マンションに壁が埋まるほどの本棚があり、びっしりと漫画があることを久我に教えると、見てみたいと言うので、夕食を済ませたあと向かうことになった。

「運転手にマンションの住所伝えて」

 乗せられたのは登校に使っているセダンだった。住所は把握してもらえていたようで「存じております」との返答がきて、伝えずとも車は発進した。

「壁が埋まるほどの本棚って、自宅図書館みたいな? おまえ、見たまんまのオタクだな」
「見たまんま、ってどういう意味?」
「そんな前髪して、いかにも陰キャじゃん。漫画とか描いてるし」
「そ、それがなんだよ。人に迷惑はかけてないし……」
「迷惑なんて言ってないだろ……漫画は面白いし」
「僕ので面白いなんて言ったら、うち来たらぶっ飛ぶよ」
「ぶっ飛ぶ?」
「傑作や名作がたくさんあるから」
「まじ? 楽しみ過ぎるんだけど」

 なんだか、久我と普通に会話ができていないだろうか?
 パソコンの中を見られてしまった焦りと勝手な振る舞いに対する苛立ちが、彼に対する緊張を薄れさせたのかもしれない。
 久我のほうも、母たちのまえでもないのに、まるでクラスメイトのように接してくれている。
 喋ってみたら、普通だ。
 口調や態度が高圧的で怖いけど、僕の返答に対して苛立っている様子はない。負けじと返してもおかしげに答えてくれている。

 マンションへ到着して、部屋へと案内した。電気が来ていないことは伝えてあるから、入ってすぐにカーテンを開けて自然光で明かりをとった。
 部屋というものは、人が住まなくなった途端に死んでしまうらしい。まだ一週間と経っていないというのに、僕たちが来て息を吹き替えし、寂れていた部屋が伸びをしたかのようだった。

「うわ……」

 僕の部屋へ入った久我は、驚きの声をもらした。思わずという感じでもれたそれは、呆れというより、感心の響きに聞こえた。

「これ全部漫画?」
「そんなことないよ……ほとんどそうだけど、普通の小説もあるし……ラノベだけど」
「……全然知らないやつばっかだな。その傑作や名作ってどれだよ」
「あ、うん」

 日没の迫る今、電気の使えない状況ではのんびりなどしていられない。久我が関心を示していたものと似た系統で完結済みの漫画を三種類ほど手渡してみた。

「これはどうかな?」

 久我は受け取ったあと、ぱらぱらとめくるのではなく、頭からじっくりと読み始めた。真面目な性格が出ている、というよりも読み慣れていないからだろうか。
 反応を窺うべくその様子をしばらく見守っていたのだが、初心者なせいか読むのが遅い。それは仕方がないとしても、時間がないことではらはらしてしまう。

「ぱらっと見るだけでいいよ。見てよさそうだと思ったやつを全部持っていってみればいい」
「あー……うん」
「もう暗くなるし、電気がつかないから」
「うん、……わかってる」

 本気で熱中しているっぽい。ソファのうえで漫画を手に空返事をするなんて、母に小言を言われている僕そのものだ。

「引っ越し用の段ボールがあるから、そこに詰めて、そろそろ行こうよ」
「……ああ」
「今読んでるそれにする?」

 問いかけたが、とうとう反応がなくなってしまった。
 仕方がない。確認は取れないが構わず詰め込んでしまおう。
 適当に段ボールに入れて、いまだ読み続けている久我を立ち上がらせ、玄関へと歩かせた。
 目が漫画にしか向いていないから、足元はおぼつかず、歩く方向を修正してあげないと壁にぶつかってしまう。漫画に夢中で、他のことがいっさい目に入らなくなっている。完璧な生徒会長を助けてやることになるとは思わなかった。
 
 久我は車に乗ってもいまだ読み続けていて、車酔いをするのではとの心配をよそに、薄暗い中でも読み続け、そればかりか読みながら車を降りて、器用にも玄関を上がっていった。
 僕は段ボールを抱えたままその後を追い、廊下で山神さんとばったり出くわして、代わりにお運びしましょうかとの親切を丁重に断りつつ、ふふと微笑ましげに久我を見ていた理由を訊ねた。

「……お坊ちゃまは、いつもあのように参考書や教科書などを読んで歩き回られておりまして」
「あ、じゃあデフォルトなんだ」
「幼い頃からよくお見かけしております。ですが、あれは漫画ですよね? 小説や勉強に必要なもの以外の書籍をお読みになるところは初めてお見受けいたしました」

 二年もの間、久我を見つめ続けていたというのに知らなかった。宮沢賢治の銅像のごとくの本の虫だったとは。
 学校では常に周りに人がいるところしか見ないから、一人で黙々としている姿も珍しく、なんだか微笑ましく思えてきた。
 たどり着いた久我の部屋は、なんと僕の隣だった。
 同じ広さで、間取りも一緒だ。
 ブルーブレーで統一されたそこは、物がまったくと言っていいほどなく、すっきりとしている。デスクとベッドだけ。書棚やチェストのような類はいっさいない。
 久我は器用にも漫画を読んだままデスクチェアに腰をおろした。
 デスクはつや消しのブラックで、乗っているパソコンはiMac。イメージを裏切らないかっこよさで、スタイリッシュなそこにいる久我は惚れ惚れとするほど絵になっている。
 
 しかし、その中でただ一つ、浮いているものがあった。
 片手で持てるのサイズのぬいぐるみだ。
 久我のいるデスクの床に段ボールを下ろしたあと、ベッドの枕元に置かれたそれを手に取ってみた。赤いマントに黄色のベルト、濃いめの水色のスーツをまとった黒髪のヒーロー。僕の目にはスーパーマンに見える。

「……兄さんからもらったんだ」

 ぼそっと声が聞こえて、久我のほうへ目を向けると、それまで周りなんていっさい目に入らないというように集中していた久我が、ゆうに一時間ぶりくらいに顔をあげていた。

「もらったやつだから、捨てられないだけだ」
「捨てられないって、捨てたいの?」
「……要らないわけじゃないけど」
「好きなんじゃないんだ?」
「……わるいかよ」
「え、わるいわけないよ。いいじゃん。なんか嬉しいし」
「は?」
「僕も好きだよ。クラーク・ケント」
「……知ってんの?」
「もちろん。漫画は読んでないけど、映画はほとんど見てるし……少し前のダークなときのスーパーマンが一番好き」
「……『マン・オブ・スティール』?」
「そうそうそれ。あ、もしかしてこれ、そのときの?」
「スーツのデザインは違うけど、それ見たときに兄さんが買ってくれたんだ」

 デスクチェアから立ち上がり、僕の手から奪い取った久我は、ひょいと元の場所──枕元に戻した。
 枕元が定位置ということは、一緒に寝ているのだろうか。
 教師からも信頼され、学校中の生徒から敬われている生徒会長が?

「じゃあ、それ読んでみて。僕は今のところ読む予定はないから、期限とか気にせず楽しんで」

 僕は久我に声をかけたあと、足早に部屋を出た。
 また新たな久我を知った僕は、頭がおかしいことに、悶えるほどかわいいだなんて思ってしまった。
 まるで子どものように漫画に熱中した姿を目の当たりにし、二宮金次郎のごとくの本の虫であると知ったかと思いきや、今度はぬいぐるみを抱いて寝ているなんて……