「優斗さまですか? お久しぶりですね」

 インターホンを鳴らして聞こえてきたのは、八神さんの声だった。どうぞお入りください、と言われた直後にかちりと音がして、開いた門を通って玄関へと向かった。
 
「よお」

 玄関を開けてくれたのは、八神さんではなく久我だった。
 マンションへ帰るようになってすぐに席替えがあり、僕は最前列に、久我は最後列へと離れたせいで、視界に入る機会すらなくなっていた。目を合わせるなんてゆうに二ヶ月ぶりのことだ。

「忘れ物をしたみたいで……」

 久しぶりの久我は、やはり見惚れてしまうほどかっこいい。顔が熱くなるのを自覚してしまう。
 惚れ惚れと観察したいくらいだが、僕を射抜くかのごとくに見据えられては、見るどころか逸らさざるを得ない。
 
「先週トラックが来て、おまえの荷物は全部運び出していったはずだけど?」
「そうなんだけど、足りないものがあって」
「……じゃあ、自分の目で確認してみれば?」

 久我はまるで僕を促すかのように玄関を上がり、立ち止まって振り返った。であればと「おじゃまします」とおずおず靴を脱ぐと、今度は部屋のほうへと歩き出した。いいものかと迷いつつ後を追う。

「……来週母さんが帰って来る」
「えっ……あ、そうなんだ」
「思ったよりも早かったな。一年は戻らないだろうと予想してたんだけど」
「……そう」
「これで母さんも諦めるだろう」
「諦める?」
「……父さんからの愛が重すぎて逃げ回ってんだよ。束縛っていうやつ。自分がいないときに母さんが何をしていたのか把握しなきゃ気が済まないみたいで、スマホチェックは当然って感じで、GPSとか、ひどいときは盗聴器までつけられていたらしい。息子のまえでも始終くっついているし、俺たちの目から見ても引くほどだから、母さんは相当参ってたんじゃないかな」
「……それはなかなか、だね」
「おまえの母さんのこと、結構好きだったんだけど……三カ月はさすがに早いよな」
「ありがとう……久我くんのお父さんも、いい人だったよ」
「おまえの母さんには悪いと思ってる。でも、最初から父さんの中には母さんがいるから、こればかりは仕方がないんだ」
「……うん」
「しかも幼馴染なんだぜ? 初恋で、いまだ冷めやらないってやつ。一途と言えば聞こえはいいけど、かれこれ四十年だから凄まじいよな。しかも追いかけ回した挙げ句に、当てつけなのか、不貞腐れたからなのか、他の女に目を向けたりして、でも結局はやり直すことになってさ。周りは大迷惑だよな」
「でも、お母さんのほうも戻って来るんだよね?」
「そう。母さんのほうも、なんだかんだ言いながら満更でもないんだと思う。だったら最初からおとなしくまとまってりゃいいのに」
「……凄いね」

 久我のほうからこんな話をしてくれるというのは、母さんに対する後ろめたさからなのだろうか。だとしても、久我が気遣う必要はない。親の恥部とも言える面なんて、わざわざ打ち明けなくてもいいことだ。
 この二ヶ月でだいぶ落ち着いてきたと思っていたけど、一瞬であの日にタイムスリップしてしまった。二ヶ月間なんてなかったみたいに、久我をまえにしたとき覚える感覚は変わっていない。

「何も残ってないと思うぞ」

 自室として使わせてもらっていた部屋についた。
 久我が開けてくれたそこを覗き込んでみたものの、確かに何もなくなっていた。カーテンがかかっているだけで、カーペットや家具もなく、部屋はがらんとしている。最初から何もなかったかのようだ。まるで知らない部屋。数カ月でも住んでいたなんて信じられない。

「……入ってもいい?」
「ああ。クローゼットでもなんでもお好きにどうぞ」
「ありがとう」

 お言葉に甘えて入室し、クローゼットを開けてみた。しかしやはりというか、そこにも何もない。きょろきょろと見渡してみるも、これ以上は床を引っ剥がすとかそういうレベルで、探せるようなところは他に見当たらなかった。

「……ないみたい」
「だろ? 何が見つからないんだ?」
「……それは……」
「大事なものなわけ?」
「大事っていうか、ノートパソコンだから」
「ああ、もしかしてあれ? 兄さんのと同じやつ?」

 久我の顔が、含みのあるにやりとした笑みに変わった。
 もしかして、久我が持ってる? 持っているのにそれを言わず、僕の反応を窺っているのだろうか。
 そう考えればしっくりくる、と言えるような表情だ。

「……久我くんが持っているなら、返して欲しい」
「なんで俺が持ってると思うわけ?」
「……持ってるんだろ?」
「じゃあ、見てみれば?」

 久我はにやにやとした笑みを貼り付けたまま、隣の部屋へと姿を消した。追いかけるとドアは開いていて、中から「自分の目で確かめろよ」と聞こえてきた。

「入っていいの?」
「入らなきゃ確かめられないだろ」
「……お邪魔します」

 久我の自室へ入るのは二回目だ。スーパーマンのぬいぐるみを見て、かわいい面もあると知った、そのときの記憶が蘇ってくる。
 あのときは、毎日部屋で喋ったり、マンションへ行ったり、本物の兄弟みたいに楽しい時間を過ごしていた。
 そのはずが、なぜ絵を描いていたのかと詰め寄られ、互いに避けるようになり、いつの間にやら義兄弟ではなくなってしまった。

「……その絵が一番好き」

 久我が好きだと言ったのは、この家に引っ越してきた日に描いた久我の絵だった。
 久我のデスクの真ん中に、僕のパソコンが置いてある。 そのモニターに映し出されていた。

「そんとき何を考えていたのかを思い出せる……」
「……何を考えていたの?」
「てことは、やっぱり俺なんだよな?」
「そうだよ……ていうか、やっぱり久我くんが持っていたんじゃないか」
「こんな絵を描いてくれてるのに、漫画のキャラにするためだって言い張るのかよ」

 また詰め寄ってくるつもりらしい。彼女ができて幸せいっぱいなんじゃないのか。
 僕のパソコンを自室に残しておくなんて、怒りをぶちまける機会を持っていたかのようだ。

「そうだってば。僕のだってわかってるなら引っ越しの業者に渡してくれたらよかったのに」
「俺に頼らず自分で持っていけよ」
「そ……だから取りに来たんだ。でも、だからって勝手に見ていいわけじゃない」
「おまえが嘘をつくからだ」
「嘘? 嘘なんてついてない」
「それ、嘘つきが言う台詞?」
「嘘つきって、嘘つきは久我くんだろ」
「俺は嘘をついてもすぐにバラすからセーフだ」
「な……」
「でもおまえは本音を言わないから、本物の嘘つきだ」
「なんだよそれ……」
「おまえは俺のことが好きなんだろ」

 言いながら、久我は僕のほうへ近づいてきた。