◇◇◇
「先輩遅刻です」
 そいつは、二年生の教室に入ってきて早々にそんなことを口にした。手に掲げている黒い保冷バックは膨らんでいて、ギチギチに二つの弁当箱を入れているのが伺える。
「ここ、二年の教室」
「知ってますよ。先輩が時間になっても来ないから来たんです」
「お迎え?」
 俺がそう聞くと「はい」とぶっきらぼうに返す。
 確かに、五分ぐらいいつもより遅い。冬城は一回あの階段までいって二年生の教室に来たということだろうか。本当に律儀なやつだと思う。
 俺はもぞもぞっと身体を動かして立ち上がる。前までは、俺が迎えに行っていたのに立場が逆転してしまった。
 冬城と一緒にご飯を食べていることは、仲のいいクラスメイトは知っている。冬城のことは「清掃バイト」の仲間として通っているから、恋人だーとか囃し立てられもしない。ただ「ご飯時にきったねえー話すんなよ」とはちゃかされる。
 冬城に連れられ、二年生の教室を出て、カラッとした暑さと蝉の声がうるさい廊下を歩き、あの屋上へ続く階段まで歩く。渡り廊下を渡って、階段を上っていけば、見慣れたペンキのはがれた『立ち入り禁止』の策が見えてきた。
 その二段下まで登って腰を下ろす。
 当たり前になった光景。俺の隣に冬城がいる。長い脚は、階段に投げ出されており、膝の上には黒い保冷バックが置かれている。
「先輩、体調悪いですか?」
「え? 何で?」
「ぼーっとしてます。水分補給ちゃんとしてくださいね。熱中症になって倒れられても困ります」
 冬城はそう言いながら俺の膝の上に弁当箱を乗せる。
(こいつ、いつも通りだな……)
 俺だけ意識しているみたいで腹立たしい。
 キスしたくせに、いつも通りな冬城に少しだけ腹が立った。でも、その感情をぶつけるのは違う気がして、俺は黙って弁当箱の蓋を開ける。中には俺の大好きな甘めの卵焼きと、ブロッコリーの和え物、みずみずしい真っ赤なミニトマト、アスパラをベーコンでくるんだやつが入っている。あとの茶色い揚げ物たちは冷凍食品か、お惣菜だろうか。
 冬城は黒いマスクを外したたむと、ポケットに入れる。そのあと、忘れていたというように、保冷バックから箸を取り出してそれもまた俺の膝の上に乗せた。いつの間にか、俺用のマイ箸まで用意されてしまい至れり尽くせりだ。
 どんどん自分がダメ人間になっていっているような気がする。全部冬城のせい。
「お前、俺をどうしたいの?」
「何ですか、先輩」
「なーんでも。相変わらず弁当美味しそうだなって」
「よかったです。褒めてくれるの先輩だけですよ」
「いや、お前が他のやつに同じように作ったら、きっと褒められるって……あ、でも、俺だけな。俺だけに作ってよ、冬城」
「分かってますよ。先輩にだけ」
 ふふふっと笑った冬城は、出会った当初よりも柔らかい笑みを浮かべている。マスクをしていないからよく顔が見えた。
 たったそれだけのことなのに、俺の胸の中はいっぱいになっていくのだ。
(あーもう、冬城、好き、好き、好き……)
 夏川先輩のときはすぐに告白できたくせに、冬城には『好き』の一言も言えない。
 あの時より俺は臆病になっている気がした。
 冬城は、隣で黙々と食べ進めていく。ミニトマトが彼の薄い唇に触れ、口に入れた瞬間ぶちゅっと中で潰れる音が聞こえた。そんな些細な音さえ、耳で拾ってしまって俺は食べることに集中できない。
「先輩放課後どうします?」
「ほ、放課後?」
「ほら、最近はまたあのゲームセンターばっかりじゃないですか。たまには、先輩の家に行きたいな……なんて」
 俺より大きいくせに、わざわざ俺の顔を覗き込むようにして見上げてくるものだから、必然的に上目遣いになっている。
 どこでそんなテクニックを身に着けたんだと苦言を呈したくなった。
 かっこいいくせに、甘えたな一面を見せてくるなんて、また俺はそのギャップに心を射抜かれた。
 でも、家はダメだ。今の状態で家に呼ぶのは危険すぎる。主に俺の心臓が持たない。
「ダメ……お、お前んちは?」
 頭の中がぐるぐるして、これまでタブーとされていたものに触れてしまった。それに気づいたのは、冬城の反応が帰って来なくなってからだ。
 冬城? と名前を呼ぶと、彼はまた傷ついたような暗い表情で「ダメです」と言う。
 箸を持った手がかすかに震えているような気もした。
「何で……」
「汚いからです」
「汚いって、築三年目の家なんだろ。あと、お前潔癖症っぽいし……きれいだと思うんだけど。俺よりしっかりしてるし」
「汚いですよ。多分、洗っても落ちない汚れがあるんで」
「へ、へえ……でも、いつかお前んちも行かせてほしいなって、思ってる。俺んち飽きただろ」
「別に飽きてませんよ。飽きるとかあるんですか?」
 口をとがらせてそういうと、冬城は俺の弁当箱の中から卵焼きを抜き取った。
 返せよ、と言ったがすでに冬城の口の中に吸い込まれてしまった卵焼きは戻ってこなかった。これ見よがしに冬城は咀嚼し、大きな喉ぼとけを上下させる。
「当たり前ですけど、美味しいですね。俺の」
「クソぉ……俺の卵焼き」