◇◇◇
雨が降りそうだ。だって、頭痛いし。
低気圧を感じ取って、身体が悲鳴を上げていた。最近はこんなことなかったから忘れていたが、俺は雨に弱い。
下駄箱にはむんっと鼻が曲がるような汗の酸っぱい匂いが充満していた。
夏の部活動は地獄だ。
早く下駄箱を抜けるために、自分の靴を引っ張り出して上履きを適当に押し込む。地面に溜まっていた砂の上に靴を落として足でちょいちょいと吐きやすいように直す。踵が踏まれた靴はボロボロで、リボン結びも左右で大きさが違う。
足を靴の中に突っ込んだが、今日はなかなか入らなくて悪戦苦闘していると後ろから「先輩」と名前を呼ばれる。振り返ればそこに、マスクを右耳に引っ掛けたままの冬城が俺のほうを見ていた。
「おー冬城、奇遇? 実は、これ二回目だったり……」
「何で」
そう言いながら向かってきた冬城は、また不機嫌そうに眉間にしわを寄せていた。
何に怒っているんだ? と俺は首をかしげたが、頭痛と共に昼ご飯終わりに入ったらメッセージのことを思い出した。そういえば、既読すらつけていなくて放置していたのだ。
「ごめん、ちょっとばたついてて、メッセージ確認できてなくて。で、何だった? 緊急のよう?」
「いえ…………」
「ああ、ごめんって。無視したんじゃなくて。ちょっと……クラスのやつに夏祭りいかね? って言われて」
俺がそういうと、冬城は顔をものすごい勢いで上げた。その拍子に、彼の耳にかかっていたマスクが地面に落ちる。
しかし、冬城はマスクにかまうことなく距離を詰めると「なんて返事したんですか?」と緊迫した顔で迫ってきた。近い、と言って押し返せるような状況ではなく、俺は「行くって言っちゃった」と答えると、冬城はあからさまに肩を落とした。
「そうですか。じゃあ、行けばいいじゃないですか」
「……もしかして、誘ってくれてた? その、メッセージ?」
尋ねてみるが、冬城は機嫌を損ねたのか答えてくれなかった。
頭痛もして冬城のめんどくさい部分が一段とめんどくさくなった。
誘ってくれてるなら、冬城と行きたい。でも、クラスメイトにもいくっていい顔をしてしまった。断ったら「何で?」って問い詰められるかもしれない。
いや、いいんだけど。けど、やっぱり断るのは怖い。
(冬城拗ねちゃったし……俺も……やだな)
俺が俯くと同時に、ぽつ、ぽつと降ってきた雨が数秒の間に激しさを増し土砂降りに変わる。ゲリラ豪雨だ、なんて運動場から叫ぶような声が聴こえる。
下駄箱に漂っていた汗の酸っぱさは一瞬にして、雨の生臭さに書き換えられていく。
「……俺、断ってくる。今からでもさ、冬城と……祭り」
「いいですって。それだと、先輩が薄情なやつになりますよ。それに、祭りで会うかもしれない……先輩?」
「あいつら、俺がいなくたっていいんだよ。俺がいたら楽しいってくらいで、別に、俺あいつらと友だちじゃないし」
口から洩れた言葉に、俺は我に返る。
今、言っちゃいけないことを言った気がしたからだ。
顔を上げるとまた心配そうに俺を見つめる冬城の顔がそこにあった。今の発言こそ薄情でクズだ。
俺は、慌てて言い直そうと考えたが、言葉がうまく出てこなかった。冬城のほうが早く俺を誘ってくれたのだろう。でも、俺はそのメッセージを忘れてて放置して。クラスメイトにはいい顔するために「行くかも」なんて言って。
俺はどっちつかずだし、いい顔したいだけの人間だ。
誰かに嫌われるのがすごく怖い。今も、冬城に「そんなことを思っている酷い人間」と思われたかもしれなくて、心臓が痛い。
冷汗が止まらなくて、雨に濡れていないのに手のひらはべたべたする。呼吸が一定にできなくて、口の中から唾液が引いてく。乾いたのどは張り付いて音が出ない。
「あ、いや、俺……」
「先輩、大丈夫ですよ。深呼吸してください」
トントン、と俺の背中を優しく撫でる冬城。心配かけたくないのに、俺は彼の優しさに身を委ねた。
運動場から帰ってきたやつらが慌てて靴を脱ぎ、上靴に変えて走っていく。「今日はピロティで体幹トレーニングだって」と、体育系の部活の女子が声をかけ、みんなぞろぞろと戻っていく。
地面に落ちた冬城の黒いマスクはぶつかるような速度で走っていった生徒に巻き上げられ、踏みつけられ、一瞬にして灰色になってしまう。
「俺、先輩のこと全部知ってるわけじゃないんで。交友関係とか、家族関係とか、恋人がいたことも。でも、先輩が優しくて、寂しがり屋で、家に帰るのが怖いって思ってるのはちゃんと知っているんです」
「冬……城?」
「俺も一緒ですから。俺も家に帰りたくないし、転勤ばっかりしてた家庭で育ったから、人との距離感分からないし、友だちをつくろうってしてこなかったから。先輩の、頑張ってクラスに溶け込もうって頑張ってるのちょっと尊敬します。みんなにいい顔できる先輩のことちょっとうらやましいんです。俺、愛想笑いも下手だから」
そういった冬城は、俺の背中を撫でていた手でぎゅっと俺を抱きしめた。トクン、トクンと冬城の心臓の音が聞こえてくる。
何でそんなことわかるんだよ。
俺が、寂しがり屋で、家に帰るの怖いとか。愛想笑い上手いとか。
言ってないじゃん、と言いたかったが喉が狭くなって言葉が出ない。でも、冬城が言った言葉はすべて彼の経験したことで、彼が思っていることなのだ。
俺のことを、決して薄情な人間だとは思っていない。ただそれだけは伝わってきた。
雨が降りそうだ。だって、頭痛いし。
低気圧を感じ取って、身体が悲鳴を上げていた。最近はこんなことなかったから忘れていたが、俺は雨に弱い。
下駄箱にはむんっと鼻が曲がるような汗の酸っぱい匂いが充満していた。
夏の部活動は地獄だ。
早く下駄箱を抜けるために、自分の靴を引っ張り出して上履きを適当に押し込む。地面に溜まっていた砂の上に靴を落として足でちょいちょいと吐きやすいように直す。踵が踏まれた靴はボロボロで、リボン結びも左右で大きさが違う。
足を靴の中に突っ込んだが、今日はなかなか入らなくて悪戦苦闘していると後ろから「先輩」と名前を呼ばれる。振り返ればそこに、マスクを右耳に引っ掛けたままの冬城が俺のほうを見ていた。
「おー冬城、奇遇? 実は、これ二回目だったり……」
「何で」
そう言いながら向かってきた冬城は、また不機嫌そうに眉間にしわを寄せていた。
何に怒っているんだ? と俺は首をかしげたが、頭痛と共に昼ご飯終わりに入ったらメッセージのことを思い出した。そういえば、既読すらつけていなくて放置していたのだ。
「ごめん、ちょっとばたついてて、メッセージ確認できてなくて。で、何だった? 緊急のよう?」
「いえ…………」
「ああ、ごめんって。無視したんじゃなくて。ちょっと……クラスのやつに夏祭りいかね? って言われて」
俺がそういうと、冬城は顔をものすごい勢いで上げた。その拍子に、彼の耳にかかっていたマスクが地面に落ちる。
しかし、冬城はマスクにかまうことなく距離を詰めると「なんて返事したんですか?」と緊迫した顔で迫ってきた。近い、と言って押し返せるような状況ではなく、俺は「行くって言っちゃった」と答えると、冬城はあからさまに肩を落とした。
「そうですか。じゃあ、行けばいいじゃないですか」
「……もしかして、誘ってくれてた? その、メッセージ?」
尋ねてみるが、冬城は機嫌を損ねたのか答えてくれなかった。
頭痛もして冬城のめんどくさい部分が一段とめんどくさくなった。
誘ってくれてるなら、冬城と行きたい。でも、クラスメイトにもいくっていい顔をしてしまった。断ったら「何で?」って問い詰められるかもしれない。
いや、いいんだけど。けど、やっぱり断るのは怖い。
(冬城拗ねちゃったし……俺も……やだな)
俺が俯くと同時に、ぽつ、ぽつと降ってきた雨が数秒の間に激しさを増し土砂降りに変わる。ゲリラ豪雨だ、なんて運動場から叫ぶような声が聴こえる。
下駄箱に漂っていた汗の酸っぱさは一瞬にして、雨の生臭さに書き換えられていく。
「……俺、断ってくる。今からでもさ、冬城と……祭り」
「いいですって。それだと、先輩が薄情なやつになりますよ。それに、祭りで会うかもしれない……先輩?」
「あいつら、俺がいなくたっていいんだよ。俺がいたら楽しいってくらいで、別に、俺あいつらと友だちじゃないし」
口から洩れた言葉に、俺は我に返る。
今、言っちゃいけないことを言った気がしたからだ。
顔を上げるとまた心配そうに俺を見つめる冬城の顔がそこにあった。今の発言こそ薄情でクズだ。
俺は、慌てて言い直そうと考えたが、言葉がうまく出てこなかった。冬城のほうが早く俺を誘ってくれたのだろう。でも、俺はそのメッセージを忘れてて放置して。クラスメイトにはいい顔するために「行くかも」なんて言って。
俺はどっちつかずだし、いい顔したいだけの人間だ。
誰かに嫌われるのがすごく怖い。今も、冬城に「そんなことを思っている酷い人間」と思われたかもしれなくて、心臓が痛い。
冷汗が止まらなくて、雨に濡れていないのに手のひらはべたべたする。呼吸が一定にできなくて、口の中から唾液が引いてく。乾いたのどは張り付いて音が出ない。
「あ、いや、俺……」
「先輩、大丈夫ですよ。深呼吸してください」
トントン、と俺の背中を優しく撫でる冬城。心配かけたくないのに、俺は彼の優しさに身を委ねた。
運動場から帰ってきたやつらが慌てて靴を脱ぎ、上靴に変えて走っていく。「今日はピロティで体幹トレーニングだって」と、体育系の部活の女子が声をかけ、みんなぞろぞろと戻っていく。
地面に落ちた冬城の黒いマスクはぶつかるような速度で走っていった生徒に巻き上げられ、踏みつけられ、一瞬にして灰色になってしまう。
「俺、先輩のこと全部知ってるわけじゃないんで。交友関係とか、家族関係とか、恋人がいたことも。でも、先輩が優しくて、寂しがり屋で、家に帰るのが怖いって思ってるのはちゃんと知っているんです」
「冬……城?」
「俺も一緒ですから。俺も家に帰りたくないし、転勤ばっかりしてた家庭で育ったから、人との距離感分からないし、友だちをつくろうってしてこなかったから。先輩の、頑張ってクラスに溶け込もうって頑張ってるのちょっと尊敬します。みんなにいい顔できる先輩のことちょっとうらやましいんです。俺、愛想笑いも下手だから」
そういった冬城は、俺の背中を撫でていた手でぎゅっと俺を抱きしめた。トクン、トクンと冬城の心臓の音が聞こえてくる。
何でそんなことわかるんだよ。
俺が、寂しがり屋で、家に帰るの怖いとか。愛想笑い上手いとか。
言ってないじゃん、と言いたかったが喉が狭くなって言葉が出ない。でも、冬城が言った言葉はすべて彼の経験したことで、彼が思っていることなのだ。
俺のことを、決して薄情な人間だとは思っていない。ただそれだけは伝わってきた。



