翌朝、まだ通勤や通学するには早い時間にもかかわらずマンションを出た。
 トイレまで使えないのはさすがに不便すぎる。最寄りのコンビニで用を足しつつ朝食を買って、少し早いけど登校してしまうことにした。
 電気水道が止められて、ネットも使えないんじゃ、不自由極まりない。
 さすがの久我も、そんな環境だったら帰ってきても構わないと考えてくれるだろう。
 部屋がどこにあるのかは知らないけど、顔を合わせるのは食事のときくらいなんだから、最悪の場合部屋へ運んでもらえば感染の懸念は無用のはずだ。八神さんに事情を伝えて、それとなく久我の耳に入れてもらうよう頼んでみようと決めた。

 その日は、図書室でも久我に会うことはなく、避け続けた効果があったのか、平穏な一日を過ごすことができた。
 久我邸へと帰宅した僕は、環境を整えるべく自宅から持ち帰ったタブレットをネットに繋いだり、細々とした作業を進めることにした。
 液晶ペンタブレットを持ち帰ってきたから、デスクを運んでもらうまでの間は、ノートパソコンをメインマシンにできそうだ。
 そうイメージしつつセッティングをしていたところ、ドアの開く音が聞こえて、すぐさまノートパソコンを閉じた。
 母はノックをせずに入ってくる人種であるため、こういったことには慣れている。しかし母なら開けると同時に声をかけてくる。今入ってきたのはおそらく、と考えながら振り返ると、予想どおり久我の姿があった。

「マンションに帰っていたのか?」

 久我はきょろきょろと部屋を見渡しながら入ってきた。

「そう。電気や水道が使えなくなってたけど……」
「は? 嘘だろ? 何日か前まで住んでたんだろ、家具とかも全部なくなってたわけ?」
「いや、ほとんど残ってた」
「……それなのにかよ」
「そうみたい……」
「で、体調は?」
「あー、うん……ただの寝不足だったみたい」

 久我は、ふうんと返しながらなぜか僕のベッドに座って、無造作に投げ出されていた漫画を手に取った。

「あれ、おまえが描いたの?」

 あれ、と言いながら久我は少年ジャンプの単行本を見ている。どれを指しているのかわからない。

「なに?」
「あれだよ……パソコンに入ってたやつ」

 パソコンにはいってたやつ……久我の言葉を頭で三回ほど繰り返して、血の気が引いた。

「もしかして、中見たの?」

 伏せていたモニターをあげて画面をチェックする。何を見られたんだろう。いや、何をというか久我の絵ばかりがごまんと入っているのだから、見るにも他にはなにもない。下手すぎて気づかれていないといいんだけど……じゃなくて勝手に人の部屋に入ったうえに、人のものを、しかもわざわざパソコンを起動して中身を見るなんて、さすがに横暴過ぎないか。

「兄貴の忘れ物だと思ったんだよ」

 不貞腐れたような声に振り返ると、久我はいまだ漫画のページをめくるその手に目を落としている。 
 目を合わせようとしないことからも一目瞭然だ。久我は嘘をついている。
 昨日部屋に入ったとき、そんなものはなかった。久我もデスクの上になかったことを確認していたはずだ。

「だとしても起動したならすぐにわかっただろ」
「ああ。ファイル見て、おまえのだってすぐにわかったけど、目に留まって、それで……あれ漫画だろ? 初めて見たから、読み方がわからなくて……ちょっと悔しくなって……」

 悔しい?
 なぜそんな言葉が出てくるのか不可解だが、理由はどうあれ謝罪すべき場面であるはずだ。

「悔しいって何だよ。ていうか、まずは謝ってよ」
「謝る? なんで謝る必要があるんだよ。財布が落ちていたら中身を確認するだろ? それと同じだ」
「そもそもが嘘だよそれ。お兄さんの部屋だったからって、昨日久我くんが来たときにはなかったじゃないか」
「クローゼットに残っていたのをおまえが見つけだしたと思ったんだ。兄さんが持っていたのと同じやつだったから。これは本当だ」

 僕のセンサー的には本気で言っているように見える。どちらにせよ見られたことには変わりないし、部屋の鍵だけでなくパソコンにロックもかけずに一晩外で過ごしたのは僕だ。

「……わかったよ。それで、悔しいってなに?」
「だから、読み方がわからないんだって。文字が縦書きだから小説と同じ右開きってことはわかったんだけど、上から下に読めばいいのか、いつ左に進むのかがよくわからない。マスは一定じゃないし」
「まさかだけど、漫画を読んだことがないの?」
「ネットで下にスクロールしていくやつとかなら読んだことある」

 最近は漫画を読めない人が増えている、とは聞いたことがある。漫画というコンテンツの比重が、子ども向けより大人向けのほうへ傾いているらしい。
 久我はまるで手持ち無沙汰のようにだが、いまだにジャンプコミックスをパラパラとめくっている。
 それは一話完結ものではなくストーリーものの五巻で、ちょうど序盤の山場がある巻だ。最後のほうにはあっと驚く展開なんかもある。ぱらぱらとめくったりなんてして、先にその事実を知ってしまえば衝撃が半減してしまう。
 無用にもはらはらとしてきた僕は、久我の手からそれをひったくり、一巻をつかんでそっちを渡した。
 そしてページめくらせ、指で示しながら、読み方を解説してみた。
 久我は「へえ」とか「なるほど」などの感心した声をあげながら目で追っている。
 漫画の読み方なんて教えてもらったことはない。僕は自然と身についた。ただそれは、初めて手に取る年齢が関係するのかもしれない。高校三年にもなっていきなりだと、混乱してしまうのかも。
 久我は徐々にこつを掴みつつ、見開きや、斜めになった大ゴマなどにくると「これは?」と問いかけてきて、教えながら二人で半分ほど読んでみた。
 
「……読めると面白いな」
「本当に読んだことがなかったんだ」
「俺の周りじゃ読んでるやつのほうが少ない」
「え……じゃあ本は読まないの?」
「いや、読書はするよ」
「それは、小説とか?」
「基礎教養として必要な分はだいたい読んでる」
「そんなのあるの?」
「……だからおまえは現国や古典の成績がわるいんだ」
「え……そんなの関係ない……で、今のこれはどうだった?」
「うーん。面白いは面白いけど、正直言っておまえの描いたほうが面白かった」
「はあっ?」
「いや、絵は圧倒的にこっちのほうが見やすいけど、先が気になるっていうか」
「先が気になるって、どこまで読んだの?」
「あるだけ全部」
「全部? 読めなかったんじゃないの?」
「だから……何時だ? 二時くらいまでかかった」

 絶句って、こういうときに使う言葉らしい。僕は二の句を継げなかった。
 僕から目を逸らし、ほんのり赤く染めた頬を片手で隠している久我を、唖然と見つめることしかできない。
 そんな久我も初めてで、かっこいいはずの久我がかわいく見えて動揺しかけたんだけど、それ以上の動揺をまえには些細なことだった。
 僕の漫画を全部、しかも読み方がわからないながらも時間をかけて読み切ったなんて、本当だろうか?
 誰にも見せたことのないあれを、久我をモデルにしたヒーローが苦悩する漫画を、本人が?
 しかも面白いなんて思えるような代物じゃない。
 今久我が手に持っている漫画とは真逆を行くような、ヒーローがヒーローであることに葛藤し、苦悩し、敵前逃亡してまで自身の力に悩み続ける、そんなエンタメからは程遠く離れたような漫画だ。ストーリーもむちゃくちゃで、ただ主人公が様々な反応を見せるだけ。能力を持て余し、たまに自棄になって発揮するだけで、バトル展開なんてほとんどない、ヒーロー漫画とは言えない展開ばかりだ。

「あの、真田(さなだ)久兵衛(きゅうべい)だっけ? ださい名前の男。……あいつ、あのあとどうなんの?」
「あのあと……は、まだ考えてない」
「考えてないのかよ。ラフラシアと戦って大怪我負って、仲間ともはぐれて一人で隠れて……気になるじゃん」
「本当に読んだの?」
「読んだって言ってんだろ。台詞や動きでなんとなくだけど」

 読んでなければそこまで細かく把握しているはずがない。ということは、久我は本当に、あのただ描き連ねただけの、200ページを超えるあれを読んだことになる。
 天を仰ぎたくなる事実だ。
 神様、時間を戻してくれ、と祈りたくなる。
 いや、待てよ。
 もしかしたら、そのおかげで漫画以外は見られていないかもしれない。
 一枚絵のほうは似せるように描いているから、画力は別としても気づかれる可能性はある。ただ、同じくモデルにしている漫画のキャラのほうは、デフォルメしてあるからすぐには気づかない可能性がある。
 四苦八苦して読んだというなら、そっちに意識が取られて、自分に似ているとまでは気づかなかったかもしれない。というか、そうであってくれ。

「これ、借りてもいい?」
「えっ? ……いいけど。本気?」
「ああ。何冊あんの?」
「今のところは八冊かな。まだ続いてるけど」
「続いてるって、いつおわんの?」
「うーん……結構人気があるからまだまだ先じゃないかな」

 久我のぎょっとした表情を見て、もしかしたら、連載ものに慣れていないのかもしれない、と思い当たる。

「終わってるやつがいいの?」
「……続きが気になってもやもやするのは嫌だな」
「じゃあ……他のにする」
「他のって?」