翌日学校へ行くとき、久我が通勤で乗るというセダンの車に乗せられた。母に笑顔で見送られ、車用の門を通ったあと数十メートルと経たない道路で、久我は運転手に停車するよう命じ、そして次に僕に向かって「降りろ」と言った。
 約束どおり、外では他人のふりをするためだろう。
 歩いて十五分程度でしかない距離で、それ以上進めば誰かに見られかねない。最初に同乗させたのは、親に対する配慮からのようだ。

 学校では以前どおり、喋ることがないのはもちろん、目も合わせない。
 ただ、僕のほうは以前と同じ、というわけにはいかなかった。
 久我を見ることができなくなってしまった。
 関係を悟られないために敢えてしているのではなく、できなくなったのである。
 
 見ると、思い出してしまう。
 僕に話しかけてくれたこと。優しくしてくれたこと。しかも、校内で見る丁寧なそれではなく、砕けた態度を取られたこと。他の生徒たちと同じようで僕だけ違う、それは良くも悪くも特別な存在であると実感させるもので、意識せずにはいられなかった。
 もう一つ、不可抗力でも肌を見てしまったこと、それが難儀なほどに僕の頭を悩ませていた。
 久我のほうから脱いだわけだから、僕は悪くない。そもそもが見たかったわけでもない。
 それでも、見てしまった今、知らなかった以前には戻れない。バスオイルを入れた湯船に浸かり、保湿をして、日々ケアをしているのかなんて、あのときの状況を事細かに思い返してしまう。
 思春期真っ盛りだから仕方がないと思う反面、女子どころか男子に、それも義兄弟である久我の裸ばかり思い出すなんて不道徳極まりない。

 そんなふうに思い悩み、久我を見ないようにしてばかりいたら、授業になんてまったく集中できなかった。
 昼休みに入って逃げるように図書室へ向かったのも、久我から離れたかったから、それと図書委員の仕事に取りかかれば、自然と気がそれるはずだと考えたからだった。
 期待したとおり、五十冊ほどの配架業務をこなすうちに、久我のことは頭から消え、作業に没頭できていた。
 しかし、ちょうど久我から話しかけられた場所に差し掛かったとき、また思い出してしまった。
 ここで初めて目を合わせ、初めて声をかけられた、などと頭に浮かんでしまう。

「具合い悪いんじゃないか?」

 はっと肩が震えた。
 久我は「誰にも言うなよ」と言ったはずだ。今のはなんだ?

「昨日のせいで風邪ひいた?」
 
 ぐいと腕を引かれた。その拍子に振り返ると、久我がまるでデジャヴのように僕を見下ろしていた。
 でも、デジャヴとは違う。目に憎悪や不快感が宿っていない。どちらかと言えば、案じているかのような目を向けている。

「熱があるんじゃないか?」

 僕の腕を掴んでいた手が動いて、今度は額に触れた。その瞬間、自分でもわかるくらいに身体が熱くなった。
 久我がいること自体も信じられないというのに、行動も理解できない。なんで僕に対してそんなことをするのだろう。

「……手じゃわかんないな。保健室に行ったほうがいい」

 本気で心配しているかのような声だ。前と同じく、ここには他に誰もいない。演じる必要はないはずだ。
 学校では話しかけてくるなと言ったのも久我のほうなのに。

「聞いてんの?」
「……ごめ……聞いてる」
「だるい? 熱は測った?」
「だ、だるくない……熱はない……測ってないけど、たぶん」
「でも体調が悪いように見えるんだけど」
「なん……」

 何でそんなことを……義兄弟だから、同じ屋根の下で寝るから、自分に移って欲しくないからだろうか。

「保健室行ける?」
「……いや、うん、大丈夫。その、もし風邪とかひいたら、マンションに帰るから」

 こう言えば安心するだろう。そう考えたことを久我の顔を見ないように早口で言って、いまだ片付けていない本を持ったまま、カウンターのほうへ逃げ出した。
 校内では他人のふりをするべきで、義兄弟であることを悟られないようにしなければならないはずだ。
 久我のほうからわざわざ話しかけてきた目的は、体調管理くらいしっかりしておけと忠告するためだったのだろう。
 高三という大事な時期に、体調を崩すなんてと呆れられた。しかも、義家族ができて同居し始めた途端にだ。よほどのバカだと思われただろう。
 恥ずかしくてたまらない。走ったわけでもないのに、呼吸がしづらい。
 カウンターへ戻って、配架待ちの棚に戻したあと、必死に息を整えた。

「どうしたの?」

 カウンターで貸出業務をしていた鈴木さんが、いつの間にか僕の横に立っていた。

「あ、えっと……体調が悪くなって」
「えっ、大丈夫?」
「いや、立ち眩みを起こしただけ。ちょっと座っていればすぐに治るよ」

 誤魔化すために、カウンターにある椅子を引いて座った。鈴木さんも同様に、もともと自分の座っていたほうに腰を下ろした。

「勉強のし過ぎとか?」
「……ああ、そんなところ。睡眠不足かも」
「来月テストだもんね……あ、貸出ですか?」

 カウンターに誰かきた。制服から男子生徒っぽい。
 僕もサボってないでやるべきことをやらなきゃ。
 座ったばかりだけど立ち上がり、整理棚のほうへ向かう。戻したけど、もう久我はいないだろうから、途中だった分を片付けてこよう。

「櫻井くん」

 考えながら本を再び手に持ったとき、その久我の声がした。
 振り返ると、カウンターの向こうに久我の姿があった。

「……はい」
「体調がわるいなら、保健室に行ったほうがいい。午後の体育を見学するなら早めに浅倉(あさくら)先生に伝えたほうがいい」
「え……」
「もし助けが必要なら声かけて。……ああ、ありがとう」

 久我は、鈴木さんから本を受け取って、図書室を出ていった。

「かっこいいうえに優しいだなんて、あれじゃ惚れちゃうのも納得よね」
「……鈴木さん、久我くんのファン……いや、好きなの?」
「好きっていうか、アイドルじゃん? ファンクラブには入ってなくても目の保養にはなる、みたいな」

 目の保養、それは僕も同じだ。
 僕だけじゃなく、久我は誰の目も癒している。存在しているだけで人の目を惹き、うっとりとさせる。関われば親切にしてくれて、頼りになる彼には、誰もが好意を抱かずにいられない。
 人たらしというのではなく、やはり王子様だ。アイドルというより、国民から敬われ愛される王子。
 そんな久我を目で追うだけに留まらず、あられもない姿を何度も思い返しているなんて、あまりにも気持ちが悪い。心底自分が嫌になってきた。
 
 僕は結局保健室へは行かず、体育の授業にも出ることにした。
 熱っぽいし動悸が激しくなったりもするから、もしかしたら風邪の兆候かもしれないけれど、まだ体調不良というほどでもない。というか、仮病で見学する度胸がそもそもなかった。久我が不快に感じたとしても、もう話す機会はないわけだし、マンションへ帰ってしまえば咎められないだろう。

「久我! パス」
「……ナイス!」
 
 授業はバスケだった。
 部のエースである久我はさすがの巧さで、以前であれば瞼をシャッター代わりに何百枚と彼の姿を焼き付けていたところなのに、二度とそんなことはできない。

「かっこいい!」
「久我くん頑張って!」
「生徒会長ー!」

 歓声を耳にするたび目で探したくなる。しかし今の僕は、体育座りで突っ伏して視界をシャットアウトすることしかできなかった。

「圧勝だな」
「久我一人で五人分だよあれ。不公平だ」
「それは言い過ぎ」

 浅倉先生のホイッスルの音が響き、次の試合に出る生徒の名が告げられた。僕はまだ見学らしい。結局最初の基礎練習程度しか身体を動かしていない。運動音痴というほどでもないはずだけど、周りのレベルが高すぎるからお呼びでないのである。

「……なんで出席してんだよ」

 体育館の隅っこで一人、突っ伏していたその頭上に声が聞こえてきた。
 顔をあげるまでもなく、その声でわかる。誰かはわかっても、なぜ声をかけてきたのかはわからない。ここは人目につく場所であり、話しかけるなと言ってきた張本人なのに。

「そこまで体調悪くなかったから……」

 見上げて目を合わせた久我は、当然というべきか、苛立ちを表に出していた。わざわざ咎めに来るとは、そこまでするはずがないとは油断だったようだ。

「悪化したらどうすんだ。おまえのレベルだと一日休むだけでも授業についていけなくなるだろ」
「え……あ、うん」

 おっしゃるとおりなのだが、なぜ僕の成績を把握しているのだろう。生徒会長って空気レベルの生徒の分も心配しなければならないのだろうか。

「喉は?」
「えっ?」
「痛い?」
「い……たくない」
「鼻は?」
「鼻? 鼻水が出るかって? ……出ないよ」
「じゃあ吐き気とか腹痛は?」

 まるで内科医のごとくに病状を問いただされている。ここまで責められるくらいなら、おとなしく見学しておけばよかった。

「雅利」

 久我のところへ盛山がやってきた。僕に訝しげな目を向けてから久我の腕を掴み、「今日の放課後なんだけど」と言いづらそうに声をかけて、その手を引っ張った。
 久我はそれに対してごく自然に「なに?」と答えて、促されるまま、男子生徒たちが固まっているほうへと踵を返した。

「あれ、誰だっけ?」

 聞こえてくる盛山の声は、僕の存在などおかまいなしのごとく大きい。名前すら知られていなかったとは、生徒会長と副生徒会長の義務にはかなりの隔たりがあるようだ。
 
「櫻井だよ」
「さくらい? そんなのいたっけ?」
「……あー、ちょっとごめん」

 去っていく背中を見送っていたはずが、くるりと久我がこちらへ振り返った。

「えっ? 雅功……」

 そして、またも僕のほうへとやってくる。なんでそんな目立つ行動を取るんだ? さっきよりも多くの人の目に留まっている。

「もし病院に行く必要があるんだったら、いつものあの車使っていいから……運転手に言っておくし」

 ぶすっとした顔で目も合わせずに久我は言った。このあたりには誰もいない。身体は僕のほうを向いているから僕に対して言ったのだと思う。
 しかし、内容が信じられず、唖然として返答できなかった。
 久我は数秒ほど立っていたが、何も言わずに振り返り、友人たちのほうへ戻っていった。
 ひそひそと、何かをささやく声がこだましている。
 あれ誰? 櫻井だろ? なんで久我が。生徒会長だからだろ。
 そう、誰にでも親切で優しい生徒会長は、空気の僕のことも気に掛けるようになった。
 そんな噂が駆け巡り、もしかしたら久我の評判が高まるかもしれない。
 それならいいんだけど、なぜ急にとまで疑われたらどうするつもりなのだろう。

 放課を告げるチャイムが鳴った瞬間に急いで学校を出た。
 のこのこと久我邸へは帰れないから、マンションのほうへ帰ることにした。
 帰路の途中でコンビニに寄り、夕食さえまかなえば、必要なものがそろっているそこで不自由はない。
 むしろ気が楽になって、のびのびと過ごせるはずだ。
 
 なんて目論見は、到着して辛くも崩れてしまった。
 マンションへ入って室内灯のスイッチを押したらつかず、首をひねりながらブレーカーを確認し、切られていたそれを戻して再び電灯のスイッチを押してみたけど、無反応だった。
 まさか、と考えてキッチンの水道をひねってみると、なにも出てこない。
 なんと、まだ越して三日だというのに、既に母は電気と水道の契約を切ってしまっていたらしい。

 久我はすぐに離婚することになると決めつけていたようだけど、この手際のよさからはいつにない真剣さが窺える。もしかしたらその予測は外れるかもしれない。
 となれば、こんなふうに戦々恐々とする日に、終わりが見えないということになる。

 離婚して義兄弟ではなくなったとしても、以前と同じには戻れない、それは覚悟していた。
 だとしても、関わることはなくなる。
 久我を観察できなくなったのは、いや久我に対して奇妙な感情を抱き始めているのは、義兄弟となって関わり始めてしまったせいだ。
 喋ったり、近づいたり、触れたりしたからであって、離婚してしまえば同じ家に帰る必要も、会話をすることもなくなる。
 それが頼みの綱だった。耐えていればいずれ終わりが来るのだから、多少の辛抱だと思っていた。
 そのはずが、である。
 いったいいつまでこの状態が続くというのだろう。