昼食を終えたあと、八神さんから案内を受けて自室にとあてがわれた部屋へ向かうことになった。
八畳ほどの広さがあるその部屋には、すでにベッドやデスクが設置されていた。センスから見るにおそらく母が選んだものだろう。
小学生だったときに淡いグリーンが好きだと言って以来、ファブリックを買うときはいつもそれだった。ブランドショップを成功させるくらいだから母のセンスは確かにいいのだろう。ただ、シャビーシックとかいうテイストが男子高校生の部屋に似つかわしいとは思えない。
クローゼットを開けてみると、新品の制服とスーツがかかっていた。それと部屋着らしきブランド物のスゥエットや、チェストを開ければ下着もある。マンションへ着替えを取りに行く手間は無用とばかりに取り揃えてあるようだった。
となると、今夜はここに泊まれということなのだろうか。パソコンどころかタブレットも持ってきていないというのに、それらなしで一晩過ごすなんて無理だ、などと困惑していたところ、ノックもなくドアが開いた。
「ここは兄さんの部屋だったんだ」
部屋を見渡しながら、久我が入ってきた。
振る舞いとしては無礼なはずなのに、まだ自分の部屋とは思えていない僕の目にそれは、あまりに自然なことに思えて、むしろ僕のほうが出ていくべきかと頭によぎってしまった。
「お兄さんって……」
しかして、僕が出ていく必要はない。遠慮することもないはすだ。母たちは確かに婚姻届を出したわけだし、その息子である僕も久我となったのだから。
「去年結婚して家を持ったから使ってもいいと考えたんだろう。まだ家具は残してあったのに、全部処分してしまったんだろうか」
久我は、数十分前とは別人のようだった。ただ、見覚えはある。図書室で初めて目を合わせたときと似た表情──忌々しげに歪めた顔で僕を睨んでいる。
「これ、おまえのセンス?」
「えっ? ……まさか、母さんだよ。僕は、ここに初めて入ったし」
「いや、元の家から運んできたものかと思ったんだ」
「元の家からはまだ何も……」
「何も? てことは、そっちに全部残ってるんだ?」
久我はにやりと笑った。不敵で傲慢そうな、久我の顔に一度として浮かんでいるのを見たことのない笑みだ。
「……残ってる」
「それで? でも今日からここに移ってくるわけ?」
「……どうだろう。わかんない……」
「おまえ、いつ知ったの?」
「えっ?」
「親同士が結婚すること」
「あ、えっと……一昨日の夜」
僕が答えると、久我は片眉をあげてふんっと鼻で笑った。そして出ていくかと思いきや、デスクのほうへ向かって、まだ誰も座っていないであろう新品のデスクチェアに腰を下ろした。
「一日で言いふらせたか?」
「言いふらすって……誰にも話してない……よ。笠井先生にも名字は元のままでってお願いしたし」
「へえ。久我になったなんて自慢して回るかと思いきや、やっぱ親の再婚とか知られたくないんだ?」
「さすがに五回目ともなれば……」
「五回……それ、おまえの母親が再婚した回数?」
「そう。もしかしたらもっと多いかもしれない……けど、覚えてない」
「……俺ん家よりひどい」
「えっ? 雅くんも……」
言いかけて慌てて口をつぐんだ。久我の表情が睨み殺すぞとばかりに歪んで、恐れをなしてしまった。
「ごめん……久我くん」
言い直すと、ふんっと鼻を鳴らした久我の目から睨みが消えた。食事の席で母が雅くんと呼ぶようになり、兄弟なんだからという流れで僕も呼ぶよう言われたんだけど、それは表向きだけにすべきっぽい。
「俺んちは三回目だ。うちの場合は名字が変わらないから周りに気づかれてないけどな」
「……え……そうなんだ」
離婚や再婚なんて珍しくはない世の中だけど、久我のことならあらゆることが噂になっている。それなのにまったく聞いたことがなかった。
そういえば世界的企業の会長の娘とやらは何番目の母なのだろう。
「でも結局は母さんと元の鞘に戻るはずだ。前回もそうだった」
再婚しても元の妻に戻る久我の父。
彼と再婚したのは、何度となく再婚を繰り返してきた僕の母。その事実だけでも、二人の結婚生活は長くないだろうと察せられる。
「だから、その元の家とやらは引き払わないほうがいい」
「……ああ、うん。売るつもりはないみたいだから」
「じゃあ問題ないな。すぐに櫻井に戻るんだから、戸籍上は久我でも櫻井で押し通しておけ。俺と義兄弟であることも明言する必要はない。……わかったな」
言いながら立ち上がり、久我はドアに手をかけて「だから、学校でも話しかけてこないように」と捨て台詞を吐いて、部屋から出ていった。
言われるまでもないことだ。と口から出かかったけど、言い返す度胸なんてない。
しばらくして、引っ越し屋のトラックが着いたからと八神さんから言われて、僕の部屋に荷物が運び込まれてきた。
大半は母の部屋のほうへ向かったようだが、僕の部屋に届いた段ボールには、私服やバッグ類、ノートのほうのパソコンや勉強道具なんかが詰め込まれていた。
漫画はないし、デスクトップパソコンも、ゲーム機すらない。勉学に励む学生ならこれで十分だろうといった感じだった。
こうなると、やはりこのままこの家に泊まれという母の意志が感じられる。
とはいえ我が家となるならここが自室となるわけで、とりあえずデスクにノートパソコンを設置してみた。メインはデスクトップだから、これはいわばサブ機である。Wi-Fiのパスワードはわからないから、繋げられない。
久我に聞けば……と一瞬頭に浮かぶも、聞くなら八神さんがいいと考え直す。
食事の席で見せてくれた態度は、親の前で演じて見せていたものだったらしい。僕に嫌悪感を抱いていなかったわけではなく、押し隠していただけだったようだ。
図書室で見せたあれが本音で、さっきのが素の久我だったのだろう。
憎々しげにすがめられた目、忌々しげに歪められた口。美貌が台無し、だなんて感じるどころか、僕の目にはそんな久我もまた美しく映っていた。
僕の考える久我は、僕に愛想よくする人間じゃなかった。
二年間見つめ続けていた僕は、久我のことを勝手に解釈して、僕なりの久我像をつくりあげていた。
学校での彼は、まるで虚構の人間のように見え、常に絶やさない笑みは、そういった仮面を被っているかのように思えていた。
誰に対しても優しくおおらかで、褒められても驕らず謙遜し、品行方正の手本のような生徒。
しかし、僕の目には孤独があるように見えていた。
人より優れていればいるほど、敵う相手のいない寂しさが、彼を孤独にしているのではないかなどと考えて、勝手に妄想し、そこから生まれた久我の幻想を、漫画の主人公にしていたのだ。
見透かしていたわけでも、見抜こうとしたつもりもない。
ただ、勝手に解釈し、好きに妄想していただけだ。
義兄弟になってから見た久我は、その僕の解釈と奇妙な一致を見せていた。それがなんとも不思議で、やめるべき観察を続けたくなってしまった。
もっと色んな久我を見たい。仮面の下の彼を覗き見たい。
久我に認識されてしまった今や、これまでと同じように見つめてはいけない。
それなのに、今まで以上に彼を知りたくなってしまった。
義兄弟となった初日は、抑えるべき想いが暴走しかねない、不穏な懸念を抱く幕開けとなってしまった。
八畳ほどの広さがあるその部屋には、すでにベッドやデスクが設置されていた。センスから見るにおそらく母が選んだものだろう。
小学生だったときに淡いグリーンが好きだと言って以来、ファブリックを買うときはいつもそれだった。ブランドショップを成功させるくらいだから母のセンスは確かにいいのだろう。ただ、シャビーシックとかいうテイストが男子高校生の部屋に似つかわしいとは思えない。
クローゼットを開けてみると、新品の制服とスーツがかかっていた。それと部屋着らしきブランド物のスゥエットや、チェストを開ければ下着もある。マンションへ着替えを取りに行く手間は無用とばかりに取り揃えてあるようだった。
となると、今夜はここに泊まれということなのだろうか。パソコンどころかタブレットも持ってきていないというのに、それらなしで一晩過ごすなんて無理だ、などと困惑していたところ、ノックもなくドアが開いた。
「ここは兄さんの部屋だったんだ」
部屋を見渡しながら、久我が入ってきた。
振る舞いとしては無礼なはずなのに、まだ自分の部屋とは思えていない僕の目にそれは、あまりに自然なことに思えて、むしろ僕のほうが出ていくべきかと頭によぎってしまった。
「お兄さんって……」
しかして、僕が出ていく必要はない。遠慮することもないはすだ。母たちは確かに婚姻届を出したわけだし、その息子である僕も久我となったのだから。
「去年結婚して家を持ったから使ってもいいと考えたんだろう。まだ家具は残してあったのに、全部処分してしまったんだろうか」
久我は、数十分前とは別人のようだった。ただ、見覚えはある。図書室で初めて目を合わせたときと似た表情──忌々しげに歪めた顔で僕を睨んでいる。
「これ、おまえのセンス?」
「えっ? ……まさか、母さんだよ。僕は、ここに初めて入ったし」
「いや、元の家から運んできたものかと思ったんだ」
「元の家からはまだ何も……」
「何も? てことは、そっちに全部残ってるんだ?」
久我はにやりと笑った。不敵で傲慢そうな、久我の顔に一度として浮かんでいるのを見たことのない笑みだ。
「……残ってる」
「それで? でも今日からここに移ってくるわけ?」
「……どうだろう。わかんない……」
「おまえ、いつ知ったの?」
「えっ?」
「親同士が結婚すること」
「あ、えっと……一昨日の夜」
僕が答えると、久我は片眉をあげてふんっと鼻で笑った。そして出ていくかと思いきや、デスクのほうへ向かって、まだ誰も座っていないであろう新品のデスクチェアに腰を下ろした。
「一日で言いふらせたか?」
「言いふらすって……誰にも話してない……よ。笠井先生にも名字は元のままでってお願いしたし」
「へえ。久我になったなんて自慢して回るかと思いきや、やっぱ親の再婚とか知られたくないんだ?」
「さすがに五回目ともなれば……」
「五回……それ、おまえの母親が再婚した回数?」
「そう。もしかしたらもっと多いかもしれない……けど、覚えてない」
「……俺ん家よりひどい」
「えっ? 雅くんも……」
言いかけて慌てて口をつぐんだ。久我の表情が睨み殺すぞとばかりに歪んで、恐れをなしてしまった。
「ごめん……久我くん」
言い直すと、ふんっと鼻を鳴らした久我の目から睨みが消えた。食事の席で母が雅くんと呼ぶようになり、兄弟なんだからという流れで僕も呼ぶよう言われたんだけど、それは表向きだけにすべきっぽい。
「俺んちは三回目だ。うちの場合は名字が変わらないから周りに気づかれてないけどな」
「……え……そうなんだ」
離婚や再婚なんて珍しくはない世の中だけど、久我のことならあらゆることが噂になっている。それなのにまったく聞いたことがなかった。
そういえば世界的企業の会長の娘とやらは何番目の母なのだろう。
「でも結局は母さんと元の鞘に戻るはずだ。前回もそうだった」
再婚しても元の妻に戻る久我の父。
彼と再婚したのは、何度となく再婚を繰り返してきた僕の母。その事実だけでも、二人の結婚生活は長くないだろうと察せられる。
「だから、その元の家とやらは引き払わないほうがいい」
「……ああ、うん。売るつもりはないみたいだから」
「じゃあ問題ないな。すぐに櫻井に戻るんだから、戸籍上は久我でも櫻井で押し通しておけ。俺と義兄弟であることも明言する必要はない。……わかったな」
言いながら立ち上がり、久我はドアに手をかけて「だから、学校でも話しかけてこないように」と捨て台詞を吐いて、部屋から出ていった。
言われるまでもないことだ。と口から出かかったけど、言い返す度胸なんてない。
しばらくして、引っ越し屋のトラックが着いたからと八神さんから言われて、僕の部屋に荷物が運び込まれてきた。
大半は母の部屋のほうへ向かったようだが、僕の部屋に届いた段ボールには、私服やバッグ類、ノートのほうのパソコンや勉強道具なんかが詰め込まれていた。
漫画はないし、デスクトップパソコンも、ゲーム機すらない。勉学に励む学生ならこれで十分だろうといった感じだった。
こうなると、やはりこのままこの家に泊まれという母の意志が感じられる。
とはいえ我が家となるならここが自室となるわけで、とりあえずデスクにノートパソコンを設置してみた。メインはデスクトップだから、これはいわばサブ機である。Wi-Fiのパスワードはわからないから、繋げられない。
久我に聞けば……と一瞬頭に浮かぶも、聞くなら八神さんがいいと考え直す。
食事の席で見せてくれた態度は、親の前で演じて見せていたものだったらしい。僕に嫌悪感を抱いていなかったわけではなく、押し隠していただけだったようだ。
図書室で見せたあれが本音で、さっきのが素の久我だったのだろう。
憎々しげにすがめられた目、忌々しげに歪められた口。美貌が台無し、だなんて感じるどころか、僕の目にはそんな久我もまた美しく映っていた。
僕の考える久我は、僕に愛想よくする人間じゃなかった。
二年間見つめ続けていた僕は、久我のことを勝手に解釈して、僕なりの久我像をつくりあげていた。
学校での彼は、まるで虚構の人間のように見え、常に絶やさない笑みは、そういった仮面を被っているかのように思えていた。
誰に対しても優しくおおらかで、褒められても驕らず謙遜し、品行方正の手本のような生徒。
しかし、僕の目には孤独があるように見えていた。
人より優れていればいるほど、敵う相手のいない寂しさが、彼を孤独にしているのではないかなどと考えて、勝手に妄想し、そこから生まれた久我の幻想を、漫画の主人公にしていたのだ。
見透かしていたわけでも、見抜こうとしたつもりもない。
ただ、勝手に解釈し、好きに妄想していただけだ。
義兄弟になってから見た久我は、その僕の解釈と奇妙な一致を見せていた。それがなんとも不思議で、やめるべき観察を続けたくなってしまった。
もっと色んな久我を見たい。仮面の下の彼を覗き見たい。
久我に認識されてしまった今や、これまでと同じように見つめてはいけない。
それなのに、今まで以上に彼を知りたくなってしまった。
義兄弟となった初日は、抑えるべき想いが暴走しかねない、不穏な懸念を抱く幕開けとなってしまった。



