまずい。何とかして早く見つけなければいけない。
「あ、しばらくは優弥くんと帰ればいっか。夢に君はいなかったから、君がいてくれればそれだけで夢と状況が変わる」
「なるほど……。確かにそれなら、一時的に止めることはできるな」
「それでうまくいくかはわからないけどね。とりあえず最初の検証は、"予知夢の状況を生み出さないこと"だね!」
 詳しいことがわからない故に、具体的な解決方法が思い浮かばない。ただ、こうして遅延が決まればゆとりを持てて少しだけ心が軽くなる。
「意外と早く決まっちゃったなー。じゃあ今日はもう解散! またね、優弥くん!」
 そう言った彼女は、手を振りながら帰っていった。集合って言ったり、解散って言ったり……振り回す人だな。
 それにしても、彼女は夢が変わったのか……。僕の夢もいつか別のものに変わるのだろうか。だとしたらどんな夢になるのだろうか。
 疑問の渦に意識が沈められそうになるのを抑え、僕はその日を終えた。

「優弥くーん、今日はどうするー?」
「また図書館にしよ。あそこ居心地いいし」
 あー、これ夢だわ。いつもの予知夢の感覚とそっくりだ。
 会話もすでに生成されているのか……。僕が発したわけではないのに再生されている。
「なんかあそこ、私たちのアジトみたいだね」
「別に悪い組織じゃないんだしいいだろ」
 あはは、と笑う慈希さんと並び、いつもの図書館へ向かう道を歩く。ぎらぎらと輝く太陽は、じりじりと肌を焼いていく。この感じからするに七月中旬ぐらいだろうか。そして今は下校中。この予知夢の状況がだんだんとわかってきた。
 下校中の小学生や、犬を散歩させているご高齢の女性。よくある平和な風景。こんな夢を見られるなんて、散々な夢を見た身からしたらどれだけ嬉しいことか。
 予知夢という名の映像を見ながら考える。彼女の予知夢が変わったという話を聞いた日にこれだ。僕の予知夢は一体どんな風に変わるのだろうか。
 ――キィィィィッ!!
 突如街に鳴り響いた耳を(つんざ)くようなブレーキ音で、手を耳に当てて下を向く。夢だというのに頭がぐわんぐわんする感覚がリアルで、予知夢のこの特性にうんざりする。
 気を立て直して顔上げると、僕たちがいる歩道とは反対側に向かって赤色のスポーツカーが走っていく。
 そこからは一瞬の出来事だった。
 歩道に向かっていった車はそのままガードレールに衝突。あまりにも速かったのか、車体は弾んで反対方向へ。信号のない横断歩道を横切るように進んだ後、家の塀にぶつかってそのまま静止した。後ろから見てもわかるぐらい車体はぼこぼこになり、前方の方からは煙が上がっている。その横断歩道の白線の近くには血痕が付いている。確かあそこには、犬を散歩させている人物がいたはず。その犬は奇跡的に巻き込まれなかったのか、すぐ傍でしきりに吠えている。
「おばあ……ちゃん……?」
 悲し気な、悲鳴ともとれる犬の鳴き声の中に、隣で唖然としている慈希さんのその言葉が耳に届いたときには、車体の下から大量の血が流れ出ていた。

 …………。
 目を覚ました時、割と僕は冷静だった。だってこれは、慈希さんから聞いた話に近いものだったから。
 なぜ突然夢が変わったのだろう。言ってしまえばこの夢は僕には一切関係ない。僕の親族なわけでもないし、直接的な被害を受けたわけではないのだから。
 ……ますます予知夢の特性がわからない。夢の変化に条件はあるのか、何を意味しているのか、そもそも本当に予知夢なのか。考えなければいけないことはまだたくさんある。
 彼女の仮説も間違っているのだろうか……。
 突然、机の上に置いてあったスマホが音を立てる。
 画面に表示されたのは、慈希さんからの通知を知らせるものだった。アプリを開き、内容を確認する。
『朝、早く登校して。教室集合』
 淡々と並べられた文から、僕は状況を察する。きっと彼女は、僕と同じ――それに近い夢を見ているはずだ。
 僕はただ『了解』とだけ送って、いつもより早く家を出た。

 普段よりも一時間近く早い朝は暑さなんてまったくなく、快適な気温だった。頬を撫でる風が、予知夢が現実になる日が近いことを自覚させる。あの暑さは間違いなくすぐに訪れる。最近の地球はおかしい、本当に。
 少し早く出すぎたかなと思ったが、教室の扉を開けた先にはすでに席に座っている慈希さんの姿があった。
 僕と目が合うと、困ったように笑って見せた。
「君が出てきちゃった」
「やっぱり、そうだったんだね。……あれは、君のおばあさん?」
「そうだよ。まさか、夢を大きく変えてくるなんてねぇ……」
 お互いしっかり確かめ合う。彼女と僕は、全く同じ夢を見ている。そして彼女が最初に見た夢とは違い、僕が夢の中に出てきたのだ。それはすなわち、"予知夢の状況を生み出さないこと"を実行しても夢が変わってしまうため、この検証が失敗したことを意味する。
 僕は鞄を机の横にかけながら彼女に尋ねる。
「慈希さんは、おばあさんの顔って見えた?」
「え、うん。見えたよ? 君は見えてないの?」
「うん。……初めて予知夢を見たときに君の顔が陰っていたみたいに、僕はおばあさんの存在すら捉えられてない」
「そういえば私も、初めての予知夢は君の顔が少ししか見られなかったっけ……。なるほど、関わりがない人は見えないようになってるんだね」
 はぁぁぁ……と大きなため息を吐いた彼女は、頭を抱えて机に伏せる。
「どうやって変えたらいいんだよー」
 彼女の嘆きに共感のため息を吐き椅子に座る。本当に手がかりがない。まるで神様が会話を聞いていたかのように、それに合わせて夢が変化する。具体的な日時もわからないため、対象者にその時間にそこにいないようにさせるなんてできるわけない。
 悩んでいる僕の隣で、バッと急に顔を上げて閃いたように彼女は言う。
「優弥くんが前、『代償』がどうこうって言ってたよね?」
「あー、あのすごいベタな仮説ね」
「そのベタな仮説が、正解かもよ?」
 ……いくらなんでもそれはないのではないだろうか。
「実はね、心当たりがあるんだ」
 そう言った彼女は、二日間でみた予知夢の内容と、自分の持つ仮説を絡めて話し始めた。
 彼女が幼い頃に、祖母がミサンガを作ってくれたみたいで、当初は身に着けていたものの、幼いうえに恥ずかしさもあって学校に着けていくわけにもいかず、今は大切に保管しているらしい。そのミサンガが、二度の夢の中では自分の手首に着けられていたというのだ。そして彼女はそれが鍵だとみたて、切り刻んで燃やそうとしているらしい。
「おばあちゃんからもらった大切なものだから、無くなるのはものすごく苦しい。でも、助かるなら……!」
 彼女が考える「代償」は、その夢に出てくる最も大切なもの。それに考えられるミサンガを、自らの手で消そうとしているらしい。心苦しいが試さないわけにもいかないし、助けたいという想いが強いのであればやるしかないのだろう。
「どんな願掛けがされてたの? 自分で切っちゃだめって聞くけど」
「うーん、それがなかなか思い出せないんだよね。すごく嬉しかったから絶対覚えてるはずなんだけど……」
 忘れているとは言えど、大切なものだということは本当らしい。ここまで覚えていなかったことを、彼女の目はひどく後悔しているようだったから。
「いいんだな、本当に」
「うん。でも、君も手伝って。一人じゃ苦しくておかしくなっちゃいそう」
 そんなことを言って彼女は無理やり笑って見せた。その笑顔に隠れる苦しみを取り除いてあげられないことに、僕は少し腹を立てていた。どうしてこんなにも無力なんだろう。
「明後日の日曜日の十二時、私たちの最寄り駅に集合」
「なんか、すっごい特殊な時間だね。真昼間だし」
「それは、ね。まぁ、いろいろ付き合ってもらいたくてさ……。あ、昼食は済ませてきてほしいな」
 何かを含んだような、隠すような彼女となかなか目が合わない。絶対何かあるのだろうけど、聞かないでおこう。
「とにかく、忘れないでよ!」
 彼女は声を大きくして念を押す。わかってるって、と少し身を引きながら僕はそれに頷く。……何が待っているのか不安でしかない。
 そこからは予知夢には特に関係ない話で時間を潰し、始業を待った。多くの生徒が登校して教室はいつもの活気に満たされていく。僕はつまらない授業の間、時たま慈希さんの様子を観察していた。相変わらず綺麗な横顔を持つ彼女は、終始どこか落ち込んでいるような感じで、何とも言えないもどかしさを僕の胸に植え付けた。

 訪れてしまった日曜日。月が変わって一番最初の日。彼女の『いろいろ』という言葉が不安を増大させたのと、ありえないくらいに照っている太陽と季節外れの高温にあまり乗り気ではなかった。
 暑いのは嫌いだ。服装はどれだけ調節しても限界があるし、すぐに汗をかいて気持ち悪いし、日焼けするし……。学校にいる一軍陽キャのように「海だー!」と叫んではしゃげるような性格でもないので、これから訪れる夏、特に夏休みは僕にとっては心底退屈なのだ。ただただ冷房の効いた部屋で時間を浪費するだけの生活。学校に行かなくてもいいのは嬉しいが、することがないのもまた悩みだ。
 鬱陶しいくらいの暑さに悩まされながら、今日のことについてぼんやりと考える。
 何があったとしても付き合うことになるのだから別にさほど重要ではないのだが、厄介ごとに巻き込まれるのが一番嫌だ。今更「普通」を求めたって意味ないのだが、その欠片(かけら)はできるだけ残しておきたい。その方がいろいろと生きやすいし。
 どうしたって本人に聞かないとわからないのだから、今は考えないでおこう。
 目指していたいつもの駅が見えてきて、僕は足早に駆け寄る。やっと日陰だ。日光を遮るだけでずいぶんと涼しく感じる。
 時刻は約束の五分前。少し周りを探してみたが、行き交う人の中に彼女の姿は見えない。まだ到着してないのかなと思い、僕は特に連絡もせず待つことにした。
 学校へ登校するときにいつも利用している電車。予知夢を見始めた当初は電車通学を控えようかとも思ったが、少しずつ慣れてきてしまった自分がいる。いまだに黄色い線には近づけていないが、電車に乗れなくなるほどではなかったので良かった。
 電車の発車時刻が迫っているのか、少し慌てて改札を通っていく男性を見て腕時計を見ると、ちょうど十二時。もうそろそろ来るかな、と周囲を見渡していると、突然肩をポンッと叩かれる。
「うわ!? いつの間に!?」
「ふふーん、やってやったぜ。すごいでしょ、私のこの能力。気配ほとんどない!」
 腰に手を当てて自慢げな慈希。落ち着いた私服姿とは裏腹に、ものすごく性格が騒がしい。初めて会った時から思っていたが、おしとやかな外見に反してこんなにも元気な性格なのは誰も予想できないのではないだろうか。身長もかなり低めなので、こんなにはしゃぐとは思ってなかった。すごく真面目な人なのかと。
「すごいけど、いつ使うの、その能力」
「うーん、スパイになったとき!」
「きっと君はすぐにバレて殺されちゃうよ」
「酷くない!? そんなことないもん。君だって騙されてるし」
 頬を膨らませ少し拗ねたような彼女は、軽く拳で僕の肩を突く。
「君は日常生活でのオーラがすごいから、すぐバレるよ」
「私が魅力的ってことー? ありがとー! 照れちゃうな~」
 性格がうるさいってことだよ、と言ってやりたかったが、どこか嬉しそうで体をくねくねと捻らせている彼女がなんか可愛らしくて言うのをやめた。面白いな、本当に。
「じゃあ、電車乗ろっか」
「いいんだけどさ、どこ行くの?」
「それはお楽しみです」
 どこかわくわくが抑えられていないような弾んだ声の彼女。僕はどこへ連れていかれるんだ。そろそろ本当に不安になってきたぞ。頼むから面倒なことには巻き込まないでくれ。
 改札を抜けてやってきたのはいつも学校へ行くときに使う一番線ホーム。予知夢でも見たいつもの光景とは少し異なるが、似たようなもの。黄色い線に近づけていない僕を見た慈希さんは、少し心配そうな顔で問いかける。
「大丈夫? やっぱり嫌だ?」
「そんなことはないよ。いつも使ってるし。ただちょっと、突き落とされるリスクは減らしたいから」
 表情からは消えたものの、目にはまだ心配の色が浮かんでいる。そこまで心配しなくてもいいのにと思うのと同時に、どれだけ優しい人なんだと、新しい一面を知る。
「そんなに心配しないで。ありがとう、慈希さん」
「ど、どういたし、まして……」
 顔を俯かせて消え入りそうな声を放つ彼女。様子が一変してしまっているので、何か失言してしまったのかと心配になる。
「だ、大丈夫? 体調悪い?」
「す、素直に伝えないでよ……。照れちゃうじゃん……」
 もじもじしているテンションの浮き沈みが激しい彼女を見てつい吹き出してしまう。「笑わないでよー!」と言ってポコポコと僕の右腕を叩く。背中を叩かれた時とは対照的な全く痛くないパンチを繰り出す彼女はとても微笑ましい。
 そんな僕たちを止めるようにホームに入ってきた電車に乗り込み、彼女の目指す場所へと向かう。
「目的地どこなの? そろそろ教えてほしいんだけど」
「内緒だよー。あ、じゃあ当ててみてよ」
 めんどくさいなぁ。口に出してしまうと彼女の機嫌を損ねかねないので黙っておく。
 彼女は腕を組んで考えるように唸った後、思いついたように「あっ」と言葉を零して指をぴんと立てる。
「結論言えば買い物なんだけど、何を買うか当ててほしい!」
「結論言っちゃうんだ。うーんそうだなー、新しい服とか?」
 正直あまり興味はないが、適当に話に乗っかってあげる。
「違いまーす。君っておしゃれだけど選んであげるセンスはなさそうだよね」
「おい。失礼すぎるだろ」
 あははっと電車の中だというのに声を出して笑う彼女。だがすぐさま口を閉ざし、申し訳なさそうに委縮する彼女を見ていると、やっぱりすごくいい人なんだろうなぁと思ってしまう。この明るさを持ちながらの人間性の良さは、少し羨ましい。
「服とか靴とか、そういう日常的に使うものじゃないよ」
「……いや、当てるの無理じゃない? 選択肢がありすぎるよ」
「やっぱり無理か―。正解はね、キャンプ用品!」
 キャンプ? 何でまた。
「行くのはいいんだけど、どうして僕が呼ばれたの?」
「キャンプするために行くんじゃないよ。焚き火用の道具が欲しいの。それに、君も手伝ってくれるって言ってたし」
 焚き火用の道具、僕も手伝う。二つの項目で僕は察した。きっとミサンガを処分するための道具たちだろうと。直接は聞かないが、きっとそうだろう。それに彼女が直接言わないということは、あまり口には出したくないという意思表示のはずだ。
 もうそこまで覚悟を決めていたのか、と思い何も言えなくなってしまう。ここまで辛いことを命のためとはいえ短い時間で割り切ることは、並大抵の人間にはできない。
「手伝って、くれるんだよね……?」
 無言の僕を見て不安に思ったのか、迷える子犬のような上目遣いで尋ねてくる。一度約束したことだし、力になりたいとは思っていたので、安心させてあげられるように頷いて見せた。決して、その姿が可愛かったからとかではない。確かに、彼女が綺麗なことは認めるけども。
「ふふっ、よかった。頼れるのは、君だけなんだからね」
 彼女の事情を知っているのは、家族を除いてきっと僕だけなのだろう。彼女の性格的に、周りに気を遣ってそういうことは言わないという選択をしたのだろう。
「君ってさ、彼女とかいるの?」
「……こんな性格のやつにいるわけないでしょ」
「よかった。……じゃあ、この状況を見られても大丈夫だね」
 全然大丈夫じゃないんだって。学校のやつにこんなとこ見られてみろ。君はいいかもしれないが、僕は袋叩き似合うんだぞ。今でさえあの視線が痛いというのに、今度こそ僕は殺されるんじゃないのか?
 こうして彼女との雑談に興じていると、時間はあっという間に過ぎて下車する駅へと到着した。
 都会の一歩手前くらいの駅は、多くの路線が集合しているだけあって人がかなり多い。加えて今日は日曜日。家族で訪れていることもあれば、学生が固まって行動していたり……。ちなみに僕は、人が多い場所は好きじゃない。
 改札を抜けて駅を出ると、少しじめじめとした生ぬるい空気が体を包み込む。加えて肌をじりじりと焼いてくる日光が、余計に暑さを感じさせる。立っているだけで汗がじわじわと出てくる。
「ねぇ、まだ六月の頭だよね? 三十度近くまで上がるとかバグってない?」
「仕方ないよ。原因は僕らにもあるんだし」
 僕に対し彼女は、「でもさー」と愚痴を零す。彼女の気持ちは大いに理解できるので、歩きながらもしっかりと会話に参加した。
 彼女の案内のもと、かなり大きいビルへと案内された。この中に店舗があるらしい。
「ちょっとすごいショッピングモールみたいな場所だよ。その一角にある大手アウトドア用品店だし、ここなら絶対あるっしょ」
 建物の高さに驚く僕に対し、彼女は弾んだ足取りで中へと入っていく。こんなとこに軽い気持ちで入れるとかほんとすごいな。緊張とかしないのか?
 自動ドアを抜けると外とは比べ物にならないほどの冷たい空気が僕たちを包み込んでくれる。相当体が参っていたのか、ここが天国のように思えた。
 中は一般的なショッピングモールと何ら変わらなかった。ちょっとお高い系列の店が多いように思えるが、そこは多分気のせいだろう。うん、この煌びやかとした服やアクセサリーは、高いように見えてそうでもないタイプなんだよ。きっとそうだ。
 現実を見ないようにする僕には目もくれず、彼女は目指していたアウトドア専門店へと足を運ぶ。他の店には気を取られずに。きっと目標を達成してから見て回るつもりなのだろうが、ここまで無関心だとは思っていなかった。
 彼女が目指していた店は、(うと)い僕でも知っているほど有名なとこだった。家族と共にキャンプを楽しむ風景や、山々の絶景が大きいモニターに映し出されている。大人数用のテント、個人用のテント、リュックサック、コップ……。大きいものから小さいものまで、何でもありそうな雰囲気を入口からでも感じる。
 すでに目的の品の場所を知っているかのように進んでいく彼女の後を追っていく。迷うことなく進んでいくので疑っていなかったが、彼女はずっと同じ場所をぐるぐる回ろうとしていた。
「そっちはさっき行ったよ?」
「……場所わかんない」
 わかってなかったんかい。あんだけ堂々としてたのに。
 想像以上に大きい内装に迷いながらも、やっとの思いで目的の品を見つけた。探すだけでかなり体力を使ったように感じる。
「高いねーやっぱり」
「これもっと安く手に入るんじゃない?」
「いいじゃん、また使うかもしれないんだし。良いの持っといて損はないよ」
 こういうの好きそうだもんなー、と僕は勝手に想像する。きっと体が悪くなかったら、いろんな場所に行っていたんだろう。彼女の性格的に絶対そうだ。
 これなんか良さそうだね、こういうのもあるよ、どれが良いんだろう。そんな会話をしながらミサンガの処分に必要なものを買いそろえた後、適当にぶらぶらといろいろな場所を回ってみたが、特に何もすることなく過ごして駅に戻ってきた。
 最も暑い時間帯である昼下がり。だというのに来た時よりも少し人が多い電車の中で、彼女は僕に言った。
「今日はありがと。でも、もう少し付き合って」
「も、もう少し?」
「うん。今日の夜七時、いつもの図書館に集合」
 彼女は淡々とそう告げる。
「え、なんで夜?」
「内緒。忘れないでね」
 とてつもなく深い意味がありそうな言葉と口調。だがその真意は全くわからない。夜という時間帯も相俟(あいま)って何があるのかという恐怖が増していく。彼女はそんな僕を見ながら微笑んでいるだけ。絶対にその時まで口を割らないという強い意志を感じる。
「君が一緒で、本当によかった」
 真っすぐと向けられた感謝の言葉。惹き込まれてしまいそうなほどに綺麗な目も合わさって少しくすぐったい。こんな風に感謝を伝えられることなんて滅多にないのだから。
 僕たちは黙ったまま大きな箱に揺られていると、気づけばちょうど最寄り駅まで来ていた。何も言えなくなった僕に対し、返事はいらないと言うように立ち上がり、無言で扉へと向かっていく。僕は彼女の背中に感謝を述べながら、改札を抜けた。
 降り注ぐ日差しがとても暑く、眩しい。
「じゃあ、また夜に」
「おう。図書館に夜七時だよな」
 僕の確認に彼女は優しく頷く。日が少しずつ沈む中、陽光に照らされる彼女の顔はどこか寂しそうで、心配になったものの触れないでおいた。
 少しの沈黙の後、彼女は笑みを浮かべながら手を振り帰っていった。彼女の姿が見えなくなるまで見送った後、鬱陶しい暑さから逃げるように帰宅した。彼女が何を考えているのかはわからないままだったが、きっと受け入れてしまうだろうと思った。

 現在時刻は午後六時半。両親に適当な理由をつけて玄関を出ると、まだ日は落ち切っていなかった。街灯がなくてもまだなんとかなるくらいには明るく、日中の暑さが少し残っている。不思議な時間に呼ばれてあまり乗り気ではなかったが、僕は約束の場所へ歩みを進めた。
 帰宅してからは、予知夢について考えていた。
 慈希さんと約束をした日以来も、特に夢に変化はなかった。わずかに映った彼女の手首には確かにミサンガが着けられていて、おばあさんと一緒だった犬も変わっていなかった。あの痛々しい光景を見せられるのは酷だが、それはきっと彼女も同じ――もっと苦しいだろう。彼女の力になると決めた以上、目を背けるわけにはいかない。しっかりと向き合って、より良くなるように努めなければ。
 でもなぜか、彼女と多くの時間を共有していると、妙な気持ちに心が支配される。何より彼女のあの華やかで綺麗な笑顔にはどうも弱い。そしてあの悲しそうな顔を見る度に胸がきゅうっと締め付けられ、何もできない無力さを痛感する。彼女が見せる一つ一つの言動や表情に感情を振り回されるのは、不思議と嫌じゃない。何ならそのおかげで日々が充実しているとも言える。間違いなく、今までの人生にはなかった変化が訪れている。
 予知夢のこと、慈希さんのこと……いろいろと考えながら歩いていると、目的のいつもの図書館が見えてくる。空は出発時より暗くなり、あっという間に闇に包まれてしまいそうだ。月も顔を覗かせ、灯り始めた街灯が街を見守っている。
 それにしても彼女はなぜこの時間にここを指定したのだろうか。閉館時刻は午後七時だったはずなので、図書館を利用するわけではないのだろう。もしミサンガの処分を予定しているなら、ますますここに集まった理由がわからない。
「お、優弥くん意外と早いねー。忘れてないか心配だったけど」
 考えに耽っていると、どこからともなく現れた慈希さんの声がかかる。
「人との約束を簡単に忘れるような人間じゃないよ、僕は」
「それはなんとなくわかるけどさ。こんな時間に呼び出しちゃったから、不審がって来ないんじゃないかと」
 "こんな時間"というのを聞いて、彼女自身も状況の異質さを自覚していたんだなと気づかされる。彼女は何を目的としているのか、僕は彼女が説明するのをじっと待った。
「今から、ミサンガを処分します」
「いやいやだめでしょ。ここで燃やしたらまずいって」
「ここじゃないよー。近くにいい場所があるんだ」
 ついてきて、と手招きした彼女は、先陣を切って夜道を歩いていく。照らされて映る華奢な彼女の右手部分には、夢の中でみた青と白のミサンガが着けられている。そしてその手は、小刻みに震えている。
 何かできないだろうかと考えた僕は、彼女の隣まで駆けて行って声をかける。
「慈希さん、大丈夫?」
「っえ? あ、うん、大丈夫、だよ? どうしたの?」
「手、震えてる」
「あ……」
 気づいていなかったとも、見られてしまったともとれる表情を浮かべた彼女は、苦しいものを吐き出すように話し始めた。
「本当に消していいのかなって、怖いんだよね。どんな願掛けがされてるのかどうかも忘れちゃったけど、でもどこか力を感じるこのミサンガを手放すのが、本当にいいのかなって……」
 最後は消えてしまいそうな声だった彼女は、手元のミサンガを悲し気に見つめていた。まだ比較的綺麗なミサンガを見るに、とても大切に保管されていたのだろう。色はまだ鮮やかさを保っていて、切れそうな感じは全くしない。
「君のおばあさんがどんな方だったのかはわからないけど、ミサンガを作ってくれるくらい君のことを思ってくれていたってことでしょ? だったら、どんな決断をしても、なんとかなるんじゃないかな」
 僕は気づけばそんなことを口にしていた。何も根拠なんてないし、何言ってるのか自分でもわからなかったので、急いで訂正しようと思ったのだが、その時の彼女の顔には笑顔が広がっていた。
「ふふっ。優弥くん、勇気づけるの上手だね。ありがと」
 満面に広がった見惚れてしまいそうな笑顔と、一切隠すことなく伝えられた感謝の言葉に僕は、何も言えずにただ見つめてしまった。慌てて目を逸らしたものの、わずかに視界に映る彼女は照れている僕をからかうように笑っていた。
 彼女と共にたどり着いたのは、この地域ではそこそこ有名な公園の一角にあるバーベキュー場。なぜこんな場所にあるのかは知らないが、焚き火台などがすべて揃っているうえに場所の利用は無料なので利用者は多い。ちなみに、僕は利用したことがない。
「なんでこんな場所にあるんだろうね。よく使われるっていうけど、私一回も来たことない」
「僕も。公園にこんな場所があるのって、結構珍しいと思うよ」
 そんな会話をしていると、彼女は手提げバッグから日中に吟味(ぎんみ)したファイアスターターと袋に包まれた麻紐を取り出す。
「ちょ、ちょっと待って。管理人さんに許可とかもらってる? こんな夜に」
「まぁまぁ優弥くん、ばれなきゃいいんだよ」
「えぇ……」
 後のことを心配している僕を置き去りにして、彼女は着々と準備を進める。予習してきたのか経験があるのかわからないが、とても慣れた手つきだった。(はさみ)で麻紐を短めに何本か切り取り、それをほぐしてまとめて綿のような状態にする。それにファイアスタータ―で火をつけ、周囲に落ちている小枝で少しずつ火を大きくしていく。本当はなにか手伝うべきなのだろうが、下手に邪魔するわけにもいかないという想いが働いてただ見ていることしかできない。
 他の場所に放置してあった(利用者の使い残りが放置されているのだろう)薪を火に入れていくと、とても大きく成長していた。
「やったことあるの? すごく手馴れてるけど」
「まさか。ずっと病気だったし。頑張って覚えたんだよ。今回が初挑戦!」
 この人、なんでもできちゃう超人タイプなのかもしれない。普通はこんなにうまくいくとは思えないのだが……。
 彼女は手首からミサンガを外すと、先ほど使った鋏を取り出し近づける。だがそこで動きは止まってしまい、切りたくても切れない、そんな葛藤が彼女の中で渦巻いているみたいだった。鋏を持つ手は、先ほどよりも大きく震えている。
 僕は少し迷ったが、鋏を握る彼女の右手にそっと手を添える。
「へっ……!?」
 突然のことに驚き、顔を赤らめている彼女。ちょっとやりすぎかなとも思うが、これ以外に不安を和らげてあげる方法がみつからないのだ。それに少しずつ彼女の震えは収まってきているので、どうかこの決断を許してもらいたい。
 一つの深呼吸の後、その手は動き始めた。一つ、また一つと、ミサンガを燃えやすくなるように細かく刻んでいく。その一回の動作には、すごく重い決意が込められているようで、それは温もり越しにひしひしと伝わってきた。
 パチパチと音を立てながら燃えている炎に、慈希さんはそっと刻まれたミサンガを投げ込む。ミサンガはあっという間に炎に飲まれ、姿を確認することはできなかった。ただの布切れだというのに、確かにそれは大切なもので、何か願いが込められていたという事実がある。それを考えながら見る炎は心なしか、燃やすことを拒むかのように弱気だった。
 炎がだんだんと小さくなり残された灰が目立ってきたころ、僕たちの沈黙を破ったのは彼女だった。
「これが、何か成果になるといいな」
「……今は、信じるしかないよ」
 彼女の呟きに、僕は弱々しくそう返すことしかできなかった。彼女の辛さや苦しみを完璧に理解してあげることはできないから。彼女の支えになりたいと言っても、僕みたいな人間が無責任に言葉をかけることはおこがましいと思ったから。
 言い淀んでいる僕の隣で、彼女は突然「あのね」と声をかけてくる。
「ここで決行したのは、君に見せたいものがあったからなんだ」
 そう言った彼女は火の始末をした後、今度は木々が生い茂る場所へと歩いていく。整備されたたった一本の真っ暗な道を、何度も訪れたかのように進んでいく。
 月明りが差し込む場所で、彼女は夜空に向かって手を伸ばす。
「ここの夜空ってさ、すっごく綺麗なんだよね。心なしか、掴めちゃいそうだなって思うんだ。…………前に何回もお願いして、やっとの思いでこの星空を見に来たんだ。数えるほどしか行けなかったんだけどね」
 遅れて向いた先には、息をのむほどの満点の星空が広がっていた。周囲は木々が立ち並び、まるで大穴を開けたかのように夜空を囲んでいる。大きな森に、ここだけぽっかり穴が空いているみたいだ。真ん中に広がる空間には、夏の大三角のような煌々と輝く星が何個もあるわけではないが、集まった星たちにより十分輝いていた。
 心の底から、綺麗だなと思った。
 星空だけでなく、それを儚げに見上げる彼女の横顔と、心が。
 ――本当に、綺麗だな。
 思わず口に出してしまいそうなところで、慌てて止める。こんなことを聞かれてしまったらせっかくのこの雰囲気が台無しだ。
「私ね。君のこと、好きなんだと思う」
「……は?」
 放たれた彼女の言葉に、僕は絶句する。彼女はそんな僕を見てはにかんだ後、何事もなかったかのように夜空を見上げ話を続ける。
「容姿関係なく私と接してくれて、病気だと知っても離れず協力してくれて。迷っていた私を勇気づけて、ずっとそばにいてくれる君のことが、私は大好きなんだと思う」
 夜空が反射して映るほど綺麗な彼女の瞳には、薄っすらと涙の膜が張られている気がする。
「こんなに、私の心を知ろうとしてくれる人なんていなかった。病気で辛い時も、そこまで内側に踏み込もうとする人はいなかった。こんな星空みたいに、無数に輝く人はいるのにね……」
 そしてとうとう、一筋の涙が彼女の真っ白な頬を伝う。
「きっと寂しかったんだ。一人で闘うことに、疲れちゃったんだ。……私は、君のことが好き。だけどそれでは表せないくらいに、君への気持ちは大きい」
 僕の瞳をしっかりと見据える彼女の顔は、今まで見た中で一番綺麗で、一番悲しかった。独りで生きてきた悲しみを表すには、十分すぎるものだった。
「黙ってないで何とか言ってよ。私はこれでも告白してるんだからさ」
「あ、えっと…………僕でいいなら、慈希さんのそばにいるよ」
「……うん。私は、君がいい。これからよろしくね」
 にっこりと笑う彼女の笑顔を見て、僕は実感する。
 彼女と出会ったことで芽生え、ともに過ごすことで成長したこの感情は、きっと「好き」ということだったのだろう。そしてそれは、普段他人に合わせている僕を支配するほど強固なもので、簡単には曲げられるものじゃないのだ。
 ここまで胸を突き動かされるのはいつぶりだろうか。
 彼女からそっと差し出された手を、僕はゆっくりと、優しく握った。
 一瞬だけ、夜空の涙が見えた気がした。

 翌日の放課後、僕は正門の前で慈希さんを待っていた。彼女曰く、予知夢が現実になるかもしれないから帰るときは一緒がいいらしい。そんなに早く現れるものなのかと聞いてみたが、「備えあれば憂いなしだよ!」とドヤ顔で言われてしまったので素直に従った。彼女の言っていることは間違いじゃないし、今日は夢に変化もあったからだ。
 約一週間ぶりに予知夢を見なかった。誰も死ぬことなく朝を迎えることができたのだ。予知夢は結構体力を使っているのか、すっきりと目覚め体のだるさも緩和されていた。登校するときの足取りも軽く、楽なことこの上なかった。
 予知夢を見なかったことに意味があるのかはわからないが、あまり深くは考えなくていいだろう。悩んだってきっと答えは出てこないし。
「ごめんねー優弥くん! 先生に提出物運ぶの頼まれちゃって」
 彼女は顔の前でパチンと手を合わせて謝罪する。
「全然いいよ。お疲れ様」
 たった一言の労いにも、彼女はふっと愛しい笑みを零す。
 彼女は優等生なだけあって、生徒間だけでなく先生方からも頼られる。生徒会などの大役は断っているみたいだが、今のように雑用はなんでも受け入れる性格で、少しだけ僕に近い部分もあるのかなとも思う。
 僕たちはそのまま正門を離れ、二人並んで歩きだす。
「優弥くん、今日の予知夢はどうだった?」
「今日は見なかったんだ。こんなの初めて」
 そんなことあるのー!? と驚きのあまり大きく顔を歪ませている。
「いいなー。もう自分が死ぬのはうんざりだよー」
「そうだね……何か良い予知夢も見せてほしいよね」
「ほんとだよー。何でこんな苦しめるようなことばっかり見せてくるんだろう」
 はぁぁと特大なため息を漏らす彼女にはとても共感する。予知夢は決まって悪いことばかりだ。これから先に変化があればいいのだが。
 今日は図書館には寄らず普通に帰ろうと話し合って電車に乗った。正直他の生徒に見られないか心配ではあったが、少し遅れたおかげで誰も居ないようだった。
 駅を出て、六月頭とは思えない暑さが襲ってくる。何度も言うが、最近の地球は本当におかしい。お願いだからもう少し落ち着いてくれ。
「あっちぃ。八月とかどうなっちゃうのーこれ」
「ほんとにね。人が溶けちゃうかもよ」
「優弥くんそれはやばいよ。前代未聞の暑さだよ。あー予知夢の中だけでいいから涼しくしてほ」
 ――キィィィィッ!!
 彼女の言葉を遮ったのは耳を劈くようなブレーキ音――予知夢で聞いたものだった。あまりの大きさに手で耳を強く押さえ下を向いてしまう。慈希さんは足元に蹲ってしまっている。
 見届けなければならない。その一心で、歯を食いしばり目を開ける。
 僕たちを回避した赤色のスポーツカーは、反対側のガードレールに衝突してさらに反対側に跳ね返っていった。ここまでは予知夢と全く同じ。問題はこの先。
 こうも突然現実になるとは思わず、正直心の準備ができていない。もし仮に予知夢が変わらなかったときの彼女の絶望した顔をどうしても想像してしまう。苦しみに満ちた彼女の表情なんて見たくない。だからどうしても、変わっていてほしい。
 予知夢通り、スポーツカーは横断歩道を横切るように進行していく。そしてガシャンという大きな音を立てて塀に衝突して静止し、少しずつ煙が昇り始めた。その横断歩道には人はおらず、予知夢で見た血痕や血だまり、悲し気に吠え続ける犬もいなかった。
 回避、したのか?
「よか、った……。変わった……!」
 ぱぁっと少しずつ輝きを取り戻していく彼女。突然僕の両手を重ねて握り、ぶんぶんと上下する。……突然触れられてびっくりしたことは彼女には内緒。
「やった、やった! 変わった! おばあちゃんが助かった!」
「い、痛いよ、慈希さん」
 痛みを訴える僕を無視して、興奮を抑えられない様子だった。喜びを何度も言葉にしてはしゃいでいる姿はまるで幼い子供に戻ってしまったかのような様子で、でもそれをみても僕は嫌な気持ちはしなかった。ことがうまく進んでくれて、彼女の力になれて嬉しいと思ったから。それに、惚れてしまった原因である彼女の笑顔がこんなに見られるなんて嬉しいに決まってる。
「あら、慈希ちゃん?」
 あの手この手で喜びを表現する彼女の後ろから声がかかる。そこには、予知夢で見た彼女のおばあさんが不思議そうな顔で、犬のリードを持って立っていた。散歩中なのだろうか。
「ひゃい!? お、おばあちゃん、どうしてここに!?」
 慈希さんは慌てて僕の手を離して振り返り、何事もなかったように振る舞う。
「なんでってまぁ、散歩コースだからねぇ」
 おばあさんは犬と慈希さんを交互に見ながら言う。大きくておとなしいゴールデンレトリバーは、初対面である僕を前にしても吠えないでいてくれる。慈希さんが小学生の時から飼っているらしく、そのおとなしさや面倒見の良さから遊べるときはたくさん遊んだらしい。走り回ったりはできなかったので、抱き着いたりするのがやっとだったらしいが。
「その方、慈希ちゃんの彼氏?」
 少し面白がるように目を細めて言う。
「ち、違うよ! なわけないでしょ」
「え、告白しといて嘘つくの? 慈希さん」
「君はどっちの味方なの!」
 僕も冗談を交えて彼女を揶揄(からか)う。頬を紅潮させてぷりぷりと怒っている彼女もまた可愛らしい。
「隠さなくたっていいんだよ、慈希ちゃん」
「んー……、そうだよ。この人は私の彼氏、霧原優弥くん」
 慈希さんは観念したように僕のことを紹介する。何か余計なことを言わないか心配だったが、恥ずかしさで一杯いっぱいなのかそんなことは何もなかった。
 僕は彼女のおばあさんに軽く自己紹介を済ませると、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「ありがとうね、慈希ちゃんと仲良くしてくれて。孫が元気に過ごしてると思うとものすごく嬉しいよ」
「ちょっとおばあちゃん……」
 きっと病気のことを言っているんだろう。そしてそれで空気が乱れるのを慈希さんは恐れているんだ。
 ここで曖昧な言葉を返したり、この空気感を放置してしまってはいけない。それは痛いほどわかっている。だからこそ、言葉は僕の口を突いて出てきた。
「慈希さんから離れるつもりはありません。彼女の少ないかもしれない時間を、僕も支えたいです」
「あらあら、たくましいね。決して無理はせず、また慈希ちゃんを手伝ってあげて」
 そんな会話の後、一言二言会話をしておばあさんはその場を去っていった。
 姿が見えなくなってきたとき、彼女はこちらを向いて不思議そうに首をかしげる。
「優弥くん、まだ私のこと『さん』付けなの?」
「え、何かだめ……?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
 彼女は今度は斜め下を向いて少しためらうような、はずかしそうな見た目をしていた。
「恋人なんだから、呼び捨てでいい」
 その言葉を口にした彼女は、照れ隠しのつもりなのか口元に手を当てている。
 彼女の本心はきっと「呼び捨てでいいよ」という許可ではなく、「呼び捨てにしろよ」という命令なのだろう。彼女の想いを上手く汲み取ってあげないと、ここからまたややこしくなる。
「わ、わかった」
「そこは最後に名前呼ばなきゃでしょ!」
「……わかったよ、慈希」
 それを聞いた彼女は、とても満足そうにふふっと微笑んで再び僕の手を握る。
「大好きだよ、優弥くん」
 真っ直ぐと僕の瞳を見据えて放たれた言葉に、僕の心臓はとてもうるさくなる。彼女の笑顔と言葉に、自分でも不思議なくらいに惹かれてしまう。彼女の一つ一つの動作が、僕に芽生えた想いをどんどんと大きくさせていく。
「僕も大好きだよ、慈希」
 こんなにも楽に過ごせる時間が、これからもずっとあるんだと思うだけで、僕は本当に嬉しかった。こんなにも素敵な日々が送れるなんて、これこそ夢ではないかと疑ってしまう。
 彼女が言っていた「素晴らしくて面白い世界」は、正しかったのかもしれない。