見たことのなかった久我、そして幻想の中だけにいた久我を目の当たりにしたせいで、居ても立ってもいられなくなってきた。
 八神さんのところへ行ってWi-Fiのパスワードを聞いて、とりあえずの環境をつくることにした。液晶ペンタブレットはないからパソコンでの作業はできないけど、タブレットならある。
 苛立つ久我、諦念の久我、呆れた久我、苦笑した久我。
 ペンを走らせるそばから、むくむくと感動が蘇る。この久我は妄想じゃない。実際に見た久我だ。ばっちり目に焼き付けた久我は、想像の何倍も魅力的だった。
 誰に見せるわけでもないけれど、この漫画はかれこれ二年ほど描き続けている。久我を見たからなのか、頭に浮かんだキャラが久我のビジュアルにぴったりだったのか、どちらが先かはもう定かではない。
 一枚絵を描いてストーリーをイメージして、コマに落としていく。
 描きたいものが多すぎて追いつかない。あれもこれもとしたためて、風呂も借りず夕食に顔を出す以外は夢中で描き続けた。

 翌朝起きると十時を回っていた。朝食をすっぽかしてしまったらしく、ドアの下に置き手紙なんて古風なメッセージがあった。
 おそらく八神さんであろう、達筆な文字で『十時まではご用意しております』と書かれていた。
 トイレに行きつつ謝罪をしにキッチンへ下りると、当の八神さんがいて、片付けるところでした、と言いながら温め直してくれた。
 
「旦那様もお坊ちゃまもお出になられていらっしゃいませんので、このままお昼用の食事も追加いたしますか?」

 出してもらったのは焼き直したのであろう、サクサクのトーストとスクランブルエッグ、グリーンサラダとフルーツというホテルの朝食のような献立だった。確かに、数時間後に昼食をとるならこのままいただいたほうがいいかもしれない。家主がいないのであれば、と答えると十分程度でご用意します、と返してきた八神さんはキッチンへと去っていった。

 義父や久我だけでなく母も不在らしく、日曜の今日、この家にいるのは僕だけらしい。
 屋敷は五十人でも住めそうなほど広いのに、家族は二人。僕たちが来て四人になっても、部屋は使い切れないほどあるだろう。
 和室もたくさんあるようだが、リビングやダイニングなど、頻繁に利用するところ、というか僕が入室した部屋はすべて洋風のつくりだった。
 お金もちばかりの住む閑静な住宅街で、敷地の広いこの家にいると、雑踏なんかはまったく聞こえてこない。
 静かで、自分の呼吸音すら耳に響いてくる。
 
 あるときの義父は、在宅中常にテレビをつける主義だったらしく、四六時中響くそれでノイローゼになりかけたことがあった。始めたてのギターをかき鳴らす彼氏のときは、家に帰るのが苦痛だった。
 新しく家族ができるというのは、環境ががらりと変わって、慣れるまで時間がかかってしまう。
 ただ、同じ賑やかさでも三歳の義弟ができたときは違った。二ヶ月だけで母親のほうへ引き取られてしまって、一緒にいられた期間は短かったけど、絶え間なく続く弟のお喋りのほうは、うるさいなんて思わなかった。他には、と色々思い出してみても、こんなに静かな家庭は今までになかった、と気がついた。
 ありがたいようで、少しもの寂しい。うるさくても嫌で、静かでも不安だなんて、これまで自覚していなかったけど、僕は結構面倒なタイプのようだ。

 八神さんが用意してくれた昼食は、ハンバーググラタンだった。寝起きだけど昼に近づいていたからか、胃袋のほうは歓迎している様子で、朝食を食べたというのに見た途端腹がぐうと鳴った。
 さすがと言うべきか、レストランレベルのそれは抜群に美味しい。
 あっという間に平らげたあと、コーヒーをポットに入れてもらって自室へと戻った。
 昨夜何時間も集中できたことで、簡易的でもだいぶこの環境にも慣れてきた。マンションへ戻って色々と取りに行きたいところだけど、僕はインドア派、悪く言えば引きこもりなので、できることなら外に出たくない。
 マンションへは明日下校時に寄ろうと決めて、さっそく昨夜の続きに取りかかった。
 そしてぶっ通しで描いていたら夢中になり、どれほどの時間が経っているかも定かではなくなってきたころ、ドアの開く音がした。
 突然の物音に、まさかまた久我が?と身体を震わせた直後、脱力を誘発する声が聞こえてきた。

「夕食つくったの。少し早いけどみんなで食べましょう」
「つくったって、母さんが?」
「そうよ。雅くんとの距離を縮めるには胃袋を掴もうと思って」

 時計を見ると六時前だった。意識した途端に空腹を感じ始め、いつの間にやらコーヒーも飲み干しており、喉もからからだった。
 男子高校生を舌で釣ろうだなんて、安直な考えにもほどがある。相手はシェフの味で育ってきた令息だぞ、なんてお節介にもハラハラしていたが、そんな僕の懸念をよそに、久我は美味しそうに食べていた。
 僕のセンサー上では本気のように見えただけで本心はわからない。しかし、前菜として出されたポタージュスープは品よくしつつもがっつく勢いで味わっていたし、次に出されたサラダは二度もおかわりしていた。きゅうりとレタスを千切りにして、茹でたささみを割いたものである。僕が小学生のときに好きだったそれは、まだ成功する前の母が安価で美味だとして頻繁につくってくれていたもので、貧乏くさいと言える代物だ。こんなもの、義母に対する配慮という以外に食べられるものじゃないだろうに。
 そして次に出されたのは、これまた母の得意料理である、しめじや舞茸の入ったクリームパスタだった。
 美味しいけど、二週に一度は味わっているせいか、家庭料理という印象が強く、こんなものを久我家の二人に出していいものかと心配になる。
 そしてやはりというか、とうとうというべきか、義父のほうはいまだ嬉しげに食べているが、久我はそれまでの勢いが急に減速し、もそもそと口に運ぶだけになってしまった。
 スープやサラダはまだしも、パスタはもろに料理の腕が出るものだ。演技も限界にきたのだろう。

「ワインは……飲みきってしまったようだな」
「あら、もう?」
「君の食事が美味しくて、思った以上に進んでしまったみたいだ。次はどうしようか」
「そういえば、ワインセラーがあるんでしょう?」
「ああ。見てみるかい?」
「ええ。是非」
 
 母と義父は二人で選ぼうか、などと話しながらワインセラーへ行くからと席を立った。微笑ましくも仲良く向かう二人を見ながら、久我のほうへ視線を滑らせ、パスタの皿を目に留める。パスタの残量のわりにきのこが多い。僕のや父母のと見比べても異様に多く、しかも避けられているかのように不自然な位置に固まっていた。
 それを見て、ふと思いつく。

「もしかして……きのこが嫌だった?」

 ぼそりと呟いたそれは、当然のことながら久我の耳に届いていた。

「……細かく刻んであれば食える」

 不貞腐れたように返ってきた声を聞いて、思わず頬が緩んでしまう。

「じゃあ、僕が食べてあげるよ。避けたら食べられる? 味自体が無理?」

 母もピーマンが嫌いで、ナポリタンや麻婆茄子なんかに入っていると器用に取り除いて僕の皿に移してくる。
 その要領で、端に寄せられていたきのこをフォークですくいあげて自分の皿に入れた。
 固まっていた分をひょいひょいと移し終えたあと、まだパスタに絡んでるのはどうしよう、と思って手を止めて、はっと気がついた。
 相手は母じゃなくて久我だ。
 義兄弟とはいえ、一昨日までまともに喋ったことのなかった相手だというのに、勝手どころか衛生的にも不愉快な真似をしてしまった。
 おそるおそる久我を窺うと、訝しげに眉根を寄せ、口元をへの字にして僕のフォークを見つめていた。めっちゃキレてるじゃん。

「勝手にごめん」

 戻そうにも一度手をつけたものを戻すのもどうかと迷っていたとき、母たちが戻ってきてしまった。
 いつも僕にやっている張本人の目に留まれば、何をしたのか一目瞭然だ。勝手にやってしまったのは僕だけど、母は久我のために振る舞ったのだから、現状を知られたら気まずい思いをしかねない。
 慌てて運び入れたきのこを隠すしかできなかった。

「たくさん食べてもらえて嬉しいわ」
「とても美味しかったです。どれも好みの味でしたし、それに母の味というものは初めてでしたので、感激しました」
「よかったわ。そう、清利さんから伺っていたから、腕に覚えのある新たな母の味はいかがかしらと考えたの」
「……とても、嬉しいです。ありがとうございました」
「こちらこそ、喜んでもらえて嬉しいわ。今度はまた別の得意料理を振る舞わせていただくわ」
「楽しみしています」

 久我は何事もなかったかのように母と相対し、皿に盛られていた残りのパスタはすべて平らげていた。
 僕に対して相当頭にきていただろうに、そういった態度はいっさい表に出していなかった。
 なんてことをしてしまったのだろう。
 僕は、久我の視界に入っている自覚がいまだにないらしい。隣で食事をして、彼の皿にフォークを突っ込んでも、認識されないままに遠目から観察していたときと同じ気持ちでいたようだ。
 バカ過ぎる。恥ずかしい以上に申し訳ない。
 現実より虚構にばかり目を向けているからこんなことになる。
 大いに反省した僕は、なるべく久我を見ないようにという不可能かつ未だにできてもいない、何度目かの決意をする以外に、自分を落ち着かせることができなかった。