◇◇◇
「――しろ、冬城!! 手、痛いの。おいって」
「はあ~………………」
下駄箱につき、ようやく冬城の足が止まる。いったいどうしたのかと彼の顔を見るが、黒髪に隠れた顔はよく見えない。怒っているというのはなんとなくわかるが、先ほどの会話に怒る要素は何もなかったはずだ。
教室に迎えに行って、ちょっと機嫌直してもらって、廊下も楽しく歩いていたのに。
また振出しに戻った気がして、俺は胸の真ん中できゅっと手を握った。見れば、彼が掴んだところが赤くなっており少し痛む。冬城の手は大きいし、そんな手に握られたら俺の腕は折れてしまうかもしれない。
そんな想像をしていると「先輩」と俺を呼ぶ冬城の声が聴こえた。
「冬城……?」
「ビッチ先輩って、ほんと人たらしだと思います」
「え、いきなり何!?」
冬城は顔を上げたが、その片手は下駄箱についており、強めに拳が握られている。
冬城の言葉に理解が追い付かず、頭の上でクエスチョンマークを飛ばしていると、冬城が俺に近づいてきてスンと俺の首筋の匂いを嗅いだ。思わず「ひぅっ」と変な声が出てしまい、俺は慌てて口を押えた。
「なに、なにふんだよ……!!」
「タバコの臭いがする」
「そ、そりゃ、秋梨先生タバコ吸うし……ほんとはダメだけど」
「ダメ教師」
「俺もそう思う……」
初めて意見が合致したかも……なんて楽しい話になるわけもなく、冬城は俺の首筋にすり寄ると「臭い」と口にする。
首筋に当たる冬城の吐息がくすぐったくて、俺は身を捩った。
ここは、下駄箱。一番人が集まる時間が過ぎたのか、人っ子一人いない。しかし、誰かがくるかもしれない場所であることには変わりなかった。近くには運動場がある。部活動に励む生徒がいきなりひょこっと現れる可能性だってあるのに。
冬城は俺との距離を詰めるばかりだった。
(ち、近い……!! 冬城が、すごく、近くて……)
ミントの香りがする。またあの白いミントのタブレットでも食べていたのだろうか。
俺はこの匂いが嫌いだ、スース―する。でも、冬城の匂いだと思ったら不思議と嫌じゃなかった。
スンスンと俺の首筋に顔を埋めて匂いを嗅ぐ冬城はまるで犬のようだ。しかし、冬城からも人間っぽい汗のにおいが少し香ってきた。ちょっと酸っぱい、けど、これも嫌じゃない。
「冬城……暑い、べたべたする」
「そーですね」
「なら、離れろよ……!!」
ようやく、彼の攻撃が止まったようで、俺はドン! と冬城の胸板を押した。少し後ろによろけつつも冬城は何食わぬ顔で俺のほうを見る。
冬城は、俺の首筋に顔を埋めていたせいかほんのりと頬が色づいている。
多分、俺も一緒だ。頬が熱い。
「あー、もう、お前! 今日意味わかんねえ! 拗ねてんのか! 怒ってんのか!」
「どう思います?」
「俺が質問してんの! お前がこたえんの……お前、分かんねえの? 自分のこと」
俺がそう聞くと、冬城は視線を漂わせたのち「かもしれません」と答えた。
俺の望む答えじゃなく、自分でもわかるぐらいむすっと不細工な顔になる。
冬城に分からないなら、俺にわかるわけがない。
怒ってんのか、拗ねてんのか。あるいは両方かもしれない。冬城の心の中が覗けるなら、それが一番楽なのに。
「冬城、怒ってんならごめん。拗ねてんなら……よくわかんねえけど、ごめん」
「……別に、怒っても、拗ねてもいません」
「その言い方が怒ってんじゃん……」
突っぱねるように言うその言い方はどう考えても怒っている人がとるような態度だ。
しかし、俺は何もしていない。勝手にこいつが怒って、拗ねて。俺が機嫌を取っている……そこまで考えて、俺は一つだけ気づいたことがあった。
(先輩と、先生と……)
「冬城」
「何ですか、先輩」
「俺のこと知りたい?」
俺の質問に対し、冬城はほんの一瞬目を丸くしたが「は?」と我に返ったように言う。だが、俺はこいつの指先が動いたことを見逃さなかった。
「俺、お前のことわかんないけどさ。お前も俺のことわかんねえじゃん。それが嫌なのかなって」
「嫌って……別に、先輩のこと…………知りたいって言ったら教えてくれるんですか?」
「そりゃ、聞かれたらこたえるだろ。答えられないような内容じゃなければ」
部活動に励む生徒が「水、水~」と近くにあった給水機に向かって走っていく。じゃり、じゃり、と運動場の砂を蹴る音が下駄箱に響く。
そして、その生徒が去っていったあと、冬城は落ちてきた髪の毛を耳に引っ掛けた。
「お前が知りたかったら全部教えてやる。俺のこと、お前が知りたいこと。隠すことねえし。それ、言える仲だと思ってるから……少なくとも。だから、その、いきなり怒るとか、拗ねるとかやめてほしい……かも。俺、どう接すればいいか分かんなくなるし、お前、怖いし」
「怖いですか、俺」
「今もちょっと、顔が怖い」
隠す必要もないと俺が正直に言うと、冬城はくすっと笑って頬を撫でる。手のひらで撫でるのかと思ったら、意外と手の甲で。でもその手つきは、愛おしいものを撫でるような優しい手つきだった。
「先輩、怖がりですね」
「違うし。お前の顔本当に怖かったんだもん」
「もんって、今度はぶりっ子ですか?」
「あーウザ、お前きら……き、き、き……うっ」
「その舌を噛んだみたいな演技辞めてください。嫌いなら嫌いでもいいですよ」
前は嫌いって言われたら迫ってきたくせに。言っていることが違いすぎる。
俺は、また冬城に振り回されているなと感じつつも、本心では嫌っていないと伝えなければと思った。
しかし、冬城は俺が嫌いじゃないと伝える前に、俺の耳を優しくくすぐる。先ほどから、羽でくすぐられるようなじれったさがある触り方をされるので、身体がむずむずする。
「……じゃない、嫌いじゃないから」
「無理していってます?」
「なわけない! そういうとこは、嫌いだからな。お前のこと、嫌いじゃないけど」
「じゃあ、好きってそういうことにしておきます」
すっかり機嫌が直ったように、冬城は俺の耳から手を離した。
もう少し触っていてほしいと思ったのはぜったに言わないでおこうと、俺は心の中にぎゅっとその言葉をしまい込んだ。
「――しろ、冬城!! 手、痛いの。おいって」
「はあ~………………」
下駄箱につき、ようやく冬城の足が止まる。いったいどうしたのかと彼の顔を見るが、黒髪に隠れた顔はよく見えない。怒っているというのはなんとなくわかるが、先ほどの会話に怒る要素は何もなかったはずだ。
教室に迎えに行って、ちょっと機嫌直してもらって、廊下も楽しく歩いていたのに。
また振出しに戻った気がして、俺は胸の真ん中できゅっと手を握った。見れば、彼が掴んだところが赤くなっており少し痛む。冬城の手は大きいし、そんな手に握られたら俺の腕は折れてしまうかもしれない。
そんな想像をしていると「先輩」と俺を呼ぶ冬城の声が聴こえた。
「冬城……?」
「ビッチ先輩って、ほんと人たらしだと思います」
「え、いきなり何!?」
冬城は顔を上げたが、その片手は下駄箱についており、強めに拳が握られている。
冬城の言葉に理解が追い付かず、頭の上でクエスチョンマークを飛ばしていると、冬城が俺に近づいてきてスンと俺の首筋の匂いを嗅いだ。思わず「ひぅっ」と変な声が出てしまい、俺は慌てて口を押えた。
「なに、なにふんだよ……!!」
「タバコの臭いがする」
「そ、そりゃ、秋梨先生タバコ吸うし……ほんとはダメだけど」
「ダメ教師」
「俺もそう思う……」
初めて意見が合致したかも……なんて楽しい話になるわけもなく、冬城は俺の首筋にすり寄ると「臭い」と口にする。
首筋に当たる冬城の吐息がくすぐったくて、俺は身を捩った。
ここは、下駄箱。一番人が集まる時間が過ぎたのか、人っ子一人いない。しかし、誰かがくるかもしれない場所であることには変わりなかった。近くには運動場がある。部活動に励む生徒がいきなりひょこっと現れる可能性だってあるのに。
冬城は俺との距離を詰めるばかりだった。
(ち、近い……!! 冬城が、すごく、近くて……)
ミントの香りがする。またあの白いミントのタブレットでも食べていたのだろうか。
俺はこの匂いが嫌いだ、スース―する。でも、冬城の匂いだと思ったら不思議と嫌じゃなかった。
スンスンと俺の首筋に顔を埋めて匂いを嗅ぐ冬城はまるで犬のようだ。しかし、冬城からも人間っぽい汗のにおいが少し香ってきた。ちょっと酸っぱい、けど、これも嫌じゃない。
「冬城……暑い、べたべたする」
「そーですね」
「なら、離れろよ……!!」
ようやく、彼の攻撃が止まったようで、俺はドン! と冬城の胸板を押した。少し後ろによろけつつも冬城は何食わぬ顔で俺のほうを見る。
冬城は、俺の首筋に顔を埋めていたせいかほんのりと頬が色づいている。
多分、俺も一緒だ。頬が熱い。
「あー、もう、お前! 今日意味わかんねえ! 拗ねてんのか! 怒ってんのか!」
「どう思います?」
「俺が質問してんの! お前がこたえんの……お前、分かんねえの? 自分のこと」
俺がそう聞くと、冬城は視線を漂わせたのち「かもしれません」と答えた。
俺の望む答えじゃなく、自分でもわかるぐらいむすっと不細工な顔になる。
冬城に分からないなら、俺にわかるわけがない。
怒ってんのか、拗ねてんのか。あるいは両方かもしれない。冬城の心の中が覗けるなら、それが一番楽なのに。
「冬城、怒ってんならごめん。拗ねてんなら……よくわかんねえけど、ごめん」
「……別に、怒っても、拗ねてもいません」
「その言い方が怒ってんじゃん……」
突っぱねるように言うその言い方はどう考えても怒っている人がとるような態度だ。
しかし、俺は何もしていない。勝手にこいつが怒って、拗ねて。俺が機嫌を取っている……そこまで考えて、俺は一つだけ気づいたことがあった。
(先輩と、先生と……)
「冬城」
「何ですか、先輩」
「俺のこと知りたい?」
俺の質問に対し、冬城はほんの一瞬目を丸くしたが「は?」と我に返ったように言う。だが、俺はこいつの指先が動いたことを見逃さなかった。
「俺、お前のことわかんないけどさ。お前も俺のことわかんねえじゃん。それが嫌なのかなって」
「嫌って……別に、先輩のこと…………知りたいって言ったら教えてくれるんですか?」
「そりゃ、聞かれたらこたえるだろ。答えられないような内容じゃなければ」
部活動に励む生徒が「水、水~」と近くにあった給水機に向かって走っていく。じゃり、じゃり、と運動場の砂を蹴る音が下駄箱に響く。
そして、その生徒が去っていったあと、冬城は落ちてきた髪の毛を耳に引っ掛けた。
「お前が知りたかったら全部教えてやる。俺のこと、お前が知りたいこと。隠すことねえし。それ、言える仲だと思ってるから……少なくとも。だから、その、いきなり怒るとか、拗ねるとかやめてほしい……かも。俺、どう接すればいいか分かんなくなるし、お前、怖いし」
「怖いですか、俺」
「今もちょっと、顔が怖い」
隠す必要もないと俺が正直に言うと、冬城はくすっと笑って頬を撫でる。手のひらで撫でるのかと思ったら、意外と手の甲で。でもその手つきは、愛おしいものを撫でるような優しい手つきだった。
「先輩、怖がりですね」
「違うし。お前の顔本当に怖かったんだもん」
「もんって、今度はぶりっ子ですか?」
「あーウザ、お前きら……き、き、き……うっ」
「その舌を噛んだみたいな演技辞めてください。嫌いなら嫌いでもいいですよ」
前は嫌いって言われたら迫ってきたくせに。言っていることが違いすぎる。
俺は、また冬城に振り回されているなと感じつつも、本心では嫌っていないと伝えなければと思った。
しかし、冬城は俺が嫌いじゃないと伝える前に、俺の耳を優しくくすぐる。先ほどから、羽でくすぐられるようなじれったさがある触り方をされるので、身体がむずむずする。
「……じゃない、嫌いじゃないから」
「無理していってます?」
「なわけない! そういうとこは、嫌いだからな。お前のこと、嫌いじゃないけど」
「じゃあ、好きってそういうことにしておきます」
すっかり機嫌が直ったように、冬城は俺の耳から手を離した。
もう少し触っていてほしいと思ったのはぜったに言わないでおこうと、俺は心の中にぎゅっとその言葉をしまい込んだ。



