ノートの隅に書いた落書きを見ながら、今日もまた考える。
 なぜ僕は生きているのか、と。
 人によって答えはきっと変わるのだと思う。その人に将来の夢があったり、好きなことがあったり、好きな人がいたり。その人なりに何かしら答えがあるのだと、いずれできるのだと僕は思う。
 だが僕には、その答えが見つからないだろう。
 今受けている数学の授業に価値なんてない。話を聞いたところでどうせわからないし、こんな公式は一生使わない。"意味がないこと"だと思う。
 "意味がないこと"について考えていると、決まって自分の存在が浮かび上がる。
 周りから見てみれば、僕はそこそこ友達のいる「普通」の生徒なのだろう。だが、実際は違う。
 自分の想いは決して外には出さず、周りの意見に同調する。苦しいこと、嫌がられることはいつも自分が引き受ける。まるで傀儡(くぐつ)のような存在。
 辛くないと言えば噓になる。だからと言って助けを求めることも、誰かを頼ることはしない。できるわけないのだから。
 僕は独りで学校生活を送れる自信がない。自分の想いをはっきりと伝えて、友達がいなくなってしまったらと考えると、本当に怖くて仕方ない。だから僕は、本当の自分は絶対に出さない。ずっと、隠し続ける。
 常に意識するのは、「普通」。「普通」に生きることが、僕の命綱。
霧原(きりはら)ー。これ職員室まで運んでくれ」
優弥(ゆうや)、これ頼むわ」
「優弥くん、この仕事やっといてー」
 どんな人からのお願いも、どんなにめんどくさいことも、素直に首を縦に振っていればいい。事態は丸く収まるし、人は離れず頼りに来てくれる。それが本当の友情ではないと知りながらも、僕――霧原優弥はそれでよかった。
 それで生きていけるのであれば、特に問題なんてなかった。

 放課後に友達と遊ぶ。そんな青春小説みたいなことはこんな人間とは無縁のことだ。部活にも所属していないので、学校から電車を使って真っすぐ家に帰る。桜は散って緑の葉が木を染め始め、少しずつ気温も高くなってきている五月の下旬。自宅の扉を跨いでもなお、僕はまた同じようなことを心掛ける。
「ただいまー」
「おかえり、優弥。着替えたらちょっと手伝ってくれない?」
「わかったー」
 台所から飛んでくる母の声に、僕は反論することなく返事する。どんなに疲れていても、やることが溜まっていても、絶対に従う。親子喧嘩なんてめんどうだし、こうしておけば平和に終わる。
 学校でも、家に帰っても、僕に安心できる居場所はない。あるとすれば、自分の部屋くらい。
 やることを終えて寝るだけになった僕は、ベッドに腰掛ける。
 月明りのみで照らされた空間を眺めて、大きな安堵のため息を吐く。今日もやっと、一日が終わる。高校に入学して約二カ月。流石に慣れてきたが、疲れるものは疲れる。
 眠りにつくとき、いつも考えてしまう。「普通」とはこんなにも孤独で、辛いものでないといけないのかと。そもそも本当の「普通」とは一体何なのだろうかと。
 答えなんてあるかもわからないそんな問いを頭に巡らせ、今日もまた、微睡みの世界へと落ちていく。

 ――――あれ、ここ、どこだ?
 気が付いたとき視界に飛び込んできたのは、駅のホームだった。黄色い線のすぐそばで、向こう側のホームを見るようにして立っている。
 さっき寝たのは間違いないから、これは……夢?
 視界に映っている情報から、ここは登下校で利用する学校からの最寄り駅だとわかる。下校中であることを、橙色の空が証明してくれている。
 意識のある夢なんて見るのは初めてだ。夢の中だし、好きなことをなんでもできる……。何をしよう、こういう時って意外と思いつかないんだよなぁ。
 まぁ、とりあえず適当に歩いてみよう。
 ――あれ?
 僕の体がビクともしない。意識がある夢なら自由に動けるはず。それは僕の思い込みで、明晰夢も本来はこういうものなのか……?
 声も出せない。適当に「あーー」と少し大きめに発してみたが、やっぱりだめだ。聴力がおかしくなっているのかとも思ったが、いくら大声を出そうとしてみても周囲の人は反応一つ示さない。
 異常な光景に戸惑っていると、チャイムが流れ始めた。
「まもなく、三番線に、電車が参ります。通過列車です。黄色い線の内側で……」
 聞き馴染みのあるアナウンスが流れると、右側からガタンゴトンと電車の音が迫ってくる。視点を動かせないため姿は捉えられないが、
「危ない!」
 えっ?
 突然ホームに響く大きな声。主を捉えようとしたが、いつの間にか僕の視界は線路に変わっていた。声に驚いていたが、それとほぼ同時に、僕は落とされたらしい。
 早く逃げなきゃ。でももうすぐそこまで電車が来ている。
 確実に、助からない。
 ふと僕の体はホームを見上げる。
 そこに映ったのは赤くなった空ではなく、一人の少女。
 とても小柄で、光に照らされた黒い髪。僅か、ほんの一瞬だけ見えた澄んだ瞳と綺麗な顔立ち。陰ってしまって顔は捉えにくい。
 こちらに必死に手を伸ばしている彼女は、助けようとしてくれているのだろう。
 だが僕は、その手を掴もうとしない。
 これは、本当に夢なんだよな……? 
 恐怖で一つ一つの動きがとても遅く感じる。
 夢だったら、まだいい。いや夢とはいえ死にたくないが。
 鳴り響く汽笛が鼓膜を震わせ、僕の体は電車の光によってみるみる照らされていく……。

 !!!

 戻ってきた……。
 すごく変な夢だった。自分が死ぬ夢なんて、これからどれだけ不吉なことが待ち受けているんだろうか……。
 これからのことも不安だが、なにより不思議なのはあの夢の本質的な部分だ。夢じゃないよ、現実だよ、と言われれば信じてしまうほど、区別がつかなくなる夢だった。動けないし声も出せないから、コマ送りの映像を見せられているような気分だったが、五感はとても敏感だった。ホームの喧騒、ほんのわずかに吹いている風が頬を撫でる感覚、線路上の石ころのごつごつとした手触り、少しずつ迫ってくる電車の威圧感……。……ふつふつと恐怖が蘇ってくる。
「まぁ、特に気にすることもないか」
 僕は静まり返った自室にぽつりと呟いた。
 夢の一つや二つ、どうってことないだろう。

 未来予知とか、そういうのを僕は一切信じない。だって当たったことないし、科学的に考えてもおかしいから。
 でも、その認識が(くつがえ)りそうだ。
 登校したとき、いつもと違うことが一つあった。窓側から二列目の一番後ろの僕の席の隣に、昨日まではなかった座席があった。ザワザワと普段よりも騒がしい教室内は転校生が来るという話題でもちきりで、友人との会話に「へぇ」と頷きながらどんな人が来るのだろうと少し気にかけていた。
 今起こったこの異常事態。これは偶然か、必然か。
「よろしくね。霧原くん」
 まっすぐに肩まで伸ばされた黒い髪、少し茶色の澄んだ瞳の彼女――望月慈希(もちづき しき)は、小走りで僕の隣の新しい席に座る。隣に来てわかる身長差と綺麗な顔立ち。
 夢に出てきた少女。そっくりとかではなく、間違いなく彼女だ。
「よ、よろしく」
 自分が動揺を隠せていないことが、こんな短い言葉なのに丸わかりだった。それは彼女も同じみたいで、口元に手を当ててクスクスと笑っている。
 そもそも彼女は、前の席の生徒とは敬語で話していた。それに対し僕には、まるでかつての知り合いかのようにカジュアルに話しかけてくれた。別にそれでも構わないのだが、初めて会う人とこんな距離感で話すのはどこかもどかしい。
「その感じだと、君も薄々気が付いてるみたいだね」
「ど、どういうことかな?」
「ははっ。とぼけないでよー。あんまり聞かれたくないから今は言わないけど」
 どうやら僕だけではなく、彼女も状況を理解してきているみたいだ。なぜあんなに余裕があるのかはわからないが。
「今日の放課後、教室に残って? お互い、言いたいことがあるだろうし」
「……わ、わかった」
 特に考えることもなく了承してしまったが、本当に良かったのだろうか。この先には知らないほうが良いとんでもない事実が隠れているかもしれない。即ちそれは、僕が目指す「普通」が壊れることを意味する。とはいえ、転校初日の生徒と周囲よりも親しげに話している時点で「普通」には戻れないのかもしれないが……。
 晴天も相俟(あいま)ってより輝かしい笑顔を向ける彼女に僕は、何も起きないことをただ願うばかりだった。

 それ以降は特に会話することなく時間が経っていった。
 転校初日ということもあって、休み時間にはいつも周りに人がいたし、授業には熱心に取り組むので話しかけられることもなく、警戒していた割には何もなくてそっと胸を撫でおろす。まぁ、ここからが本番でもあるのだが……。
 ホームルームが終わってからは、僕は彼女の言う通り教室に残っていた。あまりの退屈さに、本を読みながら。
 彼女がいる隣の席には、男女問わず多くのクラスメイトが集まっている。座っている僕からは、彼女の姿が少しも確認できないほどだ。
 遊びに誘われたり、連絡先を聞かれたり……。質問攻めに遭っている彼女は今どんな表情をしているのだろう。ただ先ほどからとぼとぼと教室を後にしていく生徒もいるため、玉砕している悲しい人間がいることは間違いなさそうだ。
 これはまだまだ時間がかかりそうだなーなんて思いながら、ただただ時間が流れるのを待った。
「はー、やっと帰ってくれた」
 彼女のため息とその言葉に、僕は本の世界から意識を戻した。時計の長針は先ほどの反対側の位置にあり、隣の彼女はすごく疲れ切った顔をしている。
「転校初日から大変だね。すぐに友達はできそうだけど」
「友達にはならないと思うよ。みんな本当にわかりやすい」
 一日の彼女への接し方を見て、僕も彼女と同じ気持ちだった。容姿の良さに一目惚れしたのか、一つ上の関係を求めて近づきに行っていることが筒抜けだ。
「それより、ちゃんと話そうか」
 さっきよりも声のトーンを落とし、真剣な表情で彼女は僕と向き合う。
「ずばり、夢とそっくりそのままの人間が転校してきたんでしょ」
 得意げな顔でにやにやしている彼女。その表情からは、正確な感情は読み取れない。
「……どうしてそこまで?」
「それは、私が君と同じだからだよ」
「同じ?」
「うん。私も昨晩、君が出てきたからね」
 ものすごく非現実的で受け入れ難いことなのに、彼女は気にすることなく順応している。不思議に思うこともなく、どこか楽しんでいるようにも感じる。
「なぁんで君はそんなに暗い顔してるのー?」
 少し俯きがちな僕の顔を覗き込む彼女。
「いやいや怖いでしょ、普通に考えて。どうして夢に出てきた顔も知らない人物がここにいるんだよ。こんなの、どう考えてもおかしいよ」
「おかしくないよ! きっとこれは予知夢だよ!? すっごい面白そうじゃない!?」
 あぁ、この人、結構厄介な人だ。
「面白くないよ。この先何が待ってるのかもわからないのに」
「だから良いんじゃん。なーんも変わらない人生より、何倍も楽しいよ?」
「……とにかく、そういうめんどうなことは嫌いなんだ。君とは違って、『普通』が好きなんだよ」
「『普通』ねー……」
 はぁー、と彼女は呆れた様子でため息を吐く。
「君は、予知夢を変えたくないの?」
 突然そんなことを言い出した彼女の目は、どこか悲しみを帯びているように見える。
 変えたくないのか。拒否すれば、それは嘘になる。いくら「普通」を欲しても、将来の夢がなくても、もう少し生きてみたい。まぁ、死んだところで別に構わないが。
「変えられるなら、興味はある」
「おー、意外。じゃあ協力してよ。私も変えたいから」
「は……?」
「いいじゃん協力してよー。私はどうしても夢を変えたい。君は『普通』に戻りたい。予知夢の変え方さえわかれば、お互いの目的は達成される。ね、いいでしょ?」
 僕の瞳を覗き込むようにして笑いかける。断りづらいその表情を見ると、僕を蝕む「断れない感情」が平穏の邪魔をする。
「……わかった」
「えっ! ほんと!? やったー! ありがとー! 予知夢改変同盟だー!」
「ふっ、なんだよ予知夢改変同盟って」
 なんとも言えない彼女のネーミングセンスに思わず笑みを零してしまう。いやまじで、予知夢改変同盟ってなんだよ。
「これからはお互い名前で呼び合おう! いいよね? 同盟だよ?」
「同盟かどうかはわからないけど、別にいいよ」
「よし。……優弥くん、これからよろしくね!」
「よ、よろしく……」
 僕に向けられたのは、見惚れてしまうような笑顔。なぜかはわからないが、胸が締め付けられるような気分だ。
「今日はありがと! また明日ー!」
 鞄を手に持った彼女は、上機嫌で駆けて行った。
「これから、苦労しそうだな」
 誰も居なくなった静かな教室に、僕はただそう零した。