いつだって素直でいたいと思って生きている。

 親が離婚する。
 モブキャラ同然の僕には面食らう話だった。
 今まで満足に家庭のことをしてこなかった父親が母親の一件で離婚まで切り出す。
 何がどうしてこうなるのか見当もつかない。
 それは僕が隠していたからなのだろうか。
 母親が夜な夜などこかへ行っていることを伝えなかったこと。
 伝えるべきことを伝えず、父親に夜呼び出された。
「昨日、夜、仕事終わりに久々の友と夜の街に行ったんだ」
 子供に言っていい話じゃないと苛立ちを覚えながら次の言葉を待つ。
「どうして母さんがホストに入り浸っているんだ」
 知らないとは言えなかった。
 何度かホスト街で母親の見たことない姿を見たことを思い出す。
 言葉を詰まらせていることが図星そのもの。
「雄哉に言うべきことじゃないのはわかってる。けど、辛かったろう。父さんな、離婚しようと思う」
「……」
 やめろなんて言葉がすぐに出るほど子供じゃなかった。
 僕のために言っているのだから、従うべきだったんだろう。
「父さんだって、夜の街に出歩いたんでしょ。なら、人のこと言えないじゃん」
「そうだな。でも、雄哉には健やかに育ってほしい。大学進学ももっと真剣になってほしい。医者になれとは言わない。けど」
「棚に上げて、そんなこと言って、誰が納得するんだよ。大人は結婚でもすれば、夜の街に行くことはないって思ってたんだけど」
「……」
「父さんも同罪でしょ」
 家をすっぽかして、友を優先して、その場で見つけてしまった母親の姿。
 ショックなのはわかるけれど、僕はそれを何度も見てきた。
 突然、家から出て行ったと思えば、ホストに金を貢ぐ。
 父親が家にいないのが不和の原因だと言うには、働いている父親に失礼だと隠した。
 隠せば、この家庭もまだ終わりじゃないと思えた。
 バレてしまえば、呆気なく関係は解消される。
 わかっていたのに、隠した僕が悪いのだろう。
 怒ることも否定することも本来できないはずだった。
「雄哉は、父さんといたくないか?」
「二人と一緒がいい。でも、机にある物件資料見てれば嫌でもわかるよ。離婚の意思は変えない」
 首を縦にふる父親。
 相当ショックだったんだろう。
 そんな家庭もあると言い聞かせてきた自分がバカみたいだった。
 学校のアクシデントが弱く感じるほどにどうにもできないこと。
 自分に与えられたアクシデントに立ち向かうことがこれだけ難しいとは思わなかった。
「少し、時間をください」
 頼み込んだところで父親の意思は変わらなかった。
「来週にはこの街を出て、別居する。それまでに決めてほしい」
 そう告げた父親はリビングを出て自室に戻った。
 学校のこともあるからと別居した後はバス代を出すからバスで通うようにと父親はいう。
 一人でどうにかできていたことばかりだったせいで、今回ばかりはキャパシティーをオーバーしていた。
 次の日の学校は休んだ。
 考える時間が欲しかった。
 その夜、一人で外を歩く。
 何も持たず、考えることもせず、ただ無心に歩き続けた。
 自転車で三十分かかる海に気づいたら到着していた。
 確か、海に行きたくなる心理は、どうしようもない不安や不満がある時、行き場のない時に行きたくなるなんてことが教本に書いてあった。
 僕は今、行き場のない感情の赴くままにここにきてしまったのだろう。
 何ができるというのか。
 できることなんてないというのに、どうにかしたいと思っている。
 学校とは違うんだ。
 ちょっと提案するついでに相手の意見も踏まえておく。
 そんなことでいいHR委員長の集まりも多少なりとも強引に仲違いしている二人を合わせるだけでよかったり。
 ほぼ決まってしまっている結論に抗う術はない。
 本当はわかっていたはず。
 母親の行動に目を伏せてきたのだから。
 こればっかりは何もできないと、自分の力では微力にもならないと。
 家族の愛というのは、どんなものなのだろう。
 他のクラスメイトはならば、普通に当たり前に家族から愛をもらっているのだろうか。
 別居や離婚の選択は愛ゆえだろうか。
 それを愛というのならば、とても一方的なものだなと思う。
 恋と変わらない。
 一方的に好きになって告白するように、愛もまた一方的だ。
 双方が思い合うから愛だとも言えない。それは恋でも生じるから。
 ならば、愛と恋はどう違うのか。
 長野を好きになったのは、同じだと思えたから。
 人に本音を言えなくて、頼まれたら断れない性分。
 だから、ちょっと言い返すために相手を肯定する。
 性格の悪い人相手なら舐められて都合よく使われる。
 優しさにつけ入るやつは嫌いだ。
 自分の意思を無理矢理でも通そうとする奴も嫌いだ。
 まともで誠実で親切な人が一番いい。
 でもそんな奴ほど都合よく利用される。
 これもあなたのためだからと言い包めて人の意見に蓋をする。
 身もふたもない作り笑いをあとどれだけしていくのだろう。
 一人になりたい。
 家族のことも学校のことも考えたくない。
 無理して普通のフリをして明るい自分に擬態して下手なダジャレ言っておけばどうにかなると浅はかな考えもやめたい。
 だけど、やめてしまったら明るい自分じゃなくなる。
 なんだかもう全部疲れたな。
 愛されたことなんかないからだと言って目を逸らしてきた。
 今はもう目を逸せない状況下にいる。
 ノリの悪い自分でいたくない。小学生の時のような周りに馴染めない自分でいたくない。
 何時からか俯瞰的に見て客観視して自分の立ち位置気にして言葉を考えて発するのもやめたい。
 だからと言ってやめたらまた独りになる。
 孤独になる。一人は嫌だ。
 誰からも必要とされないのは怖い。
 自分の存在価値がどこにもないんじゃないかって思う。
 一緒にいても楽しくないとか友達の誘いにわざわざ呼ぶ必要のない人だと烙印を押されたくない。
 これが承認欲求ならば、僕は誰にもこの気持ちを言えない。
 と言うか、悩みの一つや二つを聞いてくれる友達なんかどこにもいない。
 病んでるとかいわれるくらいなら女子にも話せない。
 言葉先についでたことで関係が崩れる可能性だってある。
 HR委員の集まりで面倒ごとを押し付けられないように動けるのは人の言葉を予測して当たり障りない言葉を選んできたから。
 隣に長野がいたけれど、カッコつけたいからとかじゃない。
 自分のキャパシティをオーバーさせたくないから。
 心理学を勉強することで対人関係は良くなった。
 どうにかこのまま続けられると思っていたのに。
 いつか来る別れに蓋をした付けが回ってきた。
 離婚、か……。

 無駄な体力だけがある。
 無心で歩くだけ無意味だと知りながら、今もなお歩き回っている。
 深夜を過ぎたころ、警察に呼び止められた。
 頭の中ではわかっていたはずだ。補導対象だということくらい。
 自分でどうにかできる問題が、今はもうない。
 この後、親か教師を呼ぶことになる。
 教師は今寝ているのだろう。
 父親は仕事でいない。
 母親も夜の街にいるんだろう。
 どこに頼れる相手なんかいるんだ。
 いない。
 誰も僕の周りにはいない。
「君、学生証ある?」
 首を横に振った。
 荷物なんて持ってきてない。
 気がつけば外にいたのだから、そんなもの持ち合わせている方が不自然だと逆ギレする。
「はい、君、学校に連絡するから。親でもいいの?」
 どうでもいいと自暴自棄になる。
 誰が僕のために動いてくれるというのだ。
 学校にバレれば、優等生の面は取れるのだろう。
 問題児のレッテルを貼られて居場所を失う。
 曽我に続き、厄介な生徒がいると思うのかもしれない。
「どっちか選ばせてあげるんだから、声くらい出してもいいんじゃない?」
 警察は譲歩してくれているらしかった。
「じゃあ、先生で。親は、仕事」
「夜勤か何か?」
「医者です」
「医者の子供ねぇ。医者の子供は上手く隠したり、逃げたりするものだけどね」
「そうですか」
「興味ないか。学校は?連絡するから」
 学校名を言うとすぐに電話をかけた。
 日付を超えた時間帯に誰が学校にいると言うのだろう。
 電話に誰かが応対したらしい。
 こんな時間でも仕事をしているだなんて随分ブラックな職業だなと毒づく。
「すぐにきてくれるって。学校からも近いし、こんなところで何してたの?」
「……」
「答えてくれる人の方が多いんだけどね、こう言う時」
 そんな奴いるかよと舌打ちする。
 誰も助けてくれない。そんなことわかりきってる。
「先生が頼りにならないなら、相談相手くらいにはなれるよ、警察は」
 警察がまともに機能していることあるのかと訝しむ。
 地面を睨みつけて、つま先を苛立ちに任せて蹴った。
 どことなく光が眩しくなり、それが路肩に止まる。車は、担任のものだった。
「うちの生徒がすみません」
 担任が、警察にペコペコと謝る。
 両親だったらそんなことしないんだろうなと思った。
 そもそもいい子でいなさいと言われてきた。
 今更いい子になれるのかと疑問に思う。警察のお世話になって、先生にも迷惑をかける。
 いい子とはかけ離れてしまった。
 汚い存在だ。
「あとは、先生にお任せします。じゃあ、我々はこの辺で」
 警察が離れたあと先生の車に乗せられた。
「一人で帰ります」
「そんなわけにはいかないだろ」
 珍しく担任は怒りを露わにしていた。
「なんでこんなことを?普段は真面目な生徒で優秀だったはずだ」
「……」
「クラスで色々あって、任されたから気分転換に深夜に歩いてたっていうのか?」
 本当にそうならどれほど楽だっただろう。
「それとも人に言えないようなことでも?」
「……」
「黙ってちゃわかんないよ。曽我のことでなんかわかった?それとも、全部自分で解決しようとしてる?」
「……曽我のことは、解決したようなもんでしょ。舞って女に動画を消させれば済む」
「どうしてこうなったのか、根本的な解決は終わってない」
「女の妬み以外あります?どうせ、他の女に取られないようにSNSにアップしたんでしょ」
 担任は突然話を変えるけどと話題を変えた。
「君は、心理学を学んでその先何をするつもりなの?」
「その先?」
「心理学を学ぶことを否定するつもりはない。進学するには十分な動機だろう。でも、就職を考えた時、少し厳しい社会が待ってること、理解しているかい?」
「カウンセラーの給料が低いとかそんな話ですか?」
「そうだよ。副業できる仕事を選べばまた変わってくるだろう。でもね、今の君を見ているととてもそういった仕事をしたいようには見えない。何を求めて心理を学ぶのか。先生に教えてくれないか?」
「……」
「みんな、色々相談しにくるよ。君くらいだよ、何も相談せずあとは自分で考えますとか。曽我にもいったみたいだけどさ、あとは任せてって本当は学生がするべきことじゃないと僕は思うね」
 言われるがまま。言葉が出ない。
 どうしたって仕方ないことがある。
 我慢しなきゃいけないことがある。
 それを飲み込んでずっと生きていて、今更、素直になってみたらいいと言われるのは少し違う気がした。
「僕だって本当は、学生らしく学校のことだけ、勉強のことだけ考えたいですよ」
 シートベルトを外し、外に出ようと鍵を開ける。
 しかし、運転席のオートロックのせいでまた鍵は閉められた。
「八十キロ出してるんだ。外に出たら死ぬよ」
「……」
 脅しに屈して手を膝下に置いた。
「家に帰すつもりですか」
「それはそうだろう。今日のことはまた今度聞くよ。明日は絶対に学校きてね。何かあって苦しいのなら、誰かに打ち明けてみたらいい」
「先生は、人を信用してるんですか」
「誰でもいいんだよ、君はみんなと仲良くできてるんだから、少しくらい悩みを打ち明けたっていい」
 築き上げてきた明るい性格。
 少しでも瓦解するのが怖いと思うのは、誰も信用してないことの裏返し。
 担任にはバレていそうなものだったけれど、気づいていない様子。
 家に着くと先生は路肩に車を停めた。
「ご両親には伝えるつもりだけど、嫌だって思うなら、今言って」
「別にどっちでもいいです。ありがとうございました」
 車から出て家に入る。
 誰もいないからっぽの家には僕だけ。
 こうしている間にも人の金で快楽に溺れる母親と一生懸命働く父親がいる。
 父方につけば、苗字が変わることもない。
 だけれど、どうしてか苗字が変わって気にかけてくれる人でもいたらと思う自分がいた。
 構って欲しいのかと思う。
 未熟だなとため息をついた。
 子供には何もできない。
 この先きっと離婚調停は成立して、この家を離れる。
 中学の友達も少ないし、あとで何か言われることもないだろう。
 結局のところ、いてもいなくても変わらない存在。
 遊びに誘われることもあまりないのだから、必要ないんだろうなと思う。
 自分が心理を学びたい理由を打ち明けたら、みんなドン引きするのだろう。
 部屋のベッドに横たわる。
 枕元にあるスマホを開くとLINEの通知が四件ほどあった。
 長野だ。
 告白を振ったと言うのに、友達として心配してくれているのだろうか。
 余計なお世話だと思う反面、どこか嬉しさを覚える。
 しかし、返信する気力は湧かない。
 今返信したら何か酷いことでも書いてしまいそうだ。
 こんな気持ちで学校に行ったら他の人にも迷惑をかけてしまう。
 風邪引いたことにしてもう一日くらい休もうか。
 親と話し合う時間でも設けられるだろう。
 両親が改心するとは思わない。
 父親に関しては、僕のことを思っての行動だ。
 僕と言う存在がなければ、母親のことは一対一で話し合うことができただろうに。
 迷惑な存在だ。
 目を閉じる。
 眠れるわけもなく何もない天井を見上げる。
 この生活ももう少ししたら変わってしまう。
 あぁ、本当に嫌だな……。

 気がつけば、眠ってしまっていた僕は外の光に起こされる。
 スマホで時間を確認すると登校時間はとっくに過ぎている。
 今から向かっても遅刻だ。
 休んでしまおう。
 どうせいてもいなくても学校の生活なんて変わらない。
 一人いないだけで変わる生活なんてありえないのだから。
 休むと決めてもやることなんかない。
 何をしたらいいだろう。
 普段なら当たり前に学校行って、授業を受けて、部活なり塾なり行って疲れた体を癒すべくベッドで眠る。
 僕に趣味なんてものはなかったのだ。
 人といると明るい自分でいようとするくせに、誰もいないとやることもない。
 みんなそんなもんだろうと考え直す。
 カラオケでも行こうか。
 年齢確認されたら補導か。
 やめておこう。
 ならば、映画に行くのはどうだろう。
 たまたま休みでとか言ってみようか。
 学校に連絡が入ったらバレてしまうか。
 やめておこう。
 本当にやることがない。
 ベッドから起き上がる気力もない。
 この部屋に娯楽はない。
 思えば、学生の大半は勉強に時間を使う。
 授業に追いつくことを考えていれば、自ずと机に向かう。
 勉強することは苦じゃない。
 だからこそ、勉強以外の楽しみがない。
 明日もし学校に行ったら僕は勉強についていけるだろうか。
 学校に行ってもほぼ自習みたいなものだし、勝手に勉強を始めるだけだし、気にしなくていいか。
 なら、学校なんて行かなくてもいいじゃんか。
 単位が取れないデメリットはでかいなとため息をついた。
 進学に響くんだ。
 面倒ばかりが学校にはある。
 その面倒臭さがなくなっても、社会に出れば社会の面倒臭さがまとわりつく。
 そう思うと生きてる間はずっと面倒なことばかりだなと思う。
 友人関係、家族関係、仕事関係、どれも面倒だ。
 金の問題も出てくるんだろう。
 稼げないから副業したり、お金のために今度は時間が消えていく。
 趣味もないんだし、金稼いで美味しいものでも食べればいい。
 そうだ、美味しいものでも食べにいけばいいのか。
 でも、学生だとバレれば補導か。
 やはりやれることはない。
 そうこう考えているとガチャリと家の戸が開いた。
 酒臭い母親が玄関で倒れている。
 潰れるまで飲んだのかと辟易する。
「母さん、部屋行くよ」
 父親にバレないようにといつもやっていた癖が出る。
 この母親とも離れると言うのに、何をしているんだろう。
 母親の行動もバレた今、こんなことしなくてもいいのに。
 母親を担いで部屋のベッドに投げ入れる。
 掛け布団を被せて部屋から出た。
 扉を閉める前、チラリと母親の姿を見る。
 気持ちよさそうに眠っている。
 自分勝手に動いて楽しそうだなと思う。
 ちょうどまた父親が夜勤明けに帰ってきた。
「父さん、話があるんだけど」
「あれ、学校は?後で聞くから学校行きなさい」
 眠い中帰ってくる父親は、そう言ってすぐに眠りにつく。
 子供のことなんて興味もないくせに気を遣ってみせる。
 あんただって母親と変わらず夜の街に行くくせに、何が離婚だと苛立ちを覚える。
 この家庭に家族なんて言葉は似合わない。
 三人で夕食を共にした日なんてあっただろうか。
 覚えている限り、一度もなかった。
 家族に愛なんてものはない。
 そうだ。
 僕は愛なんてもの、知らない。

 夕方、どこかへ出かけようとスマホをいじっているとインターホンが鳴った。
 こんな時間に誰がこんな家に来るのだろうとモニターを見る。
 顔を覗かせる長野の姿がある。
 可愛い子ぶってやってるのなら、あまり可愛くないなと思う。
 学校で見せる姿の方がいい。
 優等生は面倒見がいいなと毒づく。
 返事を返すと『雄哉はいますか』返ってきた。
 僕の名前を覚えてるやついたんだと思う。
 普段、焼き鳥にしてやるだのなんだの悪口を聞いていたものだから新鮮だった。
「いないです。帰ってください」
 嘘をついて、モニター画面を切った。
 またインターホンが鳴る。
 モニターに映し出される長野の姿は怒りに満ちていた。
 怒らせたんだと知る。
 と言うより、父親が起きる前に会っておかないと面倒ごとが増えるだけな気がした。
 玄関の扉を開けると長野が手を振ってきた。
 調子の良さそうな彼女だ。
 何かいいことでもあったのかもしれない。
 以前は少し思い詰めている様子だったのに。
「風邪引いたのかなと思って、きたんだけど」
 風邪のつもりで休むことにしたのに、マスクでもしておけばよかったと反省した。
 手で口元を隠す。
「そうなんだよ。ちょっと体調悪いみたいで」
「え、大丈夫!?」
 スタスタと距離を詰めると彼女の手のひらが額に触れる。
 仮病がバレると目をそらす。
「ねぇ、恥ずかしがらないでよ」
 勘違いさせてしまったようだった。いや、まぁ、当たってるけど。
「あれ、熱ない?え?」
 彼女は彼女の額に手のひらを当てて比べている。
「んー、ちょっとわかんないや。でも顔赤いし、やっぱ体調悪いんだよね」
 どうやら本当に勘違いさせている様子。
「ほら、家入って、上がってもいい?」
「え、ああ」
「ご両親は?」
「部屋で寝てる」
「そっか。川鳥がこんな状態なのに」
 心配してくれる人がいるんだなと他人事のように思う。
 彼女に押し流されるまま、家にあげた。
 肩をペシペシ叩きながら部屋に入る。
 自分の部屋に振った相手がいると言うのは居た堪れない。
「ほら、ベッド入って。ポカリあるから」
「そこまでしなくていいのに」
「だって、全然既読つかないじゃん。先生に聞いても答えてくれないし、心配で」
 袋からゼリーやらお粥やらを取り出す彼女。
 本気で心配してくれる人がここにいたんだと思うと泣きそうになった。
「長野に告白したじゃん……。こんなことしたら勘違いされるって思わなかったの」
 目が合う。ぱちぱちと瞬きを繰り返す彼女は、気にしていないよう。
「いいよ、勘違いしても」
 あっけらかんと言う彼女に呆けてしまう。
「なんか、少しの間に変わったな」
「それ、磯野も言ってた。でもね、思ったことは言うべきかなって。だって、みんなあんまり気にしないでしょ?なら、言ったっていい。傷つけるわけじゃないんだから」
「そうか」
「それでも誰かが傷つくって思ってるの?」
「……」
 言わんとしたことを見破られてしまってどう反応するか困った。
 相手の事情なんてものは相手から発せられない限り知る由もないことだ。
 知らない方が言ってしまった時にすぐ謝れるにしても、傷の深さまでは容易に判断できない。
 謝ることしかできないのだから、知っておいた方がいい。
 誰かを傷つけたいなんて思う人はいないのだから。
 簡単に傷つけてしまう言葉ばかりこの世には溢れてる。
「私の父さん、うつ病で休職中なんだ。でも、それをどうこう言われたって仕方ないって思ってる」
 仕方ないで済む話があるのだろうかと考える。
 そんなものないだろうと思っていても、そう思うことでどうにかなる時だって確かにあるのかと考えてみる。
 でも。
「僕は何度か長野を傷つけた。それを仕方ないって言われたら、どうすることもできないよ」
「そうかな。気にしすぎじゃない?私はあんま気にしてないよ。家庭のことはどうにかなってるし」
「……どうにもならなくなったらどうするの?」
「考えるのやめるかも。どうにもならないんでしょ?じゃあ、意味ないじゃん、考えたって」
「割り切るんだ」
「そうやって生きてきたから」
「……」
 考えるのをやめるしかない。
 確かにその通りだ。離婚に対して、両親が決めたことならば、子供は何もできない。
「でも……」
 それ以上否定する言葉なんて見当もつかなかった。
 言葉が宙にきえる。
「何かあったの?」
 耳に届くや否や自己嫌悪に陥る。
 今まで必死に明るい自分に擬態してきたと言うのに、精神的に弱ってしまうと明るい声も笑顔も出てこない。
 浮かぶ言葉もない。
 何も言えない。
 何もない自分に嫌気がさす。
「明日には学校に行くよ。熱もないし。今日は帰ってよ」
 突き放したところで彼女は動こうともしなかった。
 また傷つけたのに、彼女は仕方ないと割り切ったのだろうか。
 ならば、普通、この場から離れるだろうに。
「心配だよ、私は」
「……」
「何かあったら相談くらいしてよ」
 気を利かせてくれる彼女の顔を見ることはできなかった。
 体調が悪いと嘘をついたことに触れることもせず、僕の心配をしてくれる彼女は、聖母のよう。
 わがままに頼ってしまいたい気持ちになる。
 いきなり抱きしめたら彼女の包容力で少しは落ち着くのだろうか。
 いや、キモがられるのがオチだ。
 そんなことしたくない。
「んじゃ、私行くね。また話してよ絶対」
 静かな時間をかき消すように彼女は告げて、帰って行った。
 離婚話が完結したら少し話すべきなのかもしれないと思った。
 どれだけ考えても離婚する事実は変わらないのだろうとため息をつく。
 日が沈んで外に出た。
 父親も母親も家にいる。
 外に出る際、父親に気をつけてと言われたけれど、返事はしなかった。
 昨日とは違う別の道を歩いた。
 補導されると面倒だからだ。
 また担任に迷惑かけると思ったら、憂鬱だ。
 思い返してみれば、僕がいなくても解決する問題ばかり多いと感じる。
 実際、学校の問題は先生が対応すればいいし、生徒間の問題だって関わりを止めるという解決策がある。
 長野だって相川らに絡まれていた時期はあれど、今はもうやめたわけだ。
 女子同士の問題に首を突っ込んだことはないけれど、男子の問題だって首を突っ込むほどじゃない。
 話が合わないのなら、話さない。
 たったそれだけでいい。
 大事になれば先生が介入する。根本的な解決にならずとも問題は緩和される。悪化するようなことはあまりないだろう。
 どうにかなる問題ばかり介入して解決してきた。
 逆に邪魔だったのかもしれない。
 周りと足並みを揃えたいとばかりに動いた結果がこのざまだ。
 ……疲れたな。
 もう何もしたくないや。
 どうせ離婚した先でも人生は続くのだろう。
 担任に言われたその先の就職についてどう考えているのか。
 何も考えていなかったと言うのが答えだ。
 目先のことに囚われていたんだ。
 大学の先のことを考えていなかった。学力を考慮するのなら、他の道もたくさん選べる。
 心理を学びカウンセラーなんてどうだろう。給料面は調べる必要がありそうだ。
 それでもやはり少しくらい休みたい。
 なんだか少し眠くなってきた。
 昨日からあまり寝ていないし、寝た方がいいのかもしれない。
 家に帰る気にはなれないまま、横断歩道を渡る。
 刹那、鈍い音と共に体が吹き飛ばされた。
 車にぶつかったのだ。
 受け身を取ろうにも判断が遅かった。
 気づいた時には頭をコンクリートにぶつけて、その先で転げ回った。
 体が変形するような感覚を覚えた。が、痛みはなかった。
 てっきり痛みに悶絶するものだと思っていたのだが、流血しているのにも関わらず冷静だった。
 救急車を呼ぼうか。
 でも、痛くない。
 ならば、このまま帰ろうかと立ち上がり歩道に寄った。
 車はもう見えない。
 それどころか、先ほどまであったコンクリートが見えない。
 いつの間にかそのコンクリートの車道は川になっている。
 目をぱちぱちと瞬かせる。
 どうなっているのか判断がつかない。
 川の先に両親が談笑している姿が見える。
 いつかどこかで見たことのある過去。
 あの場所に僕も行きたい。
 川を渡る。
 波が激しく溺れそうになる。
 そちらに行きたい。いつか夢見た景色を思い出す。
 運動会で一位を取って褒められたり、誕生日を盛大に祝ってもらったり。
 そんな家族を望んでた。
 一度もそんなことがないままに、成人を迎える。
 選挙権を手にする。
 たった一回きりでいい。
 笑顔が溢れる家族の場所へ。
「父さん……、母さん……」
 あの場所にある愛情に触れたい。
 一途に愛してくれる両親。
 金だけじゃないと教えて欲しい。
 愛を知れたら、それだけでいいのだから。
 どうしたらそちらへ行けるの?
 この川から脱することが難しい。
 誰かの声が聞こえてくる。
 両親の声じゃない。
 先ほどまでいた川岸から誰かが呼び止めている。
 縄を括られ引っ張られる。
 こんな縄は邪魔だ。
 あちらに行きたいのだ。
 今ならば、愛を知れる。愛が欲しい。
 愛されたい……!
 縄を解いて、向こうの川岸についた。
 ようやく知ることができる。
 知る由もなかった愛のかたち。
 涙が溢れそうだ。
 両手を伸ばす。
 両親が僕を待つように両手を広げた。
 その胸に飛び込んだ。
 優しく包まれた僕の体が愛を知っていく。
 この温もりが愛なのか。
 言葉じゃない、体で感じるものが愛なのか。
 僕を想うその行動が愛なんだ……。
「父さん、母さん……」
 ようやく愛されたような気がした。
 しかし、顔を上げるとそこに両親はいなかった。
 あたりを見渡すと一面全て真っ黒の世界だった。
 川もない、先ほどいた知らぬ人もいない。
 ここはどこだ。
 今のはなんだ。
 振り返る。
 階段がそこにはある。
 誰かが鎌を持って待っている。
 もしかして。
「僕は……」
 己の欲に従順で、気付かぬうちに足を踏み外した。
 そうだ、僕は車に轢かれたんだ。
「死んだのか」
 鎌を持つ誰かが首を縦に振った。
 乾いた声が漏れる。
 後ろを振り返り走ってみる。
 だけど、だんだんと上も下も右も左も全ての感覚が消えていく。
 宙に浮いたように、それでいて横になったよう。平衡感覚がない。
 動けない。
「その先を考えていたなら、この感覚も覚えずに済んだのかな」
 後悔した。
 父親とLINEで言い争う前に、明るい自分に擬態し続ける前に、長野の心配を無下にする前に素直になっていればよかった。
 死にたくない。
 死にたいなんて考えたこともないのに。
 これじゃ、死にたいほど思い詰めていたことになる。
 違う。そんなの思ったことない。
 どうにかなると思って、解決策を考え続けてた。
 僕は死にたいんじゃない。打開策があるはずなんだ。
 離婚しないための策が。
 学校のことなんてどうでもいい。
 どうせ解決するのだから。どうにかなるのだから。
 離婚だけはどうにもならない。
 でもどうにかしたかった。
 まだ終わってない。
 終わっちゃいない。
 待って、まだ体は動くはずなんだ。
 一筋の光が僕を照らす。
 その光に手を伸ばす。
 その先に行けば、もう一度どうにかなる。
 きっとそうだ。
 大丈夫、終わってない。
 終わるわけないんだ。
 まだ何も解決してないじゃないか。
 一瞬の光が視界を遮った。
 暗転したその先で、僕の視界も思考も全て消え去っていた。